第6話:泥にまみれた黒い影
土煙がゆっくりと晴れていく中、栞はテラスの丸太の手すりを両手で握りしめたまま、その場に縫い止められたように硬直していた。
呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、肺の奥がひりつく。悲鳴を上げることすらできなかった。叫べば、下に倒れ込んだその『何か』を刺激してしまうかもしれない――そんな本能的な恐怖が、喉を強烈に締め上げていたのだ。
目を見開き、ウッドデッキの隙間から恐る恐る下を覗き込む。
テラスの基礎として地面に打ち込まれた太い丸太のすぐ脇、押し潰された巨大なシダの葉と青い花弁の絨毯の上に、それは横たわっていた。
「…………人……?」
掠れた呟きが、乾いた唇の隙間から零れ落ちる。
黒かった。
頭から足の先まで、まるで夜の闇をそのまま切り取って固めたかのような、鈍く光る漆黒の甲冑。だが、その鎧は美しく手入れされた儀礼用のものでは決してなかった。肩当てや胸当ての表面には無数の鋭利な引っ掻き傷や刃こぼれが刻み込まれ、関節の革ベルトは擦り切れ、全体が重たく湿った泥と、赤黒く変色した乾いた血糊にまみれていた。
腰の革帯には、大人の背丈ほどもある長大な両手剣が、無骨な黒鞘に収められたまま吊り下げられている。
その体躯は、現代の日本の街中路角路で見かける成人男性とはまるで比較にならなかった。
うつ伏せに倒れているにもかかわらず、肩幅の広さ、背中の厚み、引き締まった腰回りから伸びる長い足の骨格は、まるで鍛え抜かれた黒豹か大型の肉食獣を思わせるほどの威圧感を放っている。身長はおそらく、優に百八十センチ台の後半はあるだろう。
そして何より、テラスの上にまで届いてくるその『匂い』が、栞の鼻腔を突いた。
先ほどまで漂っていた、焼き立てのスコーンの甘いバターの香りや、ドリップコーヒーの芳醇なアロマを強引に上書きするように、生々しい鉄錆の匂い、泥の腐敗臭、そして微かな獣の血の臭気が風に乗って昇ってきたのだ。
――逃げなきゃ。
頭の中で、危険を知らせる信号が激しく点滅した。
ここは見知らぬ異世界なのだ。目の前にいるのは、どう見ても武器を携え、何らかの血生臭い戦闘をくぐり抜けてきた男だ。もし目を覚まして凶暴な本性を現したら、か弱い一般人の自分など、指先一本で容易く捻り潰されてしまうに違いない。
今すぐテラスを離れ、ログハウスの中へ駆け込み、あの欅の板戸を閉めて真鍮の鍵を抜くべきだ。そうすれば、あの絶対安全な現代の日本の古民家へと戻ることができる。
栞は後ずさりしかけた。
右足が、ウッドデッキの板をかすかに擦る。
だが――その瞬間、下から途切れ途切れの、ひどく苦しげな音が耳に届いた。
「…………ガッ……、……ヒュー…………ッ」
胸を掻きむしるような、浅く荒い呼吸音。
見下ろすと、泥にまみれた漆黒の男の広い背中が、まるで壊れかけた鞴のように不規則に上下していた。手袋の破れた指先が、痙攣するように地面の腐植土を掻きむしり、爪の間に泥がめり込んでいく。
横顔が、わずかに見えた。
泥と汗に濡れて額に張り付いた漆黒の髪。その隙間から覗く肌は、まるで死人のように病的な青白さで、唇は乾ききって血の気を完全に失い、白くひび割れていた。
何より痛々しかったのは、その閉ざされた目蓋の下――頬骨の上あたりに、濃い紫色の、抉れたような深い隈が刻み込まれていたことだった。
それは、ただ疲れているというレベルではない。
何日も、あるいは何週間も、まともな食事も摂れず、一睡もすることなく極限の緊張状態に晒され続けた人間だけが浮かべる、生命の灯火が消えかけている者の顔だった。
「あ…………」
栞の足が、止まった。
その痛々しい姿に、かつてない強烈な感情が胸の奥を突き刺したのだ。
もちろん、目の前の男の状況は、オフィスで残業に追われていた自分などとは比べものにならないほど過酷で、命の危機に直結しているものだろう。
けれど、あの限界まで追い詰められた呼吸、削り落とされた体、誰にも助けを求められずに一人で倒れ込む惨めさと絶望感――そこに宿る『極限の孤独』が、昨夜の駅のホームで座り込んでいた自分自身の姿と、どうしても重なって見えてしまった。
見捨てて逃げたら、この人はここで死んでしまうかもしれない。
こんな冷たい泥の上で、誰にも看取られず、冷え切って動かなくなってしまうのではないか。
「……っ、どうしよう……」
栞は迷うように自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
怖い。足が震えている。だが、このまま背を向けて現代へ逃げ帰ったとして、自分は一生その後悔から逃れられるだろうか。あの美味しい珈琲を飲み、黄金色のスコーンを焼きながら、この場所で人が一人息絶えたかもしれないという事実に耐えられるだろうか。
――祖父の言葉が、ふと頭をよぎる。
『腹が減っている奴を見かけたら、理由を聞く前に何か食わせてやれ。腹が満ちれば、大抵の災いは小さくなる』
祖父が生前、口癖のように言っていた台詞だった。
栞は唇をきつく噛み締めると、テラスの丸太階段へと足を向けた。
一段、また一段と、慎重にスニーカーの底を着地させていく。ギシリ、と木の軋む音が森の静寂に落ちるたびに心臓が跳ね上がったが、足を止めることはしなかった。
階段を降りきり、柔らかな腐植土の上に立つ。
足元では、淡い青い光を放つ小さな星型の花々が、風に揺れてさざ波のように明滅している。
男との距離は、わずか三メートル。
近づくにつれて、男の体から放たれる熱気と冷気の混ざり合った、異様な気配が肌に伝わってきた。過酷な戦闘によるアドレナリンの残り香と、急速に失われていく生命力の冷たさ。
「あ、あの……」
栞はおずおずと、震える声で呼びかけた。
「だ、大丈夫……ですか……?」
返事はない。
ただ、荒く途切れがちな呼吸が、喉の奥からヒューヒューと漏れ出ているだけだ。
栞はさらに一歩、歩み寄った。
男の近くに膝をつき、様子を窺う。
間近で見ると、その体躯の逞しさはさらに圧倒的だった。肩幅は栞の倍近くあり、背中の筋肉は鎧の上からでも分かるほど鋼のように引き締まっている。
だが、その巨躯を支えるべきエネルギーが、完全に枯渇しているのは明白だった。鎧の隙間から覗く首筋の血管が、飢餓と脱水のために青白く浮き出ている。
何か、水分を。
そう思って、テラスの上に置いてきたドリップ用の湧水のケトルを取りに戻ろうと、栞が身を起こしかけた――その刹那だった。
――バチィッッ!!
空気が爆ぜるような鋭い風切り音とともに、視界の端から黒い影が跳ね上がった。
「きゃっ……!?」
事態を理解する暇すらなかった。
泥の中に倒れ伏していたはずの男の右腕が、まるで獲物を捕らえる毒蛇のような恐ろしい速度で伸び、栞の右の手首を正確無比に鷲掴みにしたのだ。
「う……っ!」
痛い。
手首の骨が軋み、パキリと嫌な音が鳴りそうなほどの異様な圧力だった。
手袋が破れ、剥き出しになった男の掌は、まるで氷漬けの鉄のように冷たく、骨張っていた。指先にはタコが何重にも固まり、刀剣を握り慣れた者特有の無骨な硬さが、栞の柔らかい皮膚に容赦なく食い込んでいる。
意識を失いかけていたはずなのに、どこにこんな力が残されていたのか。
掴まれた手首を通じて、男の全身から放たれる剥き出しの『殺気』が、津波のように栞へと雪崩れ込んできた。
首筋に氷の刃を突きつけられたような、息もできないほどの寒気が背筋を駆け上がる。
男が、ゆっくりと泥の中から顔を上げた。
乱れた漆黒の濡れ髪の隙間から現れたのは、息を呑むほどに端正で、そしてこの世のものとは思えないほど研ぎ澄まされた、鋭利な美貌だった。
高く通った鼻梁、固く引き結ばれた薄い唇、鋼のように頑強な顎のライン。
そして何より――栞の魂を射抜いたのは、その瞳だった。
銀色だった。
まるで月光を研ぎ澄まして刃に変えたかのような、冴え冴えとした鋭い銀の双眸。
その瞳の奥には、猛烈な警戒心と、飢えと疲労による狂気すれすれの光が渦巻いていた。焦点が定まりきっていないにもかかわらず、その視線は確実に栞の喉元を捉えており、一歩でも怪しい動きを見せれば、即座に頸椎をへし折るつもりの気迫に満ち満ちていた。
「…………貴様……」
男の喉から絞り出されたのは、地を這うような低くかすれた声だった。
「……何者だ…………伏兵……か…………」
異国の言葉のはずだった。
発音も、イントネーションも、日本語とはまったく異なる響き。
それなのに、なぜか栞の頭の中には、その男が発した言葉の意味が、直接染み込むように理解できてしまった。祖父の鍵の加護なのか、この森の特性なのかは分からない。
だが、そんな不思議に思いを巡らせている余裕は微塵もなかった。
手首を握る男の指の力が、さらに一段と強まる。
「っ……つ、あ……っ」
痛みに涙が滲む。手首の皮膚が鬱血し、脈打つのが分かる。
男のもう片方の左手は、すでに腰の大剣の柄へと伸び、革巻きのグリップを強く握りしめていた。抜かれれば、間違いなく一刀のもとに両断される。
死ぬ。本当に、ここで殺される。
恐怖で思考が真っ白になり、心臓が爆発しそうだった。
逃げられない。力では絶対に敵わない。
どうすればいい? 何を言えばいい?
敵ではないと証明しなければ。自分はただの、丸腰の人間だと伝えなければ。
けれど、男の銀の瞳に宿る猜疑心と殺意の炎はあまりにも深く、生半可な言い訳や悲鳴など、かえって彼の防衛本能を刺激して引き金を引かせるだけのように思えた。
男の銀の瞳が、栞の首筋へと滑る。喉笛を狙う猛獣の視線。
大剣の切っ先が、鞘からわずかに数ミリ滑り出た。キィン、と硬質な金属の擦れ合う不穏な音が響く。
その時、栞の視界に飛び込んできたのは、至近距離で見つめる男の、今にも倒れそうなほど震える顎の線だった。
威圧し、殺気を放ちながらも、その男の全身は限界を超えて悲鳴を上げていた。
息を吸うたびに、胸当ての奥からゼイゼイと痛々しい音が漏れ、銀の瞳の輪郭は小刻みに揺れている。強がって敵を排除しようとしているが、本当は、今この瞬間にも意識を手放してしまいそうなほど衰弱しているのだ。
敵か味方かではない。
この人は今、ただただ、死にそうなのだ。
――何か言わなきゃ。
栞は、恐怖でガチガチと噛み合わない奥歯を必死で噛み締めた。
逃げるためでも、許しを乞うためでもなく。
この頑なに張り詰めた男の警戒の糸を、一番柔らかく解くための言葉。
喉の奥に溜まった唾を飲み込み、栞は震える唇を、懸命に開いた。
「あの……っ」
男の眉が、わずかにピクリと跳ねる。
大剣の柄を握る指先に、さらに力が込められた。殺気の一撃が放たれる、その直前。
栞は、まっすぐにその銀の瞳を見つめ返し、涙で潤んだ声で、こう口にしていた。
「お腹…………空いて、いませんか……?」
「………………は?」
男の喉から、間の抜けた短い息が漏れた。
張り詰めていた殺気が、目に見えて一瞬で凍りついた。
伏兵の暗殺者か、あるいは森に潜む魔獣の化身かと疑い、全神経を研ぎ澄ませていたはずの銀の騎士の瞳に、明らかな『動揺』と『困惑』が走る。
目の前にいる小柄な女は、武器も持たず、奇妙に柔らかな衣服を身にまとい、ただ痛みに涙を浮かべながら、心配そうに自分を見つめている。
そして口から出た言葉が、「お腹が空いていないか」。
戦場において、あまりにも場違いで、あまりにも間抜けなその問いかけに、男の思考が完全に停止した、その瞬間だった。
――グゥゥゥゥゥゥゥゥッッ!!
森の静寂を真っ二つに引き裂くような、凄まじい重低音が響き渡った。
それは、遠くの魔獣の地鳴りでも、雷鳴でもなかった。
漆黒の鎧の奥底――男の空っぽの胃袋から放たれた、限界を超えた飢餓の咆哮だった。
長身の男の体躯を内側から揺さぶるほど盛大に、そして情けないほど長く鳴り響いたその音は、静まり返った木漏れ日の庭に、いつまでも、いつまでも反響していった。
「…………っ」
男の整った顔が、陶器のように硬直した。
銀の瞳が見開かれ、漆黒の眉が引きつるように持ち上がる。
手首を握っていた万力のような力は、驚きと猛烈な羞恥のあまり、わずかに緩んでいた。
栞は痛む手首を胸元に引き寄せながら、息を整え、もう一度、今度は少しだけ困ったような、けれど柔らかな微笑みを浮かべて見せた。
「……上のテラスに、焼き立てのスコーンと、温かい珈琲があるんです。良かったら……食べませんか?」
沈黙が落ちた。
風が吹き抜け、テラスの上から、あの甘く香ばしいバターとバニラの香りが、ふわりとふたりの間に舞い降りてきた。




