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第47話:閉ざされた扉と、冷えた古民家

――ガチャンッ。


重厚な欅(けやき)の板戸が、土間の冷え切った空気の中で重々しい音を立てて閉ざされた。


相沢栞は震える指先で、祖父の形見である透かし彫りの真鍮鍵を鍵穴へと差し込み、右へと固く回した。


――カチャリ……。


空間の狭間を断ち切る硬質な金属音が、暗がりの中に響き渡る。


鍵をシリンダーから引き抜く。


その瞬間、鍵穴の隙間から漏れ出ていたあの甘酸っぱい野果実の匂いも、針葉樹の冷涼なアロマも、そして遠くの峡谷から地鳴りのように響いていた魔獣たちの禍々しい咆哮も、ぷつりと糸が切れたように完全に消失した。


目の前にあるのは、ただの古びた木製の板戸。


鍵を抜いてしまえば、現代の誰がこじ開けようと、奥には埃をかぶった農具や古道具が積まれた薄暗い物置しか広がっていない。


絶対的な安全。


現代の物理法則と法秩序によって守られた、刃も牙も届かない不可侵のシェルター。


レオンハルトが命がけで命じた通り、栞は自らの世界へと逃げ延び、境界の扉を完全に封鎖したのだ。


ポムは、連れてくることができなかった。


扉を閉める直前、森の異変に怯えていた小さなピクシーは、北の空から立ち上る黒煙と精霊樹のざわめきに引き裂かれるように鳴き声を上げ、栞の胸元から飛び立ったのだ。森の仲間たちや、かつて自分が生まれた樹木の危機を感じ取ったのだろう。涙をいっぱいにためた琥珀色の瞳で栞を振り返りながらも、小さな羽を必死に羽ばたかせ、緑深い原生林の奥へと飛び去っていってしまった。


「ポム……」


誰もいない土間に、栞の掠れた声だけが落ちる。


足元には、山小屋から持ち帰ったわずかな私物のボストンバッグが、力なく転がっていた。


栞は上がり框(かまち)に腰を下ろすことすらできず、冷たい三和土(たたき)の上に膝をついた。


暗い。


古民家の中は、昼間だというのに雨戸が固く閉ざされ、まるで深い井戸の底のように薄暗く、底冷えがしていた。


黒光りする梁(はり)や柱が四方を取り囲み、古い畳と線香の残香が混ざり合った、静まり返った匂い。


あの山小屋のテラスに降り注いでいた黄金色の木漏れ日も、薪ストーブの中でパチパチと爆ぜていた樫の薪の温もりも、手挽きミルが放つ香ばしい珈琲のアロマも、ここには何ひとつとして存在しなかった。


あるのはただ、皮膚の表面をじわじわと凍りつかせていくような、無機質な静寂だけ。


「…………っ」


栞は立ち上がろうとしたが、膝に力が入らなかった。


手足の先が、氷のように冷え切っている。


壁に手をつき、這うようにして上がり框を上がり、畳敷きの広間を抜けて、南側の濡れ縁(ぬれえん)へと向かった。


雨戸の節穴から、針のように鋭い一条の光が差し込んでいる。


栞はその細い光の筋の前に、力尽きたように座り込んだ。


静かだった。


あまりにも、静かすぎた。


山梨の山あいに位置するこの古民家の周囲には、戦乱の足音など微塵も響いてこない。


遠くの農道を軽トラがことことと走り抜けていくエンジン音、電線に止まった雀ののどかな鳴き声、風が竹林を揺らすサラサラとした心地よい葉擦れの音。


秋の気配を帯びた平和な日本の田舎の風景が、そこには寸分の狂いもなく横たわっていた。


安全だ。


ここにいれば、魔獣の鋭い爪に引き裂かれることも、毒の牙に冒されることもない。


銀行口座には九百万円を超える資産があり、誰からの理不尽な命令にも怯えることなく、残りの人生を穏やかに、何不自由なく暮らしていくことができる。


あの男が、自らの命を削り、心を鬼にして叫んだ通りの『平穏な生』が、今、この手の中にあった。


――それなのに。


「……っ、う……」


栞の喉から、押し殺した嗚咽が漏れ出た。


胸が、痛い。


息を吸うたびに、胸郭の奥が鋭いガラスの破片で抉り取られるかのように痛んだ。


目を閉じれば、網膜の裏側に焼き付いて離れない光景がある。


抜き身の大剣を握りしめ、肩で荒い息を吐きながら、血走った銀の瞳で自分を見つめていたレオンハルトの峻厳な横顔。


『頼むから、生きていてくれ……あんたが安全な場所で、生きていてくれさえすれば……俺は……』


自らの心臓を刺し貫くような声音で絞り出された、あの痛ましい哀願。


そして、二度と振り返ることなく、漆黒のマントを翻して死地へと突進していった、あの孤独な背中。


――どうして。


どうして、あの人はいつもそうなのだろう。


王都の侯爵家で家族の権力闘争に絶望し、辺境へ追いやられ、百人の部下の命を一人で背負い込み、毎夜の不眠に苛まれながら、一度だって弱音を吐かなかった男。


ようやく、あの山小屋の暖炉の前で「ここは鎧を脱ぐ場所だ」と安らぎを覚え、甘いショコラと珈琲を口にして、柔らかな笑顔を見せてくれるようになったばかりだったのに。


危難が迫れば、瞬時にその温もりをかなぐり捨て、自らを冷酷な盾にして、他者を生かすために命を投げ出そうとする。


――それだけではない。


脳裏に浮かぶのは、あの愛すべき仲間たちの笑顔だった。


キッシュを大口で頬張り、「うめぇぇぇ!」と涙を流して叫んでいた赤毛の副官、ダミアン。


怪我をした腕を庇いながら、野生のクルミを誇らしげに差し出してくれた、心優しいリュカ。


木皿を丹念に磨き上げ、「シオリさんの飯を食うためなら痛みなんて消し飛ぶ」と笑っていた、大柄なマーク。


彼らもまた、まだ傷の癒えきっていない身体に硬い革鎧を締め直し、錆びた槍や剣を握りしめて、あの地獄のような最前線の防壁へと駆り出されているのだ。


劣悪な糧食。


石炭のように硬く乾いたパンと、具のない濁った塩水。


極限の恐怖と寒さの中で、腹を空かせ、震える指先で武器を握り、何千もの魔獣の津波に飲み込まれていくであろう若い兵士たち。


泥まみれになり、血を流し、冷たい地面に倒れ伏していく彼らの姿が、まるで現実の光景のように生々しく脳裏をよぎる。


「…………っ、あ……」


栞は両手で顔を覆い、激しく首を振った。


耐え難いほどの自己嫌悪が、ドス黒い泥水となって胃の腑を満たしていく。


無力感。


圧倒的な、救いようのない無力感。


彼らが命を削って戦っているその瞬間に、自分はこうして、何のリスクもない安全な古民家の畳の上で、ただ膝を抱えて震えている。


自分一人だけが、暖かい部屋に逃げ延び、命を長らえている。


その事実が、たまらなく惨めで、恥ずかしく、息をすることすら罪深いことのように思えてならなかった。


ポケットから、スマートフォンを取り出してみる。


画面をタップすると、液晶が青白く点灯した。


アンテナピクトは最大本数を示し、時刻は午前十時を少し回ったところを表示している。


インターネットのブラウザを開く。


画面に並ぶのは、現代日本の平穏極まりない情報たち。


有名芸能人の結婚のニュース、プロ野球の試合結果、週末の行楽地の天気予報、そしてSNSのタイムラインに流れる、誰かのランチの写真や他愛のない呟き。


栞は呆然と、そのスクロールされる文字の群れを見つめた。


テレビの電源ボタンを押してみる。


薄型モニターから、賑やかな笑い声と軽快なBGMが流れ出した。


昼前のワイドショー番組。流行りのスイーツの特集を、タレントたちが笑顔でレポートしている。


「…………」


虚ろだった。


信じられないほど、何もかもが白々しく、遠い世界の出来事のように思えた。


音は鼓膜を打っているのに、言葉の意味が頭に染み込んでこない。


色鮮やかな映像が流れているのに、網膜を滑り落ちていくだけで、心に何の感情の波も呼び起こさない。


ほんの数ヶ月前まで、自分はこの世界で生きていたはずだった。


オフィスで理不尽に耐え、終電に追われ、この液晶画面の向こう側の世界に縋り付くようにして息をしていたはずだった。


それなのに、今、目の前にあるこの平和な世界は、まるで薄いセロファン越しに眺める書き割りの舞台装置のように、あまりにも希薄で、冷え切っていた。


栞にとっての『現実』は、もうここにはなかった。


あの木漏れ日の差し込むログハウス。


手挽きミルのゴリゴリという重厚な音、スキレットでバターが爆ぜる芳醇な香り。


そして――自分の作った料理を、喉を鳴らし、目を輝かせて美味しそうに平らげてくれた、あの温かな人たちのいる場所。


あそここそが、擦り切れていた自分が命を取り戻した、唯一無二の居場所だったのだ。


――ピッと、テレビの電源を切った。


再び訪れる、古民家の重たい静寂。


栞はスマートフォンの画面を伏せ、膝を抱え込んだ。


――彼を、一人にしてはいけない。


心の底から、声がせり上がってくる。


マグマのように熱く、激しい、魂の奥底からの叫び。


――あの人を、あんな風に一人ぼっちで死なせてたまるものか。


けれど、叫びの直後に、冷徹な現実が頭をもたげる。


私に、何ができるというのだ?


レオンハルトの言う通りではないか。


自分は剣の握り方すら知らない。魔力を操ることも、魔獣を討ち倒す術も持たない。


ただの、元営業事務の女。


戦場に飛び込んでいけば、足手まといになり、レオンハルトの注意を逸らし、かえって彼を死地に追いやるだけではないのか。


「私には……何もない……」


自嘲の言葉が唇から漏れる。


何もできない。ただ安全な場所で耳を塞ぎ、嵐が過ぎ去るのを待つことしか許されていない。


その絶望的な無力さに打ちひしがれ、栞は濡れ縁の板張りに額を押し当てた。


その時だった。


――チリ……。


額を傾けた拍子に、黒髪のサイドから、かすかな金属の擦過音が耳朶を打った。


冷涼で、けれどどこか温かな、微細な波長。


栞はハッとして、右手を持ち上げた。


指先が触れたのは――耳の少し上、黒髪の奥にしっかりと留められていた、一本のヘアピンだった。


『星屑の銀鉱石』。


アクスベル王国の霊峰の絶壁でしか採れないという、神秘の結晶。


指先でなぞると、滑らかに削り出された銀の曲線が、吸い付くように肌になじむ。


夜番の寒さに耐え、凍える指先に息を吹きかけながら、不器用な大男がヤスリを握りしめ、自らの髪を思い浮かべながら夜明けまで削り出してくれた、手作りの装飾具。


――あんたの髪によく似合うと思ってな。


耳を赤く染め、逃げるように立ち去っていったあの男の、あまりにも真っ直ぐで不器用な体温が、今も確かに、この銀の肌の奥深くに息づいていた。


「レオンハルトさん……」


涙が一粒、頬を伝って畳の上へと落ちた。


守られている。


自分は今も、この遠く離れた安全な世界にいながらにして、あの男の命がけの想いに守られているのだ。


そんな男を、見殺しにしていいはずがない。


守られるだけで、ただ震えて待っているだけの存在でいていいはずがない。


私にしか、できないことがあるはずだ。


戦えなくても、剣が握れなくても、私だからこそできる何かが――。


焦燥に駆られ、栞はすがるような思いで視線を彷徨わせた。


広間の畳、薄暗い床の間、そしてその脇に置かれた、祖父が生前愛用していた古い文机。


何気なく、その机の上へと目を向けた瞬間だった。


「……あ」


文机の端に、一冊の大学ノートが置かれていた。


表紙の端が擦り切れ、長年の埃を払った跡がある、祖父・相沢源蔵の遺品整理ノート。


祖父が亡くなった後、この古民家に残されていた古道具や農具の来歴、土地の権利関係などが几帳面に書き留められていた、あの雑記帳だった。


何かに引き寄せられるように、栞は立ち上がった。


畳を踏みしめ、文机の前へと歩み寄る。


ノートを手に取り、パラパラと黄ばんだページをめくっていく。


万年筆の青黒いインクで書かれた、祖父の力強く、けれどどこか丸みを帯びた独特の筆跡。


納屋の修繕記録、果樹の剪定の時期、近所の農家との物々交換の覚え書き。


祖父がこの山あいの地で、自然と向き合い、自給自足の丁寧な暮らしを営んでいた日々の断片が、そこには静かに刻まれていた。


そして――何気なくめくった、あるページの余白。


収支計算のメモの片隅に、鉛筆の濃い芯で、殴り書きのように記された数行の走り書きが、栞の目に飛び込んできた。


『人間、腹が減っては、優しくも強くもなれん。


どんなに立派な志があろうと、どんなに腕っ節が強かろうと、


胃袋が冷え切っていては、人は前を向くことすらできんのだ。


食わせろ。温かいものを腹いっぱい食わせろ。


飯を食うということは、命を繋ぐということだ。


生きる気力を手渡すということだ』


「………………ッッ!」


栞の息が、喉の奥で止まった。


文字が、まるで閃光のように瞳の奥を焼き貫いた。


腹が減っては、人は優しくも強くもなれん。


食わせろ。温かいものを腹いっぱい食わせろ。


飯を食うということは、生きる気力を手渡すということだ。


――そうだ。


頭蓋の奥で、何かが激しい音を立てて弾け飛んだ。


目の前を覆っていた分厚い霧が、突風に吹き飛ばされるように一瞬にして晴れ渡っていく。


そうだ。まさにその通りだ。


自分は何を思い詰めていたのだろう。


なぜ、自分にできないことばかりを数え上げて、絶望していたのだろう。


私は戦士ではない。騎士でも兵士でもない。


魔獣を斬り伏せることなど、最初から求められてなどいないのだ。


けれど――。


行き倒れていたレオンハルトの命を繋いだのは、何だった?


過酷な任務で不眠症に苛まれていた彼の強張った神経を解きほぐし、深い眠りをもたらしたのは、何だった?


怪我の痛みに怯え、将来を悲観していたリュカやマークの瞳に、再び生きる光を灯したのは、一体何だった?


――私の、料理だ。


温かな一杯の珈琲。


湯気を立てる焼きたてのスコーン。


野菜と肉の旨味が溶け出した、熱々の煮込み。


サクサクのパイ生地に閉じ込められた、濃厚なチーズと卵のキッシュ。


自分の手で選び、自分の手で火にかけ、心を込めて差し出した温かな食事が、彼らの冷え切った内臓を温め、傷ついた細胞を蘇らせ、絶望の淵から立ち上がる力を与えてきたのではないか。


戦場にいる彼らは今、飢えている。


寒風吹き荒れる前線で、石炭のような乾パンと塩水スープを前に、心身ともに限界を迎えようとしている。


武器を持つことだけが、戦うことではない。


兵站(へいたん)――過酷な最前線で命を削る兵士たちに、生きるためのエネルギーを、心を支える温もりを、五臓六腑を叩き起こす本物の栄養を届けること。


それこそが、現代の豊かな食の知恵と物資を持ち込める自分にしかできない、唯一無二の戦い方ではないのか。


「……できる」


栞の口から、確信に満ちた言葉が零れ落ちた。


震えていた手足から、冷たさが急速に引いていく。


心臓が、力強いリズムで熱い血液を全身へと送り出し始めていた。


私には、手元に潤沢な資金がある。


麓へ車を走らせれば、世界中の食材や高カロリーの携行食、保存容器が手に入る大型スーパーがある。


そして何より、あの山小屋の裏手には、異世界の奇跡の湧水と、驚異的な薬効を秘めたハーブたちが眠っているのだ。


泥の手袋を外さずに、片手で瞬時に高カロリーを摂取できる、濃厚な補給食。


疲労困憊の身体を内側から急速にリカバリーする、特製の滋養ドリンク。


そして、冷え切った内臓を芯から温め、何日も日持ちする、香辛料を利かせた濃厚な肉と根菜のスープ。


レシピが、調理の手順が、必要な資材のリストが、猛烈なスピードで脳内に組み上がっていく。


栞は顔を上げた。


濡れ縁の節穴から差し込む光を、真正面から見つめ返す。


その瞳の奥には、先ほどまでの迷いも、怯えも、自己憐憫(じこれんびん)も、一片たりとも残っていなかった。


そこにあったのは――。


大切な人たちの命を、自らの手で守り抜くという、凛とした、揺るぎない覚悟の炎だった。


髪に留まった星屑の銀鉱石が、栞の強い意志に共鳴するように、チリチリと青白く眩い光を放っている。


「待っていて、レオンハルトさん」


栞は静かに、けれど鋼のように硬い声で呟いた。


「二度と来るな、だなんて……絶対に聞き入れませんから」


ノートを胸元に抱きしめ、栞は力強い足取りで土間へと駆け出した。


愛車のキーを握りしめ、雨戸を開け放つ。


差し込んできた秋の眩い陽光を全身に浴びながら、栞は戦場を支えるための、命の買い出しへと走り出していった。

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