第45話:鏡の中の横顔と、自覚した熱
木立の向こうへと駆け去っていった重たい軍靴の谫おとは、やがて原生林の深い葉擦れのざわめきの中に呑み込まれ、完全に途絶えた。
森には再び、鳥たちの澄み切ったさえずりと、裏手を流れる清流のせせらぎだけが戻っていた。
テラスの縁に立ち尽くしていた栞は、初夏の乾いた風が吹き抜けてエプロンの裾をふわりと揺らすのを感じ、ふっと深い息を吐き出した。
――すぅ……、はぁ……。
吸い込んだ空気は青葉の香りをたっぷりと含んで清々しいはずなのに、胸の奥底で激しく打ち鳴らされている早鐘のような鼓動は、一向に静まる気配を見せなかった。トクン、トクンと、肋骨の裏側を直接ノックされているかのような、痛いほどの熱い拍動。
両の手のひらの中に残された、擦り切れた小さな革の小箱。
黒染めの色が落ちて茶色い下地が覗くその無骨な箱は、大人の掌にすっぽりと収まるほど小さいのに、まるで鍛冶屋の炉から引き抜いたばかりの鉄のように、じわりと確かな熱を保っていた。
手渡された瞬間に触れ合った、レオンハルトの大きな指先の熱気。
そして、あの不器用な男が、耳まで真っ赤に染め上げながら絞り出した、最後の言葉。
『……あんたの……その、黒い髪によく似合うと思ってな』
――ッ!
その声音が脳裏に蘇るだけで、栞の頬は再びカッと音を立てるように熱く沸騰した。
首筋から耳の先端まで、熱い血液が一気に押し寄せてくるのがわかる。
「ピィ……?」
小箱の蓋の端にちょこんと止まっていたポムが、主人の去っていった森の奥と、真っ赤な顔をして立ち尽くす栞を交互に見上げ、小首をかしげた。
四枚の半透明の薄羽をパタパタと震わせながら、琥珀色の大きな瞳をぱちくりと瞬かせている。
「……あ、あはは。大丈夫よ、ポム。なんでもないの……本当になんでもないんだから」
誰に対する言い訳かも分からない言葉を口早に紡ぎながら、栞は手のひらの小箱を落とさないよう両手でしっかりと包み込み、山小屋のリビングへと足早に戻った。
テラスの掃き出し口を抜け、室内へと足を踏み入れる。
蜜蝋ワックスで丁寧に磨き上げられた飴色の床板が、窓から差し込む朝の光を受けて柔らかく反射している。
静かな部屋の中には、壁掛けの古時計が刻むチクタクという硬質なリズムと、時折吹く風が煙突を揺らす微かな音だけが満ちていた。
栞はキッチンのカウンターを通り過ぎ、リビングの奥、丸太の壁に据え付けられたアンティーク調の木製サイドテーブルの前へと進んだ。
引き出しに手をかけ、静かに引く。
中から取り出したのは、祖父の遺品整理の際、古民家の文机の引き出しから見つけ出して大切に持ってきた、一本の手鏡だった。
真鍮のフレームに繊細な葡萄の唐草模様が彫り込まれた、手のひらより一回り大きな素朴な丸鏡。長年の使用によって真鍮の地金は落ち着いた鈍色に曇り、手になじむ適度な重みがある。
栞はその手鏡をテーブルの上に斜めに立てかけると、深呼吸をひとつして、革の小箱を目の前に据えた。
パチン、と真鍮の留め金が外されたままの小箱。
黒いビロードの布の上に横たわっているのは、朝の光を吸い込んで銀色に瞬く、一本のヘアピンだった。
栞は震える指先を伸ばし、その細工物の軸をそっとつまみ上げた。
――スッ……。
指の腹に伝わってきたのは、金属特有の冷涼な硬質さ。
けれど、先端にあしらわれた『星屑の銀鉱石』に視線を落とした瞬間、栞は息を呑んだ。
アクスベル王国の北の境界、人が容易に踏み入ることすら叶わない霊峰の絶壁でしか採れないという、神秘の鉱石。
氷の結晶を思わせる銀白色の母岩の奥底に、無数の微細な星の破片が閉じ込められているかのように、見る角度によって青く、白く、幽玄な輝きを明滅させている。
そして、その石を包み込む、銀の爪と軸。
極小のヤスリの刃先を丹念に滑らせて作られたのであろう、優美な曲線。
夜の防壁の上で、凍える指先に息を吹きかけながら、この鉱石を削り、磨き、一本のヘアピンへと仕立て上げた大男の姿が、ありありと目に浮かぶようだった。
あの、大剣一本で巨大な魔獣を屠り、部下の前では一切の弱みを見せない冷徹な小隊長が。
無骨な指先で、この小さな装飾具を握りしめ、夜明けまで時間を忘れて削り続けていたのだ。
――ただ、自分の髪に似合うと思って。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
けれど、それは苦しい痛みでは決してなかった。乾ききっていた大地に温かな雨が染み渡っていくような、泣きたくなるほど甘やかで、切ない疼きだった。
「……挿してみようかな」
ポツリと呟いた栞に、肩の上へと飛び移ってきたポムが「ピピィッ!」と力強く羽を打ち鳴らして後押ししてくれた。
栞は手鏡の前に正座するように腰を下ろした。
右手で銀のヘアピンを持ち、左手の指先で、首元でゆるく束ねていた黒髪のサイドをそっとすくい上げる。
耳の少し上、後頭部へと流れる髪の束。
そこへ、ヘアピンの滑らかな先端を差し入れた。
――スルスルッ……。
驚くほど抵抗がない。
髪の毛の一本一本を引っ掛けることなく、吸い込まれるように滑らかに、銀の軸が黒髪の奥深くへと滑り込んでいく。
髪を留めるためのカーブの角度まで、完璧に計算し尽くされていた。
パチン、と心地よい微かな手応えとともに、ヘアピンが髪をしっかりとホールドする。
その瞬間だった。
――ツン……。
頭皮から首筋にかけて、まるで澄み切った清流の雫が落ちたかのような、涼やかな冷気の波動がすうっと駆け抜けていった。
魔除けの加護。
頭の芯の曇りを一瞬で払い落とし、精神を穏やかに鎮めてくれるような、静謐な守りの力。
そして、その冷たい加護の奥底から、信じられないほど確かな――あの男の武骨な温もりが、髪を通してじんわりと頭皮へと広がっていく。
「…………あっ」
栞は思わず顔を上げ、テーブルの上の手鏡を覗き込んだ。
真鍮のフレームに切り取られた、鏡の中の自分の姿。
漆黒の艶やかな黒髪。
その耳の少し上の位置に――。
朝の木漏れ日を反射して、息を呑むほど美しく、控えめでありながら凛とした銀の光が、まるで夜空に咲いた一輪の星のように、慎ましやかに輝いていた。
黒と銀。
派手すぎず、けれど決して埋もれることのない、完璧な調和。
黒髪の深い影があるからこそ、星屑の銀鉱石が放つ清冽な光彩が際立ち、逆にその鉱石の輝きが、黒髪のしっとりとした質感を優雅に引き立てている。
――あんたの、黒い髪によく似合うと思ってな。
男の言葉は、これっぽっちも嘘ではなかった。
お世辞でも、適当な言い訳でもなかった。
あの男の研ぎ澄まされた審美眼と、真っ直ぐな想いが、この一本のヘアピンの中に寸分の狂いもなく結実していたのだ。
「ピピィッ! ピキャキャッ!!」
鏡の中の栞の姿を見た瞬間、肩の上のポムが歓喜の声を上げて飛び上がった。
リビングの空中でくるくると三連宙返りを決め、光の粉をパタパタと撒き散らしながら、栞の頭の周りを嬉しそうに旋回する。
そして、再び栞の肩の上へと軽やかに舞い降りると、小さな両手を胸の前で合わせ、パチパチ、パチパチと、精一杯の力で拍手を送ってくれたのだ。
琥珀色の瞳をキラキラと輝かせ、まるで「すごく似合ってるよ!」「すっごく可愛いよ!」と全身で叫んでいるかのような、誇らしげな笑顔。
「ふふ……ポムったら、大げさなんだから」
栞は照れ笑いを浮かべながら、そっと右手を持ち上げた。
指先で、髪に留まったヘアピンの鉱石の表面を撫でる。
つるりとした滑らかな切断面。
触れた指先から、再び胸の奥へと甘い熱が逆流してくる。
栞は両手を持ち上げ、自らの両の頬へとそっと当てた。
――カァッ……。
手のひらに伝わってきたのは、耐え難いほどの熱気だった。
熱い。
まるで熱湯に浸したタオルを押し当てられているかのように、頬も、耳も、首筋も、限界まで赤く染まり上がっていた。
「…………私」
声が、掠れた。
自分の手のひらの熱さを確かめながら、栞は鏡の中の自分を見つめ返した。
胸の奥底で、何かが決定的に、音を立てて形を変えていく。
もう、誤魔化すことはできなかった。
便利なお客さんでもない。
ただの常連の青年剣士でもない。
自分を護ってくれる、異世界の逞しい騎士様、というだけでもない。
――私……あの人のこと……。
喉元まで出かかったその言葉を、栞は心の中で、しっかりと、一文字ずつ噛みしめるように呟いた。
――私、レオンハルトさんのことが……好きなんだ。
一人の、男性として。
不器用で、無口で、誰よりも責任感が強くて、甘いものを口にするとふわりと眉間を緩める、あの愛しい人を。
胸を焦がすようなこの激しい熱の正体を、栞は今、はっきりと、完全に自覚していた。
信じられない思いだった。
今年で、三十歳。
大学を卒業して中堅商社に就職してからというもの、栞の人生はただただ「摩耗」の連続だった。
理不尽な業務の押し付け、終わりの見えない残業、他人のミスを背負わされて頭を下げ続ける日々。
擦り切れたパンプスの踵を見つめながら終電に揺られ、アパートの冷え切った部屋に帰り着くたびに、生きる気力すら削り取られていた。
恋だの愛だのといった甘やかな感情は、二十代のどこかで疾うに置き去りにしてきたはずだった。
誰かに期待しても傷つくだけ。
誰かに寄り添おうとしても、都合よく利用されるだけ。
「私にはもう、誰かを好きになる感情なんて残っていない」「これからはただ一人で、静かに、誰の迷惑にもならないように生きていくだけだ」。
そうやって、自らの心に分厚い防壁を築き、感情を鈍麻させて生きてきたのだ。
それなのに。
三十歳を過ぎて。
会社を辞め、逃げ込むようにやってきたこの異世界の山小屋で。
泥まみれで行き倒れていたあの不器用な大男と出会い、珈琲を淹れ、スコーンを焼き、言葉を交わしていくうちに――。
凍りついていたはずの心が、まるで春の激しい雪解け水のように、こんなにも激しく、切なく、温かく脈打ち始めている。
誰かが、自分のためだけに時間を使ってくれたこと。
夜番の寒さに耐えながら、自分の黒髪を思い浮かべて、一本の銀の線を削り出してくれたこと。
その不器用すぎる想いの重みに、胸が潰れそうなほど高鳴り、涙がこぼれそうになるほど愛おしさを覚えている自分がいる。
――私、まだ……こんな風に、誰かを想って胸を熱くすることができるんだ。
その事実に対する驚きと、震えるような喜びが、胸の奥底を満たしていった。
栞はもう一度、鏡の中の自分をじっと見つめた。
そして――ハッと息を呑んだ。
「…………これ、私……?」
思わず、独り言が口をついて出た。
鏡の中に映っていたのは、かつてのオフィスで毎日見ていた、あの生気を失った女の顔ではなかった。
蛍光灯の青白い光の下で、目の下に紫黒い隈を張り付かせ、肌はカサカサに乾き、死んだ魚のような濁った瞳をしていた、あの三十歳のOLの姿は、どこにもなかった。
そこにいたのは――。
初夏の木漏れ日を浴びて、内側から発光するように生き生きとした潤いをたたえた、ひとりの女性の姿だった。
頬には、恥じらいと生命力に満ちた、健康的な淡い桜色の血色が差している。
唇は瑞々しく艶めき、黒髪は森の清流の水を吸ってしっとりと落ち着き、何より――その両の瞳の奥には、濁りのない、澄み切った光が力強く宿っていた。
耳元で慎ましく輝く、星屑の銀のヘアピン。
その銀色の光彩が、鏡の中の栞の表情を、まるで別人のように輝かせていた。
――変わったんだ。
栞は自らの胸元に手を当てた。
祖父の真鍮の鍵を手に取り、この森の扉を開いてから数ヶ月。
手挽きの珈琲を淹れ、自分の手で山小屋を磨き、美味しいご飯を作り、大切な人たちの笑顔を見守ってきた時間。
そのすべてが、オフィスで死にかけていた栞の命を、細胞のひとつひとつから蘇らせてくれたのだ。
そして――何より。
あの不器用な黒騎士が。
泥だらけの甲冑を纏い、不眠症に苦しみながらも、栞の作った料理を命の恩だと受け取り、誰よりも誠実に、真っ直ぐに自分を見つめ続けてくれたあの男の存在が、栞の中に眠っていた女性としての命の炎を、再び灯してくれたのだ。
もう、迷いはなかった。
かつて栞を縛り付けていた、あの灰色の日常。
他人の顔色を窺い、理不尽に耐え、ただ生き延びるためだけに身を削っていた、あの息の詰まる都会のオフィス。
そこへ戻る理由など、もはや一片たりとも残されていなかった。
手元には、真壁宗助の助力を得て築き上げた、九百万円を超える正当な個人資産がある。
祖父が遺してくれた、山梨の山あいの静かな古民家がある。
そして――この欅の板戸の向こうには、澄み切った清流と、豊かなハーブと果実が実る奇跡の森があり、自分の作ったご飯を待ってくれる、愛しい人たちがいる。
有給休暇の四十日間が終われば、退職日はすぐにやってくる。
会社員という肩書きを完全に脱ぎ捨て、社会のレールから降りることに対する恐怖は、今の栞の胸には微塵もなかった。
あるのは、ただただ澄み切った、圧倒的な覚悟だけだった。
――私は、ここで生きる。
誰かに決められた人生ではなく。
誰かの都合のいい歯車になるのでもなく。
自分の足でしっかりと大地を踏みしめ、自分の手で選んだこの場所で、愛する人たちのために美味しいものを焼き、温かな一杯を淹れ続けていく。
そして――あの不器用な騎士の隣で、彼が重たい鎧を脱ぎ、穏やかに笑っていられるための『帰る場所』を守り抜いていくのだ。
「……よし」
栞は小さく呟き、鏡の前から立ち上がった。
背筋をすっと伸ばす。
髪に挿した星屑のヘアピンが、栞の動きに合わせてキラリと涼やかな光を散らした。
肩の上のポムが、栞の決意に満ちた横顔を見上げ、嬉しそうに「ピピィッ!」と鳴いて頬にすり寄ってくる。
栞は窓辺へと歩み寄り、テラスの掃き出し口から、眩い初夏の原生林を見渡した。
見渡す限りの緑の海。
木漏れ日が地面に無数の金色の斑紋を描き、吹き抜ける風が、青く光る星型の野花たちを一斉に波打たせている。
その風の向こう、森の奥の砦へと続く小道を見つめながら、栞の唇に、迷いのない、誇らしげな微笑みが浮かんでいた。
――待っていてくださいね、レオンハルトさん。
次にあなたがやってきた時には。
この髪飾りのお礼を、とびきり美味しいご馳走と、とびきり甘い焼き菓子に乗せて、真っ直ぐに伝えてみせるから。
差し込む金色の光の中で、星屑の銀鉱石が、まるで未来を祝福するように、どこまでも清らかに、永遠の輝きを放ち続けていた。




