第53話:隊長への託し物
「一人で……食い止めている……?」
栞の唇から漏れ出たその声は、あまりの衝撃に掠れ、自分自身の耳にすら届かないほど小さかった。
補給小屋の薄暗がりの中、カセットコンロの青い炎がチリチリと微かな音を立てて揺れている。先ほどまで満ちていたポトフの湯気の温もりさえ、一瞬にして凍りついてしまったかのように、栞の全身の皮膚が粟立った。
ダミアンは、泥と血に汚れた拳をギリギリと音を立てて握りしめていた。爪が掌の肉に食い込み、滲んだ血が手甲の隙間からポトリと土間へ落ちる。
「北の第一防壁が……魔獣の巨角猪の突進で、基礎ごと吹き飛ばされたんす」
ダミアンの声は、悔しさと恐怖で小刻みに震えていた。
「防壁に巨大な裂け目が空いて、そこから何百もの魔獣が雪崩れ込もうとした……。あそこを突破されたら、防衛線は総崩れになって、後方の砦も、この森も、王国本土の平原まで一気に蹂躙される。……その時、隊長が……」
ダミアンは喉を詰まらせ、激しく息を吸い込んだ。
「隊長が一人で、防壁の天辺から峡谷の底へ飛び降りたんです。あの巨大な両手大剣を岩盤に突き立てて、たった一人で狭窄部の隘路に仁王立ちになって……『ここは一歩も通さん。後退は許さん』って……。俺たちに、防壁の修復と、下がって交代で息を整えるよう命令を下して……ご自分だけ、あの地獄の底に残り続けてるんすよ!」
「そんな……!」
栞の視線が、補給小屋の壊れた窓枠の向こう――遠く北の空へと向かった。
黒煙が渦巻く空の彼方、数キロメートル先にある断崖絶壁の峡谷。
――ズゥゥゥン……、ズズズズ……。
大気を震わせる重低音は、今も途切れることなく響いていた。
あの音の発生源。怪物の爪と牙が雨あられと降り注ぐ血煙の底で、あの男は今この瞬間も、たった一人で立ち塞がっているのだ。
「丸一日……水の一滴すら口にしていません」
後ろに控えていたリュカが、包帯を巻いた腕を胸元で抱え込みながら、絞り出すように呟いた。
「俺たちが交代で下がる間も、隊長はずっと……最前線で大剣を振るい続けてるんです。魔獣の返り血を全身に浴びて、鎧は砕けかけて……呼吸をするたびに、肺から血の混ざったヒューヒューって音が漏れてて……。それでも、俺たちを死なせないために、たった一人で……!」
「このままじゃ……隊長が力尽きちまう……!」
マークが太い腕で目を覆い、嗚咽を漏らした。
「いくら『氷の番犬』だって……あんなの、生きて耐えられる限界を疾うに超えてるっすよ……!」
「…………っ」
栞の奥歯が、カチリと音を立てて噛み合わされた。
あの男の顔が、鮮烈に脳裏をよぎる。
山小屋のテラスに仁王立ちになり、抜き身の大剣を地面に突き立てて、血走った銀の瞳で自分を睨み据えていた姿。
『あんたに何ができる!? 木の実を摘み、菓子を焼き、安全な場所で珈琲を淹れることしか知らぬ他国の女が、戦場で何の役に立つというのだ!!』
『二度と、こちらの世界へは来るな』
残酷な拒絶の言葉。
けれど、その言葉の裏側に隠されていたのは、己の命など最初から勘定に入れず、ただ大切な者を守り抜くためなら、喜んで自らを盾にして砕け散ろうとする――あまりにも不器用で、悲痛なまでの自己犠牲だった。
――ふざけないで。
栞の胸の奥底で、熱いものが激しく弾け飛んだ。
悲しみでも、絶望でもない。
それは、あの頑固で、誰にも背中を預けようとしない大男に対する、猛烈な怒りと、それを遥かに凌駕する激情のような愛おしさだった。
――誰が死なせるもんですか。
――誰が、あなた一人を冷たい泥の底に置いていくもんですか。
私が直接、あの峡谷へ走っていきたい。
今すぐにでも鍋を抱え、あの男の元へ駆けつけて、熱々のスープを口にねじ込んでやりたい。
けれど――栞は踏み出しかけた足を、グッと自制の力で踏み止まらせた。
冷静にならなければならない。
感情に任せて足を踏み入れれば、自分は一瞬で魔獣の餌食になり、レオンハルトの集中を乱し、かえって彼を死地に追いやる足手まといになるだけだ。
大人の女性として、今、自分が果たすべき役割は何か。
現場で戦うことではない。
現場で命を張る男たちに、最高の『命の弾薬』を託すことだ。
栞は顔を上げ、目の前に立つ赤毛の副官を見据えた。
スープとブラウニーを胃袋に収め、血色を取り戻したダミアン。その瞳には、先ほどの虚ろな絶望は消え去り、隊長を救い出さねばならないという、血吐くような忠誠と覚悟が宿っていた。
「……ダミアンさん」
「は、はい……!」
「今から、レオンハルトさんの元へ戻るのね?」
「当たり前です! 腹に力が入ったんだ、今度こそ俺が隊長の盾になって、あの人を引きずり倒してでも休ませてみせます!」
「なら、これを持って行って」
栞は踵を返し、作業台へと向かった。
白木箱の蓋を開ける。
そこに並んでいたのは、百二十本のブラウニーバーの中でも、天板の最も中央――熱の通りが最も穏やかで、発酵バターとクーベルチュールチョコレート、そして砕いたナッツとルミナスベリーのドライ果実が、信じられないほどの高密度でぎっしりと凝縮された『特大の極厚ブラウニーバー』だった。
焼き上がりの際、あまりの重厚さに栞自身が「これは特別ね」と印をつけておいた、極上の五本。
ワックスペーパーの上から麻紐で頑丈に束ねられたそれを、栞は迷わず掴み取った。
さらに、ボトルケースから、琥珀色に輝く特製ビネガードリンクのボトルを一本引き抜く。
ポムが持ち帰ってくれたあのビタ草の濃厚エキスに、三年熟成の純玄米黒酢、純リンゴ酢、そして霊蜂の生ハチミツを極限の濃度でブレンドした、奇跡の疲労回復シロップ。
激戦で水分とアミノ酸を失い、乳酸で硬直した筋肉を、内側から強制的に蘇生させるための特効薬。
そして――。
栞の視線は、作業台の端に置かれていた、ひとつの円筒形の物体へと落ちた。
それは、古民家の土間から持参していた、祖父の形見の『大型ステンレス真空断熱ボトル』だった。
極めて頑丈な二重構造を持ち、どんな過酷な吹雪の中でも、半日以上にわたって内部の熱湯を沸騰直前の温度に保ち続ける、業務用のタフな水筒。
栞はカセットコンロの上の銅製ケトルを見つめた。
中には、山小屋の裏手から汲んできた、あの奇跡の超軟水が、シュンシュンと勢いよく白い湯気を噴き上げている。
栞は棚から、あの漆黒のキャニスターを手に取った。
――『マンデリン・フレンチロースト』。
インドネシアの大地が育んだ、極限まで深く焙煎された漆黒の珈琲豆。
あの雨の午後。
ずぶ濡れになって凍え、山小屋の薪ストーブの前で弱音をこぼしたレオンハルトに差し出した、あの一杯。
大地のような力強い苦味と、キャラメルのような奥深いコク。
一口啜るだけで、凍てついた心を解きほぐし、重たい甲冑を脱ぎ捨てて「ただの美味しいものが好きな男」に戻れる、あの味。
「……待ってて、すぐ淹れるから!」
栞は手挽きミルに、通常の三倍――四十グラムを超える深煎り豆を豪快に流し込んだ。
ハンドルを握り、力任せに、けれど正確な回転で回し始める。
――ゴリッ、ゴリゴリ、ガリリリリ……!
静かな補給小屋の中に、硬質な豆が砕け散る重厚な音が響き渡る。
ダミアンをはじめとする兵士たちが、息を呑んでその光景を見つめていた。
排出口から溢れ出してきたのは、焦がしカラメルと湿った大地の野性味あふれるアロマ。
硝煙と泥の悪臭に満ちていた小屋の空気が、一瞬にして、あの温かな森のカフェの空気へと塗り替えられていく。
陶器の大型ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、山盛りの粉を移す。
真ん中にくぼみを作り、沸騰したばかりの熱湯を、細口のノズルから真下へと静かに落とした。
――ジュゥゥゥ……。
漆黒の粉が熱湯を抱き込んだ瞬間、まるで眠っていた竜が目覚めたかのように、もこもこと巨大なドーム状に膨らみ上がった。
立ち上る真っ白な蒸気。
きめ細かな深い琥珀色の泡が幾重にも波打ち、新鮮な豆の放つ力強いガスが弾ける。
三十秒の蒸らし。
そこから、栞は迷いのない円を描きながら、途切れることのない湯の筋を落とし続けた。
通常のドリップよりも遥かに濃厚に。
極限の疲労と血煙の中にいる男の舌を、一口で鮮烈に目覚めさせるための、極限のエスプレッソ仕立ての濃厚ドリップ。
サーバーの底に、底知れぬ闇を溶かし込んだような、黒褐色の重厚な雫がタプタプと満ちていく。
栞は熱湯で予熱しておいたステンレスボトルの湯を捨てると、落としたての熱いマンデリンを、注ぎ口から一滴もこぼさず一気に流し込んだ。
――トトトトトッ……!
ボトルから立ち上る、暴力的なまでの芳醇な湯気。
内蓋をきつく締め、頑丈な外蓋をカチリと回して密閉する。
外側は冷たいステンレスの感触。
けれど、その内部には、百度近い沸騰の熱気と、栞の魂のすべてを注ぎ込んだ、世界で一番温かい一杯が封じ込められていた。
「よし……!」
栞は息を吸い込み、三つの品を作業台から抱え上げた。
五本の特大ブラウニーバーの束。
琥珀色のビネガードリンクのボトル。
そして、熱々の深煎りマンデリンが詰まった、重厚なステンレス水筒。
栞は迷いのない足取りで、ダミアンの前へと歩み寄った。
そして――。
ダミアンの泥にまみれた両手を強引に引き寄せると、その無骨な手のひらの中に、三つの塊を、これでもかというほどの力で押し付けたのだ。
――ズシリ。
ダミアンの両腕に、確かな重みが落ちた。
「シオリ……さん……?」
ダミアンが目を丸くして見下ろす。
栞は引いた手を、そのままダミアンの泥に汚れた分厚い手甲の上へと重ねた。
ぎゅっ……と、指先が白くなるほどの強い力で、男の手を握りしめる。
ダミアンの身体が、ビクリと震えた。
手袋越しに伝わってくる、女性の温かな手のひらの熱。
栞は一歩踏み込み、ダミアンの鳶色の瞳を、逃げ場のないほどの至近距離から、真正面で見つめ返した。
その瞳には、涙の一滴も浮かんでいなかった。
そこにあったのは――。
理不尽な運命にも、押し寄せる魔獣の津波にも、決して屈することのない、大人の女性としての凛とした、美しく猛々しいまでの覚悟だった。
「ダミアンさん」
栞の声は、低く、けれど雷鳴のように澄み切って、小屋の中にいる全兵士の耳朶を貫いた。
「これ、絶対に……何があっても、レオンハルトさんに届けてください」
「…………っ!」
「ブラウニーは、泥の手袋のまま紙を押し下げて、無理やりにでも口に押し込んで。ビネガードリンクを飲ませて、そして……この水筒の珈琲を、最後の一滴まで喉に流し込ませてください」
栞は言葉を切り、さらに強くダミアンの手を握りしめた。
祈るように。
けれど、決して弱音を許さない、絶対の軍令のように。
「そして……伝えてください」
栞の唇が、かすかに震えた。
けれど、紡ぎ出された言葉は、どこまでも澄み渡り、力強かった。
「『山小屋を温めて、ずっと待っています』って」
「………………ッッ!」
ダミアンの息が、喉の奥で止まった。
山小屋を温めて、ずっと待っている。
二度と来るなと突き放した男へ向けられた、完璧な返答。
あんたがどんなに頑なに拒絶しようと、どんなに一人で死地へ飛び込もうと、私は逃げない。
あんたの帰る場所を、温かな火を灯して、美味しいご飯を用意して、私が守り抜いて待っているのだ、と。
その言葉の奥底に込められた、途方もない信頼と愛情の重みに、ダミアンの胸が激しく打ち震えた。
男の目頭に、再び熱い涙が滲みかける。
けれど――ダミアンは奥歯を砕けんばかりに噛み締め、その涙を力づくで呑み下した。
男の顔から、迷いが完全に消え去った。
ダミアンは胸元に抱えた三つの品を、自らの命よりも重い宝物のように抱きかかえると、背筋をピンと伸ばし、誇り高き騎士の敬礼を胸の前で打ち鳴らした。
――ガシャンッッ!!
鋼鉄の手甲が打ち合わされ、硬質な火花が散る。
「必ず……っ!」
ダミアンの口から放たれたのは、地を割るような咆哮だった。
「必ず、隊長の手へ届けます!! この命に代えても……あの人の喉に、シオリさんの珈琲を流し込んでみせます!!」
「頼みましたよ、副官さん」
栞が微笑むと、ダミアンは踵を返し、小屋の中にいた兵士たちへと向き直った。
「全員、聞いたなッッ!!」
ダミアンの怒号が轟く。
「俺たちの胃袋には今、シオリさんの最高の飯が入ってる! 全身の血が燃え滾ってるはずだ! ……隊長を、あんな地獄の底に一人で残しておいて、何が第三小隊だ! 何が王国の騎士だ!!」
兵士たちの瞳に、凄まじい炎が宿った。
リュカが折れかけた腕を固く握り締め、マークが折れた槍の柄を地面に突き立てて吼える。
「「「うおおおおおおおおおおおおおおっっっっっ!!!!」」」
小屋が震えるほどの鬨の声。
飢えと恐怖で死にかけていた兵士たちは、もはやどこにもいなかった。
温かなスープと肉で五臓六腑を満たし、ブラウニーの糖分で脳を覚醒させ、守るべき存在の温もりを胸に宿した――最強の戦士たちの群れが、そこにいた。
「隊長を助けに行くぞ!! 防壁を死守し、魔獣どもを皆殺しにするぞッッ!!」
「「「応ッッッ!!!!」」」
ダミアンを先頭に、兵士たちは嵐のような勢いで補給小屋の扉を蹴破り、外へと飛び出していった。
石段を駆け上がり、防壁の向こう――死線が渦巻く北の峡谷へと、一直線に駆け戻っていく足音。
泥を跳ね上げ、武器を打ち鳴らしながら遠ざかっていくその背中は、夕闇の黒煙を切り裂く稲妻のように、どこまでも力強く、頼もしかった。
――バタン。
開け放たれた扉が風に揺れ、小屋の中に静寂が戻った。
栞はしばらくの間、彼らが駆け抜けていった入り口の空間を、じっと見つめていた。
手のひらに残る、ダミアンの手甲の冷たさと、確かな男たちの熱気。
――届け。
栞は胸元に手を当て、祈った。
あの不器用な男の元へ。
凍え、擦り切れ、孤独に戦い続けるあの男の魂へ、私の淹れた珈琲の香りが、温もりが、届いてほしい。
「ピィ……」
窓枠から降りてきたポムが、栞の肩の上へとそっと寄り添った。
エメラルドグリーンの羽を小さく震わせ、まるで「大丈夫だよ」と励ますように、栞の首筋に額をすり寄せてくる。
「……ありがとう、ポム」
栞は深呼吸をひとつすると、素早く小屋の片付けに取りかかった。
残った木皿をまとめ、空になったクーラーボックスを閉じる。
ここに長居はできない。
戦場が近いこの場所は、いつ魔獣の別動隊が雪崩れ込んでくるか分からない危険地帯だ。
何より――自分には、果たすべき「次の約束」があるのだ。
山小屋を温めて、ずっと待っている。
あの言葉を口にした以上、自分は一分一秒たりとも無駄にはできない。
男がいつ帰ってきてもいいように。
傷つき、満身創痍で扉を叩いたその瞬間に、いつでも彼を温かく迎え入れられるように、山小屋を万全の態勢で整え直さなければならないのだ。
軽くなった荷物を両手に抱え、栞は補給小屋の扉を静かに閉ざした。
外は、完全に宵闇に沈んでいた。
黒煙の向こう、北の空には遠雷のような閃光が走り、魔獣の咆哮が地を揺らし続けている。
けれど、栞の足取りに、怯えは微塵もなかった。
「帰りましょう、ポム。……私たちの、山小屋へ!」
秋の冷たい夜風を切り裂き、栞は小さな案内人とともに、原生林の獣道を、山小屋へと向かって急ぎ足で駆け戻っていった。




