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第43話:銀色に瞬く小箱

数日間にわたって森を濡らし続けたあの長雨が嘘のように、空は見渡す限りの澄み渡った青碧(せいへき)に染まっていた。


梅雨のような湿り気を含んだ重苦しい雲はどこへやら、東の稜線から昇った初夏の太陽は、木々の梢を眩いばかりの黄金色に染め上げている。


葉先やシダの青葉に宿っていた無数の雨滴は、朝の光を浴びて宝石のようにきらめき、微風が吹き抜けるたびに、パラパラと清らかな水煙となって地表へと零れ落ちていた。


森全体が、何日分もの水分を吸い上げて瑞々しい生命の息吹を放ち、梢のあちこちから、鈴を転がすような野鳥たちの歓喜の囀(さえず)りが幾重にも折り重なって響き渡っている。


「……んん〜っ!」


山小屋のテラスに出て、栞は大きく両腕を伸ばし、深く背伸びをした。


肺の奥深くまで吸い込んだ朝の空気は、雨上がりの土と新緑の香りをたっぷりと孕み、驚くほどひんやりと澄み切っていた。吸い込むだけで、眠気の残っていた頭の芯がすっきりと洗われていくようだ。


テラスの縁に吊るされたセレス草のドライハーブのブーケは、雨風を避けて室内に退避させていたおかげで湿気ることもなく、再び軒下へと戻されて初夏の乾いた風に揺れている。風が吹き抜けるたび、ライムとミントを思わせる清涼なアロマがふわりと零れ落ちていた。


「ピピィッ、ピキャッ!」


テラスの手すりの上で、ポムが待ちきれない様子で四枚の薄羽を細かく震わせていた。


晴れ渡った空が嬉しいのか、小さな両手を広げてくるくると舞い上がり、朝露をまとった青い星型の野花の上を滑るように飛び交っている。栗色の巻き毛の先で、光の粒がキラキラと跳ね踊っていた。


「おはよう、ポム。本当に気持ちのいい朝ね」


栞は微笑みかけながら、テラスの欅(けやき)の一枚板のテーブルの上を清潔な白布で丁寧に拭き上げた。


数日前のあの激しい雨の日の出来事が、ふっと鮮明に脳裏をよぎる。


ずぶ濡れになって凍え、山小屋のドアを控えめに叩いたレオンハルト。


薪ストーブの前で温かいクラシックショコラと深煎りマンデリンを口にし、生まれて初めて重たい鎧を脱ぎ捨てるようにして、自らの出自と、部下の命を背負い続ける孤独を静かに語ってくれたあの男の横顔。


――ここはね、レオンハルトさんが鎧を脱いで、ただの美味しいものが好きな男の人に戻れる場所なんですから。


そう伝えた瞬間、男の銀の瞳が見開かれ、張り詰めていた心の防壁が解け落ちていったあの沈黙の瞬間。


そして、夕暮れの光の中で浮かべた、これまでにないほど穏やかで温かな笑み。


――あんたの前では、どうにも気が緩むらしい。


あの低く心地よい声の響きを思い出すだけで、栞の胸の奥底が、薪ストーブの火に触れたかのようにぽっと熱くなる。


三十歳を過ぎて、オフィスで心身を擦り減らし、他人に期待することも、誰かと心を通わせることも諦めかけていた。


それなのに、あの頑固で不器用な騎士と言葉を交わし、料理を分け合う時間が、栞の胸にこれまで知らなかった温かな感情を灯し始めていた。


「……朝の珈琲、淹れようかな」


栞は火照りそうになる頬を誤魔化すように小さく首を振り、キッチンスペースへと向かった。


裏手の清流から汲み立ての湧水をケトルに注ぎ、カセットコンロに火を点ける。


手挽きの木製ミルに、コロンビア産の深煎り豆をサラサラと落とし入れ、ハンドルを握った。


――ゴリッ、ゴリゴリ、ガリリ……。


静かな森の朝に、硬質な豆が挽き割れる心地よい音が響き渡る。


排出口から立ち上る、焦がしキャラメルとビターチョコレートの芳醇なアロマ。


お湯が沸き、陶器のドリッパーにセットしたペーパーフィルターへ粉を移して、ゆっくりと一筋の湯を落とし始めた、その時だった。


――サクッ、ザッ。


木立の向こう側から、腐植土を踏みしめる足音が聞こえてきた。


「……え?」


栞の手が、わずかに止まった。


まだ午前八時を回ったばかり。


普段なら、ダミアンたち若手兵士がやってくるのは早くても昼前だ。非番の日の巡回であっても、こんな朝早くに誰かが訪れることは滅多になかった。


――カチャ、チャリン……。


金属の擦れ合う、硬質で重厚な音。


足音はひとつだけ。


ダミアンの慌ただしく軽快な足取りでもなければ、若手たちが連れ立って歩く賑やかな足音でもない。


長大な歩幅で、土をしっかりと捉えながら、けれどどこか――いつもの力強く堂々としたリズムとは違う、奇妙なぎこちなさを孕んだ足音だった。


生い茂るシダの青葉が押し分けられ、木漏れ日の光の筋を浴びて現れたのは――。


「…………レオンハルトさん?」


栞の口から、驚きの声が零れ落ちた。


そこに立っていたのは、間違いなくあの黒騎士だった。


漆黒の甲冑は泥の汚れひとつなく手入れされ、背中には無骨な両手大剣、肩には乾いた漆黒のウールマントを羽織っている。


けれど、その佇まいは、いつになく異常だった。


男は木立の切れ目でピタリと足を止めると、まず最初に――森の左右、そして自らが歩いてきた背後の獣道へと、異様なほど鋭い視線を走らせたのだ。


銀の双眸が、キョロキョロと落ち着きなく周囲の藪(やぶ)を凝視している。


まるで、獰猛な魔獣の奇襲を警戒しているかのような……いや、それとは明らかに違う、誰かに尾行されていないかを極度に恐れているような、落ち着きのない挙動。


風が吹き抜け、葉擦れの音がしただけで、男の背筋がビクッと跳ね上がる。


さらに、山小屋のテラスへと視線を向けると、ウッドデッキの上、ベンチの周囲、そしてリビングの窓の奥までもを、念入りに検分するように見回した。


「ピィ……?」


テラスの手すりの上で、ポムが小首を傾げていた。


いつもなら「大きな黒い人」の姿を見つけると、肩に乗ろうと羽ばたいていくはずの小さな妖精も、隊長のあまりにただならぬ雰囲気を察したのか、手すりの端で様子を窺うように足を止めている。


「レオンハルトさん……? おはようございます。どうされたんですか、そんなところで立ち止まって……」


栞がテラスの手すりから身を乗り出して声をかけると、レオンハルトの肩が、まるで雷撃を受けたかのように大きく跳ね上がった。


「…………っ!」


男の視線が、跳ねるように栞へと向けられる。


白皙の陶器のような肌は、緊張のためか固く引き結ばれ、眉間には深い皺が寄っている。


男は慌てて背筋を正すと、ギクシャクとした、まるで関節の油が切れたかのようなぎこちない大股で、テラスの階段へと歩み寄ってきた。


――ギシ、ミシッ……。


階段を上がり、ウッドデッキの上へと踏み込んでくる。


だが、男の視線は依然として落ち着きなく、栞の顔と、周囲の木立の間を激しく往復していた。


「……レオンハルトさん? 何か、森に異常でもあったんですか……?」


警戒任務で敵影でも見つかったのかと、栞の胸にわずかな緊張が走る。


すると、レオンハルトは小さく息を吸い込み、地を這うような、極端に押し殺した重低音でこう問いかけてきたのだ。


「…………ダミアンは」


「え?」


「ダミアンと……あの部下どもは、まだ来ていないな?」


低く、切実極まりない確認。


栞は目を丸くし、それから思わず拍子抜けしてしまった。


「ダミアンさんたちですか? 来ていませんよ。まだ朝の八時すぎですから……あの子たちが来るとしても、お昼前じゃないかしら」


「…………そうか」


男の喉から、重たい安堵の息が漏れ出た。


けれど、安堵したのも束の間、レオンハルトは再び眉根を寄せ、警戒を解こうとはしなかった。


「……あいつらは、一度味を占めると見境なく嗅ぎ回る。今朝も砦を出る際、俺の装備を見て『隊長、非番なのにどこへ行くんですか〜?』とニヤつきながら近づいてきおった。……振り切るのに、わざわざ南の渓谷を迂回して倍の時間をかけて森に入ったのだ」


「ふふ、そんなに警戒して来てくださったんですね」


栞が微笑むと、レオンハルトは気まずそうに視線を逸らした。


朝の澄み切った陽光が、テラスの床板を黄金色に照らし出している。


鳥の声と、裏のせせらぎの音だけが響く、完全にふたりきりの静寂。


だが――ダミアンたちがいないことを確認したはずのレオンハルトは、いつまで経っても丸太ベンチに腰を下ろそうとはしなかった。


テラスの中央、欅のテーブルのすぐ脇に仁王立ちになったまま、落ち着かない様子で体重を右足から左足へと移している。


大剣を背負った巨躯が、朝の光を遮って、栞の上に大きな影を落としていた。


男の右手が、腰のベルトのあたりを何度も無意味に触り、それからマントの隙間――甲冑の下に着込んでいる黒革の上着の胸ポケットへと、落ち着きなく伸ばされては引っ込められる。


眉間の皺はますます深くなり、薄い唇は固く結ばれ、呼吸が浅くなっているのが見て取れた。


「あの……レオンハルトさん? 立ち話もなんですから、座ってください。今、温かい珈琲を淹れますから」


「……いや。珈琲は……後でいい」


男の声は、硬直していた。


喉がカラカラに渇いているかのように、掠れた声音。


普段の、過酷な任務を前にした時の冷静沈着な指揮官の姿など、どこにもなかった。


目の前にいるのは、まるで重大な軍事機密を敵陣の真っ只中で開封しなければならない新兵のように、全身の筋肉を強張らせ、極度の緊張に晒されている大人の男だった。


「……シオリ殿」


「はい」


「……手を」


「え?」


「……手を出せ」


低く、震えるような命令口調。


けれど、そこには威圧感など微塵もなく、むしろ懇願に近い切迫感が滲んでいた。


栞は瞬きを二度繰り返し、言われるがまま、おずおずと自らの両手を前へと差し出した。


小柄な、料理とDIYで少しだけ手のひらの皮が厚くなった、素朴な女性の手。


掌を上に向けて差し出されたその両手を、レオンハルトの銀の瞳が、射抜くように凝視した。


男の喉仏が、トクン、と大きく跳ね上がる。


意を決したように、レオンハルトはマントを払った。


そして――黒革の上着の内ポケットの奥深くへと、手袋を外した大きな右手を差し入れたのだ。


取り出されたのは――。


大人の掌にすっぽりと収まるほどの、ごく小さな、長方形の塊だった。


「…………っ」


栞の息が、喉の奥で止まった。


それは、ひとつの『小箱』だった。


上質な厚手の革で作られた箱だが、長い年月を経ているのか、四方の角は丸く擦り切れ、表面の黒染めは所々色が落ちて鈍い茶褐色を覗かせていた。


無骨で、飾り気のない、実用性だけを追求したような革箱。


中央には、くすんだ真鍮の小さな留め金が、パチンと固く閉じられている。


レオンハルトは、その小箱を両手で包み込むようにして持ち上げた。


そして――。


迷いを断ち切るように、一気に栞の手のひらの上へと、押し付けたのだ。


――コトッ。


栞の掌の上に、確かな硬質さと重みが落ちた。


その瞬間。


「…………ッッ」


栞の心臓が、跳ね上がった。


重い。


小さな見た目からは想像もつかないほど、ずっしりとした金属と鉱物の密度の高い重量感が、掌を通して手首へと伝わってくる。


だが――何よりも栞の肌を粟立たせ、呼吸を奪ったのは、その箱の重みではなかった。


小箱を押し付けたまま、一瞬だけ栞の手の甲に触れた、レオンハルトの大きな指先。


無数の傷跡とタコに覆われた、武骨な戦士の指先が――。


まるで熱病に冒されたかのように、カッと熱く、激しい熱を帯びていたのだ。


そして、その指先が、微かに、小刻みに震えているのが、触れ合った皮膚を通して痛いほど伝わってきた。


あの、大剣一本で巨大な魔獣の群れを薙ぎ払い、どんな過酷な極限状態でも眉ひとつ動かさなかった男が。


今、たったひとつの小さな箱を他国の女性に手渡すという行為のためだけに、指先を震わせ、触れた手を熱く沸騰させている。


栞の手のひらに小箱を残し、男の手がサッと引かれた。


レオンハルトは一歩後ずさりすると、大剣の柄を握るように胸元を固く締め、視線を宙へと激しく彷徨わせた。


テラスの天井、森の梢、足元の床板。


どうしても栞の顔を直視することができないらしく、その銀の双眸は定まることなく泳ぎ続けている。


何より雄弁だったのは――その『耳たぶ』だった。


漆黒の乱れた前髪の隙間から覗く、形の良い男の耳が。


根元から先端に至るまで、完全に熟れきった野イチゴのように、真っ赤に、限界まで沸騰していたのだ。


首筋にまで、熱い紅潮の波が広がっているのが見て取れる。


男の薄い唇が、何度もわななき、引き結ばれ、やがて――。


地を這うような、消え入りそうな掠れ声が、絞り出されるように零れ落ちた。


「…………受け取れ」


たった四文字。


言い訳も、名目も、前置きの一言すら添えられていない。


飾りのない、ぶっきらぼうすぎる言葉。


けれど、その声の奥底にどれほど猛烈な緊張と、必死の勇気が込められているか、耳を赤く染めて視線を泳がせるその姿が、何よりも雄弁に物語っていた。


「レオンハルト……さん……?」


栞の声が、微かに上ずった。


胸の奥底で、トクン、トクンと、鐘を連打するような激しい鼓動が鳴り響いている。


手のひらに載った、擦り切れた革の小箱。


そこから、じんわりと、男の指先の熱と、箱自体の放つ冷徹な金属の気配が混ざり合って伝わってくる。


普段の彼なら、何かを渡すときは「前回の礼だ」「薪に使え」と、事務的な対価であることを強調していた。


青い魔石を置いたときも、あの巨大な紫の魔石を残していったときも、そうだった。


けれど、今、目の前に差し出されたこの箱には、そんなビジネスライクな言い訳すら添えられていない。


ただ、「受け取れ」と。


不器用な大人の男が、全身全霊の羞恥と覚悟を振り絞って、栞の手の中に託したのだ。


栞は唾を飲み込み、震える指先を、小箱の真鍮の留め金へと添えた。


掌に伝わる、未知の重力。


朝の眩い陽光が、テラスの手すりを越えて、栞の手元を真上から照らし出す。


「……開けても、いいですか?」


栞が囁くように問いかけると、レオンハルトは顔を背けたまま、微かに、顎を引いて頷いた。


ごくり、と喉が鳴る。


栞は息を殺し、真鍮の小さなフックを、親指の爪でそっと押し上げた。


――パチンッ。


静かな森の朝に、小さな、澄み渡るような金属音が響き渡った。


留め金が外れ、革の蓋がわずかに浮き上がる。


栞は震える両手で、その擦り切れた小箱の蓋を、ゆっくりと、ゆっくりと持ち上げた。


その瞬間――。


――キィン……ッ。


初夏の眩い朝の光を浴びて。


箱の内部から、テラスの空気を一瞬にして凍てつかせるほどに純粋で、息を呑むほど美しい『銀色の光』が、まるで夜空の星屑をそのまま解き放ったかのように、キラキラと眩く瞬き始めたのだった。

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