第56話:夜明け前の癒やしと、チーズスコーン
夜の冷気が吹き込むテラスで、栞の華奢な肩口に額を預けたまま、レオンハルトは小さく、けれど深い吐息を漏らし続けていた。
骨がきしむほど強く栞の背中に回されていた男の腕からは、張り詰めていた頑なな力がゆっくりと抜け落ちていた。代わって全身を支配し始めたのは、限界を超えて戦い抜いた肉体が引き起こす、抗いようのない重力のような疲労感だった。
大剣を手放し、膝の屈伸すら覚束ない大男の巨躯は、今や完全に栞の小さな身体へと預けられている。
「……レオンハルトさん、中へ入りましょう。外は冷えますから」
耳元でそっと囁きかけると、男の濡れた黒髪が微かに揺れ、微弱な頷きが返ってきた。
栞は男の左腕を自らの首の後ろへと回させ、自らの腰を深く落として、彼の右脇腹をしっかりと抱え込んだ。
鋼鉄と泥、そして何より鍛え上げられた骨と筋肉の重み。百八十センチを優に超える大男を支えるのは、並大抵の労力ではなかったが、今の栞には不思議と迷いもためらいもなかった。
「よい……しょっ」
足を踏ん張り、一歩ずつ、敷居を跨いでリビングの中へと導いていく。
床板を踏みしめる泥まみれの軍靴が、重たい擦過音を立てる。
パチパチと穏やかな音を立てて樫の薪が燃え盛る薪ストーブの前――そこには、祖父の代から受け継がれた、幅の広い革張りの長椅子が据えられていた。
栞は男をそこへ誘導し、ゆっくりと腰を下ろさせた。
――ズシリ。
クッションが深く沈み込み、レオンハルトの身体が長椅子の背もたれへと力なく預けられる。
その顔色は、ストーブのオレンジ色の火影に照らされてなお、痛々しいほどに白く、血の気を完全に失っていた。額や頬には乾いた泥と赤黒い血糊がこびりつき、切れ長の銀の双眸は、疲労のあまり半分ほどしか開かれていない。
「ピィ……」
梁の上で見守っていたポムが、羽音を忍ばせてふわりと舞い降りてきた。
小さな妖精は、傷だらけで倒れ込む大男の膝の上にそっと降り立つと、心配そうにその無骨な指先を小さな両手で撫でた。レオンハルトは動かない指先をほんの数ミリだけ動かし、ポムに触れようとしたが、それ以上の力は残っていないようだった。
「レオンハルトさん、まず……その重たい鎧を外しましょうね。少しだけ我慢してください」
栞は男の前に膝をつき、砕けかけた甲冑の留め具へと手を伸ばした。
魔獣の爪によって叩き折られ、歪んでしまった真鍮のバックル。
怪我をさせないよう、細心の注意を払いながら、革ベルトをひとつずつ引き抜いていく。
――ガシャリ、ギギィ……。
胸当てを慎重に持ち上げると、裏地にまで赤黒い血と汗が滲み出していた。金属の冷たい重厚な塊を床へと下ろし、続いて半ば引きちぎれていた肩当て、腕を守る籠手を外していく。
最後に、泥で何倍にも重くなっていた軍靴の紐を解き、脚の脛当て(すねあて)を外した。
甲冑という名の重たい殻をすべて脱ぎ去り、黒いリネンの肌着と革ズボンだけになったレオンハルトは、屈強な体躯でありながら、どこか削ぎ落とされたような痛々しい無防備さを晒していた。
破れた肌着の隙間からは、打撲による紫黒い痣や、爪のかすり傷が無数に覗いている。
「…………っ」
栞は奥歯を噛み締め、こみ上げてくる涙をぐっと飲み下した。
可哀想だと泣くのは、今ではない。
この人が求めてくれた温もりを、一刻も早く、その傷ついた身体の隅々まで行き渡らせることこそが、今の自分の役目なのだ。
「待っていてくださいね」
栞は立ち上がり、キッチンスペースへと足早に向かった。
ストーブの天板の上で、常に沸き立たせてあった大きな銅製ケトル。
そこから立ち上る熱湯を、清潔な木製の洗面器へと注ぎ入れる。裏手の清流水を少し足して、手を入れて心地よいと感じる熱めのぬるま湯に温度を整えた。
清潔な白い晒布と、柔らかなコットンタオルを数枚抱え、再び長椅子の前へと戻る。
「失礼しますね。少し熱いかもしれません」
栞はぬるま湯に浸した晒布を固く絞ると、湯気を立てるそれを自らの手のひらで広げた。
そして――。
男の泥だらけの頬へと、そっと優しく押し当てた。
――ジュワリ……。
冷え切っていた皮膚に、温かな湿気が吸い込まれていく。
「………………っ」
レオンハルトの喉仏が、小さく跳ね上がった。
男の長い睫毛が震え、凍てついていた頬の筋肉が、温かな布の熱によって微かに弛緩していく。
栞は赤ちゃんの肌を拭うかのように、力を入れず、撫でるような手つきで泥を拭い去っていった。
額にこびりついていた煤を拭い、切り傷の周囲の血糊を優しく溶かし落とし、引き締まった顎のラインから、太い首筋へと布を滑らせる。
布を取り替え、何度もぬるま湯ですすぎながら。
泥と血の下から現れたのは、本来の、彫像のように端正な白皙の素顔だった。
だが、その唇は乾ききって紫色に変色し、吐き出す息は依然として微弱で、冷え切っていた。
続いて、栞は男の大きな手を取った。
大剣の柄を握り締め続けていたその手は、指の関節が固まったように強張っており、平らには開かない。手のひらや指先には無数の小さな切り傷があり、爪の間には黒い赤土が詰まっていた。
「痛くないですか……?」
栞は温かいタオルでその武骨な手を包み込み、自らの手のひらで温めながら、一本一本の指を丁寧に解きほぐすように拭っていった。
男の手は、驚くほど冷たかった。
けれど、栞の温かな手が触れ、温かい布で撫でられるたびに、強張っていた指先からじわりと力が抜け、男の掌が、まるで救いを求めるように栞の指先へと弱々しく絡みついてきた。
男は目を伏せたまま、何も言わない。
けれど、自らの身体を委ねきり、栞の献身的な手当てを無言で受け入れているその姿は、かつて山小屋で警戒心を剥き出しにしていた「氷の番犬」とは、根本から異なっていた。
全身を拭き清め、祖父の形見である厚手のウール毛布を男の肩から足元までふわりと掛け直す。
ストーブの樫の薪が、パチリと心地よい火花を散らし、室内の温度はさらに暖かさを増していた。
「さあ……お腹に、温かいものを入れましょう」
栞は立ち上がり、エプロンの紐をきゅっと結び直した。
キッチンスペースの調理台へ向かう足取りは、迷いなく軽やかだった。
まず向かったのは、作業台の端に置かれた大型の保温調理鍋だった。
昨夜からじっくりと仕込み、予熱で旨味を極限まで引き出しておいた特製のスープ――『濃厚カボチャのポタージュ』。
外蓋を開け、内鍋をコンロの極弱火にかける。
木べらで底から静かに混ぜ合わせると、ベルベットのように滑らかな黄金色の液体が、ポコポコと小さな気泡を弾かせながら、濃密な湯気を立ち上らせ始めた。
――フワァッ……。
完熟カボチャの持つ、大地と太陽の凝縮された甘美なアロマ。
そこへ、裏の湧水と濃厚な牛乳、そして隠し味に加えたごく少量のナツメグのスパイシーな香りが溶け合い、台所一面を包み込んでいく。
生クリームをさらにひと回し加え、極上の滑らかさに仕上げたところで火を止めた。
そして――もうひとつの主役。
「スコーンも、すぐ焼けるわ」
冷暗所で寝かせておいた、チーズスコーンの生地を取り出す。
冷たい無塩バターと小麦粉、すりおろした熟成ハードチーズ、そして粗挽きの黒胡椒をざっくりと合わせ、層を作るように折り畳んでおいた特製生地だ。
厚さ二・五センチほどに整えた生地を、真鍮の丸型で手早く抜いていく。
コンロの上に据えたのは、祖父が長年使い込んできた、真っ黒な鋳鉄製スキレット。
薄く油を引いて弱火で熱し、そこへ型抜きした六個のスコーン生地を、等間隔に並べ入れた。
――ジュウッ……。
生地が鉄肌に触れた瞬間、微かな、けれど小気味よい焼き音が響く。
ぴったりと重なる鋳鉄製の重い蓋を被せ、極弱火でじっくりと熱を通していく。
密閉されたスキレットの内部で、バターが溶け出し、生地に含まれるベーキングパウダーが熱に反応してふっくらと持ち上がっていく。
五分後。
蓋の隙間から、シュウシュウと勢いよく白い蒸気が噴き出した。
その蒸気に乗ってリビング中へと広がったのは――まさに、暴力的なまでの食欲の引き金だった。
熱せられた熟成チーズが溶け出し、鉄肌の上でカリカリに焦げ付いていく、香ばしく濃厚な塩気の匂い。
発酵バターの甘いミルクのアロマ。
そして、それらをピリリと引き締める、粗挽き黒胡椒の野性的な刺激香。
――チリチリ、パチパチ……。
チーズの油分が鉄肌で爆ぜる心地よい音が、静かな山小屋に小気味よく響き渡る。
栞は耐熱ミトンをはめ、スキレットの蓋を持ち上げた。
――ボワッッ!
解き放たれる、黄金色の熱気。
スキレットの中では、生地が見事に二倍近くまで膨らみ上がり、中央に「オオカミの口」と呼ばれる美しい腹割れの亀裂がくっきりと刻まれていた。
トングを使い、手早く裏返す。
――ジュワワワッ!
底面には、息を呑むほど見事な、濃いキツネ色の焼き色がついていた。
溶け出したチーズが生地の縁でカリカリの「羽根」を作り、香ばしい焦げ目をまとっている。
再び蓋をして、さらに三分。
中まで完全に火を通し、余熱でチーズを落ち着かせる。
温めておいた白い陶器の深皿に、熱々のカボチャポタージュをたっぷりと注ぎ入れた。
表面には、黄金色のスープの海に映えるよう、生クリームで一筋の白い優美な渦巻きを描き、彩りに刻んだパセリを散らす。
木製の平皿には、焼き上がったばかりの、手で触れられないほど熱々のチーズスコーンを二個、並べた。
割れ目からは、熱気とともに濃厚なチーズの香りが絶え間なく立ち上っている。
トレイに載せ、真鍮のスプーンを添えて。
栞は足音を忍ばせるようにして、長椅子の前へと歩み寄った。
「レオンハルトさん、できましたよ」
ローテーブルの上へ、ことり、と静かな音を立ててトレイを下ろす。
立ち上る二つの湯気――甘く優しいカボチャの芳香と、カリッと香ばしいチーズの匂いが混ざり合い、男の鼻腔を真っ直ぐに直撃した。
「…………っ」
長椅子の上で目を閉じていたレオンハルトの眉間が、ピクリと動いた。
男はゆっくりと目蓋を持ち上げ、目の前のテーブルへと視線を落とした。
黄金色に輝く、湯気立つポタージュ。
そして、カリカリのチーズの羽根をまとい、ふっくらと湯気を噴き上げる熱々のスコーン。
その視覚と嗅覚の刺激に、男の乾ききっていた喉が、トクン……と切実に上下した。
「……これを……?」
「はい。まずは、スープからどうぞ。胃に負担がかからないように、カボチャを丁寧に裏ごしして作りました。冷めないうちに召し上がってください」
栞がスツールに腰掛け、優しく微笑みかける。
レオンハルトは毛布から震える右手を伸ばし、真鍮のスプーンを握りしめた。
まだ指先はおぼつかない。
それでも、スプーンの先端を黄金色のスープの海へと沈め、ゆっくりとすくい上げた。
立ち上る白い湯気。
男は息を吹きかけるのももどかしいように、そのスプーンを口元へと運び、震える唇の間へと流し込んだ。
その瞬間――。
「………………ッッ!」
レオンハルトの全身が、ビキリと硬直した。
銀の双眸が見開かれ、息が止まる。
口蓋を満たしたのは、奇跡のような優しさだった。
繊維の一本すら感じさせない、極上の絹のように滑らかな舌触り。
まず舌を包み込むのは、完熟カボチャの持つ、どこまでも素朴で濃厚な天然の甘み。
そこに、超軟水の湧水と牛乳が溶け合い、カボチャの重たさを絶妙に和らげながら、喉の奥へと滑らかに流れ落ちていく。
そして――何より、その「温度」。
熱い。
けれど、火傷するような暴力的な熱さではない。
何日間も、極寒の泥の中で冷え切り、凍死者のようになっていた五臓六腑を、包み込むように慈しみ、細胞のひとつひとつを内側から解きほぐしていくような、慈愛の熱。
――ゴクリ。
喉を滑り落ちた瞬間、食道から胃袋へと、温かな一本の光の筋が通ったかのように、腹の底がじんわりと熱を帯び始めた。
「…………あ……」
男の口から、掠れた吐息が漏れ出た。
二口目、三口目。
男は取り憑かれたようにスプーンを動かした。
一口啜るごとに、張り詰めていた肩の筋肉から、目に見えて力が抜けていく。
青白く硬直していた首筋の血管に、温かな血液がドクドクと力強く巡り始めるのが、見ている栞にもはっきりと分かった。
そして――。
半分ほどスープを飲み干したところで、レオンハルトの視線が、隣の皿に鎮座するスコーンへと向けられた。
「スコーンも、熱いうちにどうぞ。チーズと黒胡椒をたっぷり練り込んでありますから」
栞が促すと、男はスプーンを置き、大きな素手でスコーンを持ち上げた。
――アツッ……。
指先に伝わる、焼きたての力強い熱気。
男は両手の親指を割れ目にかけ、二つに割った。
――サクッッ!!
小気味よい破断音とともに、断面から真っ白な湯気がボワッと噴き出した。
溶けた熟成チーズが糸を引き、幾重にも折り重なった生地の層が、ハラハラと香ばしい破片を零す。
男はそれを大口で、思い切り口の中へと放り込んだ。
――ザクッ、サクサクッ……!!
咀嚼。
その瞬間、レオンハルトの喉が大きく上下した。
「…………っ!!」
口いっぱいに弾け飛んだのは、強烈なまでの香ばしさと旨味だった。
外側の生地は、まるで極上のパイ菓子のようにカリッと香ばしく、溶け出して焦げたチーズの羽根が、小気味よい塩気とともに砕け散る。
そして、内側の生地に歯が沈んだ刹那――。
熱を帯びた発酵バターがジュワリと染み出し、とろけたチーズの濃厚なコクと混ざり合って、口内を満たしていく。
重厚な脂質と塩気。
だが、決してしつこくはない。
生地のあちこちに散りばめられた粗挽き黒胡椒が、ガリッと奥歯で弾けるたびに、ピリリとした鮮烈な辛みが鼻腔を突き抜け、チーズの濃厚さを鮮やかに引き締めてくれるのだ。
ザクザクとした力強い歯触り。
噛みしめるほどに小麦の甘みとバターの芳醇さが溢れ出し、男の飢餓状態にあった脳中枢へ、爆発的なエネルギーを送り届けていく。
「…………美味い……」
男の唇から、消え入りそうな、けれど魂の底から絞り出されたような呟きが零れた。
「こんな……こんな美味いものが……あるのか……」
男は無言のまま、猛烈な勢いでスコーンを咀嚼し、飲み下した。
そして、スコーンを齧っては、熱々のポタージュを口に含み、口内でスープと香ばしい生地を一体化させて味わっていく。
カボチャの優しい甘みが、チーズの尖った塩気をまろやかに包み込み、黒胡椒のスパイスがカボチャの輪郭をくっきりと浮き上がらせる。
完璧な、味覚の調和。
一口ごとに、奇跡のような変化が男の身体に起きていた。
青白く、土気色だった頬に、ポッと淡い桜色の血色が差し始める。
紫色に変色し、ひび割れていた薄い唇が、瑞々しい赤みを取り戻していく。
荒く乱れていた呼吸は、深く、穏やかで規則正しいものへと変わり、何より――あの死線を潜り抜けてきた銀の双眸から、刺すような殺気の残滓が完全に消え去り、澄み切った、柔らかな光が宿り始めていた。
あっという間に、二個のスコーンは男の胃袋へと消え去った。
皿の上に散らばったチーズのカリカリとした破片すら、男は指先を濡らし、一粒残らず口へと運んでいく。
そして――。
レオンハルトは両手で白い陶器の深皿を持ち上げた。
皿に直接口をつけ、残っていたポタージュを、傾けながら最後の一滴まで余すところなく飲み干したのだ。
――ゴクリ。
喉が力強く鳴る。
――コトン。
空になった深皿が、テーブルの上へと静かに戻された。
チリひとつ、雫一滴すら残っていない、まるで洗い立てのようにピカピカになった白い皿。
「………………ふぅぅぅぅぅぅぅっ」
レオンハルトは長椅子の背もたれへと深く身体を預け、天を仰ぐようにして、長く、長く、温かな息を吐き出した。
その顔には、先ほどまでの死の気配など微塵も残っていなかった。
満たされた胃袋。
身体の芯まで行き渡った熱気と滋養。
男の全身の筋肉から、すべての強張りと重圧が解け落ち、完全に無防備な、穏やかな安らぎだけが満ち満ちていた。
静かな山小屋。
外の原生林には、夜明け前の白藍の光が、静かに差し込み始めていた。
黒煙はすでに風に流されて薄れ、雲の切れ間から、淡い金色の朝の光が木々の梢を照らし始めている。
薪ストーブの中で、樫の薪がパチリと小さく爆ぜた。
栞は空になった皿を片付けようと、微笑みながら身を乗り出し、トレイへと手を伸ばした。
「お粗末さまでした。……お口に合って、よかっ――」
その瞬間だった。
――スッ……。
伸ばしかけた栞の右手を、不意に、何かが優しく遮った。
「…………え?」
栞の息が止まった。
触れたのは――男の、あの大きな掌だった。
泥と血を綺麗に拭い去られ、温かな血色を取り戻した、レオンハルトの右の掌。
男は、トレイの上の皿を片付けようとしていた栞の細い手首を――決して痛くはない、けれど逃れられない確かな力加減で、そっと、優しく引き寄せたのだ。
「レオンハルト……さん……?」
引き寄せられた手首を通して、男の熱い体温と、力強い脈動が直に伝わってくる。
男の長い指先が、栞の手首の柔らかな肌を、壊れ物を慈しむように包み込んでいる。
見上げる栞の視線と、見下ろすレオンハルトの視線が、至近距離で真正面から絡み合った。
男の銀の双眸は、ストーブのオレンジ色の火影と、窓から差し込む夜明けの淡い光を浴びて、息を呑むほど澄み渡っていた。
そこには、指揮官としての仮面も、不器用な照れ隠しすらもなかった。
ただ、自らの命を救い、自らの帰る場所を守り抜いてくれた唯一の女性に対する、剥き出しの敬愛と、途方もない情熱だけが揺らめいていた。
男の引き締まった薄い唇が、ゆっくりと開かれる。
低く、掠れた、けれど耳の奥底を直接震わせるような、深く甘やかなバリトンの重低音。
男は栞の手首を自らの胸元――心臓の鼓動が激しく打ち鳴らされているその場所へとそっと引き寄せながら、静かに、こう囁いたのだ。
「…………お前が」
男の銀の瞳が、熱く細められる。
「お前が届けてくれたもののおかげで……あの極限を、生き延びられた」
その言葉が、夜明け前の静寂に溶け落ちた瞬間。
栞の心臓は、まるで早鐘のように激しく跳ね上がり、全身の血液が一気に熱く沸騰していった。




