第44話:あんたの髪によく似合う
――パチン、と乾いた真鍮の留め金が外れ、古びた革の蓋がゆっくりと持ち上がった。
擦り切れた小箱の内側には、年月を経て深い艶を宿した、真夜中の闇のように濃密な黒いビロード布が敷き詰められていた。
そして――その布の中央に、静かに横たえられていたもの。
「…………っ」
栞の喉から、声にならない呼気が漏れた。
朝の澄み切った陽光が、テラスの庇を越えて手元へと真っ直ぐに差し込んでくる。その光を浴びた瞬間、箱の中に収まっていた細工物が、まるで息を吹き返した生き物のように、息を呑むほど鮮烈な輝きを放ち始めたのだ。
それは――一本の、金属製のヘアピンだった。
大人の人差し指ほどの長さを持つ、繊細で優美な銀の細工。
けれど、ただの装飾具では決してなかった。
その先端に掲げられていたのは、小豆粒ほどの大きさをした、信じがたい透明度を誇る鉱石の結晶だった。
ダイヤモンドのようにギラギラとした自己主張の強い輝きではない。
氷の結晶を思わせる透き通った銀白色の母岩の中に、まるで満天の夜空から零れ落ちた星屑を、その瞬間の煌めきごと閉じ込めたかのような――微細で、青く、白く、幽玄に瞬く幾千の光の粒子。
見る角度を変えるたび、光は淡い銀嶺の輝きから、夜明け前の空のような澄んだ白菫色へと、滑らかにその表情を変えていく。
しかも、驚くべきはその鉱石を支える、銀の軸そのものの造形だった。
なだらかな曲線を描き、髪に滑り込ませやすいよう絶妙な弧を描く金属のライン。
先端に向かってわずかに細まり、鉱石を包み込む爪の部分は、まるで森の木の芽が大切な種子を優しく守るかのように、立体的で柔らかな意匠が施されていた。
表面は、信じられないほど丹念に磨き抜かれている。
だが、機械で作られたような冷徹な均一さはそこにはなかった。
光に透かして凝視すれば、ヤスリの極小の刃先をミリ単位でコントロールしながら、幾重にも、幾千回にもわたって銀の肌を擦り、削り、磨き上げていったのであろう――手仕事特有の、わずかな揺らぎと、気の遠くなるような集中の痕跡が、確かな質感となって刻み込まれていたのだ。
「……ピィ……!」
テラスの手すりの端から、ポムが息を呑むようにして羽を震わせた。
好奇心旺盛なピクシーが、吸い寄せられるようにふわりと舞い上がり、栞の手元の小箱の縁へとそっと降り立つ。
琥珀色の瞳をこれ以上ないほど見開いて、先端の鉱石を覗き込んだポムは、小さな両手を頬に当て、「ピキャァ……」とうっとりとした感嘆の声を漏らした。森の精霊にとっても、その鉱石が放つ波長は、息を呑むほど清らかで神聖なものに感じられたのだろう。
「…………綺麗」
栞は震える指先を伸ばし、そっとそのヘアピンの軸へと触れた。
――ツン……と。
金属特有の冷涼な感触が、指の腹を伝わってくる。
だが、その冷たさの奥底から、信じられないほど静かで、温かな微細な脈動が、じわりと指先へと流れ込んできた。
頭の芯の雑念をすべて払い落としてくれるような、清冽な冷気のヴェール。
手にしただけで、首筋から背骨にかけて、すうっと涼やかな風が吹き抜けていくような、不思議な安心感に包まれる。
持ち上げてみる。
驚くほど軽く、けれど手の中に確かな重みを残す、完璧なバランス。
栞の胸の奥底で、トクン、トクンと、鐘を連打するような激しい動悸が鳴り響き始めていた。
――これを、誰が作ったのか。
考えるまでもない。
目の前に立ち尽くす、この男しかあり得ないのだ。
あの、戦場で巨大な魔獣を屠り、鋼鉄の大剣を豪快に振るう、百八十センチを超える大男。
無数の傷跡と硬いタコに覆われた、武骨極まりない大きな手。
その手が――。
この数ミリにも満たない繊細な鉱石を扱い、極小のヤスリを指先で握りしめ、どれほどの時間をかけて、この一本の銀の線を削り出し、磨き上げたというのか。
栞の胸が、激しく締め付けられた。
目頭が熱くなり、言葉を失って立ち尽くす栞の視界の端で――。
――ガシガシ、ガシガシッ!
突如として、何かが激しく擦れ合う音がテラスに響いた。
「…………っ」
栞がハッと顔を上げると、そこにいたのは、今まさに限界を迎えようとしているレオンハルトの姿だった。
男は右手を跳ね上げ、漆黒の短髪を、まるで頭皮を削り落とさんばかりの猛烈な勢いで掻きむしっていた。
大剣を背負った逞しい背筋はガチガチに強張って直立不動の姿勢を取り、その視線は、テラスの天井の梁や、森の彼方の木の枝を、異常な速さで激しく彷徨っている。
栞の顔を、どうしても見ることができないのだ。
そして――何より凄まじかったのは、その顔色だった。
白皙の陶器のように滑らかだった男の肌が。
顎のラインから、引き締まった頬骨、そして額に至るまで、カッと鮮烈な赤に染まり上がっていた。
漆黒の乱れた髪の隙間から覗く耳たぶに至っては、完全に赤熱した鉄塊のように沸騰し、今にも湯気が立ち上りそうなほどだった。
男はゴクリと重たい音を立てて喉仏を上下させると、激しく咳払いをひとつした。
「コホンッ……!」
そして――誰かに言い訳をするように、あるいは自らの羞恥を力ずくでねじ伏せるように、怒鳴るような、けれど消え入りそうな早口で、捲し立て始めたのだ。
「……よ、夜番の合間に……暇つぶしに削っただけだ!」
「え……?」
「砦の……北の防壁の上での夜間哨戒は、極度の寒さと眠気との戦いになる! 気を抜けば凍え死ぬ過酷な任務だ! だから……眠気を覚ますための……手先を動かすための、ただの暇つぶしだ! 他意はない! 決して……大層な意味などないのだ!」
男の言葉は、まるで逃走経路を必死で探す敗残兵のように、脈絡もなく溢れ出していた。
だが、その声の端々が、隠しようもなく上ずり、微かに震えている。
暇つぶし、などという言葉で片付けられるような代物ではないことくらい、この細工を見れば誰にだって分かる。
粗末な道具しかない夜の防壁の上で、凍える指先に息を吹きかけながら、神経を極限まで尖らせて削り続けなければ、こんなにも滑らかな曲面と爪留めが仕上がるはずがないのだ。
レオンハルトは息を切らせ、視線を森の地面の一点へと突き刺したまま、さらに早口で言葉を重ねた。
「……先端の石は、森の最深部……アクスベル王国の北の境界にある霊峰の、絶壁の裂け目でしか採れぬ『星屑の銀鉱石』だ」
「星屑の……銀鉱石……」
「そうだ」
男は唾を飲み込み、胸当ての上で組んだ腕を、さらにきつく締め直した。
「極めて稀少な鉱石で……砦の古参の兵の間では、古くから魔除けの加護があると伝えられている。夜番の際、魔獣の放つ瘴気や、悪しき幻惑から精神を護るための守り石として重宝されてきたものだ。……あんたは、他国の人間でありながら、この境界の森に一人で滞在している。護衛もつけず、丸腰で、無防備に暮らしているのだ。……万が一にも、森の瘴気や邪悪なものに当てられては困る。だから……護符の代わりに持たせようと思っただけだ」
言い訳の嵐。
理屈と義務と実用性で塗り固められた、いかにも真面目で不器用な軍人らしい建前。
けれど――。
男はそこで言葉を詰まらせた。
朝の風が吹き抜け、男の漆黒のマントをふわりと揺らす。
梢の擦れ合うサワサワという音と、遠くのせせらぎの音だけが響くテラス。
レオンハルトは、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。
何か、胸の奥底で最も言いたかったはずの、けれどあまりの気恥ずかしさに喉元でつっかえていた言葉。
それを吐き出すために、男は全身の筋肉を硬直させ、意を決したように拳を強く握りしめた。
そして――。
男はほんの一瞬だけ、泳いでいた銀の瞳を動かし、栞の姿を視界に捉えた。
その声は、先ほどの早口とは打って変わって、地を這うように低く、掠れていた。
「…………あんたの」
ぽつりと、零れ落ちる。
「……あんたの……その、黒い髪によく似合うと思ってな」
「………………ッッ!」
栞の心臓が、跳ね上がった。
ドクン、と胸の奥底で熱いものが激しく波打った。
あんたの、黒い髪に。
よく似合うと思って。
その言葉が、耳の奥から脳内へと響き渡った瞬間――。
栞の思考は、完全に停止した。
魔除けの加護でも、暇つぶしの工作でもなかった。
この男は。
あの過酷な夜の任務の中、凍てつく風に吹かれながら、自分のことを考えていたのだ。
自分の、この黒い髪を。
この髪に挿した時、どんな風に銀の光が映えるかを、その無骨な頭の中で一生懸命に思い浮かべながら。
大きな指先で、小さなヤスリを握りしめ、夜明けまで銀を削り続けていたのだ。
――カァッ……!
栞の首筋から、耳、そして両の頬へと、凄まじい熱波が一気に駆け上がっていった。
熱い。
顔中が沸騰したように熱い。
三十歳になって、オフィスで理不尽に怒鳴られ、感情を押し殺して愛想笑いを浮かべ、誰からも一人の女性として見られることのないまま、ただ便利に使い潰されていた十年間。
もう二度と、自分の人生にこんな感情が訪れることなどないと思い込んでいた。
誰かが、自分のためだけに時間を使ってくれること。
自分の姿を思い浮かべながら、不器用な手で贈り物を拵えてくれること。
その行為の根底にある、真っ直ぐで、純粋で、嘘偽りのない情熱。
それが、これほどまでに胸を締め付け、呼吸を苦しくさせ、甘美な痺れとなって全身を駆け巡るものだとは知らなかった。
手のひらに載ったヘアピンの、銀色に瞬く鉱石。
どんな高級ブランドの宝石よりも、どんな豪奢なドレスよりも、この武骨な騎士が夜番の合間に削り出してくれた一本の銀の線が、息を呑むほどに尊く、愛おしかった。
「レオンハルト……さん……」
栞は震える声で、ようやくその名を呼んだ。
何かを伝えなければならない。
ありがとう、と。
こんなに素敵なものをくれて、嬉しい、と。
大切にします、と。
喉元まで込み上げてきた無数の想いを、言葉にして紡ぎ出そうとした。
――だが。
栞が口を開きかけた、まさにその刹那だった。
「…………っ!」
レオンハルトの全身が、まるで火縄銃の引き金を引かれたかのように、ビクッと跳ね上がった。
顔を真っ赤にし、潤んだ瞳で自分を見つめ返す栞の表情を直視した瞬間――男の中で張り詰めていた理性の糸が、音を立ててプツリと切れたのだ。
己が口にした言葉の重みと気恥ずかしさに、男の防壁が完全に限界を突破してしまった。
男の銀の瞳が、これ以上ないほど見開かれ、呼吸が荒く乱れる。
そして――。
男はガバリと顔を背けると、大剣の柄を抱え込むようにして、踵を返したのだ。
「……じゃあなッッ!!」
怒鳴りつけるような、けれど完全に裏返りかけた掠れ声。
栞の返事など、一秒たりとも待つ気はなかった。
男はテラスの手すりを蹴破らんばかりの凄まじい大股で踏み出すと、ウッドデッキの床板をドカドカと激しく踏み鳴らし、階段を二段飛ばしで駆け下りていった。
「えっ……!? ちょ、ちょっと、レオンハルトさん!?」
栞が慌ててテラスの手すりから身を乗り出して呼びかける。
だが、男の足は止まらなかった。
耳まで、首筋まで真っ赤に染め上げた大男は、漆黒のマントをバサバサと激しく翻しながら、まるで背後から千匹の魔獣の大群に追撃されているかのような恐るべき速度で、森の小道へと突進していった。
シダの葉を乱暴になぎ倒し、腐植土を軍靴の底で跳ね上げながら、一直線に逃げ去っていく黒い背中。
あっという間に木立の向こうへと消え去り、やがて遠くの森の奥から、ガサガサという藪漕ぎの音と、規則正しい金属の足音だけが、遠ざかるように響いていった。
「…………行っちゃった」
栞は手すりに身を預けたまま、ぽかんと口を開けて立ち尽くした。
あまりの逃げ足の速さと、その逃走劇の理由の愛らしさに、胸の中で何かが小さく弾けた。
静かな森の朝。
テラスには、清らかな初夏の風が吹き抜けている。
軒下のセレス草がカサリと揺れ、小鳥たちの囀りが再び木立の間を満たしていく。
「ピィ……?」
小箱の縁に残されたポムが、主人の去っていった森の彼方を見つめ、それから栞の顔を見上げて、不思議そうに小首を傾げた。
まるで「あの大男、なんで急に走って逃げ出したの?」と問いかけているような、無垢な瞳。
そのポムの愛らしい仕草と、耳まで真っ赤にして逃げ去っていった百戦錬磨の小隊長の姿が重なり合い――。
「……ふふ」
栞の唇から、小さく、堪えきれない笑い声が零れ落ちた。
「あはは……っ、もう、本当に……!」
栞は手すりに寄りかかりながら、両手で口元を押さえて、くすくすと笑い声を漏らした。
笑いながらも、両の頬は依然としてリンゴのように熱く火照ったままだった。
手のひらの中に残された、擦り切れた小さな革の小箱。
その黒いビロードの上で、一本の銀のヘアピンが、初夏の眩い朝の光を浴びて、星屑のように優しく、永遠の輝きを放ち続けていた。
男の不器用で、真っ直ぐな体温を、その銀の肌に宿したまま。
栞は息を吸い込み、手のひらの小箱を胸元へとぎゅっと引き寄せた。
心臓の奥底から込み上げてくる温かな熱が、全身を満たしていくのを感じながら、栞は男が駆け抜けていった新緑の森を、いつまでも、愛おしそうに見つめ続けていた。




