第7話:張り詰めた刃と、湯気立つ一杯
――グゥゥゥゥゥゥゥゥッッ……。
原生林の木々を震わせた空腹の咆哮が、ようやく静かな森の空気に溶けて消えたあとも、その場には耐え難いほどの沈黙が横たわっていた。
時が止まったかのようだった。
微風に吹かれて、足元の青い花弁がサラサラと揺れる。テラスの上からは、カセットコンロの微かな金属の冷める音と、甘いバターの香りが途切れることなく漂い続けている。
その真下、泥にまみれた地面の上で、漆黒の鎧をまとった大男――レオンハルトは、彫像のように完全に硬直していた。
白皙の端正な顔立ちが、陶器のように強張っている。
見開かれた銀の瞳は宙の一点を見つめたまま瞬きひとつせず、引き結ばれた薄い唇はわななき、酷使されて青白かったはずの頬から耳の付け根にかけて、見る見るうちにカッと熱い朱が差していくのが分かった。
屈辱と、羞恥と、信じがたい動揺。
百戦錬磨の騎士として、いかなる死地においても冷静沈着を保ってきたはずの男が、敵か味方かも分からぬ正体不明の小柄な女の前で、情けない腹の虫を盛大に轟かせてしまったのだ。そのプライドの崩壊ぶりは、見ているこちらが痛々しくなるほどだった。
「……あ、あの……」
栞が遠慮がちに声をかけると、男の視線がビクッと跳ね、ぎこちなく栞へと向けられた。
その瞳の奥には、先ほどまでの研ぎ澄まされた殺気はすっかり霧散し、代わりに「いっそこのまま舌を噛み切って果てたい」とでも言いたげな、切実な絶望が滲んでいた。
手首に食い込んでいた万力のような力が、ふっと抜ける。
栞は解放された右手をおずおずと引き寄せ、胸元でさすった。骨張った指の跡が赤く鬱血してじんじんと脈打っていたが、折れてはいないようだった。
男は自分の右手を信じられないものを見るように見つめ、それから、泥の上に膝をついたまま、ガクンと深い前傾姿勢をとった。
「…………くっ…………」
喉から漏れ出たのは、自嘲に満ちた苦鳴だった。
立ち上がろうとしているらしい。大剣の鞘を杖代わりに地面に突き立て、長い足を泥の中に踏ん張る。だが、過酷な任務による数日間の絶食と疲労、そして先ほどの羞恥による精神的打撃が重なったのだろう。膝が小刻みに震え、巨躯がグラリと大きく傾いた。
「危ない……っ!」
栞は痛む手首のことも忘れ、咄嗟に駆け寄って男の左腕を抱え込んだ。
――ズシリ。
腕にのしかかってきたその質量に、栞の華奢な体が悲鳴を上げた。
重い。鍛え上げられた分厚い筋肉の塊に、泥と血を吸った本物の鉄の甲冑が加わっているのだ。まるで冷たい岩石の塊を一人で支えているかのような重圧に、スニーカーの底が腐植土に沈み込む。
至近距離から、男の乱れた吐息が吹きかかってきた。熱っぽく、浅い呼吸。首筋の血管が苦しげに波打っている。
「……離せ……っ、女……! 貴様などに……借りを作る気は……」
「いいから、意地を張らないでください! その足、全然力が入ってないじゃないですか!」
思わず、会社で言うことを聞かない頑固なベテラン営業を叱責するときのような、実直で強い声が出てしまった。
三十代のOLを舐めてはいけない。理不尽な現場を長年生き抜いてきた栞には、弱り目に祟り目で倒れそうな人間を前にして、素直に引き下がるような器用さは持ち合わせていなかった。
男は栞の気迫に気圧されたのか、あるいは本当に反論するだけの酸素が肺に残っていなかったのか、息を呑んで押し黙った。
「ほら、肩を貸しますから。一段ずつ、足を上げてくださいね。いきますよ、せーのっ」
ぐっと奥歯を噛み締め、腰を入れて男の巨体を持ち上げる。
男は舌打ちを一つ漏らしながらも、栞を押し潰さないよう、残された最後の筋力を振り絞って自重を制御してくれた。無骨な鉄の手甲が、泥を避けるようにして栞の肩口を浅く掴む。冷え切っていたはずの金属の奥から、男自身の切羽詰まった体温がじわりと伝わってきた。
ぎし、ぎし、と音を立てながら、テラスの丸太階段を一段ずつ上る。
たった五段の階段が、まるで永遠のように長く感じられた。
ようやくテラスの上に辿り着いた瞬間、栞は息を切らしながら、男を一番手前にあった頑丈な丸太のベンチへと誘導した。
「ここ……座ってください……!」
ドサリ、と鈍い重低音を立てて、男の身体が木製ベンチに深く沈み込んだ。
丸太組みの長椅子がミシリと軋み、男の長い足がテラスの床板に投げ出される。
「はぁ……っ、重かった……」
栞はその場にへたり込みそうになるのを堪え、乱れた髪を手で払って呼吸を整えた。
ベンチに腰を下ろした男は、荒い息を吐きながらも、決して全身の力を抜くことはしなかった。背筋を強張らせ、左手は無意識のうちに腰の大剣の柄をしっかりと握りしめている。
その鋭利な銀の双眸は、依然として栞の一挙手一投足を、まるで獲物を狙う肉食獣のように油断なく追っていた。
身の丈は優に百八十センチを超え、座っていても栞を見下ろすような威圧感がある。漆黒の濡れ髪の隙間から覗く眼光は、少しでも怪しい素振りを見せれば即座に喉笛を掻き切る気迫を放っていた。
けれど、その張り詰めた空気のすぐ真横には――。
木漏れ日を浴びるカセットコンロ。
丸みを帯びた白い陶器のマグカップ。
そして、小皿の上でふっくらと鎮座する、黄金色の手作りスコーン。
無骨で殺伐とした黒騎士と、のどかな休日のカフェの光景。そのあまりにもアンバランスな対比に、栞は恐怖を通り越して、どこかおかしいような、愛おしいような不思議な感覚を覚えていた。
「……少し、待っていてくださいね」
栞は男の刺すような視線を背中に受けながら、丸太テーブルの前に立った。
先ほど淹れた珈琲は、この一連の騒動の間に少し温度が下がってしまっていた。
男の身体は極度の疲労と緊張で冷え切っている。そんな状態の胃袋に、ぬるい液体を流し込んでも真の癒やしにはならない。
栞はカセットコンロの火を再び小さく灯した。
チリチリと小さな音を立てるケトル。森の湧水が熱を帯び、再び白い細い湯気が立ち上る。
陶器のドリッパーに新しいペーパーフィルターをセットし、手挽きミルの引き出しに残っていた、挽きたての深煎り粉をサラサラと落とし入れる。
――トトトト、ポタ、ポタ……。
細い注ぎ口から落とされる熱湯が、黒い粉のドームをふっくらと押し広げていく。
その瞬間、テラスの空気が一変した。
ツンと鼻を突いていた男の鎧の泥と鉄錆の匂いを、珈琲が放つ暴力的なまでの芳醇なアロマが、まるで暖かな毛布のように優しく包み込んでいく。
深くローストされたカカオのようなビターな苦味。焦がしキャラメルのような濃厚な甘み。そして、大地の力強さを思わせる澄んだ香り。
背後で、男が微かに息を呑む気配がした。
振り返らなくても分かる。男の銀の瞳が、立ち上る白い湯気と、ドリッパーから滴り落ちる深い琥珀色の液体に釘付けになっているのが、空気の震えで伝わってきた。
さらに栞は、スキレットに残っていたスコーンを手に取った。
余熱でまだ十分に温かいが、底面をもう一度だけ鉄肌に当て、表面のバターをジュワッと活性化させる。パチパチという極小の音が響き、香ばしい焼き菓子の甘い蒸気がふわりと舞い上がる。
祖父が遺した木工の丸皿の上に、焼き立てのスコーンをふたつ並べた。
その脇に、スプーンを使って純白のクロテッドクリームをぽってりと山盛りに落とし、さらに母の手作りイチゴジャムを、艶やかなルビー色の宝石のようにたっぷりと添える。
厚手の白いマグカップには、なみなみと注がれた深煎りコーヒー。表面からは、木漏れ日の光を透かして真っ白な湯気が揺らめき立っている。
「お待たせしました」
栞はトレイ代わりに使っている木の一枚板にそれらを載せ、男が座るベンチの前へと歩み寄った。
ことり、と静かな音を立てて、丸太のテーブルの上にマグカップと皿が置かれる。
至近距離に運ばれてきた湯気と香りに、男の喉仏がトクンと上下したのを、栞は見逃さなかった。
だが、男は動かない。
大剣の柄に置かれた左手には依然として青筋が浮き、眉間には彫刻刀で刻み込んだような深い皺が寄せられている。
視線は、白いマグカップの中の黒い液体と、見たこともない形状の黄金色の焼き菓子を、射抜くように交互に見つめていた。
「…………これは、何だ」
低く、地を這うような掠れた声。
「何かの儀式か。それとも……自白剤の類か」
「は?」
栞は思わず、ぽかんと口を開けてしまった。
自白剤。
まさか、現代のほのぼのとしたカフェメニューを前にして、そんな物騒極まりない単語が飛び出してくるとは夢にも思わなかった。
けれど、男の表情は至って真剣だった。
銀の瞳は鋭利な刃物のままであり、未知の黒い液体と、甘い香りを放つ異形の食物に対して、戦士としての本能的な警戒を解いていない。毒殺や罠が日常茶飯事であるような、過酷な世界を生き抜いてきた証拠なのだろう。
「……怪しむのも、無理はないですよね」
栞は苦笑し、困ったように眉を下げた。
言葉で「毒なんて入っていません」といくら説明したところで、見知らぬ異世界の見知らぬ女の言葉など、この疑心暗鬼に陥った騎士が信じるはずもない。
ならば、やるべきことはひとつだけだった。
「見ててくださいね」
栞は男の正面、テーブルを挟んだ丸太の椅子に腰を下ろした。
そして、男の眼前で、迷うことなく手を伸ばした。
皿の上に載ったふたつのスコーンのうち、ひとつを指先で持ち上げる。
――サクッ。
真ん中の割れ目に指を入れ、半分に割る。
立ち上る白い蒸気。栞はその断面に、スプーンでクロテッドクリームをたっぷりと塗り、さらにその上から母のイチゴジャムをすくい取って贅沢に乗せた。
男の銀の瞳が、その一連の動作を食い入るように追っている。
栞は大きく口を開け、それを躊躇いなく口の中へと放り込んだ。
――サクッ、ザクッ。
静寂のテラスに、生地が心地よく砕ける音が響く。
口いっぱいに広がる、発酵バターの豊かなコクと小麦の素朴な香ばしさ。そこへ、濃厚なクロテッドクリームのまろやかなミルク感と、太陽を浴びたイチゴジャムの甘酸っぱさが怒涛の勢いで押し寄せてくる。
「……んん〜っ……!」
思わず、幸せな吐息が鼻から抜けた。
美味しい。文句なしに美味しい。空腹の五臓六腑に、上質な糖分と脂質がじんわりと染み渡っていく多幸感に、栞の頬が自然と緩んでしまう。
もぐもぐと咀嚼し、しっかりと飲み込む。
喉元が上下し、完全に胃の中へと収まったことを男に見せつけたあと、栞は白い陶器のマグカップへと両手を伸ばした。
男の目の前で、カップを口元へと運ぶ。
ふう、と息を吹きかけて湯気を払い、そっと唇をつけて一口啜った。
――コクン。
深煎り特有の力強い苦味と、キャラメルのような甘い余韻。湧水の超軟水がすべての角を丸め、喉を滑り落ちていく。
「ふぅ……」
栞はカップをテーブルに戻し、エプロンのポケットから取り出した清潔なハンカチで口元を軽く拭った。
そして、悪戯っぽく笑いながら、男の目をまっすぐに見つめた。
「ほらね。毒なんて、これっぽっちも入っていません」
男は、完全に言葉を失っていた。
目の前で繰り広げられた、あまりにも無防備で、あまりにも美味そうに食物を胃に収める女の姿。
その仕草には、敵意も、悪意も、策謀の欠片すら微塵も存在しなかった。
ただ、「美味しいものを、美味しい瞬間に食べてほしい」という、純粋で素朴な善意だけが、湯気とともにそこに満ちていた。
男の喉が、再びごくりと音を立てて鳴った。
先ほど栞が口にしたスコーンの断面から、今も甘く香ばしい蒸気が立ち上っている。
そして、白いマグカップからは、冷え切った神経を芯から溶かしてしまいそうな、深く温かな珈琲のアロマが漂い続けている。
男の銀の瞳が、激しく揺らいだ。
理性が、騎士としての警戒心が、最後の抵抗を試みているのが見て取れた。だが、限界を超えて飢え渇いた彼の肉体は、すでに目の前の温もりに抗う術を失いかけていた。
大剣の柄から、ゆっくりと指が離れた。
泥と傷にまみれた、骨張った大きな右手が、迷うように、震えながら持ち上がる。
手袋の破れた指先が、恐る恐る、白い陶器のマグカップの取っ手へと伸ばされていく。
木漏れ日が、男の深く刻まれた眉間の皺を、黄金色に照らし出していた。
男は、まるで未知の魔導具に触れるかのような極度の緊張を宿したまま、熱い陶器をその大きな掌で包み込み――ゆっくりと、自らの口元へと引き寄せていった。




