第8話 負傷者を置いていかない
三台ある荷車のうち、一台は使えなかった。
「右後ろの車輪が割れかけてる」
夜が明けて間もないレム村の広場で、荷車の下から這い出してきたエミルが手の汚れを払った。
「空荷で畑までならともかく、人を載せて旧道へ出すのはやめた方がいい。段差で一気にいくかもしれない」
「今日中に直せるか?」
「車輪を外して部材を替える。無理だな」
「分かった。二台で組む」
ガレスはすぐに三台目を外した。
使える二台の横では、マルタが昨夜まとめた名簿を読み上げている。
「長距離を歩かせられないのは六人。パヴェル、熱が下がったばかりの二人、脚の悪い老人が二人、それから胸を患ってる婆さん」
「途中まで歩かせるのは?」
ロベルトが尋ねた。
「駄目だね」
マルタは迷わない。
「村の中を歩けるのと、一日中街道を歩けるのは別物だよ。途中で動けなくなったら、結局そこで荷車が必要になる」
ガレスも異論はなかった。
「最初から六人とも載せる」
荷車は一台につき三人。
家族の付き添いは一人ずつ付けるが、荷台には乗せず徒歩で同行する。
水、二日分の食料、毛布、薬、それにパヴェルの脚を固定するための敷物を先に積む。
エミルともう一人の御者が車軸と車輪を確認し、どちらも積載は四百キロを越えないよう抑えた。
三頭いる馬のうち二頭を荷車へ繋ぎ、残る一頭は交代用として連れていく。馬具も合わせてある。
「これで人と必要品は載る」
ガレスが言うと、ロベルトは広場の端に積まれた家財へ目を向けた。
麦袋。
鍋。
農具。
衣類。
食器。
避難すると聞いた村人たちが、夜のうちに持ち出した物だった。
「残りは?」
「空いた分だけだ」
「何を優先する?」
「家財まで俺が決める話じゃない。ただし、水と食料、毛布、薬を降ろしてまで積む物はなし。それだけは守ってくれ」
ロベルトはうなずいた。
「分かった。村の者には俺から言う」
その横を、二人の男が灰色の外套を着た捕虜を連れていく。
昨日捕らえた斥候だった。
腕はマルタが固定している。両手を後ろで縛り、足にも短い縄を付けて歩幅を制限してあった。
夜明け前に灰鷹砦から村へ移し、窓のない石倉へ入れる。
昨日訓練に参加した六人のうち二人を、必ず組にして見張りへ付けることにした。
「一人ずつじゃなくていいのか?」
見張り役の男が聞いた。
「一人に任せる理由がない」
ガレスはそれだけ答えた。
敵兵一人を捕まえたせいで、こちらの人間を一人失うような真似はしたくなかった。
◇
「これは持っていけないかね」
出発準備が進む中、脚の悪い老人が大きな木箱を抱えてきた。
衣服や食器が詰まっている。
蓋の隙間から、古びた布包みも見えた。
ガレスは箱を持ち上げず、荷車の積み具合を確かめる。
「そのまま全部は難しいです」
「そうか……」
「小さくできる物なら載せられます」
老人は箱を下ろした。
しばらく中を探し、布包み一つだけを取り出す。
「じゃあ、これを頼む」
両手で抱えるほどの大きさではない。
「それなら大丈夫です」
箱そのものは集会所へ戻された。
戻って来られるなら、また取りに来ればいい。
帰れないと決まったわけでもないのに、今ここで全部を捨てさせる必要はなかった。
◇
「兄貴、持ち上げるぞ」
「分かったから早くしろ」
「暴れるなよ」
「骨折してる奴がどう暴れるんだ」
エミルとマルタが担架を持ち上げ、パヴェルを荷車へ移した。
右脚の添え木はそのまま。
荷台には藁と毛布を厚く敷いている。
パヴェルは横になったあと、しばらく黙って北を見ていた。
「俺まで行く必要あるか?」
エミルの表情が止まる。
「兄貴」
「俺一人なら村に残せるだろ。寝てるだけだ。荷車の場所も空く」
マルタが何か言う前に、ガレスが荷台の横へ来た。
「空けて何を載せる?」
パヴェルがこちらを見る。
「何って」
「お前一人で七十キロ前後。降ろせば、その分は空く。麦か、鍋か、農具か」
「そういう意味じゃない」
「今の荷車には、六人全員載る」
ガレスは積み荷を指した。
「水も食料もある。馬も一頭余らせてる。お前を降ろす理由がない」
「敵が来たら足手まといになる」
「敵が来てから動かせば、その時の方が足手まといになる」
パヴェルは黙った。
「歩けない人間から先に出す。そのために今、荷車を使ってる」
しばらくして、パヴェルが鼻から息を吐く。
「勇者一行にいた人間ってのは、もっと格好いいことを言うと思ってた」
「六年も荷物を数えてると、だいたいこうなる」
パヴェルの口元が少しだけ緩んだ。
マルタが毛布を掛け直す。
「次に降りるなんて言ったら、添え木をもう一本増やすよ」
「それは治療なのか」
「動けなくするには効果的だね」
エミルが吹き出した。
◇
護衛には、ニコだけを付けなかった。
昨日まで訓練していた六人のうち、三人を同行させる。
残る三人のうち二人は捕虜の監視。一人は村に残し、エルナの指示で連絡役を務める。
「ニコ」
「はい」
「三人をお前がまとめろ」
ニコが一瞬だけ目を見開いた。
「俺がですか」
「一番実戦を経験してる」
ガレスは三人を見る。
「配置は?」
ニコはすぐ答えず、二台の荷車を見た。
「一人を先頭。俺は二台の間にいます。残り二人は最後尾と二台目の外側」
「どうして二台の間?」
「前後どっちでも異常があれば動けるからです」
エルナが横から口を挟む。
「悪くない。ただし自分で全部やろうとしないこと。前で何か起きても、後ろを空けない」
「はい」
「戦闘になったら?」
「荷車を止めて、村人を戦わせない。俺たち四人で位置を作ります」
「追う?」
ニコは首を横に振った。
「荷車をローデルまで届けるのが仕事です」
エルナはそれで質問を終えた。
ガレスは封をした報告書と、斥候から奪った木板の一枚を革袋へ入れ、ニコへ渡す。
「これは警備隊か代官所へ直接渡せ。途中で開くな」
「分かりました」
「今日中にローデルへ着けなくてもいい。馬と人間の状態を見て、安全な場所で止まれ」
「はい」
「戻りも急がなくていい。向こうの返事を待ってから戻れ」
ニコは革袋を肩に掛けた。
「全員、ローデルまで届けます」
今度はガレスも何も付け足さなかった。
◇
二台の荷車が村を出る直前、キリクが北から戻ってきた。
走ってはいない。
だが足は速い。
エルナが先に近づいた。
「何か動いた?」
「蹄跡が増えてる」
キリクは地面へ簡単な線を描く。
「北の古道から南へ来て、西へ曲がった跡がある。昨日の三人と同じ形だ。数は取れない」
「車輪は?」
「まだ北。俺が見た場所までは来てない」
エルナは荷車へ目を向けた。
「出しましょう。予定を繰り上げる」
ロベルトがすぐ御者へ声を掛ける。
ガレスは口を挟まなかった。
敵が見えるまで待つ理由はない。
「私は村の北側を見る。キリクもこっちへ」
「ああ」
「ガレスは?」
「最初の二キロだけ荷車につく。問題なければ戻る」
エルナはうなずいた。
「それでいいわ」
指揮が決まる。
迷っている時間はなかった。
◇
二台の荷車が南へ進み始めた。
一台目にはパヴェルと老人二人。
二台目には病み上がりの二人と、胸を患う老婆。
付き添い二人は荷車の横を歩く。
先頭には村の男。
二台の間にニコ。
後ろを残る二人が固める。
交代用の馬は、二台目の後ろで手綱を引かれている。
最初の坂へ入ったところで、一台目が大きく揺れた。
「止める!」
御者のエミルが馬を止める。
後続も順に止まった。
ニコがすぐ一台目へ向かう。
「パヴェルさん?」
「大丈夫だ」
「添え木は?」
付き添いが毛布をめくる。
「ずれてない」
エミルは荷車の下を覗き込んだ。
「この先は右を避ける。真ん中に石が出てる」
「先頭にも伝えます」
ニコが前へ走り、すぐ戻ってくる。
一分もしないうちに列は再び動き出した。
誰も「遅い」とは言わない。
速く走って車輪を壊せば、その場で六人を降ろすことになる。
二キロ進んでも、北から追ってくる者はいなかった。
ガレスは列を止めた。
「ここから任せる」
ニコがうなずく。
「はい」
「問題が起きたら、ローデルへ進むことだけが正解じゃない。戻る方が安全なら戻れ」
「分かってます」
ガレスは三人の護衛にも目を向けた。
「ニコ一人に任せるな。全員で見ろ」
三人がそれぞれ返事をする。
二台の荷車が再び動き始めた。
曲がり角を越え、最後尾の男まで見えなくなる。
そこでガレスは踵を返した。
◇
レム村では、残った者たちが次の準備を始めていた。
南へ抜ける道から農具や木箱を退ける。
水樽を満たす。
歩ける者は持ち出す荷を一人一つまでに絞る。
戦える者も武器を持って立っているだけではない。
昨日訓練した一人は連絡役として村と北側を行き来し、別の者たちは捕虜の見張りを交代する。
エルナが動かしていた。
「歩ける人から荷造りを終わらせて。敵が見えてから家へ取りに戻るのは禁止」
村人が返事をする。
マルタはロベルトと一緒に名簿を見直していた。
「歩けない六人は出た。次は、一人では歩けるけど長距離が厳しい者を分けるよ」
「何人だ?」
ガレスが聞く。
「今のところ五人。杖が必要なのが三人、年寄りが二人。ただし荷車なしでも休ませながらなら動ける」
「次に出す組へ入れよう」
「ああ。その代わり荷物は持たせない」
それで話は決まった。
ガレスは北へ目を向ける。
守る人数が減ったわけではない。
村そのものも残っている。
だが、歩けない六人が南へ出ただけで、もし今敵が現れても取れる選択肢は増えていた。
誰かを担架へ移すところから始めなくていい。
それだけでも大きかった。
◇
午後になって、キリクが村の北端へ戻ってきた。
「煙が増えた」
エルナがすぐ振り向く。
「昨日の場所?」
「近い。今日は五本見えた。ずっと上がってるわけじゃない。消えて、別の場所から上がる」
「合図かもしれない?」
「かもしれん。炊事かもしれん」
キリクは断定しなかった。
ガレスはその方が助かった。
分からないものを無理に敵の意図へ変える必要はない。
「見張りは増やす?」
エルナが聞く。
「村の北は今のまま。灰鷹砦にも二人置きたい」
「人が足りないわね」
「ローデルから返事が来るまでは、村と砦を両方完全には守れない」
エルナも分かっていた。
砦に籠もれば村が空く。
村へ集まれば、せっかく使い始めた灰鷹砦を敵に渡すかもしれない。
どちらも守るには、まだ人が少ない。
その時だった。
南の街道から馬の蹄音が聞こえた。
かなり速い。
ガレスとエルナが同時に振り向く。
現れたのは一騎だけだった。
王国軍の外套を着た騎兵が村の入口で馬を緩め、周囲を見回す。
「ガレス・ヴァーン殿は?」
「俺だ」
騎兵は馬を降りた。
「ローデルの護衛組合で所在を聞きました。東部国境軍から届いた書状を預かっています」
差し出された封書を見て、ガレスの手が止まった。
赤い封蝋。
個人の家紋ではない。
六年間、遠征の命令書や部隊間の書状で何度も見てきた、勇者一行が使っていた印だった。
「いつローデルへ?」
「昨日の夕方です。本来なら組合で預かる予定でしたが、北方で異変があったと聞き、こちらへ向かう便に持たされました」
「分かった。ありがとう」
ガレスは書状を受け取った。
差出人を見る。
アレク・ローディス。
北では正体の分からない部隊が道を測っている。
南へは六人の要搬送者と護衛を送り出した。
村では次の避難準備が始まったばかりだ。
そんな日に、六年間一緒に戦った勇者から手紙が届いた。
「読む?」
エルナが尋ねた。
「ああ」
ガレスは封書を裏返した。
急ぎの印がある。
ただの近況報告ではなさそうだった。
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