第52話:泥の中のオアシスと、ダミアンの涙
原生林を覆う黄昏の帳は、北の空から立ち上る幾筋もの黒煙によって、絵の具を溶かしたように毒々しい灰紫色へと濁り果てていた。
――ヒュウゥゥゥ……と、湿った冷気が梢を吹き抜け、枯れ葉が冷たい雨粒のようにパラパラと降り注ぐ。
空気の底には、焦げた土と樹皮の悪臭、そして獣の吐瀉物にも似た冷たい瘴気の匂いが、重く澱んでいた。遠く、数キロメートル先にある北の峡谷の防壁の方向からは、大気を震わせる巨大な地鳴りと、鋼鉄と爪が衝突する甲高い衝撃音、そして魔獣たちの耳障りな咆哮が、途切れることなく風に乗って地表を揺らし続けていた。
そんな黄昏の死線を、相沢栞は懸命に走り抜けていた。
本来であれば八十キロを超えるはずの荷物――特製ポトフを隙間なく詰め込んだ大型高断熱クーラーボックス、百二十本のブラウニーバーが整然と眠る二つの白木箱、そして琥珀色の特製ビネガードリンクが詰まったボトルケース。
それらは、先頭を飛ぶポムが放つエメラルドグリーンの燐光に包まれ、まるで綿毛のように重量を失っていた。背中に背負ったベルトも、両脇に抱えた木箱も、走る栞の足取りを何ひとつ妨げることはない。
「ピィッ! ピキャッ!」
前方を舞うポムが、焼け焦げた羽の端を微かに光らせながら、鋭く鳴いて進路を示した。
魔獣の斥候が潜む本道を避け、古くから森の精霊だけが知る険しい獣道。絡み合う蔦をくぐり、泥のぬかるんだ斜面を滑り降りると、やがて視界の先、鬱蒼とした針葉樹の切れ目に、石造りの防壁の裏側がぼんやりと姿を現した。
アクスベル王国辺境警備隊――第三小隊が守備する、北の峡谷前哨基地。
その防壁の最下層、本来は食糧や矢弾を一時的に集積しておくための「後方補給小屋」が、木立の影にひっそりと佇んでいた。
半ば地面に埋もれるように作られた頑丈な丸太組みの小屋。
だが、その周囲には人の気配が一切なかった。
本来駐屯しているはずの輜重兵の姿はなく、荷車は車輪を外されたまま泥の中に打ち捨てられ、扉は半開きになったまま軋んでいる。街道を魔獣の別動隊に断たれ、送られてくるはずの物資が途絶えたため、この場所を守る人員すら前線の防壁へと駆り出されてしまったのだ。
「……ここね」
栞は息を整えながら、半開きの木製ドアを押し開けて小屋の中へと滑り込んだ。
中は薄暗く、外気よりもさらに数度冷え切っていた。
吹き込んだ泥水が床に乾いた跡を作り、空っぽになった木箱や麻袋が散乱している。棚の上には、石炭のようにカチカチに硬くなった乾パンの欠片と、干からびた塩漬け肉の切れ端が、埃をかぶって転がっているだけだった。
本当に、何もかもが尽きかけている。
この寒さと薄暗がりの中で、彼らは何日も飢えと戦いながら、あの凶暴な怪物の大群を押し留めていたのだ。
「ポム、入り口を見張っていて。すぐに温めるわ!」
「ピィ!」
ポムが小屋の壊れた窓枠に止まり、外の気配を伺う。
栞は持参してきたオフグリッドの調理器具を、小屋の頑丈な作業台の上へ目にも留まらぬ速さで展開した。
ポータブルカセットコンロを二台並べ、ツマミを捻る。
――ボッ、ボッ!
青い炎が立ち上がり、薄暗い補給小屋の中に温かな光を投げかけた。
水を入れた広口の浅鍋をコンロにかけ、沸騰させる。
そして、大型クーラーボックスのバックルを跳ね上げた。
――フワァッ……!
密閉蓋を開けた瞬間、高断熱の内部から溢れ出してきたのは、古民家で仕込んだあの濃厚極まりないポトフの、熱々の蒸気だった。
真空パックされた袋は、何時間も経っているにもかかわらず、手で触れると火傷しそうなほどの熱を完璧に保っていた。
栞はさらに熱々の状態を極限まで引き上げるため、沸騰した湯の中に真空パックを二袋ずつ投入し、湯煎で芯まで沸き立たせる。
並行して、もう一台のコンロに置いた平鍋で、持参した二十個以上の特製木皿を湯気で温め始めた。
冷えた器に注げば、料理の命である温度が一瞬で奪われてしまう。泥の中で凍えきった兵士たちに、最初の一口から最後の一滴まで、喉を焼き切るほどの熱量を届けるための、妥協なき下準備。
そして、白木箱の蓋を開け放つ。
ワックスペーパーに包まれた、百二十本の特製ブラウニーバー。
さらに、琥珀色の特製ビネガードリンクを満たした十本のボトル。
小屋の隙間から吹き込む冷たい風を押し返すように、濃厚なカカオの甘み、炒めニンニクとクミンの野性味あふれるスパイシーな香り、そして豚肉の脂と野菜が溶け合った重厚な湯気が、補給小屋の隅々へと満ち満ちていった。
その時だった。
――ザッ……ズザッ……、ガシャリ。
防壁へと続く石段の向こうから、泥を引きずるような、酷く重たく不揃いな足音が近づいてきた。
「…………っ!」
栞の背筋が跳ね上がる。
窓枠のポムが「ピィッ!」と小さく鳴き、敵ではないことを知らせるように羽を揺らした。
小屋の半開きの扉の隙間から、外を窺う。
そこに現れたのは――防壁の最前線から、一時的な交代を命じられて後方へ下がってきたのであろう、十数名の兵士たちの姿だった。
栞は息を呑み、思わず両手で口元を押さえた。
あまりの痛ましさに、胸が張り裂けそうになった。
先頭を歩いていたのは――あの赤毛の副官、ダミアンだった。
けれど、以前山小屋で「シオリさぁぁん!」と快活に笑い、オムライスを頬張っていたあの面影は、どこにもなかった。
身にまとった黒革の鎧は、鋭利な爪によって幾重にも引き裂かれ、肩当ての金属板は叩き潰されたように歪んでいる。
頭から爪先まで、飛び散った泥と、魔獣の粘り気のある黒い返り血がびっしりとこびりつき、赤毛の髪は煤と血糊で固まり、顔の半分が黒ずんでいた。
手にした長剣の刃は、骨を断ち切る衝撃でノコギリのようにボロボロに刃こぼれし、それを握る革手袋は、指先が擦り切れて自らの血が赤黒く滲んでいる。
そして、何より――その『瞳』だった。
かつて少年のように輝いていた鳶色の双眸は、光を完全に失い、底なしの暗闇のように虚ろだった。
連日の不眠不休。
仲間が次々と引き裂かれていく極限の恐怖。
尽きかけた矢弾、乾ききった喉、そして胃壁を自ら消化してしまいそうなほどの飢餓感。
死の淵に立った人間だけが浮かべる、生への執着すら手放しかけた、幽霊のような虚脱。
ダミアンの背後に続く兵士たちも、同様だった。
包帯を巻き直す余裕すらなく、血の滲んだ布を腕や太ももに巻きつけた若い兵士たち。その中には、以前キッシュを食べて涙を流していた、あのリュカとマークの姿もあった。
リュカは怪我をした右腕をかばう力すら残っていないのか、力なく腕を垂らし、マークは折れかけた槍を杖代わりにしながら、一歩進むごとに苦痛に顔を歪めている。
誰も、言葉を発しない。
ただ、泥で重くなった足を機械的に前へと踏み出し、冷たい地面に倒れ込む場所を探しているだけの、壊れかけた操り人形の行進。
――だが。
補給小屋の十数歩手前まで辿り着いたその瞬間。
先頭を歩いていたダミアンの足が、ピクリと止まった。
――スゥ……。
男の鼻腔を、冷たく淀んだ瘴気の風を切り裂いて、一条の「あり得ない空気」が貫いたのだ。
それは、硝煙と血生臭い泥の中で、決して漂ってくるはずのない匂いだった。
香ばしく炒められたニンニクと生姜。
鼻腔をツンと刺激し、胃袋の奥底を直接鷲掴みにするような、力強いクミンと黒胡椒のスパイス。
豚肉の濃厚な脂の甘みと、じっくり煮崩れた根菜の優しい湯気。
そして、冷涼な風の奥から微かに漂う、甘くほろ苦いビターチョコレートと発酵バターの、目も眩むような芳香。
「…………な……?」
ダミアンの喉から、ひび割れた掠れ声が漏れ出た。
男は首をぎぎぎと油の切れた機械のように巡らせ、視線を彷徨わせた。
幻覚か。
飢えと疲労のあまり、死ぬ間際の脳が見せている都合のいい夢なのか。
だが、その香りはあまりにも生々しく、濃厚に、鼻腔から気道を通って、凍りついていた五臓六腑を直接揺さぶり起こしていた。
背後の兵士たちも、次々と足を止めた。
「な、なんだ……この匂い……」
「肉……? 煮込みの……匂い……?」
虚ろだった兵士たちの瞳に、信じがたいものを見るような、微かな動揺の光が灯る。
ダミアンの足が、ふらふらと、吸い寄せられるように補給小屋のドアへと向かった。
泥まみれの軍靴が、床板を踏む。
そして――。
薄暗い小屋の奥、湯気を立ち上らせるカセットコンロの前に立ち、藍染めのエプロンをきゅっと引き締め、温かな眼差しで自分を見つめている人物の姿を捉えた瞬間。
ダミアンの全身が、落雷に打たれたかのように硬直した。
「…………シ……オ……リ……さん……?」
信じられない、信じられるはずがない。
ここは、地獄の最前線だ。
隊長が「二度とこちらの世界へ来るな」と扉を閉ざさせ、安全な別世界へと帰したはずの、あの華奢な女性。
その人が、なぜ、こんな泥と血煙が渦巻く前哨基地の片隅で、湯気の立つ鍋の前に立っているのか。
栞は一歩、歩みみ出た。
その瞳には、恐怖も怯えもなかった。
ただ、命を削って戦い抜いてきた男たちを、その傷跡ごと丸ごと抱き留めようとする、深い慈愛と覚悟だけが満ちていた。
「ダミアンさん」
栞の声は、驚くほど澄み切って、小屋の静寂に響き渡った。
「お腹……空いたでしょう?」
「………………ッッ!」
その言葉が耳朶を打った瞬間、ダミアンの奥歯が激しくガタガタと鳴り始めた。
栞は迷うことなく、温めておいた特製の木皿を手に取った。
湯煎で限界まで熱々に煮沸した真空パックの封を、ハサミで一気に切り落とす。
――ボワッッッッ!!
解き放たれたのは、黄金色の豚脂がキラキラと輝く、煮えたぎる濃厚ポトフだった。
木皿の上へ、一気に注ぎ入れる。
大人の拳大もある巨大な角切りベーコンが二塊、ゴロリと音を立てて落ちる。
黄金色に透き通った人参、スープに溶け崩れかけた玉ねぎ、そしてホクホクと湯気を放つ異世界の巨大な根菜。
そこへ、たっぷりの熱い濃厚スープがなみなみと満たされ、仕上げに粗挽き黒胡椒がガリガリと振りかけられる。
さらに、栞は白木箱から、ワックスペーパーで個包装された特製ブラウニーバーを二本、皿の脇に添えた。
木製のスプーンを添え、栞はその熱々の皿を、両手でしっかりと抱えてダミアンの前へと差し出した。
「さあ、冷めないうちに。……全部、食べて!」
目の前に差し出された、湯気を上げる黄金の皿。
熱気が、ダミアンの冷え切った鼻先と頬を包み込む。
ダミアンの震える手が、まるで何かに操られるように伸びた。
感覚を失い、感覚麻痺を起こしていた指先が、温められた木皿の底に触れた瞬間――。
――ジュワリ。
指先から手のひらへ、そして腕の血管を通って心臓へと、確かな『熱』が雪崩れ込んできた。
温かい。
痛いほどに、熱い。
泥の手袋を脱ぐことすら忘れ、ダミアンは震える指で木製スプーンを鷲掴みにした。
そして、皿の真ん中――黄金色のスープを、すくい取った。
息を吹きかける間すら惜しかった。
大口を開け、熱々の液体を、口の中へと一気に流し込んだ。
その瞬間――。
「………………ッッッッッッ!?!?!?」
ダミアンの喉仏が、激しく跳ね上がった。
言葉など、出なかった。
声にならない絶叫が、男の全身の筋肉をビキビキと硬直させた。
暴力的なまでの、旨味の奔流。
まず口蓋を焼いたのは、ガツンと効かせた力強い塩気だった。
汗と血とともに流れ出て、枯渇しきっていた全身の細胞が、その塩分を狂ったように吸収していく。
そして間髪入れずに押し寄せてきたのは、六キロの厚切りベーコンから溶け出した、濃厚極まりない豚肉の脂の甘みと、香味野菜の芳醇なコクだった。
クミンシードの爽快な刺激が、麻痺していた舌の味蕾を一瞬で叩き起こし、生姜とニンニクの熱が、食道を通って胃袋へと落ちていく。
――カァァァッッ!!
熱い。
何日間も、氷のように冷え切っていた胃の腑に、真っ赤に熾った炭を直接放り込まれたかのように、腹の底から猛烈な熱気が全身の血管へと吹き荒れていく。
「…………う……ぐ……っ!」
ダミアンはスプーンを放り出すと、皿に直接口をつけ、猛烈な勢いでスープを啜り始めた。
ゴクゴク、ゴクゴクと、喉を激しく鳴らしながら、煮えたぎるスープを胃袋へと流し込んでいく。
そして、歯を立てた。
巨大な角切りベーコンの塊。
――ジュワァッッ!!
スプーンの背で崩れるほどホロホロに煮込まれた豚肉が、前歯を立てた瞬間に繊維ごとにほどけ、中から閉じ込められていた熱々の肉汁と脂が、洪水のように口内へと溢れ出した。
甘い。肉が、脂が、信じられないほど甘い。
根菜は舌の上でプリンのようにとろけ、大地と湧水の滋養を余すところなく伝えてくる。
――ドサリッ。
次の瞬間、ダミアンの両膝が、耐えきれなくなったように泥の床へと崩れ落ちた。
膝をつき、両手で皿を抱え込んだまま、男の大きな肩が激しく波打ち始めた。
「う……うまい……っ! うまいっす、シオリさん……っ!」
ダミアンの鳶色の瞳から、大粒の涙が滝のように溢れ出し、煤けた頬の汚れを洗い流しながら、木皿の縁へとポロポロと零れ落ちていく。
「温かい……っ! 喉が……腹が……燃えるように温かい……っ! 俺……俺たち……生きてる……! まだ……生きてるっすよぉぉぉっ!!」
号泣。
二十四歳の青年騎士が、子供のように声を上げて泣きじゃくりながら、夢中でスープをかき込み、肉を貪り食っていた。
その光景を見た瞬間、小屋の入り口に立ち尽くしていたリュカとマーク、そして十数名の兵士たちが、堰を切ったように雪崩れ込んできた。
「俺にも……俺にも食わせてくれ……!」
「頼む……温かいものを……!」
「待って、全員の分があるわ! 慌てないで!」
栞は次々と真空パックを開封し、熱々のポトフを木皿へと注ぎ分けていった。
兵士たちの悴んだ手が、我先にと皿へと伸びる。
木皿を受け取った瞬間、ある者は立ったままスープを一気に飲み干して噎せ返り、ある者は壁に背中を預けて崩れ落ち、震える手でベーコンを口いっぱいに押し込んでいた。
「うわああああっ! 肉だ……! 本物の肉だ……!」
「人参が……甘い……! スープが身体に染み込んでいく……!」
「うまい……うまいよぉぉぉっ……!」
小屋の中が、啜り泣きと歓喜の咆哮で埋め尽くされた。
塩気とスパイスが、彼らの冷え切った内臓を芯から覚醒させていく。
さらに、栞は彼らの手元へ、特製ブラウニーバーを手渡していった。
「これも食べて! 泥の手袋のまま、紙を押し下げて齧り付いて!」
指示された通り、マークが片手で麻紐を引きちぎり、ワックスペーパーをグッと押し下げた。
現れたのは、黒光りする濃厚なブラウニーの塊。
マークは大口を開け、そこへ力任せに噛み付いた。
――ザクッッ!!
ナッツが砕け、凝縮された発酵バターとクーベルチュールチョコレートの濃厚な甘みが、爆風のように口内に広がった。
そして――奥歯で弾けたルミナスベリーのドライ果実から、稲妻のような鮮烈な酸味が弾け飛ぶ。
「…………っ、うおおおおおっ!?」
マークが目を見開き、頭を抱えた。
「あ、甘い……! 濃い……! なんだこれ、頭の芯が……殴られたみたいにスッキリする……!」
「ベリーの酸っぱさが……すげえ! 疲れて重たかった腕に……力が戻ってくるっす!」
百二十本のブラウニーバーが、まるで猛獣たちの群れに投げ込まれた肉のように、凄まじい勢いで消え去っていく。
さらに、栞が差し出したビネガードリンク――水で割った琥珀色の液体を喉へと流し込んだ瞬間、ビタ草の強烈なシトラスと黒酢のアミノ酸が、彼らの疲弊しきった筋肉の乳酸を、目に見えるような速度で洗い流していった。
奇跡だった。
ほんの十分前まで、死を待つ亡霊のようだった兵士たちの顔に。
みるみるうちに、生き生きとした鮮烈な血色が蘇っていた。
青白かった皮膚が赤みを帯び、虚ろだった瞳に、再び戦士としての獰猛で誇り高い光が爛々と燃え上がり始めたのだ。
「ふぅ……っ、ふぅ……!」
ダミアンは皿の最後の一滴まで舐め取るように平らげると、口元の油を腕で乱暴に拭った。
その呼吸は、先ほどの浅い喘ぎとは打って変わり、肺の底まで酸素を送り込む力強いものへと蘇っていた。
立ち上がるダミアン。
その背筋は一本の槍のように真っ直ぐに伸び、失われていた副官としての覇気が、全身から立ち昇っていた。
「……シオリさん」
ダミアンは深く息を吐き、栞の目を真っ直ぐに見つめた。
その目には、尽きることのない感謝と、敬意が満ちていた。
「救われました……。あなたのおかげで、俺たちは……もう一度、剣を握れる」
「よかった……本当によかった……」
栞は胸を撫で下ろし、涙ぐみながら微笑んだ。
だが――。
安堵した栞の胸に、ふっと、最も重要な疑問が突き刺さった。
小屋の中を見渡す。
十数名の兵士たち。ダミアン、リュカ、マーク。
けれど――その中に、あの人の姿がなかった。
あの、誰よりも巨大で、誰よりも頑固で、抜き身の大剣を握りしめて森へと駆けていった、漆黒の小隊長の姿が。
「……ダミアンさん」
栞の声が、微かに震えた。
「レオンハルトさんは……? レオンハルトさんは、どこにいるんですか……!?」
その問いが発せられた瞬間。
――ビキッ。
ダミアンの顔から、歓喜の笑みが完全に凍りついた。
男の表情が、一瞬にして絶望的な焦燥と恐怖へと塗り替えられる。
ダミアンは拳を血が滲むほど固く握り締め、北の峡谷――未だに激しい地鳴りと爆音を響かせ続けている、あの暗黒の空へと視線を向けた。
そして――。
喉を引き裂くような、悲痛な叫びを上げたのだ。
「隊長は……隊長はまだ、防壁の向こう……最前線の峡谷の底で、大型魔獣の群れを一人で食い止めてるっす!!」
「………………ッッ!?」
栞の息が、完全に止まった。
全身の血が、一瞬にして凍りつくような冷気が、足元から頭頂へと突き抜けていった。




