第55話:血と泥と、震える抱擁
――ガチャンッッ!!
鉄の閂が跳ね上がる鋭い金属音が、静まり返った山小屋のリビングに木霊した。
相沢栞は、躊躇うことなく両手を真鍮のドアノブへとかけ、全身の体重をかけて手前へと一気に引き引いた。
――ギギィィ……ッ。
蝶番が悲鳴を上げ、分厚い樫の木の扉が外へと開け放たれる。
その瞬間、閉ざされていた温かな室内に向かって、凍てつくような晩秋の夜気が、怒涛の勢いで雪崩れ込んできた。
テラスの軒下に吊るされたオイルランタンが、突風に煽られて激しく揺れる。
ユラリ、ユラリと、影が円を描いて床板の上を踊る。
その琥珀色の光の輪の真ん中に――。
「…………っ!!」
栞の喉から、息が完全に止まった。
そこに立っていたのは、間違いなくあの男だった。
けれど、その姿は――言葉を失うほどに、凄惨を極めていた。
かつて黒光りしていた漆黒の甲冑は、巨大な魔獣の牙と爪によって無残なまでに叩き割られ、胸当ての中央には、心臓の寸前まで達していたであろう深い亀裂が斜めに走っていた。肩当ての装甲は半ばひしゃげて剥がれ落ち、露出した鎖帷子の輪環は無数に引きちぎれて、鋭い金属片が男の肉へと食い込んでいる。
漆黒のウールマントは、もはや原形を留めていなかった。鋭利な鉤爪で幾重にも引き裂かれ、血と泥にまみれてボロボロの布切れと化し、男の巨躯に重たくへばりついている。
右手には、あの大剣。
岩盤をも両断するはずの刀身は、無数の魔獣の骨と角を断ち切った代償として、刃先から根元に至るまでノコギリの歯のように無残に刃こぼれし、表面は乾いた赤黒い返り血と、粘り気のある魔獣の体液によって幾重にも分厚くコーティングされていた。
足元は、深い赤土の泥濘に浸かりきった軍靴。
一歩踏み出すたびに、靴底から泥水と血の混ざった滴が、テラスの床板へとポタリ、ポタリと重たい音を立てて落ちていく。
だが――何よりも栞の胸を、万力で締め上げるように痛めつけたのは、その顔だった。
額に張り付いた漆黒の前髪は、煤と乾いた血糊で針のように固まり、陶器のように白かった頬には、無数の浅黒い切り傷と打撲の青黒い痣が刻み込まれていた。唇は極度の脱水と寒さによってひび割れ、紫色に変色し、呼吸をするたびに、男の口元から――。
――ヒュー……、ヒュー……。
肺の奥底から軋むような、掠れた白い息が、途切れ途切れに漏れ出していたのだ。
立っていることすら、奇跡だった。
全身の骨が軋み、筋肉の繊維が限界を超えて引き裂かれ、血を流し尽くし、ただの生きた屍となって倒れ伏していても何らおかしくない、極限の満身創痍。
砦の医務室へ運ばれるべきだった。
本来ならば、戦いが終わった瞬間に担架に乗せられ、軍医たちの手によって傷を縫い合わされ、毛布にくるまれて絶対安静を命じられるべき状態だった。
それなのに。
この男は、戦火の煙がくすぶる峡谷から、手当ての一切を拒絶し、血を流しながら、この深い原生林の闇をただ一人で歩き通してきたのだ。
灯火を目指して。
テラスの梁に吊るされた、あの琥珀色のランタンの光だけを頼りに。
「レオン……ハルト、さん……」
震える声が、栞の唇から零れ落ちた。
その呼び声に反応したように、俯きかけていた男の顔が、酷く緩慢な動作で、わずかに持ち上がった。
煤と血にまみれた長い睫毛が微かに震え、その奥から――。
――スッ……。
澄み切った、研ぎ澄まされた銀の双眸が、現れた。
死線の底を潜り抜けてきた男の瞳。
激戦の熱狂も、指揮官としての冷徹な仮面も、すべて削ぎ落とされた、剥き出しの魂の光。
その銀の瞳が、開かれた扉の向こう――温かなオレンジ色の光が溢れ出す山小屋の入り口に立つ、栞の姿を、真っ直ぐに捉えた。
男の瞳が、わずかに見開かれた。
視線が、栞の顔を捉える。
藍染め木綿のエプロンを身につけ、無事な姿で、そこに立っている栞。
そして、男の視線は、栞の黒髪のサイドへと吸い寄せられるように落ちた。
そこには――あの朝、自らが夜番の合間に削り出し、不器用に押し付けて逃げ去った、あの『星屑の銀鉱石』のヘアピンが、室内の光を浴びて、夜空の一番星のように凛と輝いていた。
無事だ。
自分が命じた「扉を閉めて、二度と来るな」という冷酷な命令に背き、この女は、現代の安全な世界へ逃げ去ることもせず。
この冷え切った森の山小屋で、暖炉に火をくべ、ランタンを灯し、自分が帰ってくるのを信じて、ずっと待ち続けていたのだ。
その事実を悟った、まさにその瞬間だった。
――プツリ。
男の中で、何かが音を立てて切れた。
極限の戦場で、百人の部下の命を背負い、死の恐怖に抗い、自らの肉体を鋼の意志だけで無理やり動かし続けていた、最後の一本の極細の糸。
それが、栞の姿と、その黒髪に輝く銀の光を認識した刹那、跡形もなく完全に解け落ちてしまったのだ。
「あ…………」
男の薄い唇から、微かな、掠れた空気の塊が漏れ出た。
次の瞬間。
――ガクンッ。
男の膝が、まるで支えを失った巨木のように、音を立てて折れた。
右手に握られていた、あの血まみれの巨大な大剣が、指先から滑り落ちる。
――ドサリッ、ガランッッ!!
重厚な鋼鉄がウッドデッキの床板を叩き、鈍い金属音を響かせた。
そして、大剣という唯一の杖を失ったレオンハルトの長大な体躯が、重力に引かれるまま、前へと、崩れ落ちるように倒れ込んできたのだ。
「レオンハルトさんッ!!」
栞は叫んでいた。
後ずさりなどしなかった。
身を引くことなど、爪の先ほども考えなかった。
栞は力いっぱい敷居を跨ぎ、テラスの冷気の中へと両足を踏み出した。
そして、前へ倒れ込んでくる百八十センチを超える大男の身体を――その砕かれた鋼鉄の甲冑ごと、泥と血にまみれた身体ごと、両腕を限界まで広げて、正面から腕いっぱいに受け止めたのだ。
――ドォォンッッ!!
凄まじい衝撃が、栞の全身を貫いた。
重い。
大人の男の筋骨隆々たる巨躯と、分厚い金属鎧の重み。
その圧倒的な重量が、小柄な栞の細い肩と胸元へと一気にのしかかってくる。
足元のスニーカーが床板をギシギシと激しく擦り、衝撃で肺の中の空気が吐き出されそうになった。
けれど、栞の足は止まらなかった。
腰を落とし、歯を食いしばり、床板を爪先で力任せに噛みしめる。
絶対に、この人を冷たい泥の床へ倒れ伏させたりはしない。
その一念だけで、栞は自らの華奢な身体を一本の頑丈な柱に変え、倒れ込んできた男の重みを、その胸の中で完全に受け止めきったのだ。
――ズシリ……。
男の巨躯が、栞の身体に完全に預けられる。
その瞬間、栞のすべての感覚器を、圧倒的なまでの「戦場の生々しさ」が支配した。
まず鼻腔を襲ったのは、むせ返るような強烈な匂いだった。
雨水と泥の冷たい湿気。
酸化した鉄サビの刺激臭。
火薬と硝煙の焦げた匂い。
そして――何百もの魔獣を斬り裂き、その返り血を浴び続けた者だけが纏う、生々しく、重苦しい血の気配。
現代の日本で、清潔なオフィスと古民家を行き来していただけの人間であれば、吐き気を催して気絶しかねないほどの、死と暴力の残滓。
けれど、栞はその匂いに、顔を背けることなど微塵もしなかった。
それどころか、その匂いの奥底から微かに立ち上ってきた、あの男自身の匂い――汗と、革と、そして先ほどダミアンが届けてくれたはずの、あの深煎りマンデリンの苦い残り香を感じ取った瞬間、栞の目頭から、熱い涙がボロボロと溢れ出した。
――生きてる。
――本当に、生きて……帰ってきてくれた。
――ドクン……、ドクン……、ドクン……。
押し当てられた胸当ての鉄板越しに、男の心臓の鼓動が、痛いほどに激しく、力強く栞の胸骨を打っていた。
そして。
――スゥッ……。
崩れ落ちたレオンハルトの頭部が、栞の右の首筋へと、深く、沈み込んできた。
「…………っ」
栞の肌が、ビクリと震えた。
冷たい。
首筋に触れた男の額は、まるで氷河の底から引き揚げられた氷塊のように、皮膚の感覚を麻痺させるほど冷え切っていた。
雨と夜風に晒され続けた男の肌の冷気。
そこへ、男の荒い吐息が、途切れ途切れに吹きかかってくる。
――ハァッ……、ふぅ……っ、ハァ……。
冷えた肌と、熱く湿った吐息の激しいコントラストが、栞の首筋をチクチクと刺す。
男の濡れた黒髪が、栞の頬を撫で、煤の混ざった冷たい雫が、栞の鎖骨の窪みへと滑り落ちていく。
その時だった。
――ギチ……、ギチギチッ……!!
信じがたいほどの激しい軋み音が、栞の背中から響いた。
「………………ッッ!?」
栞は息を呑んだ。
力尽きて崩れ落ちていたはずのレオンハルトの両腕が。
泥まみれの鋼鉄の手甲を嵌めたままの、あの逞しい太い腕が――。
栞の背中へと回され、骨が軋むほどの、猛烈な力で抱きしめられたのだ。
痛い。
肋骨がミシミシと音を立てるほどの、逃げ場のない抱擁。
男の鋼鉄の手甲が、栞の藍染めエプロンの背中の布地を力任せに鷲掴みにしている。
離すまいと。
もしこの手をわずかでも緩めてしまえば、目の前にいるこの温もりが、蜃気楼のように煙となって消え去ってしまうのではないかと恐れるかのような、狂おしいまでの力。
けれど――。
その骨を砕かんばかりの強靭な腕が。
栞の背中に回されたその逞しい両腕が――。
ガタガタと、目に見えるほど激しく、小刻みに震えていたのだ。
「レオンハルト……さん……?」
栞の胸が、激しく締め付けられた。
震えていた。
百人の部下を率い、大剣一閃で魔獣を屠り、「氷の番犬」と恐れられていたあの屈強な騎士が。
他人の前で弱音を吐くことすら許されず、一人で重圧を抱え込み続けてきた大人の男が。
まるで、暗闇の嵐の中で独りぼっちになり、凍え死にそうになっていた迷子の子供のように。
栞の首筋に額を深く沈め、全身の筋肉を激しく波打たせながら、声もなく、ただカタカタと震え続けていたのだ。
怖かったのだ。
死ぬことが怖かったのではない。
もう二度と、この温もりに逢えなくなることが。
自分が命じた通りに扉が閉ざされ、二度とこの場所へ帰れなくなることが、たまらなく怖かったのだ。
血煙が渦巻く峡谷の底で、何百もの魔獣の爪に晒されながら、この男の魂を辛うじて繋ぎ止めていたのは、ただひとつ――『あの山小屋へ帰りたい』という、それだけだったのだ。
栞の目から、大粒の涙が次から次へと溢れ落ち、男の濡れた肩の装甲の上へと吸い込まれていった。
愛おしかった。
痛々しくて、不器用で、真っ直ぐで、あまりにも愛おしかった。
栞は背中に回された痛烈な腕の痛みを、そのまま受け入れた。
そして、自らの両腕を、男の泥にまみれた背中へとしっかりと回したのだ。
砕けた金属の鋭い縁が、冷たい泥の感触が、栞の柔らかな手のひらを汚していく。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
栞は男の背中を、自らの体温のすべてを分け与えるようにして、ぎゅっと、力いっぱいに抱きしめ返した。
右手で、男の後頭部の濡れそぼった黒髪を、優しく、慈しむように撫でる。
――大丈夫。
――あなたは、帰ってきたのよ。
言葉にせずとも、自らの体温と鼓動のすべてを使って、栞はその想いを男の全身へと伝え続けた。
テラスの夜風が吹き抜け、軒下のランタンがユラユラと揺れる。
ふたりの影が、琥珀色の光の中でひとつに重なり合い、長く床板へと伸びていた。
どれほどの時間が流れただろうか。
数分、あるいは十数分。
男の首筋から伝わる激しい震えが、栞の温もりに包まれるうちに、少しずつ、少しずつ、穏やかなものへと鎮まっていった。
荒く乱れていた呼吸が、深く、規則正しいものへと落ち着いていく。
やがて――。
栞の首筋に深く沈み込んでいた男の額が、微かに動いた。
男の唇が、栞の耳元へと触れるほどの至近距離で、かすかに開かれる。
凍傷と疲労でひび割れ、掠れきった、地を這うような重低音。
けれど、そこにはもはや、あの冷徹な指揮官の頑なな響きは一片たりとも残っていなかった。
ただ、飢えと寒さに震え、命の温もりを渇望する、ひとりの傷ついた男の――あまりにも切実で、無防備な呟き。
「…………温かいものを」
男の喉が、苦しげに上下した。
背中に回された腕の力を、わずかに緩めながら。
けれど、栞の首筋から額を離そうとはしないまま、男は掠れた声で、こう零したのだ。
「……温かいものを……くれ」
たったそれだけ。
命令でも、義務でもない。
この世でたった一人、心を許した相手にだけ見せる、甘えるような、すがるような懇願。
その言葉を聞いた瞬間、栞の心臓の奥底から、春の泉のような温かな熱が、ブワッと一気に全身を満たしていった。
栞は涙に濡れた頬を綻ばせ、満面の、慈愛に満ちた笑顔を咲かせた。
そして、首筋に触れる男の冷え切った耳元へ、柔らかく、けれどこれ以上ないほど力強い声で、こう囁き返したのだ。
「はい」
栞は男の広い背中を、ポンポンと優しく叩いた。
「はい、すぐ淹れますね」
夜風がふわりと吹き抜け、栞の黒髪を揺らした。
髪に留まった星屑の銀鉱石が、ランタンの光を浴びて、夜明けの光のように優しく、清らかに瞬いている。
「よく……無事で」
栞の声が、熱い涙で微かに潤んだ。
「よく無事で……帰ってきてくれましたね、レオンハルトさん」
その言葉が、夜の静寂の中に溶けていった瞬間。
男の背中から、すべての強張りが完全に抜け落ちた。
男は栞の肩口に深く顔を埋めたまま、深く、深く、魂の底から安堵のため息を吐き出していた。
背後のリビングの薪ストーブからは、樫の薪がパチパチと爆ぜる温かな音が響いている。




