第50話:片手で噛みしめる濃厚ブラウニーバー
古民家の板張りの台所央、欅の一枚板で作られた巨大な作業台の上に、買い込んできたばかりの食材たちが山となって鎮座していた。
藍染め木綿の勝負エプロンの紐をぎゅっと引き絞った栞は、乱れのない手つきで、祖父が遺した大型オーブンレンジと、台所の隅に眠っていた予備のガス高速オーブンを同時に立ち上げた。
――フォォォォン……と、力強いファンの回転音とともに、庫内のヒーターが唸りを上げて予熱を開始する。
栞は作業台の前に立ち、腕を組んで食材の山を冷徹に見据えた。
頭の中で、かつてレオンハルトやダミアンから聞いた「戦場の現実」、そして先ほどボロボロになって戻ってきたポムの痛ましい姿を、ミリ単位の精度で再現していく。
――現場は、泥濘と血煙が渦巻く極限状態だ。
兵士たちは、泥と魔獣の返り血にまみれた分厚い革手袋をはめている。
包囲され、いつどこから敵の爪が飛んでくるか分からない最前線の防壁で、わざわざ手袋を外し、両手で皿を持ち、フォークを使って優雅に食事をする暇など、一秒たりともありはしない。
手袋を外せば、凍傷の危険に晒され、再び武器を握るまでの数秒の遅れが文字通り命取りになる。
だからこそ――「泥の手袋を外さず、片手だけで包装を剥ぎ、そのまま大口で齧り付ける形状」でなければならない。
さらに、彼らの胃袋は冷え切り、咀嚼する顎の力すら疲労で奪われている。パサパサとしたパンや乾パンのように、口の中の貴重な水分を奪い去るようなものは論外だ。
一口歯を立てた瞬間に、体温でしっとりとほどけ、唾液を必要とせずに喉を滑り落ちていく極限の滑らかさ。
そして――何より、圧倒的な「熱量」と「即効性」。
激戦で枯渇した血糖値を一瞬で跳ね上げる良質な糖分。
数時間にわたってじわじわと燃焼し続ける濃厚な乳脂肪分と植物性油脂。
痙攣しかけた筋肉を繋ぎ止める豊富なマグネシウムとミネラル。
そして、暗闇と恐怖に押し潰されそうな兵士たちの脳天を、ガツンと一撃で殴りつけて覚醒させるような、鮮烈で力強い酸味。
「……これしかない。これ以上の携行食は、絶対にないわ」
栞は深く息を吸い込み、棚から取り出したステンレスの大型ボウルを作業台の中央へと据えた。
迷いなく伸ばした手が掴んだのは、大袋のナッツ類だった。
「まずは、香ばしさとミネラルのベース作りから!」
業務用の特大ガスコンロに、祖父が山菜の大量下処理に使っていた巨大な中華鍋を据える。
強火で鍋肌を熱し、そこへ一キロ入りの大袋から、素焼きアーモンドと生クルミを惜しげもなくザラザラと流し込んだ。
――ジャァッ、パチパチパチッ!
乾いた鉄鍋の中で、大粒のナッツたちが跳ね踊る。
栞は重たい木べらを両手でしっかりと握り、焦げ付かないよう高速で鍋底を煽り続けた。
熱がナッツの芯まで通るにつれて、ナッツ自体の持つ上質な油分が表面にしっとりと浮き上がり、台所一面に、野性味あふれる香ばしいナッツのアロマが立ち込めていく。
パチッ、とクルミの薄皮が弾け、芳醇な煙が立ち上った絶妙な瞬間、栞は一気にナッツを巨大な平ザルへとあけた。
立ち上る熱気。
粗熱を取る間もなく、栞は分厚い出刃包丁を握りしめ、巨大な木のまな板の上でナッツの山をリズミカルに刻み始めた。
――ザクッ、ザクザクザクッ!
木肌を打つ力強い包丁の音。
粉々にはしない。
歯の弱った兵士でも噛み砕ける絶妙な小豆大から大豆大の大きさに、意図的に粗く刻んでいく。
噛みしめた瞬間にカリッと弾け、香ばしい油脂がじゅわっと口内に広がる食感のアクセントを残すためだ。
刻み終えたナッツをボウルへ移すと、栞は古民家の土蔵の涼しい床下収納から、大切に保管していたガラスキャニスターを抱え上げてきた。
中に入っていたのは――初夏、ポムが森の奥の湿地帯から誇らしげに案内してくれ、一緒に籠いっぱいに収穫して天日干しにしておいた、あの異世界の青い果実。
――『ルミナスベリーのドライ果実』。
蓋を開けた瞬間、凝縮された野生のベリー特有の、甘酸っぱく濃厚な香気がふわりと広がった。
太陽の光と風を浴びて黒紫色に縮んだその干し果実は、現代の高級レーズンやプルーンを遥かに凌駕する糖度と、疲れ切った舌を鮮烈に刺し貫く力強いクエン酸を秘めている。
栞はこれを贅沢に手掴みし、刻んだナッツの山の中へと豪快に混ぜ合わせた。
「さあ……次は、命の主成分ね」
大鍋に湯を沸かし、その上に二回り大きな業務用のステンレスボウルを重ねて湯煎をセットする。
栞は作業台の上に並べられた、あのベルギー産最高級クーベルチュール・ダークチョコレートの分厚いブロックを手に取った。
カカオ分七十パーセント。
砂糖の甘さに逃げない、本物のカカオ豆だけが持つ重厚な苦味と力強い大地のアロマ。
包丁を叩き込み、分厚いチョコの塊をリズミカルに細かく削り落としていく。
――トントン、トントン……!
削り落とされた漆黒の破片が、ボウルの中へ雪崩のように落ちていく。その量、優に五キロ。
そこへ、すかさず投入されたのは、北海道産無塩発酵バターの直方体だった。
乳酸菌の力で熟成された、芳醇極まりないミルクの香りを放つ黄色い塊。銀紙を次々と剥ぎ取り、角切りにしてチョコレートの山の上へと放り込んでいく。
湯気の熱がボウルの底を温め始める。
――トロリ……。
黒と黄色の固まりが、ゆっくりと境界線を失い、溶け合い始めた。
栞は耐熱のゴムベラを手に取り、ゆっくりと、大きな円を描きながら底から混ぜ合わせていく。
――フワァァァァッッ……!
その瞬間だった。
古民家の古びた台所の空気が、一瞬にして一変した。
熱せられた最高級カカオの重厚でビターな香気と、溶け出した発酵バターの甘美で濃厚なミルクのアロマが、爆発的な湯気となって立ち上り、天井の梁にまで満ち満ちていく。
ただ匂いを嗅いだだけでも、胃袋が強烈に刺激され、唾液がじわりと口内に溢れ出してくるほどの、圧倒的な多幸感。
チョコレートとバターは完全に乳化し、表面に鏡のような濡れた光沢をたたえた、漆黒の極上ガナッシュへと姿を変えていた。
並行して、もうひとつの巨大ボウルで卵液の調合が進む。
新鮮な卵を三十個、次々と割り入れ、太い泡立て器で白身のコシを素早く切る。
そこへ、種子島産の未精製きび砂糖を豪快に投入した。
ジャリジャリと泡立て器で擦り混ぜる。
白っぽくもったりとするまで、腕の筋肉をフル回転させて一気に泡立てていく。
オフィスでパソコンのキーボードを叩いていた頃には決して使わなかった、肩甲骨からの全身の連動。
額から大粒の汗がポタポタとエプロンに落ちるが、栞は拭う間も惜しんで腕を振り続けた。
「溶かしたチョコを……合わせる!」
もったりと泡立った黄金色の卵液の中へ、湯煎で艶やかに溶け切った熱々のチョコレートガナッシュを、一気に流し込んだ。
――トトトトトッ……!
黄色い海の中に、漆黒の溶岩が渦を巻いて沈み込んでいく。
ゴムベラで底からすくい上げるように、素早く、均一に切り混ぜる。
淡い黄色と漆黒が混ざり合い、みるみるうちに、深く艶やかなダークマホガニー色へと生地が染まり上がっていく。
そこへ、ふるいにかけておいた高純度ピュアココアパウダーと、少量の小麦粉――極限まで粉の量を減らし、口溶けのテリーヌ感を残すための黄金比率の粉類を、粉雪のように振り入れた。
粉気が消える寸前のベストなタイミングで、先ほどローストして粗刻みにしたアーモンド、クルミ、そしてルミナスベリーのドライ果実の山を、一気にボウルへと投入した。
――ドサリッ!
「重い……! でも、負けない……!」
具材の圧倒的な重量で、ゴムベラを握る右手にズシリと猛烈な負荷がかかる。
ナッツとベリーが、濃厚なチョコ生地の隅々にまで均等に行き渡るよう、栞は腰を落とし、体重をかけてボウルの底から天地を返すように力強く混ぜ合わせた。
完成した生地は、もはやお菓子のタネというよりは、黒光りする高密度エネルギーの塊そのものだった。
作業台の上に、オーブン付属の特大スクエア天板を四枚、隙間なく並べる。
耐熱のベーキングシートを角まで敷き込み、そこへ、出来上がった漆黒の生地をレードルで惜しげもなく均等に流し込んでいった。
――ドロッ、トロリ……。
厚さおよそ二・五センチ。
兵士が片手でしっかりと握り込み、前歯で力強く噛みちぎるのに最も適した、重厚な厚み。
表面をパレットナイフで平らにならすと、生地の表面からは、大粒のナッツの頭や、宝石のように艶めくルミナスベリーの粒が、誇らしげに顔を覗かせていた。
「よし……焼き上げる!」
栞は両手に耐熱ミトンをはめ、ずっしりと重い天板を持ち上げた。
予熱の完了した二台の大型オーブンの扉を開け放つ。
上段と下段、二枚ずつ、計四枚の天板を一気に滑り込ませた。
――バタンッ、バタンッ!
重厚な扉が閉じられ、タイマーがカチカチと音を立てて時を刻み始める。
設定温度は、百七十度。
焼き時間は、二十五分。
焼きすぎれば水分が飛んでパサつき、焼きが足りなければ携行時に崩れてしまう。外側はサクッと薄い殻をまとい、中心部は体温でじわりととろける半生の濃厚さを残す――極限の火入れの勝負だった。
庫内灯に照らされた天板を見つめながら、栞は濡れタオルで顔の汗を拭った。
台所には、パチパチとオーブンが熱を発する音だけが響いている。
数分と経たないうちに、オーブンの排気口から、熱い蒸気がシュウシュウと立ち上り始めた。
そして――。
――フワァァァァァッッ……!!
古民家の台所、居間、廊下、そして土間の隅々に至るまでを、圧倒的なまでの甘美な暴力が埋め尽くした。
熱せられた発酵バターの爆ぜる香り。
ビターカカオが放つ、大人のための深く香ばしいビターアロマ。
ローストされたナッツたちの芳醇な油分の匂い。
そして、熱を帯びたルミナスベリーが放つ、甘酸っぱく華やかな果実の蒸気。
それらが一体となって溶け合い、鼻腔をくすぐるどころか、吸い込むだけで全身の疲労が溶け去っていくような、強烈極まりない多幸感が空間を満たしていった。
――ピピピピ、ピピピピ……!
電子タイマーが、完了の合図を告げた。
「焼けた……!」
栞はミトンを握り直し、オーブンの扉を一気に引き開けた。
――ボワッッッッ!!
濃密な熱波が、栞の顔を包み込む。
引き出された天板の上には、息を呑むほど見事な、漆黒と濃褐色のキャンバスが広がっていた。
表面には、ブラウニー特有の繊細で薄い「小波のようなひび割れ(クレープ状の膜)」が美しく張り巡らされ、光を鈍く反射している。
竹串を中心部に刺してみる。
引き抜いた串の先端には、乾いた生地ではなく、わずかにねっとりとした濃厚なチョコのテクスチャが、理想的な状態で付着していた。
「完璧……! 完璧な火入れよ!」
天板を網の上に並べ、秋の冷たい外気を吸わせるようにして、急速に粗熱を取っていく。
冷めていくにつれて、バターとカカオバターがぎゅっと締まり、崩れにくい剛性と、しっとりとした高密度な食感が固定されていくのだ。
完全に冷めるまでの間、栞は次の工程の準備を淀みなく進めた。
買い込んできた耐油ワックスペーパーのロールを広げ、二十センチ四方の正方形に、ハサミでリズミカルに何十枚、何百枚と切り出していく。
そして、一時間後。
完全に常温まで落ち着き、ずっしりとした重厚さを宿したブラウニーの巨大な板を、まな板の上へと滑り出させた。
長刃の包丁を温湯で温め、布巾で水気を拭う。
刃先を天板の端へと当て、定規で測ったように正確なストロークで切り込みを入れた。
――サクッ……グッ、ヌゥ……。
表面の薄い膜が心地よい音を立てて割れ、その奥にある濃厚な生地が、包丁の刃にねっとりと吸い付きながら両断されていく。
切り分けられたサイズは、幅三センチ、長さ十センチ、厚さ二・五センチ。
まさに、大人の兵士が手のひらでがっしりと握り込める「スティックバー」の黄金プロポーション。
切り落とされた端切れが、まな板の隅に転がった。
栞はその一片を指でつまみ上げ、自らの口の中へと放り込んだ。
咀嚼。
その瞬間――。
「…………っ!!」
栞の身体が、ビキリと硬直した。
頭蓋の芯を、巨大な槌で直接殴りつけられたかのような、凄まじい衝撃。
まず口蓋を打つのは、表面のサクッとした軽快な歯触り。
そして、歯が中心部へと沈み込んだ刹那――体温によって、限界まで練り込まれた発酵バターとビターカカオが、まるで極上の生チョコレートのように、じわりと滑らかに溶け崩れ始めた。
舌を包み込む、暴力的とすら言える濃厚なコクと糖分。
そこへ、粗刻みにされたアーモンドとクルミが「カリッ、ザクッ」と力強く弾け、香ばしいナッツオイルを口いっぱいに弾けさせる。
重厚。あまりにも濃厚で重厚なエネルギーの奔流。
――だが、そこで終わらない。
濃厚さに舌が圧倒されかけた次の瞬間、奥歯でプチリと潰れたルミナスベリーのドライ果実から、稲妻のような鮮烈な果汁が弾け飛んだのだ。
キュンと鼻腔を突き抜ける、力強く爽快な天然の酸味。
その酸味が、重たい脂質と糖分の後味を鮮やかに引き締め、麻痺しかけていた味覚と脳の神経を、冷水で叩き起こされたかのように一瞬で覚醒させていく。
「……これなら、いける」
喉をごくりと鳴らし、飲み干した栞の唇に、確信に満ちた笑みがこぼれた。
これなら、どんなに泥にまみれ、絶望に打ちひしがれた兵士であっても、一口齧るだけで目を剥き、二口目で失われた体温を取り戻し、三口目で再び武器を握る力を取り戻せる。
栞はすぐに、個包装の作業へと突入した。
切り出したワックスペーパーの中央に、ブラウニーバーを一本ずつ配置する。
下から紙を折り上げ、左右をきっちりと折り込み、上部だけを開けた「ポケット包み」にして、食品用の麻紐で手早く縛る。
これならば、兵士は泥まみれの手袋を外すことなく、片手で上部の紐を引きちぎり、ペーパーの端を押し下げるだけで、直接指で触れることなく中身を押し出して齧り付くことができるのだ。
――ササッ、キュッ、パチン。
かつて事務職として培った、精密機械のような正確で素早い指先の動き。
一枚、また一枚。
作業台の上に、ワックスペーパーに包まれた特製ブラウニーバーが、まるで兵糧の弾薬のように整然と積み上がっていく。
その数、一本、十本、五十本……百本。
天板四枚から切り出されたブラウニーバーは、全部で百二十本に達していた。
栞は、ホームセンターで買い込んできた通気性の良い清潔な白木の浅型木箱を二箱並べた。
底にクッキングシートを敷き、そこへ、出来上がったブラウニーバーを隙間なく、美しく敷き詰めていく。
――コトッ、コトッ、コトッ……。
一段、二段。
整然と並べられたワックスペーパーの列。
二つの木箱は、百二十本の濃厚な命の糧によって、底が見えないほどみっちりと満たされた。
ずっしりとした重み。
箱の隙間から立ち上る、カカオとバターとベリーの芳醇な香り。
「よし……! 第一弾、完了!」
栞は額の汗を手の甲で拭い、荒い息を整えた。
だが、その瞳には、一瞬の気の緩みもなかった。
時計を見ると、時刻は午後二時半を回っている。
戦場へ届けるべき物資は、これだけではない。
乾ききった喉を潤し、乳酸を分解する「特製ビネガードリンク」、そして冷え切った内臓を芯から温める「濃厚ポトフ」の仕込みが、まだ残されているのだ。
栞は勝負エプロンの紐をもう一度強く結び直すと、床に鎮座する三十リットルの巨大寸胴鍋へと向かって、力強い足取りで歩みを進めた。




