第57話:暖炉の火影と、騎士の告白
引き寄せられた栞の細い手首の向こうから、ドクン、ドクンと、力強く脈打つ熱い拍動が直に伝わっていた。
薄いリネンの肌着越しに触れる、レオンハルトの逞しい胸板。無数の死線を潜り抜け、極限の激戦を生き抜いた男の心臓が、まるでひとつの確固たる意志を叫ぶかのように、栞の指先を震わせている。
「レオンハルト……さん……」
栞の唇から、掠れた声が零れ落ちた。
至近距離で絡み合う視線。
煤と泥を拭い去られた男の端正な素顔は、ストーブの熾火が放つ赤々としたオレンジ色の光と、東の窓から忍び込んできた夜明けの薄青い光に半身ずつ照らし出されていた。
その銀の双眸は、濡れた長い睫毛の奥で、息を呑むほど澄み切っていた。かつて「氷の番犬」と恐れられていたあの刺すような冷徹さは一片たりともなく、ただ目の前にいる小柄な女性の姿を、自らの瞳の奥深くに焼き付けようとする、剥き出しの熱情だけが揺らめいている。
「ダミアンから……受け取った」
男の喉仏が、苦しげに、けれど慈しむように大きく上下した。
手首を握る男の大きな指先が、微かに震えている。
「峡谷の底で……第一防壁が砕かれ、押し寄せる巨角猪の群れに囲まれていた時だ。大剣の重みで両腕の感覚が麻痺し、膝が砕け、肺が焼けるように熱く、喉からは血の味しかしていなかった。……もう、ここまでかと思った」
男の口から語られる、地獄の最前線の記憶。
栞の胸が、ぎゅっと音を立てて軋んだ。
「その時……防壁の瓦礫を飛び越えて、あの馬鹿が……ダミアンが、血塗れの槍を振るいながら叫んで駆け込んできたのだ。『隊長! これを口にねじ込みやがれ! シオリさんからの言付けだ!』とな」
レオンハルトの薄い唇の端が、ほんのわずかに、愛おしそうに緩んだ。
「あの男は、泥の手袋のまま、あんたが持たせてくれたあの黒い菓子――ブラウニーを、俺の口へと強引に押し込んできた。噛みしめた瞬間……頭の芯を殴られたような衝撃が走った。口いっぱいに広がる濃密なカカオの苦味と、発酵バターの暴力的なまでの脂質、そして……あのルミナスベリーの鮮烈な酸味だ」
男の指先が、栞の手首を包み込む力を、じわりと強めた。
「空っぽだった胃袋に、火が点いた。麻痺していた思考が一瞬で覚醒し、全身の血管に、熱い血液が怒涛の勢いで逆流してきた。続けて流し込まれた、あのビタ草の酸っぱいシロップ……そして、鉄の水筒から注がれた、あの熱い深煎り珈琲だ」
マンデリンの苦味と、立ち上る大地の芳香。
血生臭い硝煙と泥のただ中で、その一杯は、男にとって何を意味したのか。
「舌が焼けるほど熱く、苦く、そして……どこまでも澄んだ香りが、喉を滑り落ちていった。……その瞬間、胸の奥底で、何かが激しく弾け飛んだのだ」
レオンハルトの瞳の奥に、猛烈な光が宿った。
男は自らの左手をゆっくりと持ち上げると、手首を掴んでいた右手と合わせるようにして、栞の柔らかな小さな手を、両手でそっと包み込んだ。
――ジュワリ。
男の熱い体温が、栞の手の甲と手のひらを完全に覆い尽くす。
指先を重ね合わせ、逃げ場のない、確かな熱の檻。
窓の外では、ゆっくりと、けれど確実に時間が進んでいた。
原生林を覆っていた濃密な黒煙は、夜明けの清冽な風に吹き払われ、東の地平線が白藍色から淡い茜色へとグラデーションを描き始めている。テラスのガラス戸を通して、薄青い、透き通るような朝の光が斜めに差し込んできた。
その冷涼な朝の光と、薪ストーブの温かなオレンジ色の火影が、ふたりが重ね合わせた手のひらの上で美しく交差する。
静寂。
柱時計のチクタクという規則正しい針の音と、薪ストーブの中で樫の薪が時折パチリと爆ぜる音だけが、どこまでも優しく響いていた。
「……シオリ」
レオンハルトが、低く、掠れた声音でその名を呼んだ。
普段の「シオリ殿」という他人行儀な敬称ではない。
ひとりの男として、ひとりの女の魂を直接呼び寄せるような、深々とした響き。
栞の心臓が、トクンと跳ね上がった。
「俺はな……ずっと、死に場所を探していたのだ」
男の口から零れ落ちたのは、自らの生を根底から呪ってきた、重たく暗い過去の残滓だった。
「王都のヴァルク侯爵家という檻の中で、俺は幼い頃から、父や親族たちの値踏みの視線に晒され続けてきた。兄との家督争い、取り巻き貴族たちの醜い足の引っ張り合い、笑顔の裏に隠された毒と刃。……誰ひとりとして、俺という人間そのものを見てはいなかった。ある者は俺を権力闘争の『駒』として利用しようとし、ある者は邪魔な『障害』として排除しようと画策した」
男の長い指が、栞の手の甲を、無意識に確かめるように優しく撫でた。
「あの邸宅にいた頃の俺は、息を吸うことすら苦痛だった。誰も信じられず、何ひとつ愛せず、ただ剣の腕を磨くことだけが、己の存在理由を繋ぎ止める細い糸だった。……だから、二十歳で家督を捨て、このアクスベル王国の最北端、誰もが嫌がる過酷な辺境警備隊へと志願したのだ」
死線の待つ辺境へ。
「王都の連中は、俺が名誉のために前線へ赴いたのだと噂した。だが……現実は違う。俺はただ、逃げ出したかっただけなのだ。あの腐りきった貴族社会から逃げ出し……いっそ魔獣の爪に喉笛を裂かれ、冷たい雪の中で名誉の戦死を遂げれば、すべてから解放されるのではないか、と。……俺は、自らの命を終わらせるための『都合のいい死に場所』を探して、この森へやってきたに過ぎなかった」
自嘲の混ざった告白。
けれど、その声音には、もう過去の毒に侵された暗さはなかった。
「だが、隊長という立場を背負わされた。百人の部下の命を預かり、あいつらを生きて故郷へ帰さねばならないという義務が、俺を縛り付けた。……だから俺は、感情を殺した。『氷の番犬』という仮面を被り、自らを血も涙もない防壁に変え、ただ任務を機械のようにこなす日々を送っていた。……いつ死んでもいい。あいつらを生かす盾となって砕け散るなら、それこそが俺の唯一の存在価値なのだと、本気で信じ込んでいた」
レオンハルトは一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
そして――。
栞の手を包み込んだ両手を、自らの胸元から、そっと自らの唇の高さへと引き上げた。
男の銀の瞳が、至近距離から、栞の顔を射抜くように見つめ据える。
逃げ場のない、嘘偽りの一切を許さない、極限の真実を宿した眼差し。
「――だが、あんたが現れた」
男の喉が、熱く震えた。
「この森の山小屋で……飢えと疲労で倒れ伏した俺に、あんたはおずおずと、淹れたての珈琲と焼きたてのスコーンを差し出してくれた。毒を疑う俺の前で、笑って見せながらな」
栞の脳裏に、あの日の光景が鮮やかに蘇る。
泥まみれで倒れ、鋭い目で睨みつけてきた大男。
警戒しながら口にしたスコーンのバターの香りに、目を見開き、張り詰めていた糸が解けるように完食した、あの不器用な姿。
「あのスコーンの温もりを、俺は一生忘れない」
レオンハルトの瞳に、熱い光が滲み出していた。
「生まれて初めてだった。誰かの下心も、家柄の打算も、戦士としての利用価値も関係なく……ただ、目の前で腹を空かせて倒れていた俺というひとりの人間に、あんなにも温かく、優しい食事を作ってくれた者は、俺のこれまでの人生に誰ひとりとして存在しなかった」
男の唇が、栞の重ねられた指先のすぐそばで、熱い吐息を漏らす。
「あんたの淹れてくれる珈琲を飲むたびに。あんたの作った料理を口にするたびに。……そして、あの雨の午後、『ここは鎧を脱いで、ただの美味しいものが好きな男に戻れる場所だ』と笑ってくれたあんたの言葉を聞いた時……俺の凍てついていた魂の底で、何かが完全に崩れ去ったのだ」
レオンハルトは、重ね合わせた栞の手の甲へと、自らの額をそっと押し当てた。
祈るように。
己の信じる唯一の神仏へと、魂のすべてを捧げる信徒のように。
「あいつが……ダミアンが、あの地獄の峡谷で、あんたの言葉を伝えてくれたのだ」
男の声が、微かに掠れ、震えた。
「『山小屋を温めて、ずっと待っています』とな」
「…………っ」
栞の目頭が、熱く痺れた。
伝わっていた。
あの一言が、あの命がけの祈りが、硝煙渦巻く戦場の底にいたこの男の耳に、確かに届いていたのだ。
「その言葉を聞いた瞬間……俺は、生まれて初めて……」
額を栞の手の甲に押し当てたまま、男の大きな肩が、激しく波打った。
「生まれて初めて、心の底から……『死にたくない』と願ったのだ」
「………………ッッ!」
栞の息が、喉の奥で止まった。
「死に場所など、どうでもよくなった。名誉の戦死など、反吐が出るほど欲しくなくなった。……生きたい。何千もの魔獣をすべて斬り伏せてでも、この血塗られた泥濘を踏み越えてでも……生きて、あの山小屋へ帰りたい。あんたの淹れてくれる温かい珈琲の元へ。あんたが迎えてくれる、あの柔らかな笑顔の元へ……絶対に、生きて帰らねばならないと、魂が絶叫したのだ」
男の熱い吐息が、栞の手の甲を包み込む。
ぽつり、と。
栞の手の甲に、熱い雫が一粒、落ちた。
それは、魔獣の返り血でも、冷たい夜露でもなかった。
誰にも弱みを見せず、「氷の番犬」として孤独に耐え抜いてきた男が、生まれて初めて流した、生の執着と歓喜の涙だった。
「あんたが……シオリ、お前が、俺を生かしてくれたのだ」
レオンハルトはゆっくりと顔を上げた。
その白皙の頬には、涙の濡れた筋が一条、静かに光っていた。
けれど、その銀の双眸には、もはや一片の迷いも、揺らぎもなかった。
窓から差し込む朝の光が、ふたりの姿を包み込んでいく。
夜明けの青い光はいつの間にか、温かな黄金色の陽光へと姿を変え、テラスの丸太の床を、そして室内の飴色に磨き上げられた床板を、眩いばかりに照らし出していた。
森の梢からは、嵐の去ったことを歓喜するように、小鳥たちの澄み切ったさえずりが幾重にも折り重なって響き始めている。
薪ストーブの火がパチリと爆ぜ、室内を満たす甘いカボチャと香ばしいチーズの残り香が、どこまでも優しくふたりの輪郭を包んでいた。
レオンハルトは、栞の両手を自らの胸の前でしっかりと握り直した。
その手のひらの熱さは、まるで焚き火の熾火そのもののようだった。
男は背筋を正し、逃げ場のない、けれどこれ以上ないほど真っ直ぐで真摯な銀の瞳で、栞の瞳を真正面から見つめ据えた。
普段の、部下に指示を下すときの峻厳な声音ではない。
照れ隠しの苦笑いも、不器用な言い訳も、何ひとつ混ざっていない。
ただ、一人の大人の男が、自らの命と魂のすべてを懸けて、愛するたった一人の女性へと差し出す――熱く、重く、純粋極まりない真実の言葉。
男の喉が、トクンと力強く鳴った。
そして――。
朝の澄み切った光の中で、レオンハルトは静かに、こう告げたのだ。
「俺の帰る場所は、もうここしかない」
揺るぎない、魂の宣告。
「……栞」
男の大きな手が、栞の手を壊れ物を包むように、さらに熱く、深く握りしめた。
「俺の隣に……いてくれないか」
その言葉が、朝光に満たされた山小屋のリビングに、凛として、響き渡った。




