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第46話:森のざわめきと、届いた警告

木々の梢を渡る風の感触が、いつの間にか肌寒さを帯び始めていた。


初夏の眩しい陽光に満ちていた原生林は、季節の歩みとともに静かに装いを変え、青々と茂っていた巨木たちの葉先が、黄色や淡い朱色へとわずかに色づき始めている。テラスの丸太の手すりに降りる朝露は日ごとに冷たさを増し、吐き出す息が朝一番には微かに白く濁るようになっていた。


相沢栞は、洗いざらしのリネンエプロンを身につけ、山小屋のテラスへと足を踏み出した。


黒髪のサイドには、あの朝にレオンハルトから手渡された、星屑の銀鉱石をあしらったヘアピンが留められている。指先でそっと触れると、滑らかな銀の地金から、いつもの澄み切った静謐な冷気と、あの不器用な男が込めてくれた温かな祈りが、じわりと頭皮を通して伝わってくる。


有給休暇に入ってから、平穏な日々が続いていた。


週に一度は真壁の鑑定事務所を訪れて資産運用の助言を受け、山梨の古民家とこの森の山小屋を行き来しながら、少しずつ家具を整え、新しいレシピを試し、時折訪れるダミアンや若い兵士たちに手料理を振る舞う。


そして――何より、非番の合間を縫って現れるレオンハルトと、暖炉の前で言葉少なく珈琲を分け合う、密やかで愛おしい時間。


そんな穏やかな日常が、これからもずっと続いていくのだと、どこかで信じ切っていた。


――だが。


今朝の森の空気は、いつもと決定的に違っていた。


「……え?」


テラスの縁に立った栞は、思わず息を呑み、周囲の木立へと視線を走らせた。


静寂。


けれど、それは心を落ち着かせるための静寂では断じてなかった。


まるで、巨大な怪物の巨大な口の中に閉じ込められたかのような、息の詰まるような、異様で不気味な沈黙。


いつもなら梢のあちこちで競い合うように響いているはずの、山鳥たちの澄んださえずりが、ただのひと声も聞こえない。草むらを這う小動物の気配も、せせらぎの周囲を舞うはずの羽虫の姿すら、完全に消え失せていた。


――ピィッ……!!


背後で、悲鳴のような鋭い鳴き声が上がった。


栞の肩の上、エプロンの襟元に潜り込んでいたポムが、全身の毛を逆立てるようにして飛び出してきたのだ。


栗色の巻き毛を激しく震わせ、四枚の薄羽を小刻みに羽ばたかせながら、森の奥深く――北の山並みの方向を指差し、怯えきった様子で栞の頬にすがりついてくる。その小さな身体は、まるで氷水に浸けられたかのようにカタカタと激しく震えていた。


「ポム……? どうしたの、そんなに震えて……」


栞が小さな身体を包み込もうと両手を伸ばした、まさにその瞬間だった。


――バササササササササッッッッ!!


鼓膜を劈(つんざ)くような、凄まじい破裂音が頭上から降り注いだ。


何百、何千という鳥たちの群れが、原生林の樹冠から一斉に空へと飛び立ったのだ。


瑠璃色の美しい野鳥も、猛禽類も、小鳥たちも、互いを捕食することすら忘れ、ただ何かに追われるように狂乱の羽音を響かせながら、南の空へと一直線に逃げ惑っていく。森の空が、逃げ去る無数の黒い影によって覆い尽くされる。


そして――。


――ズゥゥゥゥゥゥン……。


足元の床板を通して、地中深くから這い上がってきたのは、大気を直接揺るがすような、不快極まりない重低音だった。


地震ではない。


地脈そのものが軋み、何千何万もの巨大な足音が遠くの大地を踏み荒らしているかのような、連続した微細な振動。


遠くの峡谷の向こうから、風に乗って微かに届いてきたのは、獣のそれとは思えない、無数の魔獣たちが放つ禍々しい咆哮の重奏だった。


肌を刺すような、凍てつく突風が吹き荒れる。


紅葉しかけた木々の葉が激しく千切れ飛び、テラスの床板に擦れ合う乾いた音が響く。


空気が、急速に濁っていくのが分かった。


焦げたような、硫黄と血の錆が混ざり合ったような、吐き気を催す冷たい悪臭。


「な……なに、これ……?」


栞の背筋に、氷柱を突き立てられたかのような悪寒が走った。


何かが起きている。


この森の、人が決して足を踏み入れてはならない最深部で、取り返しのつかない決定的な異変が起きているのだ。


恐怖に手足が竦み、一歩も動けなくなった栞の耳に――。


――ザッ、ザッ、ザザッッ!!


猛烈な勢いで藪を切り裂き、木立を薙ぎ倒しながら疾走してくる、激しい足音が飛び込んできた。


それは、普段のゆったりとした巡回の歩調などでは断じてなかった。


重厚な金属鎧を身にまとっていることすら忘れさせるほどの、驚異的な脚力と突進力。


バキバキと太い木の枝がへし折れる音が響き、生い茂るシダの群生を力任せに蹴散らしながら、その巨躯がテラスの前庭へと飛び出してきた。


「…………っ!!」


栞の息が止まった。


そこに現れたのは――レオンハルトだった。


けれど、その姿は、栞がこれまでに見たどの瞬間とも根本から異なっていた。


漆黒の甲冑は、深い森の泥と木の脂にまみれ、肩のウールマントは風圧で激しく後ろへと引き裂かれるようになびいている。


そして――何よりも栞を戦慄させたのは、その右手に握りしめられていたものだった。


背中に収まっているはずの、あの巨大な両手大剣。


それが、すでに鞘から抜かれ、白刃を剥き出しにした『抜き身』の状態で、男の右手に固く握りしめられていたのだ。


刃渡り一メートル半を超える、重厚な鋼鉄の刀身。


朝の冷たい光を浴びて青白い光をギラギラと反射するその刃先には、まだ血こそついていなかったが、いつでも眼前の命を断ち切る準備ができているという、研ぎ澄まされた凶悪な殺気が渦巻いていた。


――ダンッッ!!


レオンハルトはテラスの木製階段を一歩で跳び越えるようにして駆け上がり、ウッドデッキの上へと踏み込んできた。


床板が軋み、凄まじい風圧が栞の髪を乱暴に煽る。


「レオンハルト……さん……?」


震える声でその名を呼んだ栞に対し、男の銀の双眸が向けられた。


その瞳を見た瞬間、栞は喉の奥を冷たい刃先で突かれたかのような衝撃を受けた。


そこにあったのは、先日暖炉の前で微笑んでくれた、あの穏やかで不器用な青年の瞳ではなかった。


瞳孔は極限まで細まり、刺すような冷徹さと、張り詰めた殺気配を剥き出しにした――正真正銘、戦場に立つ『氷の番犬』の眼光。


男の呼吸は激しく乱れ、鋼鉄の胸当てが大きく上下している。額には冷や汗がびっしりと浮かび、引き結ばれた薄い唇からは、荒い白い息が漏れ出していた。


「……シオリ」


低く、地を這うような重低音。


男は抜き身の大剣を斜め下に構えたまま、一歩、栞へと詰め寄った。


その全身から放たれる圧倒的な威圧感に、ポムが「ピィッ!」と悲鳴を上げて栞の胸元へと逃げ込む。


「レオンハルトさん、一体何が……その剣は……」


「問答をしている時間はない」


男は栞の言葉を、冷酷なまでの断調で遮った。


眉間には、かつてないほど深く、険しい溝が刻まれている。その峻厳な顔立ちは、まるで鉄で鋳造された仮面のように硬直していた。


「森の最深部……北の霊峰の断層帯で、魔獣の異常活性化(スタンピード)の兆候が確認された」


「魔獣の……異常活性化……?」


「何百、何千という魔獣が、群れを成して一斉に暴走を始めている」


レオンハルトの言葉は、短く、無駄を削ぎ落とされた軍事報告のようだった。


「すでに前衛の斥候部隊が接触し、壊滅的な被害を受けた。活性化した群れの先頭集団は、この境界の森を南下し、王国本土へと向かう進路上にある。……この山小屋も、完全に奴らの侵攻ルート――危険区域の真ん中に位置している」


「そん……な……」


栞の足元から、血の気が引いていく。


何千もの魔獣。


かつてレオンハルトが行き倒れ、ダミアンや若い兵士たちが命がけで討伐していた、あの凶暴な怪物たちが、津波のような大群となってこの穏やかな森を押し流そうとしているのだ。


「アクスベル王国辺境警備隊は、全小隊へ総動員令を発令した」


レオンハルトは握りしめた大剣の柄を、ギリ……と軋ませた。


「俺の第三小隊を含め、全戦力が北の峡谷の防衛ラインへと展開し、奴らを食い止める。……かつてない規模の総力戦になる。この森は、数刻のうちに血と泥の戦場へと変わる」


「全戦力……じゃあ、ダミアンさんも、リュカさんもマークさんも……!?」


「怪我人だろうと関係ない。武器を持てる者は全員、最前線の防壁へと駆り出される。……生き残れる保証は、誰にもない」


男の声は、どこまでも平坦だった。


感情をすべて削ぎ落とし、ただ冷徹な事実だけを告げる指揮官の声。


けれど――。


大剣を握る男の拳の関節が、白く浮き上がるほどに強張っているのを、栞は見逃さなかった。


部下の命を誰よりも重く受け止め、毎夜の不眠に苦しみ続けていた男だ。その彼が、怪我の癒えきっていない若い部下たちを率いて、死地へと赴かねばならない現実。


その胸の内にどれほどの地獄の業火が渦巻いているか、張り詰めた横顔の奥から、痛々しいほどの苦悩が滲み出ていた。


「レオンハルトさん……私に、何かできることは……」


思わず、言葉が口をついて出た。


自分は戦えない。剣を振るうことも、魔法を使うこともできない、ただの無力な元OLだ。


けれど、この人が、あの愛すべき仲間たちが、命を落とすかもしれない戦場へ向かおうとしているのに、ただ黙って見ていることなどできなかった。


「何か、手伝えることはありませんか!? 食料なら、私の世界からいくらでも……」


「――黙れッ!!」


雷鳴のような一喝が、テラスに轟いた。


「…………っ!?」


栞の身体が、衝撃に弾かれたように硬直した。


レオンハルトは一歩踏み込み、大剣の切っ先を地面へと突き立てた。


ガギィン、と鈍い金属音が床板を打ち鳴らす。


男は肩を怒らせ、血走った銀の瞳で、栞の顔を真正面から睨み据えていた。


その瞳に宿っていたのは、怒りではなかった。


それは――狂おしいほどの、絶叫に近い『拒絶』だった。


「あんたに何ができる!? 木の実を摘み、菓子を焼き、安全な場所で珈琲を淹れることしか知らぬ他国の女が、戦場で何の役に立つというのだ!!」


容赦のない、残酷な言葉の刃。


これまでの穏やかで優しい時間を、すべて根底から踏みにじるかのような、冷酷極まりない拒絶。


けれど、叫ぶ男の喉仏は激しく震え、その瞳の奥には、今にも引き裂かれそうなほどの悲痛な叫びが渦巻いていた。


――巻き込みたくない。


――この場所を、この温もりを、自分の住む血塗られた地獄へ引きずり込みたくない。


その切実すぎる想いが、あえて男に、最も冷酷な仮面を被らせていたのだ。


「いいか、シオリ。よく聞け」


レオンハルトは息を荒らげながら、大剣を引き抜き、背後の山小屋のドア――あの欅の板戸へと続く木製の扉を、剣先で指し示した。


「今すぐ、あの扉を開けろ」


低く、押し殺した重低音。


「あんたの荷物をすべて持ち、あの扉の向こう……あんたの元の世界へと戻れ。そして――」


男の薄い唇が、苦痛に歪んだ。


吐き出すことすら耐え難い宣告を、自らの魂を切り刻むようにして、男は一文字ずつ紡ぎ出した。


「扉を閉めろ。……鍵をかけろ」


「…………え?」


「鍵を抜いて、二度と……こちらの世界へは来るな」


「………………ッッ!」


世界が、音を立てて崩れ去ったような気がした。


二度と、こちらの世界へは来るな。


その言葉の意味を、栞の脳が理解することを激しく拒絶していた。


「嫌……嫌です、レオンハルトさん……! どうしてそんなことを言うんですか……! ここは私の……私たちの居場所でしょう!? 扉を閉めて鍵を抜いてしまったら……もう二度と、あなたに会えなくなってしまう……!」


「それでいい!!」


レオンハルトは叫んだ。


その叫び声は、まるで自らの心臓を刺し貫いた獣の慟哭のようだった。


「あんたは、こちらの世界の住人ではない! 守る義理も、命をかける理由も何ひとつないのだ! ここはまもなく、魔獣の爪と牙がすべてを喰らい尽くす死地となる! この小屋も、テラスも、あの木漏れ日も……すべて踏み躙られて消え失せるのだ!!」


男は一歩、栞へと近づいた。


その大きな手が、かつてないほど激しく震えている。


伸ばしかけた手。


栞の頬へ、あるいはその黒髪へと触れようとした武骨な指先。


けれど、男はその手を途中で固く握り締め、胸元へと強引に引き戻した。


汚れた手で、触れてはならないと自らを戒めるように。


男の銀の瞳が、一瞬だけ――栞の黒髪のサイドで慎ましやかに輝く、あの『星屑の銀鉱石』のヘアピンへと落ちた。


朝の光を浴びて、健気に銀の光を放つその装飾具。


夜番の寒さに耐え、凍える指先で削り出した、自らの想いの結晶。


それを見つめた瞬間、レオンハルトの頑なな表情が、ほんの一瞬だけ、泣き出しそうな子供のように崩れかけたのを、栞は見逃さなかった。


「……頼むから」


掠れた、消え入りそうな声が漏れた。


命令ではない。指揮官の指示でもない。


ひとりの男の、魂の底からの哀願。


「……頼むから、生きていてくれ。……あんたが安全な場所で、生きていてくれさえすれば……俺は……」


それ以上、言葉は続かなかった。


続けられなかったのだ。


これ以上ここに留まれば、自らの決意が鈍ってしまうと恐れたのだろう。


レオンハルトは、無理やり表情を氷の仮面へと戻すと、奥歯をギリリと噛み締めた。


そして――。


栞の返事を待つことなく、男は踵を返した。


――バサッッ!


漆黒のマントが、冷たい突風を孕んで大きく宙を舞う。


男は大剣を握り直すと、テラスの手すりを飛び越え、前庭の地面へと音を立てて着地した。


「レオンハルトさんッ!!」


栞がテラスの手すりへと駆け寄り、叫ぶ。


だが、男は二度と振り返らなかった。


大股で、大地を蹴り、木立の向こうへと疾走していく漆黒の背中。


シダの葉を薙ぎ倒し、立ち込める煙霧を突き破りながら、男は地鳴りの響く北の空――死の待つ最前線へと向かって、一直線に駆け戻っていった。


あっという間に、その姿は木々の影へと呑み込まれて消え去った。


遠ざかっていく金属の足音。


そして、森の深部から響く、不気味な地鳴りの重低音だけが、地表を震わせ続けていた。


――ヒュゥゥゥ……。


冷たい風が吹き抜け、テラスの上に落ちていた枯れ葉をカサリと巻き上げる。


静寂。


けれど、それは先ほどまでの静けさとは違う、すべてが失われていく予感に満ちた、凍てつくような孤独の冷気だった。


「ピィ……ピィ……」


胸元で、ポムが悲しそうに鳴きながら、栞の服の布地を小さな手で握りしめていた。


栞の手足は、鉛のように重たかった。


テラスの手すりを握る指先が、白く強張っている。


――扉を閉めろ。


――鍵をかけろ。


――二度と、こちらの世界へは来るな。


耳の奥で、あの男の叫びが何度も、何度もリフレインしていた。


冷酷に突き放すような言葉。


けれど、その奥にあったのは、自分を生かすためなら自らの心を悪鬼に変えてでも守り抜こうとする、あまりにも不器用で、痛ましいほどの愛情だった。


栞はゆっくりと、引きずられるようにして振り返った。


リビングの奥。


薄暗い室内の向こうに、あの古民家の土間へと繋がる、重厚な欅(けやき)の板戸が見えていた。


あの扉をくぐり、現代の古民家側へと戻り、真鍮の鍵を抜いてしまえば。


自分は、完全に安全な世界へと逃げ延びることができる。


魔獣の爪も、牙も、血生臭い戦乱も、何ひとつ届かない、平和で温かな現代の日常。


手元には、九百万円を超える資産がある。生活に困ることもない。


あの男が命をかけて望んだ通り、自分は安全な場所で、何不自由なく生き続けることができるのだ。


けれど――。


栞の足は、その扉へと向かって一歩も動かなかった。


胸の奥底で、何かが激しく、燃えるような熱さで疼いていた。


髪に挿した星屑のヘアピンが、冷たい風の中で、チリチリと微細な熱を放っている。


あの男を、一人にしていいはずがない。


あの優しい仲間たちを、冷たい泥の中で死なせていいはずがない。


開け放たれた山小屋のテラスで、森の奥から吹き付ける冷たい風を一身に浴びながら、栞は納戸の板戸の前で、拳をぎゅっと握りしめたまま、ただ一人、立ち尽くしていた。

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