第54話:静まり返る森と、消えない灯火
補給小屋を背にしてから山小屋へと至る原生林の獣道は、すっかり夜の闇に塗り潰されていた。
北の空を覆う分厚い黒煙のせいで、月光も星の瞬きも地表には届かない。
頭上で冷たい突風が梢を激しく揺らし、枯れ葉が小石のように地面へと叩きつけられる。
手探りに近い暗黒の中、相沢栞の足元を照らしていたのは、前方を低く舞うポムの四枚の薄羽から零れ落ちる、淡いエメラルドグリーンの燐光だけだった。
背中に背負った空のクーラーボックスと、両脇に抱えた木箱。
それらはポムの精霊魔法のおかげで重さを失っていたが、それでも時折突き出た木の根や泥のぬかるみに足を取られ、膝を擦りむきそうになりながら、栞は必死に足を前へ前へと運び続けた。
背後の彼方、北の峡谷の断崖からは、依然として大気を直接揺るがすような重低音と、地鳴りのような魔獣たちの咆哮が、途切れることなく響き渡っていた。
――ズゥゥゥン……、ズズズズ……。
あの音の発生源に、あの人はいる。
何百もの魔獣の津波が押し寄せる峡谷の底で、たった一人、両手大剣を構えて立ち塞がっているのだ。
泥の手袋を外す暇もなく、水の一滴すら口にできず、全身の骨が軋むほどの激戦の中で。
(お願い……届いて……!)
ダミアンの無骨な手に託した、あの三つの品。
高密度に焼き上げた特大のブラウニーバー、疲労を瞬時に分解する琥珀色のビネガードリンク、そして保温水筒に閉じ込めた熱々の深煎りマンデリンコーヒー。
それらがどうか無事にあの男の喉を潤し、凍えかけた内臓を温め、再び生きる力を呼び覚ましてくれるようにと、栞は走る一歩ごとに胸の中で祈り続けていた。
やがて、生い茂る針葉樹の切れ目の向こうに、見慣れたログハウスの輪郭がぼんやりと浮かび上がった。
山小屋だ。
栞はテラスの階段を駆け上がり、厚い樫の木の正面ドアを押し開けて、転がり込むように室内へと滑り込んだ。
――バタンッ!
背中でドアを閉ざし、寄りかかったまま、栞は肩を激しく上下させて荒い息を吐き出した。
心臓が早鐘のように肋骨の裏側を打ち鳴らしている。
冷え切った空気が、喉の奥をヒリヒリと焼く。
「はぁっ……、はぁっ……、ふぅ……」
暗いリビングには、数時間前まで行っていた調理の痕跡――濃厚なカカオの甘いアロマと、ビタ草の清涼なシトラスの残り香が、まだ微かに漂っていた。
けれど、暖房の消えた室内の温度は、晩秋の夜気によってすっかり奪い去られており、吐き出す息は白く濁って宙へと消えていく。
「ピィ……」
肩の上へ飛び移ってきたポムが、心配そうに小さな手で栞の頬を撫でた。
栞は震える指先でその小さな体をそっと包み込み、深く息を吸い込んで自らを落ち着かせた。
視線を向ける先は、リビングの奥――薄暗い土間の向こうに佇む、あの重厚な欅の板戸だった。
祖父が遺してくれた、透かし彫りの真鍮鍵。
あの鍵を差し込み、扉をくぐって現代の古民家側へ戻り、内側から鍵を抜いてしまえば、そこには何のリスクもない、絶対的な安全が待っている。
温かい暖房の効いた部屋、温かなシャワー、冷たい麦茶、そしてテレビから流れる平和なニュース。
魔獣の牙も、血生臭い戦乱も、何ひとつ届かない不可侵のシェルター。
レオンハルトの叫びが、耳の奥で鮮烈に蘇る。
『今すぐ、あの扉を開けろ。あんたの荷物をすべて持ち、元の世界へ戻れ』
『扉を閉めろ。鍵をかけろ。……二度と、こちらの世界へは来るな』
自分を生かすためだけに、己の心を悪鬼に変えて叫んだ、あの痛ましいまでの拒絶。
言われた通りに扉を閉ざし、鍵を抜いてしまえば、自分は傷つくこともなく、何不自由のない元の生活を守り続けることができるのだ。
「…………誰が、逃げるもんですか」
栞の唇から、小さく、けれど鋼のように硬い呟きが零れ落ちた。
栞は土間の奥へと歩み寄った。
けれど――真鍮鍵を取り出すことすらしなかった。
欅の板戸の隙間を、ほんの数センチだけ開け放ち、現代の古民家とこの異世界を繋ぐ風の通り道を保ったまま、栞はきっぱりと踵を返したのだ。
ここで扉を閉ざし、鍵を抜いてしまえば。
あの人は、帰るべき場所を完全に失ってしまう。
泥まみれになり、血を流し、満身創痍で森を這い戻ってきたとき、迎える灯火がどこにも灯っていなければ、あの男は一体どこへ帰ればいいというのか。
――私は、逃げない。
――あなたの帰る場所は、私が守り抜く。
栞は両の手のひらをパンッと力強く打ち鳴らし、気合いを入れ直すと、冷え切った山小屋を温める作業へと取りかかった。
最初に向かったのは、リビングの中央に据えられた、重厚な黒い鋳鉄製の薪ストーブだった。
フロントの耐熱ガラス扉を開け放ち、火室の底に残っていた白い灰を鉄の火かき棒で手早く均す。
細く割っておいた杉の焚き付けを井桁に組み、中心に丸めた白樺の樹皮を滑り込ませた。
マッチを擦る。
――シュパッ。
小さな炎の粒が樹皮へと燃え移り、パチパチと小気味よい音を立てて細い薪へと燃え広がっていく。
下部の吸気口を最大に開き、火が安定したところで、栞はテラス脇の薪入れへと向かった。
そこには――あの男が、非番の合間や夜番の前に、自らの剛腕を振るって綺麗に切り揃えてくれた、極上の樫の薪が整然と積まれていた。
節を避け、長さを寸分違わず揃え、樹皮を丁寧に削ぎ落として何ヶ月も風に晒した、密度の高い広葉樹の薪。
大人の太ももほどもある太い薪を両腕で抱え上げると、ずっしりとした重みが腕の筋肉に食い込む。
「こんなに丁寧に薪を割ってくれた人が……帰ってこないはずがないわ」
栞は太い樫の薪を、燃え盛る火室の中へ交差させるようにして二本、力強くくべ入れた。
――ゴォォォォ……。
火室が息を吸い込むような重低音を立て、真っ赤な炎の舌が樫の木肌を激しく舐め始める。
鋳鉄の重厚なボディが、じわり、じわりと熱を蓄え始めた。
パチッ、パチリと火の粉がガラスの向こうで爆ぜ、遠赤外線の濃密な熱気が、冷え切っていたリビングの床や丸太の壁へと、波紋のように広がっていく。
次に栞が手に取ったのは、棚の隅に置かれていた、祖父の古いオイルランタンだった。
頑丈な真鍮のフレームに、少し煤けた厚手のガラスホヤ。
給油口にパラフィンオイルを満たし、芯を少しだけ繰り出してマッチの火を近づける。
――ボッ。
ガラスの内部に、温かな琥珀色の炎が灯った。
ホヤを下げ、真鍮のトップリングを固定する。
栞はそのランタンを片手に持ち、リビングの掃き出し窓を開けて、夜風が吹き荒れるテラスへと足を踏み出した。
外は、息を呑むほどの完全な暗黒だった。
北の空を覆い尽くす分厚い黒煙のせいで、月も、満天の星々も、何ひとつ見えない。
冷たい風が原生林の木々を激しく軋ませ、遠くから微かに届く魔獣の咆哮が、大気を不気味に震わせている。
栞はテラスの手すりへと歩み寄り、一番高く突き出た梁のフックへと、そのランタンをしっかりと吊り下げた。
――ユラリ、ユラリ……。
風に揺れるランタン。
その琥珀色の柔らかな光は、テラスの床板を照らし、木製の手すりを照らし、そして、山小屋へと続く暗い森の小道へと向かって、真っ直ぐに、揺るぎない光の筋を投げかけていた。
どれほど暗く、どれほど深い絶望の闇の中であっても、この光さえ見えれば、自分がどこへ向かって歩けばいいのかが分かるように。
夜の海で嵐に揉まれる船を導く、灯台の火のように。
「ここよ、レオンハルトさん」
栞は夜の森を見つめながら、静かに囁いた。
「あなたの帰る場所は……ここにありますからね」
室内へと戻り、テラスの防水カーテンを少しだけ隙間を開けて閉ざした。光が外へ漏れ続けるように。
パチパチと薪ストーブの火が安定し、部屋の中はすっかり春のような温もりに満たされていた。
壁掛けの古時計が、コチ……コチ……コチ……と、規則正しい秒針の音を刻んでいる。
栞はキッチンスペースへと向かい、エプロンの紐を直した。
待つ。
ただじっと座って待つことなど、栞にはできなかった。
あの男が、泥と血にまみれ、満身創痍でこの扉に辿り着いたその瞬間に。
極限まで疲弊した胃袋を芯から温め、失われた体温と体力を瞬時に蘇らせるための、とびきりの料理を用意しておかなければならない。
古民家から持ち込んできた食材の中から、丸々と太った完熟のカボチャを取り出した。
包丁を入れ、種とワタをスプーンでこそぎ落とす。
一口大に切り分け、蒸し器の湯気でじっくりと竹串がすっと通るまで蒸し上げる。
熱いうちに皮を削ぎ落とし、黄色い果肉を裏ごし器の上へと移した。
木べらを使って、丁寧に、丹念にメッシュを通過させていく。
――サリ、サリ、サリ……。
繊維の一本も残さない、ベルベットのように滑らかなカボチャのペーストが、ボウルの底へと落ちていく。
そこへ、裏の湧水から汲んできた超軟水、濃厚な牛乳、少量のブイヨンを合わせ、泡立て器でダマがなくなるまで均一に溶きのばした。
鍋に移し、極弱火で温めながら、塩と白胡椒、そしてごく少量のナツメグを振り入れる。
甘く、滋味豊かで、胃壁に一切の負担をかけずに全身へと染み渡る、濃厚なカボチャのポタージュのベース。
仕上げに生クリームを回し入れ、火を止めて保温鍋の中へと移した。
これで、いつ彼が帰ってきても、温め直すだけで熱々のスープを差し出すことができる。
さらに、栞は木製のボウルを取り出し、冷たい無塩バターと小麦粉、ベーキングパウダーを指先ですり合わせ始めた。
サラサラとした粉チーズのような状態になったところで、たっぷりのすりおろした熟成チーズと、粗挽きの黒胡椒を惜しげもなく投入する。
冷たい牛乳を少しずつ加え、練らないように、カードを使ってサクサクと生地を折り畳むようにまとめていく。
ラップに包み、冷暗所へと置いた。
男が扉を叩いた瞬間に、スキレットに並べて弱火で焼き上げれば、十分足らずで外はカリッと香ばしく、中は熱々とろとろのチーズが溶け出す、最高のチーズスコーンが焼き上がる手筈だ。
準備は、すべて整った。
作業を終えた栞は、深く息を吐き、薪ストーブの真正面に置かれた革張りソファへと腰を下ろした。
「ピィ……」
膝の上に、ポムがふわりと降りてきた。
小さな妖精は、栞の温かな膝の上で丸くなり、四枚の羽を畳んで静かに目を閉じた。
栞はポムの柔らかな背中を、指先でそっと撫で続けた。
静かだった。
ストーブの中で樫の薪が爆ぜる音。
壁の古時計が刻む、チク、タク、チク、タクという冷徹なまでのリズム。
そして、窓の外から時折届く、地鳴りのような遠雷の轟き。
栞は右手で、黒髪のサイドに挿した星屑のヘアピンをそっと撫でた。
冷涼な銀の感触。
夜番の寒さに耐え、凍える指先でこの繊細な細工を削り出した、あの男の無骨な掌。
――届いてくれただろうか。
ダミアンは、無事にあの地獄の峡谷へ辿り着けただろうか。
特製ブラウニーを、あの男は口にしてくれただろうか。
熱いマンデリンの苦味と香りが、あの男の張り詰めた神経を、少しでも解きほぐしてくれただろうか。
祈るような想いが、胸の奥底を締め付ける。
かつて、オフィスで働いていた頃の自分にとって、「待つ」という時間は、ただただ苦痛で、無為な消耗でしかなかった。
遅延した満員電車をホームで待つ時間。
他部署の身勝手な書類の差し戻しを待つ時間。
理不尽な叱責に耐えながら、定時の鐘が鳴るのを待つ時間。
それは、他人に自らの時間を奪われ、すり減らしていくだけの空虚な空白だった。
けれど、今、この山小屋で過ごす「待つ」という時間は、全く違っていた。
それは、信じることだった。
過酷な戦場で命を懸ける男を、自分の命よりも大切な存在を、ただひたすらに、揺るぎない確信を持って信じ抜くための、重たく、けれど尊い祈りの時間。
柱時計の長針が、文字盤を何度も巡っていく。
夜が更け、深夜を回り、薪ストーブの火が熾火へと変わるたびに、栞は立ち上がって太い樫の薪をくべ直した。
テラスのランタンの油量を確かめ、芯を整える。
やがて――。
テラスのカーテンの隙間から、青白い光が差し込み始めた。
夜が明け、朝が訪れたのだ。
けれど、それはいつものような、黄金色の木漏れ日が降り注ぐ美しい森の朝ではなかった。
上空を覆う黒煙に遮られ、太陽は鉛色の空の向こうでぼんやりと滲むだけの、重苦しい灰色の夜明け。
冷たい霧が木々の間を這い回り、遠くの峡谷からは、依然として断続的な地鳴りと金属の激突音が響き続けていた。
丸一日、栞は一睡もしていなかった。
けれど、その瞳に疲労の色は微塵もなかった。
裏の清流から新しい水を汲み、銅製ケトルで湯を沸かす。
セレス草のドライハーブをひとつまみ落とし、熱いハーブティーを淹れて喉を潤す。
昼が過ぎ、太陽が天頂を越え、再び光が西へと傾き始める。
森の木々は相変わらず不気味にざわめき、突風がテラスのランタンを揺らす。
ダミアンたちに物資を託してから、早くも丸二十四時間が経過していた。
戦闘は、まだ続いているのか。
それとも――。
不安が、冷たい蛇のように足元から這い上がろうとするたび、栞は胸元のヘアピンに触れ、強く、強く首を振った。
――大丈夫。あの人は、絶対に負けない。
――必ず、ここへ帰ってくる。
夕暮れが訪れた。
灰色の空が、ゆっくりと深い紫紺の帳へと沈み込んでいく。
山小屋のテラスに吊るされたランタンが、二度目の夜を迎えるために、再び琥珀色の光を強く灯し始める。
――その、瞬間だった。
――……スッ……。
「…………え?」
栞の身体が、ピキリと直立するように硬直した。
何かが、変わった。
音だ。
丸一日、昼夜を問わず足元の床板を震わせ、大気を軋ませ続けていたあの不快な重低音。
地脈の底から響いていた無数の魔獣たちの咆哮と、金属の破砕音が――。
まるで、巨大な舞台の幕が一瞬にして振り落とされたかのように。
ぷつりと、途絶えたのだ。
「ピィッ……!?」
膝の上で微睡んでいたポムが、弾かれたように顔を上げ、四枚の羽をピンと逆立ててテラスの方角を凝視した。
静寂。
それは、恐ろしいほどの、完全な静寂だった。
風の音すら止んでいた。
木々を揺らす葉擦れの音も、せせらぎの飛沫の音すらも吸い込まれてしまったかのような、息の詰まる沈黙。
終わったのだ。
峡谷の戦いが、決着を迎えた。
――けれど、どちらが勝ったのか?
防衛隊が魔獣の大群を押し返したのか。
それとも――第一防壁が完全に粉砕され、すべての兵士たちが呑み込まれてしまったのか。
沈黙の重みが、鉛のように栞の胸の上にのしかかる。
心臓の鼓動だけが、トクン、トクン、トクンと、耳の奥で激しく鳴り響いていた。
栞はソファから立ち上がり、テラスの掃き出し窓へと歩み寄った。
カーテンの隙間から、外を窺う。
暗黒の原生林。
テラスのランタンが落とす琥珀色の光の円の向こうは、底知れない闇が広がっているだけだった。
動くものは、何ひとつない。
草木の一本すら揺れない静寂の中、柱時計の音だけが、無慈悲に時を刻み続けていた。
一分。
十分。
三十分。
一時間が経過し、夜の気流が山小屋の周囲を氷のように冷やしていく。
栞は動かなかった。
窓辺に立ったまま、暗闇の森の奥を、瞬きすら惜しむように見つめ続けていた。
そして――。
時計の針が、深夜の二時を指し示そうとした、その時だった。
――サクッ。
「…………っ!」
栞の息が、喉の奥で止まった。
聞こえた。
前庭の、枯れ葉を踏みしめる微かな音。
風の悪戯ではない。
小動物の軽やかな足取りでもない。
――ズザッ……、ズザリ……。
それは、泥で何倍にも重くなった鉄の塊を引きずるような、酷く緩慢で、重たい足音だった。
一歩、また一歩。
途中で足がもつれ、立ち止まり、荒い呼吸を整える気配。
そして、再び、一歩。
暗闇を押し分け、ランタンの光の輪の中へと、ひとつの巨大な影が、ふらふらと足を踏み入れてきた。
――ギシィ……。
テラスの木製階段の、一番下の段。
そこへ重たい軍靴が乗せられた瞬間、乾いた木材が、軋むような悲鳴を上げた。
――ギシリ……、ギシリ……。
一段、また一段。
全身の体重を預けるようにして、階段を這い上がってくる、重厚極まりない足音。
栞の心臓が、破裂せんばかりに跳ね上がった。
迷いなど、一秒たりともなかった。
栞はリビングを駆け抜け、正面入り口の重たい樫のドアへと取りすがると、鉄の閂を、力任せに跳ね上げた。




