第5話:スキレットで焼く黄金色のスコーン
木漏れ日が揺れるテラスの丸太テーブルの上に、運んできた食材と道具を並べ終えると、栞は小さく深呼吸をした。
澄み切った森の風が、腕まくりをした前腕をひんやりと撫でていく。
用意したのは、車載の非常食ボックスに眠っていた未開封のホットケーキミックス一袋(二百グラム)と、昨夜の買い出しで念のためと買っておいた四角い有塩バターの小箱、そして小さな紙パックの牛乳。さらに、クーラーバッグの底で保冷剤に挟まれて冷やされていた、手のひらサイズの小さなガラス瓶がふたつ。
ひとつは、デパ地下で奮発して買い求めたものの、平日に優雅な朝食を摂る余裕など皆無で冷蔵庫の肥やしになりかけていた、英国直輸入のクロテッドクリーム。
そしてもうひとつは――。
栞は、すりガラスのような小瓶を指先でそっと撫でた。
マスキングテープに、丸っこい懐かしい筆跡で『いちご 五月』とだけ書かれた、母の手作りジャムだった。
数年前に母が病気で他界する直前、実家の庭で採れた小粒の野イチゴを、銅鍋でコトコトと煮詰めて持たせてくれた最後のひと瓶。大切にしすぎるあまり、ずっと開封できずにいた宝物だったが、今朝アパートを出る直前、なぜか吸い寄せられるように冷蔵庫の奥から掴み出してきたのだ。
「……今日、開けちゃうね、お母さん」
呟いた声は、森の静けさに柔らかく溶けていった。
料理をすることは、栞にとって本来、何よりの癒やしであり気分転換だった。学生時代も、社会人になって最初の数年も、週末には市場で旬の野菜を買い込み、時間をかけてスープを煮込んだり、季節の果物でタルトを焼いたりしていたものだ。
だが、中堅商社での激務が本格化してからは、自炊どころかスーパーに立ち寄る気力すら奪われていた。コンビニのホットスナックや、深夜のインスタント麺を、味も分からずに胃の腑へ流し込むだけの日々。
――自分のために、手を使って美味しいものを作る。
そんな、かつて当たり前だった生活の営みが、この異世界の山小屋で、数年ぶりに息を吹き返そうとしていた。
栞はまず、アウトドア用の深型のステンレスクッカーを引き寄せ、その中にホットケーキミックスの粉をサラサラと注ぎ入れた。白い粉がふわりと舞い上がり、バニラの微かな甘い香りが鼻腔をくすぐる。
続いて、銀紙に包まれた冷たいバターを取り出す。
家庭用のスケール(測り)などここにはないが、長年の自炊の勘が頼りだった。二百グラムの粉に対して、バターはおよそ四十グラムから五十グラム。包丁代わりに持ち込んだ果物ナイフの刃先で、四角いバターの塊を大人の親指の第一関節ほどの大きさに目分量で切り落とし、さらにそれを一センチ角ほどのサイコロ状に細かく刻んでいく。
カチカチに冷えたバターの角切りを、白い粉の海の中へ一気に投入した。
「ここからが、スピード勝負」
栞は指先をクッカーの底へ差し入れた。
スコーンの命は、生地のざっくりとした層の食感にある。手のひらの熱でバターが溶けてしまっては、パンのように重たくベタついた焼き上がりになってしまうのだ。
親指と人差し指、中指の腹をリズミカルに擦り合わせながら、バターの塊に粉をまぶし、細かく細かく押し潰していく。フランス菓子で言うところの『サブラージュ(砂状にする)』の作業だ。
サッサッ、サラサラと、粉と金属が擦れ合う小気味よい音がテラスに響く。
最初はゴロゴロとしていたバターの粒が、粉と混ざり合うにつれて次第に細かくなり、やがて全体が淡い黄色を帯びた、サラサラのパン粉のような質感へと変わっていった。指先から伝わってくるのは、ひんやりとした粉の心地よい冷たさだ。
「うん、いい感じ」
粉の中央にくぼみを作り、そこへ冷えた牛乳を少しずつ回し入れる。
水分が多すぎると生地がダレてしまうため、大さじ三杯分ほどを慎重に垂らした。
ここからは絶対に練ってはいけない。果物ナイフの平らな背を使って、切るように、底から生地をすくい上げては折り畳むようにして、水分を全体に行き渡らせていく。
まだ少し粉っぽさが残る段階で作業を止め、手をクッカーの中へ入れた。
まとまりかけた生地を、掌でぎゅっと一度だけ押し固める。ボロボロと崩れそうな脆さを残したまま、ひとつの大きな塊にまとめるのが、外側をザクザクに、内側をしっとりふんわりに仕上げる最大の秘訣だった。
まな板の上に生地を取り出し、手で厚さ二・五センチほどに平らにならす。
型抜きなどはないので、果物ナイフの刃を直角に入れ、十字に切り目を入れ、さらに斜めに刃を入れて、無骨な三角形のピースを六つ切り出した。
切り口を見ると、押し潰されたバターの黄色い粒が斑点のように散らばり、今にも美味しそうに膨らみたがっているのが見て取れた。
「よし、次は火入れ」
栞はカセットコンロの上に、黒々と重厚な八インチの鋳鉄製スキレットを載せた。
ツマミを捻り、点火する。
ボッ、と青い炎が立ち上がり、スキレットの底を舐める。
オーブンがない屋外でのパンや焼き菓子作りにおいて、この鋳鉄製のスキレットは最強の相棒だった。分厚い鉄の塊は、一度熱を蓄えれば食材に均一に熱を伝え、まるで小さな石窯のような遠赤外線効果を発揮してくれるのだ。
スキレットの表面に薄くサラダ油を引き、キッチンペーパーで余分な油を拭き取る。
手のひらをかざし、じんわりとした確かな熱気が立ち上ってきたのを確認したところで、栞はコンロのツマミを限界まで絞り、火を『極弱火』にした。
カセットコンロのバーナーヘッドから、かすかに「スゥー……」とガスが燃える微小な呼吸音だけが聞こえてくる。
そこへ、切り分けた六つのスコーン生地を、間隔を空けて円を描くように並べ入れた。
――ジュウ。
控えめで、けれど耳朶をくすぐる愛おしい微かな焼き音が、森の静けさに落ちる。
すかさず、車から持ってきたアルミホイルを長めに引き出し、二重に折り畳んでスキレットの上に被せた。端をしっかりと折り込んで縁に密着させ、簡易的なドーム状の蓋を作る。
これで、熱と蒸気が内部に閉じ込められ、オーブンと同じ環境が完成する。
「あとは……焦がさないように、じっくり待つだけ」
栞は丸太のベンチに腰を下ろし、両膝を抱え込んだ。
腕時計の針を見つめる。片面でおよそ七分から八分。
待つ時間。
都会にいた頃の自分にとって、「待つ」という行為は常に苛立ちと不安の同義語だった。開かないエレベーター、遅れてくる電車、ダウンロードのプログレスバー、返信の来ない取引先への催促。常に何かに追われ、時間を消費することに怯えていた。
けれど今、このテラスで流れる時間は、まったく別の手触りをしていた。
頭上を渡る風が、原生林の葉を擦り合わせて「サワサワ」とさざ波のような音を立てている。
遠くで小鳥が、まるで歌の掛け合いをするように短く澄んだ美声を響かせ、裏手の小川からはトクトクと清らかな水音が絶え間なく届いてくる。
そして何より――。
アルミホイルの蓋の隙間から、次第に漏れ出してきたその香りが、栞の胸を甘やかに満たしていた。
最初は、小麦粉が熱せられる素朴で香ばしい匂い。
それが時間が経つにつれて、生地の中に閉じ込められていたバターが熱で溶け出し、ジュワジュワと鉄肌で弾ける濃厚なアロマへと変わっていく。
焦がしバター特有のナッツのような芳醇な香ばしさと、ホットケーキミックスに含まれるバニラの甘い蒸気が交じり合い、温かな湯気となってテラスの空気に溶け出していくのだ。
――パチッ、チリチリ……。
アルミホイルの内側から、溶けたバターが爆ぜる極小の音が聞こえてくる。
「……そろそろ、かな」
時計の針が八分を指した。
栞は耐熱ミトンを手にはめ、火傷に注意しながら、アルミホイルの蓋の端をそっと持ち上げた。
――フワァッ!
閉じ込められていた真っ白な熱い蒸気が一気に吹き出し、栞の顔を包み込んだ。
「わぁ……!」
思わず歓声が漏れる。
白っぽく角張っていた生地は、熱を吸い込んで一回り大きくふっくらと膨らみ、側面の層がパックリと口を開けていた。スコーンが美しく焼き上がった証拠である『狼の口』が、見事に現れている。
フライ返しを慎重に差し入れ、生地をひとつ、コロンと裏返した。
「……っ、綺麗……!」
鉄肌に触れていた底面は、ムラひとつなく、見事な濃い黄金色――完璧なきつね色に焼き上がっていた。縁の少しカリッとした部分が、まるで焼き菓子の王冠のように香ばしく色づいている。
残りの五つも手早く裏返していく。
裏返した瞬間、立ち上る香ばしさが一段と強くなり、鼻腔をこれでもかと刺激した。
再びアルミホイルの蓋を被せ、今度は裏面を極弱火で五分ほど蒸し焼きにする。
その間に、栞はテーブルの上の準備を整えた。
先ほど淹れた、あの奇跡の湧水で落とした深煎りコーヒー。まだマグカップの中で温もりを保っているが、スコーンの焼き上がりに合わせて、少しだけお湯を足して温度を整える。
そして、ふたつの小瓶の蓋を開けた。
クロテッドクリームの蓋をペリリと剥がすと、表面には『クラスト』と呼ばれる黄色く濃厚な乳脂肪の膜が張り、その下には純白でぽってりとした重みのあるクリームが覗いている。バターよりも軽やかで、生クリームよりも濃厚な、スコーンのためだけに存在する極上のクリーム。
もうひとつ、母の手作りジャムの金属蓋をひねると、パコッ、と小気味よい脱気音が響いた。
瓶の口から漂ってきたのは、市販のジャムのような人工的な香料の匂いではなく、太陽をたっぷり浴びた野イチゴの力強い甘酸っぱさと、レモンの爽やかな香りだった。スプーンですくってみると、形をそのまま残したルビー色の果肉が、とろりと艶やかにこぼれ落ちる。
「……うん。完璧」
タイマー代わりの腕時計が、五分を経過したことを告げた。
カセットコンロの火を止める。
アルミホイルを完全に取り払うと、パチパチと余熱で小さな音を立てる六つの黄金色のスコーンが、湯気とともに誇らしげに並んでいた。
粗熱を取るために、清潔な木製の小皿の上へフライ返しでスコーンを移す。
トングで持ち上げた瞬間、指先に伝わってきたのは、外側のしっかりとした硬質な手応えと、信じられないほどの軽さだった。中までしっかりと火が通り、余分な水分が抜けてふっくらと持ち上がっている証拠だ。
テラスの丸太ベンチに、深々と腰を下ろす。
目の前には、湯気を立てる焼き立てのスコーン。
脇には、たっぷりのクロテッドクリームと、母のルビー色のイチゴジャム。
そして、木漏れ日を反射する深い琥珀色のホットコーヒー。
「いただきます……!」
栞は手を合わせ、胸の前で小さく呟いた。
一番手前にあった、大振りのスコーンを指先で持ち上げる。指先に伝わるアツアツの熱気に思わず息を吹きかけながら、パックリと開いた側面の割れ目に両手の親指を差し入れた。
――サクッ、ミシッ。
小気味よい破断音とともに、スコーンが上下ふたつに割れる。
その瞬間、内側に閉じ込められていた真っ白な小麦の蒸気がポワッと立ち上り、バターの芳醇な甘みが爆発的に広がった。断面はきめ細やかで、まるで焼きたてのパンのようにしっとりとした湯気を放っている。
まずは下半分に、スプーンの背を使ってたっぷりのクロテッドクリームを惜しげもなく塗り広げる。熱い生地の上で、冷たいクリームがじわりと溶け始める。
さらにその上から、果肉がゴロゴロと入った母のイチゴジャムを、こぼれ落ちそうなほど山盛りに重ねた。
黄金色の生地、純白のクリーム、そして深紅のイチゴジャム。
三色のコントラストは、まるで絵本の中に描かれたティータイムの挿絵のように美しかった。
大きく口を開け、その贅沢な塊を、まさに口元へと運ぼうとした――その瞬間だった。
――ザザッ! バキバキッ!
突如として、静寂に包まれていたテラスの真下から、凄まじい勢いで木々の枝がへし折れる破壊音が響き渡った。
「きゃっ……!?」
栞はスコーンを取り落としそうになりながら、思わず手すりの向こうへと視線を走らせた。
何かが、来る。
巨大な質量を持った何かが、山小屋を取り囲む原生林の茂みを強引になぎ倒しながら、猛烈な勢いでこちらへ接近してきている。
野獣だろうか。それとも、この異世界に棲むという未知の怪物――魔獣なのか。
心臓が喉から飛び出しそうなほど激しく跳ね上がり、全身の毛穴が恐怖で一気に収縮した。逃げなければ。すぐに小屋の中へ戻り、あの欅の板戸を閉めて鍵をかけなければ――。
そう思考が警鐘を鳴らした刹那。
――ドサリッ!!
テラスを支える太い丸太の基礎のすぐ脇、生い茂るシダの葉を押し潰すようにして、重々しい金属の塊が、地面へと激しく叩きつけられた。
立ち上る土煙と、飛び散る千切れた青い花弁。
テラスの床板を通じて、足の裏にズンと鈍い衝撃が突き抜けてくる。
栞は息を呑み、手すりにしがみついたまま、恐る恐るその煙の晴れゆく先を見下ろした。
そこに倒れ伏していたのは、猛獣などではなかった。
泥と乾いた赤黒い染みにまみれた、漆黒の金属鎧――。
巨大な体躯を持った、ひとりの「人間」だった。




