第49話:スーパーの買い占めと、勝負エプロン
古民家の重厚な欅の板戸を背中で閉じ、真鍮鍵を抜いた瞬間、冷たい土間の空気が栞の肺腑を満たした。
山小屋のソファには、濡れタオルで泥を拭い、砂糖水で人心地ついたポムを休ませてある。焼け焦げた羽の痛みに耐えながら、小さな体で「待ってるよ」と力強く頷いてくれた妖精の姿が、今も鮮烈に網膜に焼き付いていた。
「待っててね、ポム。今に見ていなさい……!」
栞は上がり框を跳び越えるようにして居間へと駆け上がった。
文机の上の財布を掴み取り、中身を確認する。キャッシュカード数枚、そして先週の生活費として引き出しておいた十万円の札束。銀行口座には、真壁に買い取ってもらった紫の魔石の売却益を含め、税引き後でも九百万円を超える正当な自己資金が唸りを上げている。
資金の限界など、端から存在しない。
誰の顔色を窺う必要もない。経理部の冷ややかな承認印を待つ必要も、営業部長の理不尽な予算削減に頭を抱える必要もない。
これは、相沢栞という一人の大人の女性が、自分の意志と、自分の全財産を懸けて敢行する、正真正銘の「命の兵站作戦」なのだ。
壁のフックから車のスマートキーをもぎ取るように外し、土間の引き戸をガラガラと音を立てて開け放った。
秋の冷涼な陽光が、山あいの庭を眩しく照らし出している。
砂利を踏みしめて愛車の軽自動車へ駆け寄り、運転席のドアを引いた。シートに飛び込み、プッシュスタートボタンを力任せに押し込む。
――キュルル、ブォンッ!
唸りを上げてアイドリングを始めたエンジン。ギアをドライブに入れ、サイドブレーキを解除する。アクセルを踏み込むと、小さな車体輪が白煙を上げる勢いで砂利を蹴散らし、古民家の門前を飛び出していった。
山道を下るワインディングロード。
対向車のない曲がりくねった一本道を、栞はハンドルを正確に切りながら駆け下りていく。
普段なら景色を楽しみながらのんびりと流す道だが、今の栞の脳内は、かつて中堅商社の営業事務として幾度となく経験した「極限の緊急出荷対応」のモードへと、冷徹なまでの精度で切り替わっていた。
――状況を整理する。
前線基地は、異常活性化した魔獣の群れによる包囲を受け、補給路を断たれている。
兵士たちは連日連夜の防衛戦で一睡もできず、疲労困憊の極限にある。
そして何より、砦の備蓄食糧は尽きかけており、彼らの胃袋は冷え切った塩水と乾パンの残骸にすら見放されようとしている。
――必要な物資の条件は三つ。
第一に、泥の手袋を外す暇すら惜しい戦闘の合間に、片手で瞬時に爆発的な熱量を叩き込める「高密度エネルギー携行食」。咀嚼に余計な体力を奪われず、糖分と脂質、そしてミネラルが同時に脳と筋肉を覚醒させるものでなければならない。
第二に、極限の寒風と激戦で失われた水分、電解質、そして乳酸まみれの筋肉を急速に修復・蘇生させる「即効性疲労回復ドリンク」。
第三に、日持ちがして傷みにくく、冷えた内臓を芯から温め、何より「生きている実感」を魂に直接流し込むような、滋養と油分に満ちた「濃厚な温熱スープ」。
「待ってなさいよ、レオンハルトさん……! 誰が安全な場所で指をくわえて待ってるもんですか……!」
山を下りきり、国道へと合流した軽自動車輪は、甲府盆地の東部、バイパス沿いに広がる大型商業エリアへと一直線に向かった。
目指すのは、プロの飲食店主たちが仕入れに訪れる大型業務スーパー。そして、その真裏に位置する広大な敷地を持つプロ仕様のホームセンターだ。
午前十一時過ぎ。
平日の昼前、広大なアスファルトの駐車場に愛車を滑り込ませると、栞は財布とスマートフォンだけをポケットに突っ込み、弾かれたように車外へと飛び出した。
自動ドアをくぐり抜けた瞬間、倉庫のように高い天井と、フォークリフトが走り回る特有の消毒液と段ボールの匂いが鼻腔を突く。
入口脇に積まれていた大型の金属製ショッピングカートを、栞は迷わず二台、ガチャンガチャンと引き抜いた。片手で一台を押し、もう片手で二台目を牽引しながら、棚が連なる生鮮・製菓原料コーナーへと突進していく。
「まずは、携行食の原料……!」
製菓・ナッツ類の巨大な陳列棚の前に立ち止まると、栞は値札を見る間すら惜しむように、両手を伸ばした。
業務用一キロ入りの大袋――素焼き無塩アーモンド、大粒の生クルミ、皮むきカシューナッツ、マカダミアナッツ。
それらを棚の端から端まで、腕いっぱいに抱え込んではカートの中へと雪崩のように放り込んでいく。
――ドサッ! ドササッ!
金属の網の底が、鈍い音を立てて撓む。
続いて、ドライフルーツの列へ。
カリフォルニア産の濃縮レーズン、酸味の際立つドライクランベリー、糖分を凝縮させた大粒のトルコ産ドライイチジク。どれも一袋一キロ入りのプロユース品だ。これらを各五袋、十袋と、一切の躊躇なく放り込む。
そして、濃厚なブラウニーの骨格となる製菓用チョコレート。
カカオ分七十パーセントを超えるベルギー産の最高級クーベルチュール・ダークチョコレートのブロック。一枚一キロの重厚な板チョコを十枚。
さらに、脂肪分を極限まで保った高純度のピュアココアパウダーの業務用缶を六缶。
乳製品コーナーへ移動すると、冷蔵ケースの扉を力任せに開け放った。
賞味期限を確認するまでもない、数日以内にすべて使い切るのだ。業務用四百五十グラム入りの北海道産無塩発酵バターの箱を、ケースの棚にあるだけ――二十箱すべてを両手ですくい上げ、カートへと積み上げた。
「次は、ドリンクのベース……!」
調味料コーナーの棚前へカートを滑らせる。
疲労回復の鍵を握るのは、クエン酸とアミノ酸の爆弾である「酢」だ。
栞は棚に並んでいた壺仕込みの純玄米黒酢の一リットル瓶を十本、さらにフルーティーで飲みやすさを底上げする有機純リンゴ酢の瓶を十本、ケースごとカートの底へと滑り込ませた。
甘み付けには、上白糖のような単糖類ではなく、持続的なエネルギーとなる多糖類とミネラルを豊富に含むものが必要だ。国産百花蜜の一・二キロ入り特大ポリ容器を五本、未精製の種子島産きび砂糖の三キロ入り大袋を四袋。
そして、煮込みスープのための生鮮食材コーナーへ。
「お肉……お肉を、あるだけ……!」
精肉カウンターの奥で作業をしていた白衣姿の主任らしき大柄な店員に、栞は迷いのない通る声で呼びかけた。
「すみません! ベーコンのブロック肉、パックになっていないバックヤードの在庫はどれくらいありますか!?」
「えっ……? あ、燻製の豚バラブロックなら、一本二キロ前後の原木が十本ほど冷蔵庫にありますが……」
「全部ください! それから、豚バラの角煮用ブロック肉も、あるだけ全部スライスせずに塊のまま包んでください!」
「ぜ、全部ですか!? 二十キロ以上になりますよ!?」
「はい、構いません。すぐ車に積みますので、段ボールに詰めてレジへ回していただけますか!」
店員が目を丸くして息を呑み、次の瞬間には「は、はいっ! すぐ用意します!」と血相を変えてバックヤードへと走っていった。
その間に、栞は野菜売り場を急襲した。
スープのベースとなる香味野菜。泥付きの北海道産玉ねぎ十キロ箱、大泥付き人参五キロ箱、青森県産の巨大なニンニクを大袋で三つ、高知県産の大生姜を二箱。日持ちとエネルギー源の主力を担うメークインの十キロ箱を二箱。
二台の巨大な金属カートは、瞬く間に天辺まで山盛りの食材で埋め尽くされ、車輪が軋むほどの重量に達していた。
レジへと向かう。
平日の昼下がりのレジ打ち担当の女性店員は、運ばれてきた二台のカートの尋常ならざる威容に絶句していた。
「あ、あの……何かの炊き出しですか……?」
「はい、大至急必要な炊き出しなんです」
栞は息を乱すこともなく、きっぱりと答えた。
バーコードリーダーの甲高い電子音が、マシンガンのように鳴り響く。
――ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……!
画面に加算されていく金額は、五万、十万、十五万と跳ね上がっていく。
かつての栞なら、スーパーで千円札が一枚消えるごとに胃を痛め、十円安いもやしを探して陳列棚を彷徨っていたはずだった。
けれど、今、液晶に表示された『合計:二十四万八千六百円』という数字を見ても、栞の眉ひとつ動かなかった。
「お支払いはどうされますか……?」
「一括で」
ICチップ付きのデビットカードを端末へ差し込み、暗証番号を叩き込む。
――ピロリン。
決済完了の無機質な音が鳴り、長いレシートが吐き出された。
爽快だった。
胸の奥がすくような、圧倒的な解放感。
理不尽な組織に隷属して小銭を恵んでもらうのではなく、自分が築いた正当な自由の富を、愛する人々の命を繋ぎ止めるための武器へと換金する――これ以上の清廉な金の使い道が、この世のどこにあるというのか。
店員総出で段ボール箱へと詰め替えられた大量の食材を、栞は台車を借りて駐車場へと運び出した。
だが、まだ半分だ。
買い出しの荷物をトランクへ手早く押し込むと、栞はそのまま車を動かさず、敷地続きの隣にある巨大ホームセンターの資材館へと小走りで突入した。
戦場へ運ぶのは、生身の料理ではない。
泥と血と雨にまみれた前線で、確実に衛生を保ち、外気から内容物を遮断し、かつ取り扱いが容易な「パッケージング」が不可欠なのだ。
プロ用厨房資材のコーナーへ迷わず足を踏み入れる。
「あった……!」
棚の最上段に鎮座していたのは、業務用ポータブル真空パック機。家庭用の簡易なものではなく、熱溶着のシール幅が広く、液体の吸引にも耐えうる高耐久のハイエンドモデルだ。
さらに、その横に並ぶ専用の耐熱・耐冷凍真空パック用ナイロンポリ袋。
厚手で破れにくく、マイナス四十度から百度の沸騰湯煎にまで耐えるタフな保存袋を、大サイズ(スープ用)五百枚、中サイズ(固形物用)五百枚、小サイズ(個包装用)千枚。棚の在庫をそっくり腕に抱え込んだ。
調理器具コーナーへ回る。
古民家の台所にある通常の鍋では、とても追いつかない。
厨房用の大型ステンレス寸胴鍋――容量三十リットルの重厚な寸胴を二基。
さらに、現場へ温かいまま、あるいは鮮度を保ったまま運搬するための、大型高断熱クーラーボックス(容量六十リットル)を二個。
ブラウニーを現場で小分けにし、兵士たちが泥の手のまま掴んで食べられるようにするための、耐油・耐熱ワックスペーパーの巨大ロールを五本。食品用麻紐、マスキングテープ、油性マーカー。
そして、オフグリッド調理の生命線であるイワタニのカセットガスボンベの三本パックを十セット――計三十本入りの大箱を二箱。
資材館のレジでも、再びデビットカードが一閃した。
合計金額、十六万四千円。
迷いなく支払いを終え、資材館の頑丈なカートを押して駐車場へ戻る。
愛車である軽自動車のトランクを開けた。
後部座席を限界まで前に倒し、完全にフラットな荷室を作り出す。
そこへ、重量計算を瞬時に行いながら荷物を積み込んでいった。
一番奥の低重心の位置に、三十リットル寸胴鍋二基を重ねて配置し、その中にカセットガスの箱と真空パック機を詰め込んでデッドスペースを殺す。
手前には、二十キロを超える肉と野菜の段ボール箱を敷き詰め、その上にナッツやバター、粉類の箱をテトリスのように隙間なく組み上げていく。
助手席のシートを倒し、巨大なクーラーボックス二基をベルトでしっかりと固定。
足元のスペースには、酢と蜂蜜の瓶が入った重量箱を滑り込ませた。
――ギシィッ……。
すべての荷物を積み終えた瞬間、軽自動車のサスペンションが目に見えて沈み込んだ。
タイヤがアスファルトを強く押し潰し、車全体が鋼鉄のような密度の重厚な塊と化している。
総重量、百五十キロを優に超える「命の弾薬」。
額に滲んだ汗を手の甲でぬぐい、栞は車のリアハッチを、両手で体重をかけて押し下げた。
――バタンッッ!!
重厚な金属音が、昼下がりの駐車場に響き渡る。
栞は大きく息を吸い込んだ。
かつてオフィスで、他人のミスで刷り直させられた何箱もの無意味なコピー用紙を抱え、惨めさに涙をこぼしていたあの日の自分。
だが、今、自分の背後にあるこの車の沈み込みは――誰かの命を繋ぎ止めるために、自らの意志で選び、買い集めた重みだ。
疲労など、爪の先ほども感じなかった。
全身の細胞が歓喜に震え、武者震いのような心地よい熱狂が、背骨を貫いて頭頂へと駆け抜けていく。
「待ってて……今、戻るから!」
運転席へ飛び乗り、シートベルトを締める。
アクセルを踏み込むと、ずっしりと重くなった愛車輪が力強いトルクを発揮して前進を始めた。
国道を抜け、再び山あいのワインディングロードへ。
秋の冷たい風をフロントガラスに受けながら、軽自動車は重さをものともせず、力強く坂道を駆け上がっていった。
午後一時前。
古民家の前庭へと滑り込み、エンジンを切る。
静まり返った山あいの集落。
だが、母屋の玄関を開け放った栞の動きには、一瞬の澱みもなかった。
車と土間を何往復も駆け足で行き来し、重たい段ボール箱、寸胴鍋、クーラーボックス、食材の山を、母屋の広い台所へと次々と運び込んでいく。
十畳以上ある古い板張りの台所。
祖父が生前、山菜の下処理や味噌仕込みのために使っていた、頑丈な欅の一枚板の大型調理台。
その広大な天板の上に、買い集めてきた戦利品たちが、整然と並べられていった。
大袋のアーモンドとクルミの山。
深紅のドライクランベリーとレーズン。
カカオの芳醇な香気を放つクーベルチュールチョコレートのブロック。
二十箱のバターの直方体。
黒光りする十本の玄米黒酢と、黄金色に透き通る蜂蜜の特大容器。
そして、床に鎮座する巨大な肉の段ボール箱と、三十リットル寸胴鍋。
圧巻だった。
まるで、これから一大合戦へと臨む城郭の兵糧庫のような、圧倒的な生命の集積。
静寂の台所に、食材たちが放つ力強い気配が満ち満ちていた。
「ふぅ……っ」
栞は額の汗を拭い、息を整えた。
壁掛けの古い鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。
頬は紅潮し、黒髪のサイドには、レオンハルトが削り出してくれた『星屑の銀鉱石』のヘアピンが、冷涼な光を放ちながら凛と留まっている。
その双眸には、恐怖も迷いも微塵もなかった。
あるのは、ただひとつ――最前線で命を懸ける男たちの背中を、この手で支え切るという、猛々しいまでの決意の光。
栞は両手を伸ばし、乱れた黒髪を後ろでひとつにまとめると、頑丈なヘアゴムできゅっと力強く結び直した。
首筋をすっきりと露わにし、後れ毛を払う。
そして――。
調理台の脇のフックに掛けてあった、祖父の代から伝わる分厚い藍染め木綿の、最も頑丈な「勝負エプロン」を手に取った。
頭から被り、腰の太い紐を左右から前へと回す。
お腹の前で、ぎゅっ……と、息が詰まるほどの力で引き絞り、固結びにした。
――キュッ。
布地が擦れ合う硬質な音が、静かな台所に響き渡る。
背筋が、一本の鋼のように真っ直ぐに伸びた。
「さあ……始めるわよ!」
腕まくりをして、栞は両の掌をパンッと打ち鳴らした。
戦場を救うための、最初の仕込み――極限のカロリーを凝縮した特製ブラウニーバーの製造へ向け、栞は力強い一歩を踏み出した。




