第4話 五人で十人を守る方法
「今朝のうちなら動かせる。ただし、荷車を跳ねさせないこと。傷が開いたら、次は止めきれないよ」
夜明け前、焚き火のそばでパヴェルの脈を取っていたマルタがそう告げた。
負傷した男はまだ眠っている。左脇腹の傷は治療術で塞いであるものの、失った血までは戻っていない。折れた右脚には添え木が固定され、毛布を二枚重ねた荷台へ横たえられていた。
出発時に四百十キロあった積荷は、一日分の食料と水を使って少し軽くなっている。そこへ体重七十キロほどのパヴェルを加えても、ボルクが定めた五百キロの上限には届かない。
ガレスは車輪と車軸を確かめてから、荷台の縄を締め直した。
「昨日、穀物を四袋増やさなくて助かったな」
「そのために空けたんでしょう?」
エルナが言う。
「怪我人が出なければ、その空間は最後まで無駄だった」
「無駄で終わる余裕は、いい余裕だ」
「兵站屋らしい言い方ね」
「褒め言葉として受け取っておく」
パヴェルを見つけた場所から川沿いの野営地まで進んだため、レム村まではまだ二十数キロ残っている。
ローデルへ引き返すより村へ進む方が近い。しかも荷台には、村で待たれている三箱の薬がある。
問題は、街道の先だった。
北側の林へ偵察に出ていたキリクが戻ってきた。黒褐色の耳についた朝露を指で払い、火のそばにしゃがむ。
「狼がいる」
「何頭?」
エルナの問いに、キリクは片手を開いた。
「十じゃ足りない。沢沿いで重なってるから正確には読めないが、十二か十三。もっといるかもしれん」
ロベルトたち村人の表情が強張った。
キリクは続ける。
「一頭だけ足跡がでかい。普通の灰狼じゃない。前脚の跡が人間の手より広い」
「鎧灰狼か」
ガレスが尋ねると、キリクはうなずいた。
灰狼の中でも長く生きた個体は、背中から肩にかけて硬い毛が幾重にも重なり、刃を通しにくくなる。単独なら熟練した冒険者が仕留められる魔物だが、厄介なのは群れを率いている場合だった。
「夜のうちに、この近くまで来ていた?」
マルタが聞いた。
「ああ。火と人の数を嫌ったんだろうな。沢の反対側を回ってる。ただ、街道と同じ方向へ移動してる」
「待てば離れる可能性は?」
エルナが問う。
「ある。逆に、ここへ戻ってくる可能性もある」
キリクは肩をすくめた。
「腹が減ってりゃ、馬一頭は御馳走だ」
ガレスは地図を広げた。
野営地から東へ進むと、旧街道はしばらく川と並行する。九キロほど先に古い石橋があり、そこを越えれば道は緩やかな丘陵へ入る。
「橋の幅は?」
「荷車一台と、人間一人が並べるくらい。川岸は両側とも急だ。狼なら降りられなくはないが、橋を使う方が楽だろう」
「橋の先は?」
「百歩ほど行けば道が二つに割れる。右がレム村、左が灰鷹砦だ」
その名が出ると、ロベルトが眠っているパヴェルへ視線を向けた。
弟のエミルを連れ去った灰色の外套の男たちは、北の道を通って灰鷹砦へ向かった。
追いたい気持ちは分かる。
だが今は、負傷者一人と村人十人、それに村へ届ける薬を抱えている。
「まずレム村へ行く」
ガレスは地図を畳んだ。
ロベルトは一瞬だけ何かを言いかけたが、すぐにうなずいた。
「……分かった」
「エミルを放っておくとは言ってない。だが、事情も人数も分からない砦へ、この人数を連れたまま寄る方が危ない」
「分かってる。俺だって、子供たちまで連れて行きたいわけじゃない」
「なら、村まで運ぶ。話はそれからだ」
出発前に、配置を変えた。
キリクが先行し、街道と沢沿いを確認する。ただし前日ほど距離は取らず、姿か合図が届く範囲から離れない。
エルナは隊列の先頭。
村人十人と小荷車が中央に入り、マルタは荷車の左側につく。治療役であると同時に短弓を使えるため、負傷したパヴェルから離れずに援護できる。
ニコは荷車の右。
ガレスが最後尾だ。
「狼が出ても走るな」
エルナが村人たちへ言った。
「前の人を追い越さない。荷車から勝手に離れない。誰かが転んでも全員では戻らない。近くにいる護衛が対応するから、残りは進み続けて」
十代の少年が不安そうに尋ねた。
「襲われたら、俺たちは戦わなくていいんですか?」
「戦わないでくれる方が助かる」
ガレスが答えた。
「剣を持ったことのない十人が好きな場所で戦い始めたら、俺たちは狼より先にそっちを気にすることになる」
少年は少し気まずそうな顔をした。
ガレスは荷車の後ろに括った二本の縄を指した。
「代わりに仕事はある。荷車が止まったら大人四人で押す。馬が暴れたらロベルトの指示を聞く。水袋と薬箱は勝手に捨てない。それで十分だ」
「……分かりました」
「戦う奴だけが役に立つわけじゃない」
準備を終え、一行は野営地を出た。
最初の一時間は何も起きなかった。
街道は雨で柔らかくなっていたが、荷車の車輪が沈み込むほどではない。パヴェルの容体も安定している。マルタはときおり荷台へ手を伸ばし、額の熱と脈を確かめていた。
やがて、先を歩いていたキリクが立ち止まった。
右手を肩の高さまで上げる。
一行が止まる。
その直後、川向こうの林から鳥が一斉に飛び立った。
「来るぞ」
キリクの声とほぼ同時だった。
沢沿いの藪から灰色の影が飛び出した。
一頭、二頭ではない。
五頭。
さらに後ろの林で、枝が連続して揺れる。
「前に五! 右の林に少なくとも六!」
キリクが叫ぶ。
最初の灰狼は人間ではなく、まっすぐ馬へ向かった。
マルタの矢が飛ぶ。
首へ深く刺さり、灰狼が街道を転がった。
「馬を狙ってる!」
「止まるな!」
ガレスが声を張った。
「橋まで進め! 歩幅を崩すな!」
狼の群れは、一度に飛び込んでこなかった。
二頭が前へ出れば、三頭は林の中を並走する。ガレスたちがそちらへ気を取られると、別の一頭が荷車へ近づく。
狙いは分かりやすかった。
誰か一人でも隊列から遅らせればいい。
その人間へ群がるか、助けに戻った者たちごと隊列を止める。
「ずいぶん慣れてるな」
ガレスは長槍の穂先で一頭を追い払いながら言った。
「感心してる場合?」
前方からエルナの声が返る。
「感心はしてない。嫌ってるだけだ」
林から飛び出した狼がニコへ向かった。
ニコは追いかけず、小盾を身体の前へ置いたまま荷車と歩調を合わせる。
灰狼が一度右へ回り、馬の腹へ潜り込もうとした。
ニコはそこで初めて槍を出した。
穂先が肩を浅く裂く。
灰狼は飛び退いた。
「追うな、その位置でいい!」
「はい!」
ニコはすぐ荷車の横へ戻った。
先日の野盗との戦いなら、敵を倒すことがそのまま隊商を守ることにつながった。
今回は違う。
一頭を深追いして荷車から五歩離れれば、その五歩が狼の狙いになる。
さらに二頭がガレスへ向かった。
一頭目を長槍の柄で弾き、二頭目の鼻先へ風を叩きつける。灰狼の身体が横へ流れた隙に、ガレスは数歩後退して隊列との距離を戻した。
「キリク! 橋までどれくらいだ!」
「あと半里もない!」
石橋まで届けば、左右から同時に回り込まれることはなくなる。
問題は、そこまで全員の速度を揃えられるかだった。
十人の村人のうち、四人は十代だ。大人六人にも歩幅の差がある。
ここで足の速い者に合わせれば、遅い者から食われる。
「エルナ!」
「分かってる!」
説明は要らなかった。
エルナは村人の中から歩幅の安定している五人を前へ出した。
「ロベルト、あなたはこちら。若い二人と、この二人を連れて先へ。キリクと一緒に橋を渡って!」
「残りは?」
「私がつく」
足の速い者だけを抜き出したわけではない。
十代の二人に加え、大人三人。その中には、この一行で最も歩幅の小さい女も入っている。
遅い人間ばかりを後ろへ残さないためだ。
「キリク、五人を頼む!」
「任せろ!」
キリクが引き返し、先発組の前へ入った。
残った五人は小荷車の前後へ分かれる。
エルナが先頭、マルタとニコが左右、ガレスが後ろ。
護衛の数は減った。
代わりに守る範囲も半分になった。
数を分けることと、戦力を薄くすることは同じではない。
狼がそれに気づいたのか、林の中で低い唸り声が重なった。
ひときわ大きな影が現れる。
肩までの高さが成人男性の腰近くあり、背から首にかけて硬い灰色の毛が重なっている。
鎧灰狼だ。
左の後脚をわずかに引きずっていた。
「でかいのが出たね」
マルタが弓を引きながら言う。
「後ろ脚を怪我してる」
「だから人間の道まで下りてきたのかもな」
ガレスは答えた。
鎧灰狼は自分から飛び込んでこない。
代わりに短く吠えた。
三頭が同時に動いた。
一頭がガレス。
一頭がニコ。
残る一頭は斜面を駆け上がり、荷車の前へ回ろうとする。
「前!」
マルタの矢が斜面の一頭へ飛んだ。
外れた。
だが、矢が鼻先をかすめたことで狼の足が止まる。
そこへエルナが踏み込んだ。
長剣を振り切らず、狼の進路へ刃を置く。
灰狼は避けて斜面へ戻った。
「倒さなくていい!」
「そのつもりよ!」
エルナはすぐ荷車の前へ戻った。
橋が見えた。
石組みの古い橋で、幅はキリクが話したとおり狭い。
対岸では、先に渡った五人が道の端へ寄せられている。キリクは橋の袂で弓を構えていた。
「先発、全員渡った!」
「荷車を先に通す!」
ガレスが返した。
パヴェルと薬を載せた荷車が橋へ入る。
ニコとマルタが左右につき、残る村人五人がその後ろへ続いた。
狼たちが速度を上げた。
ガレスは橋の手前で振り返る。
一頭目へ長槍を突き出す。
狼は止まった。
後ろから来た二頭が行き場を失い、左右へ広がろうとする。
だが、そこには川岸の急斜面しかない。
「なるほど」
ガレスは小さく笑った。
「ここなら、お前らも順番待ちか」
右へ回ろうとした一頭へ、対岸からキリクの矢が刺さった。
狼が倒れる。
もう一頭が橋へ踏み込んだところで、エルナがガレスの横へ並んだ。
「荷車は渡ったわ。村人も全員向こう」
「ニコは?」
「一緒に渡った。マルタはパヴェルを見てる」
「なら、俺たちも下がるか」
そう言った時、鎧灰狼が動いた。
仲間を押し退け、自分で橋へ入ってくる。
「簡単には帰してくれないようね」
「責任感の強い隊長らしい」
「見習う?」
「部下を先に噛ませるところ以外なら」
鎧灰狼が地面を蹴った。
エルナが正面を譲らず、長剣を低く構える。
ガレスは半歩後ろへ下がった。
鎧灰狼の目がエルナへ向く。
飛びかかった。
エルナは受けなかった。
身体を右へ外しながら、長剣を前脚の外側へ滑らせる。
硬い背中ではなく、関節を狙った斬撃だった。
血が散る。
鎧灰狼の着地が崩れる。
そこへガレスが槍を出した。
胸ではない。
首の下、硬い毛の薄い部分。
穂先が深く入った。
鎧灰狼はなおも身体を振り、槍を折ろうとする。
「しぶといな!」
「離して!」
エルナの声で、ガレスは槍から手を離した。
次の瞬間、対岸からマルタの矢が飛んだ。
鎧灰狼の開いた口へ入り、奥まで突き刺さる。
巨体がよろめいた。
エルナがもう一度踏み込み、首筋へ剣を走らせる。
鎧灰狼が石橋へ倒れた。
群れの動きが止まった。
先頭を失った灰狼たちは橋の向こうでしばらく唸っていたが、もう踏み込んでこない。
一頭、また一頭と林へ戻っていく。
「追わない」
エルナが言う。
「もちろん」
ガレスは鎧灰狼の身体から槍を引き抜いた。
狼を全滅させる依頼ではない。
十人を村まで運ぶ仕事だ。
橋を渡ると、エルナが一人ずつ名前を呼んだ。
十人。
全員いる。
キリク、マルタ、ニコも無事だった。
パヴェルは荷台で眠ったままだが、傷口は開いていない。
馬にも怪我はなく、薬箱三つ、穀物、塩、農具の替え刃も残っている。
「全部あるな」
ガレスが言うと、キリクが弓を背負った。
「狼の死体まで持ってくか?」
「それは契約に入ってない」
「毛皮は売れるぞ」
「荷車には病人が寝てる」
「冗談だ」
「半分くらい本気だっただろ」
キリクは笑った。
マルタがパヴェルの毛布を掛け直しながら口を挟む。
「立ち話を続けるなら、次に倒れる人間の分も荷台を空けときな」
「出発しよう」
ガレスは即座に答えた。
「聞き分けだけはいいね」
橋からレム村までの道では、狼は戻ってこなかった。
途中で二度休憩を取り、馬へ水を飲ませる。村人にも足を休ませたが、長く座らせすぎない。疲れ切った状態で身体を冷やすと、再び歩き始める方がつらくなる。
午後遅く、森の向こうに丸太の柵が見えた。
「レム村だ!」
十代の少年が声を上げる。
柵の上にいた見張りも一行へ気づき、村の中へ何か叫んだ。
門が開く。
何人もの村人が走ってきた。
薬箱を見て安堵する者。
帰ってきた家族へ抱きつく者。
そして荷台に横たわるパヴェルを見つけ、顔色を変える者。
「パヴェル!」
年配の男が荷車へ駆け寄った。
「エミルは!? 一緒じゃないのか!」
パヴェルはまだ答えられない。
代わりにロベルトが男の肩を掴んだ。
「生きてる可能性がある。北へ連れていかれた。灰鷹砦だ」
歓声の残っていた村が、一瞬で静まった。
ガレスはその様子を見ながら、キリクへ目を向ける。
「さっきの狼、どう思う?」
「鎧灰狼か?」
「ああ」
キリクは少し考え、北の山を見た。
「縄張りを取った群れには見えなかった。痩せてたし、でかい奴も脚を傷めてた。何かに追い出された可能性はある」
「北から?」
「たぶんな」
村の外れからでも、灰鷹砦の石塔は見えた。
崩れた稜線の一角。
そこから細い煙が上がっている。
一本ではない。
三本。
煮炊きの火を一つ起こしている程度ではなかった。
ガレスは村長らしい老人へ尋ねた。
「灰鷹砦の古い見取り図は残っているか?」
老人は少し驚いたあと、うなずいた。
「十二年前、兵が引き揚げる前のものなら、村の倉にあるはずだ」
「井戸と倉庫の位置が分かるものがいい」
「ある。昔は、この村からも補修の人足を出していた」
エルナがガレスを見た。
「行くつもり?」
「まず見る」
ガレスは煙の上がる北の山から目を離さなかった。
「何人いるのか。何を運び込んでいるのか。エミルがどこにいるのか。それが分からないうちから突っ込むほど、勇者一行が恋しくなった覚えはない」
キリクが口元を上げた。
「じゃあ、俺の仕事か」
「砦を知ってる奴も必要だ」
「報酬は?」
「先に生きて帰れる道を探せ。値段の話はそのあとだ」
「順番が逆じゃないか?」
「帰ってこなければ、払う相手がいない」
「そいつは合理的だ」
マルタが呆れたように二人を見る横で、エルナは北の山を見上げていた。
十二年間捨てられていた灰鷹砦。
そこへ人が入り、村人を一人連れ去り、周囲の魔物まで南へ押し出している。
ただの廃墟では、もうなかった。
ガレスは長槍を肩へ担いだ。
まずは十人を村へ届けた。
次にやるべき仕事は、その先にある。




