第48話:山小屋の裏手と、小さなメッセンジャー
土間の冷気が、足袋を履いた足の裏からじわじわと這い上がってくる。
相沢栞は、薄暗い土間の突き当たりに据えられた、あの重厚な欅の板戸の前に再び立っていた。
胸元に抱えた祖父の遺品整理ノートの感触が、まだ腕の皮膚に残っている。
『腹が減っては、人は優しくも強くもなれん。食わせろ。温かいものを腹いっぱい食わせろ』
その言葉が、凍りついていた栞の魂に点火した炎は、いまや全身の血液を熱く滾らせていた。
買い出しへ行く。
麓の大型店舗を回り、手に入る限りの食材と資材を買い占め、過酷な戦場を耐え抜くための極上の兵站を仕立て上げる。
その方針に迷いはなかった。
――けれど。
闇雲にスーパーへ走る前に、どうしても確認しておかなければならないことがあった。
いま、境界の森はどうなっているのか。
あの山小屋は無事なのか。
そして――前線の砦で戦うレオンハルトたちは、具体的にどんな状況に追い込まれているのか。
敵の規模も、前哨基地の現状も、必要な物資の優先順位も分からないままでは、効果的な後方支援など組み立てられるはずがない。かつて中堅商社の営業事務として、現場の在庫状況と流通ルートを冷徹に見極め、最短手数でリカバリー手順を構築してきた栞の職業的本能が、まずは正確な「現場の現況把握」を求めていた。
「……お願い。無事でいて」
栞はポケットから、透かし彫りの真鍮鍵を取り出した。
手のひらに載せた鍵は、微細な熱を宿して淡く瞬いている。
迷いを振り払うように、十字の鍵穴へと差し入れた。
――カチリ。
空間の境目が吸い込まれるように噛み合う。
左手を取っ手にかけ、右手をゆっくりと捻る。
――カチャリ……。
硬質な解錠音が響いた瞬間、扉のわずかな隙間から、先ほどとは全く異なる空気が漏れ出してきた。
甘い野果実の匂いは、完全に消え失せていた。
代わりに流れ込んできたのは、焦げた木々の煙、硝煙、そして遠くの大地を焼き尽くす魔獣たちの血生臭い瘴気を含んだ、冷たく重苦しい風だった。
栞は息を殺し、音を立てないよう細心の注意を払いながら、板戸を数センチだけ横へと滑らせた。
山小屋のリビングが見える。
室内に魔獣が侵入した形跡はない。飴色の床板も、磨き上げられた丸太の壁も、薪ストーブも、先ほど栞が去ったときのまま静まり返っていた。
栞は身を滑り込ませるようにして敷居を跨ぎ、山小屋側へと足を踏み入れた。
背後の板戸を、いつでも逃げ込めるよう数センチだけ開けたままにしておく。
抜き足差し足でリビングを横切り、テラスの掃き出し窓へと歩み寄った。
厚手のカーテンの端を、指先でわずかにめくる。
「…………っ!」
外の光景を目にした瞬間、栞は思わず喉を詰まらせ、息を呑んだ。
変わり果てていた。
ほんの小一時間前まで、柔らかな木漏れ日を浴びて青く光る星型の花々を揺らしていたあの穏やかな原生林の面影は、どこにもなかった。
空が、死んでいる。
北の山並みの彼方から立ち上る、幾筋もの不気味な黒煙。それが上空の冷たい気流に押し流され、太陽の光を分厚い灰色の膜となって覆い隠していた。森全体が、まるで黄昏時のような薄気味悪い青黒い影に沈み込んでいる。
――ズゥゥゥゥン、ズズズズ……。
地脈の底から響く重低音が、テラスの床板を小刻みに震わせ続けていた。
遠くの峡谷から届く、地鳴りのような魔獣たちの咆哮。
何百、何千という怪物の足並みが大地を削り取る地響きが、風に乗って途切れることなく鼓膜を揺らす。
山小屋の敷地そのものは、精霊樹の結界が辛うじて残っているのか、まだ魔獣の直接の襲撃は受けていなかった。
けれど、境界線の木々の枝は風もないのに激しく軋み、梢からは枯れ葉や小枝が絶え間なくバラバラと降り注いでいる。
この場所が蹂躙されるのも、時間の問題かもしれない。
そんな破滅の予感が、冷たい霧となって肌にまとわりついてくる。
――その時だった。
――バサッ、バササッ……!
テラスの正面、色褪せたシダの茂みの奥から、何かが激しく枝を叩く音が響いた。
「…………っ!?」
栞の背筋が、氷水を流し込まれたように凍りついた。
魔獣か。
咄嗟に身を引いて扉へ戻ろうとした栞の視界に、茂みの隙間から飛び出してきた「小さな影」が飛び込んできた。
――ピィィィィィッッ!!
悲痛な、喉を引き裂くような甲高い鳴き声。
それは、獣の咆哮ではなかった。
空中で激しくバランスを崩しながら、風に木の葉のように翻弄され、必死の形相でテラスへと滑り込んできたのは――。
「ポム……!?」
栞は叫び、恐怖を忘れてカーテンを大きく引き開けた。
テラスのウッドデッキの上へ、小さな塊がドサリと落ちるように着地した。
床板を二転三転と転がり、手すりの柱にぶつかって止まったその姿を見た瞬間、栞の胸は激しい痛みに引き裂かれそうになった。
「ポム! 嘘でしょう……!?」
栞はテラスへと飛び出し、床の上に崩れ落ちていた小さな身体の元へと駆け寄り、両膝をついた。
痛々しかった。
あまりにも、無残な姿だった。
いつもなら虹色の光彩を放って美しく輝いていた四枚の半透明の薄羽。
その右側の二枚の端が、炎に舐められたように黒くチリチリに焼け焦げ、無残に欠損していた。
ふわりと波打っていた栗色の巻き毛は、煤と泥にまみれてボサボサに固まり、小さな若草色のチュニックはあちこちが引き裂かれ、黒い赤土の汚れがこびりついている。
全身を小刻みに、激しく痙攣させながら、小さな胸が壊れたふいごのように浅く、荒く上下していた。
「ピィ……ピキャ……ッ!」
栞の足音に気づいたポムは、泥に汚れた小さな顔を懸命に持ち上げた。
琥珀色の大きな瞳からは、大粒の涙がポロポロと零れ落ち、煤けた頬に濡れた筋を作っている。
栞の姿を認識した瞬間、ポムは小さな両手を伸ばし、力尽きるようにして栞の差し出した手のひらへと倒れ込んできた。
「ポム……! ああ、なんてこと……!」
栞は息を呑み、震える両手でその冷え切った小さな身体をそっと包み込んだ。
羽毛よりも軽い身体が、信じられないほど冷たい。
まるで氷のかけらを抱きしめているかのようだった。魔獣の放つ瘴気と冷気の中を、焼け焦げた羽で必死に風を切り、ここまで命がけで飛び続けてきたのだ。
「大丈夫よ、もう大丈夫だからね……!」
栞はポムを両手で包んだまま立ち上がり、リビングの中へと滑り込んだ。
掃き出し窓を固く閉ざし、厚手のカーテンを隙間なく引く。
外の黒煙と冷気を遮断した室内で、栞はソファへと駆け寄った。
祖父のウール毛布を幾重にも折り畳んで柔らかい寝床を作り、その中央へ、ポムの身体を慎重に横たえる。
ポムは荒い息を吐きながら、栞の指先に小さな手を必死にしがみつかせていた。
離れたら二度と会えなくなるのではないかと恐れるような、痛ましいほどの力。
「待っててね、今温かいものを作るから」
栞は指先を優しく撫でて落ち着かせると、キッチンスペースへと走った。
極度の疲労、体温の低下、そして脱水症状。
こんな小さな妖精の身体に、刺激の強いものは与えられない。
まず必要なのは、即座に吸収されてエネルギーに変わる糖分と、冷え切った内臓を温める水分だ。
カセットコンロに小鍋をかけ、裏の清流水を少量だけ注いで極弱火で温める。
沸騰させる手前、人肌より少し温かい程度のぬるま湯。
そこへ、棚のキャニスターから取り出したミネラル豊富なきび砂糖を小さじ一杯、そしてマークがくれたあの貴重な『霊蜂の生ハチミツ』をほんの耳かき一杯分だけ溶かし入れた。
さらに、古民家から持ってきていた無添加の自然塩を、指先で本当にごくわずか――微粒子のようにひとつまみだけ加える。
即席の、経口補水液。
優しくかき混ぜて完全に溶かし切ると、祖父の古い茶器の中から、注ぎ口の極端に細い小さな陶器の匙を取り出した。
ソファの元へと駆け戻る。
栞は清潔なガーゼのハンカチを温湯で濡らし、ポムの顔や手足にこびりついた泥と煤を、撫でるようにして優しく拭い取っていった。
黒い汚れが落ち、煤けた頬が少しずつきれいになっていく。
焼け焦げた薄羽の先端には、無理に触れず、周囲の汚れだけを丁寧にぬぐい去る。
「ポム、少しだけ飲んでみて。甘くて、温かいお水よ」
栞はスプーンの先端に、琥珀色の砂糖水を一滴だけすくい取り、ポムの乾ききった小さな唇の端へとそっと運んだ。
ポムの乾いた唇に、温かな雫が触れる。
――ピクッ。
小さな鼻先が匂いを嗅ぐように動き、次の瞬間、ポムの小さな舌がペロリと雫を舐めとった。
生ハチミツの芳醇な花の香りと、きび砂糖の柔らかな甘み、そして微かな塩分。
それが乾いた口腔を潤した瞬間、ポムの琥珀色の瞳がハッと見開かれた。
「ピィ……!」
ポムは両手でスプーンの柄を抱え込むようにして、差し出される甘い温水を、必死の勢いで啜り始めた。
一滴、また一滴。
ゴクリ、ゴクリと、小さな喉が懸命に鳴る。
スプーン三杯分ほどの砂糖水を飲み干した頃、ポムの全身の激しい痙攣が、ようやく収まり始めていた。
冷え切っていた皮膚に、じんわりと温かな体温が戻ってくる。
青白かった顔に微かな血色が差し、浅く乱れていた呼吸が、規則正しく深いものへと落ち着いていく。
「……ふぅ……よかった」
栞は胸を撫で下ろし、ポムの小さな頭を人差し指の腹でそっと撫でた。
温もりに包まれたポムは、安心したように栞の指先に頬をすり寄せた。
――けれど。
ひと息ついたのも束の間だった。
体力を取り戻したポムは、弾かれたように毛布の上に起き上がったのだ。
その琥珀色の瞳には、再び切迫した光が灯っていた。
「ピィッ! ピキャ、ピキャキャッ!!」
ポムは焦燥に駆られた様子で、焼け焦げた羽をバタバタと震わせながら、毛布の上で立ち上がった。
そして――小さな身体全体を使って、必死のジェスチャーを繰り広げ始めたのだ。
まず、小さな両腕を振り回し、恐ろしい怪物の爪を真似て空を激しく引っ掻く。
牙を剥き出しにするような顔を作り、それから両腕を交差させて、激しい衝突の身振りをしてみせる。
「魔獣……魔獣の大群が、押し寄せてきているのね?」
栞が問うと、ポムは激しく首を縦に振った。
続けて、ポムは背筋をピンと伸ばし、胸を張り、両手で重たい大剣を構えるような仕草をした。
鋭く目を細め、仁王立ちになって大剣を一閃するポーズ。
誰の真似か、一目で分かった。
「レオンハルトさん……! レオンハルトさんが、戦っているのね?」
「ピィッ!」
ポムは頷き、今度は赤毛を掻きむしるようなコミカルな仕草で剣を振り回す真似をした。ダミアンだ。
さらに、片腕を吊るす仕草と、足を引きずる仕草。リュカとマークだ。
みんな、戦っている。
北の峡谷の前哨基地で、押し寄せる何千もの魔獣の津波を前に、全員が血を流しながら防壁にしがみつき、必死の防衛戦を繰り広げているのだ。
――だが。
ポムの訴えは、そこで終わらなかった。
ポムの表情が、一段と悲痛なものへと歪んだ。
小さな手でお腹を押さえ、ペコペコに凹んだお腹をさすりながら、力なく膝をつき、ぐったりと項垂れてみせる。
そして、両手を広げて「何もない」という仕草を何度も繰り返し、砦へと続く道を指差しては、手刀でバッサリとその道を断ち切るジェスチャーをした。
「……え?」
栞の眉が寄った。
「道が……断ち切られた? 何もないって……まさか」
ポムは涙をボロボロとこぼしながら、小さな手で固い石をかじる真似をし、それを吐き捨てるように首を振った。
そして、喉をかきむしるようにして、乾きと飢えに苦しむ兵士たちの姿を、全身全霊で表現してみせたのだ。
「…………っ、補給部隊が……襲われたの!?」
「ピピィッッ!!」
ポムは叫ぶように鳴き、栞の手のひらに額を押し当てて激しく頷いた。
すべてが、一本の線となって繋がった。
アクスベル王国本土から前哨基地へと送られるはずだった、食糧や物資を積んだ補給部隊の輜重車。
それが、異常活性化した魔獣の別動隊によって街道を塞がれ、襲撃され、補給路が完全に寸断されてしまったのだ。
連日の、不眠不休の激戦。
ただでさえ劣悪だった砦の備蓄食糧は、底をつきかけている。
怪我の治療に必要な栄養も、極寒の夜を耐え抜くための脂質も、前線で剣を振るい続けるためのカロリーも、何ひとつ届かない。
飢えと、渇きと、極度の疲弊。
兵士たちは今、魔獣の牙に倒れる前に――飢餓によって、内側から崩壊しかけているのだ。
レオンハルトが、あの極限の形相で山小屋へ駆け込んできた理由が、痛いほど理解できた。
勝てる見込みのない防衛戦。
補給を断たれ、部下たちが飢えに苦しみ、砦が陥落するのは時間の問題だと悟っていたからこそ――。
彼は栞を、自らの命よりも大切な彼女を、安全な世界へと力ずくで突き放したのだ。
自分たちが全滅するその瞬間を、見せないために。
「…………馬鹿な人」
栞の口から、掠れた呟きが零れ落ちた。
目頭が熱く焼ける。
けれど、その瞳から零れ落ちそうになった涙を、栞は自らの手の甲で、力いっぱい拭い去った。
泣いている時間など、一秒たりともない。
状況は、完全に把握できた。
前哨基地が必要としているのは、武器ではない。兵員でもない。
――食糧だ。
泥にまみれた手袋を外す暇すらない過酷な前線で、片手で瞬時に爆発的なカロリーを摂取できる、高エネルギーの携行食。
失われた水分と電解質を補い、乳酸を分解して疲弊した神経を叩き起こす、滋養強壮の疲労回復ドリンク。
そして、冷え切った内臓を芯から温め、何日も日持ちし、傷ついた肉体を急速に修復するための、濃厚な肉と根菜のスープ。
それらを、補給路が途絶えた砦へと届けることができれば。
限界寸前で倒れかけている兵士たちの胃袋を満たし、その瞳に再び生きる力を灯すことができれば。
防衛ラインは持ちこたえる。
彼らは、生き延びることができるのだ。
――私には、剣は握れない。
栞は自らの両の手のひらを見つめた。
戦士のような硬いタコも、魔力を宿した印もない、ごく普通の、料理を作ってきた女性の手。
――魔法も使えない。魔獣を切り伏せる力なんて、爪の先ほども持っていない。
――でも。
栞の胸の奥底で、揺るぎない覚悟がカチリと音を立てて噛み合った。
――私には、この手がある。
現代の豊かな大地と技術が生み出した、無尽蔵の食材を手に入れる資金がある。
祖父から受け継いだ、丁寧で確かな料理の知恵がある。
そして、この森の清流とハーブの力を引き出し、彼らの胃袋へと『生きる気力』を届けることができる。
これは、私にしかできない戦いだ。
私だからこそ果たせる、世界で唯一の後方支援なのだ。
栞は毛布の上のポムを見つめた。
ポムは涙を拭い、息を詰まらせて栞の顔を見上げている。
栞は膝をつき、ポムの目線の高さへと顔を寄せた。
その唇に浮かんでいたのは、怯えでも絶望でもない――春の陽だまりのように温かく、そして大人の女性としての誇りと強さに満ちた、凛とした微笑みだった。
「ポム」
栞の声は、驚くほど静かで、澄み切っていた。
「私に、手を貸してくれる?」
「ピィ……?」
ポムが小さく首を傾げる。
栞はポムの小さな両手を、自らの指先でそっと包み込んだ。
「私ね、これから私の世界へ戻って、山のような美味しいご飯を仕込んでくるわ。絶対にみんなのお腹をいっぱいにして、力を取り戻させてあげる、とびきりの料理を作ってくる」
栞の言葉に、ポムの琥珀色の瞳がパァッと見開かれる。
「でもね、私一人じゃ、森の獣道を抜けて砦の補給所まで届けることができないの。……あなたが必要なの、ポム。森の道を誰よりも知っている、あなたの案内と、風の力が必要なの」
栞は真っ直ぐに、小さな妖精の瞳を見据えた。
「一緒に、みんなのところへ美味しいものを届けよう。……レオンハルトさんを、ダミアン君たちを、みんなで助けに行こう?」
その言葉が、静かな山小屋のリビングに響き渡った瞬間。
「…………ッッ!」
ポムの身体が、ビキリと震えた。
焼け焦げた羽の痛みも、恐怖も、寒さも、すべてが吹き飛んだかのように。
小さな妖精の琥珀色の瞳に、燃えるような、力強い光が宿った。
ポムは毛布の上でしっかりと両足を踏みしめ、小さな胸をドンと叩いた。
そして――。
「ピピィッッッ!!」
リビングを震わせるほどの、誇らしげで力強い鳴き声を上げ、栞の瞳を見つめ返して、深く、力強く頷いてみせたのだった。
ふたりの心が、完全にひとつに重なり合った。
「ありがとう、ポム。少しの間だけ、ここで身体を休めて待っていてね」
栞は立ち上がると、迷いのない足取りで納戸の欅の板戸へと向かった。
扉を開け、現代の古民家側へと踏み出す。
背中でカチャリと鍵をかけ、栞は土間の上がり框を駆け上がった。
財布、スマートフォン、そして車のキーを握りしめる。
外の光が、玄関の引き戸の向こうで待っていた。




