第38話:夕暮れの看板娘と、背中合わせの安心感
黄金色のオムライスを山盛りに湛えていた四つの大皿は、まるで洗い立ての食器のように一粒の米粒すら残さず綺麗に空にされていた。
あれほど賑やかだったテラス席に、ようやく穏やかな静けさが戻り始めていた。
「シオリさん、本当にごちそうさまでした! 俺、こんなに美味い飯を腹いっぱい食ったの、生まれて初めてっす!」
「腕の痛みなんて完全に忘れました! 明日からのリハビリ訓練、全力で頑張って一日でも早く現場に復帰します!」
リュカとマークのふたりは、パンパンに膨らんだお腹を満足そうにさすりながら、何度も何度も深々と頭を下げていた。先ほどまで青白く強張っていたその顔には、少年のような輝かしい笑顔と、生き生きとした血色が満ち満ちている。
ダミアンもまた、ベルトのバックルを緩めてテラスの丸太ベンチから立ち上がると、白い歯を見せて快活に笑った。
「シオリさん、約束通りあいつらの傷が治るまで、またちょくちょく顔を出させてもらいますからね! 今度は森の南の果樹園跡で見つけた、すっげえ珍しい木苺の蜂蜜を持ってきますから!」
「ふふ、楽しみに待っていますね。二人とも、無理をしちゃダメですよ。しっかり身体を休めてくださいね」
栞が柔らかく微笑みながら手を振ると、若い兵士たちは名残惜しそうに何度も振り返りながら、木漏れ日の揺れる小道の奥へと歩みを進めていった。
「ほら、お前ら足元に気をつけろよ! 隊長に置いていかれたら森で迷子になるぞー!」
「ダミアン副官こそ、腹が出すぎて走れないんじゃないですか!」
軽口を叩き合いながら遠ざかっていく三人の足音が、やがて原生林の深いざわめきの中に溶け込み、完全に聞こえなくなった。
――ふぅ、と。
栞はテラスの手すりに寄り添い、長く、心地よい息を吐き出した。
太陽はすでに西の山並みの稜線へと大きく傾き始めていた。
昼間の鮮やかな黄金色だった木漏れ日は、深い琥珀色から赤茜色へとその色合いを変え、巨木たちの長い影がウッドデッキの上を縞模様に覆っていく。梢を渡る風はすっかり熱を失い、原生林の奥底から冷涼で澄み切った夕気が、霧のようにテラスへと流れ込んできていた。
ポムは満腹の幸福感に浸りきった様子で、栞の肩の上で丸くなり、小さな羽を畳んですやすやと微睡んでいる。
これで、嵐のようなお昼の時間はひと段落――そう思って振り返った栞の視界に、ひとつの巨大な影が飛び込んできた。
「……あ」
思わず、小さな声が漏れた。
テラスの隅、太い丸太の柱の脇。
そこに、漆黒の甲冑を纏った大男――レオンハルトが、直立不動のまま静かに佇んでいたのだ。
部下たちと一緒に砦へ戻ったものだとばかり思っていた。だが、彼は帰路につく三人を見送った後も、その場から一歩も動くことなく、夕暮れの原生林へと鋭利な銀の瞳を向けていたのだ。
「レオンハルトさん……? 砦へ戻らなくて、大丈夫なんですか?」
栞がおずおずと問いかけると、レオンハルトの長い漆黒の睫毛が微かに瞬いた。
男はゆっくりと首を巡らせ、栞の顔を見下ろした。
その端正な横顔は、西日の赤い残光を浴びて、まるで夕暮れの神殿に鎮座する彫像のような厳格な美しさを湛えている。けれど、先ほど部下たちを睨み据えていたあの氷点下の殺気配は完全に消え去っており、瞳の奥にはどこか居心地の悪そうな、迷うような光が揺らめいていた。
「……俺は、夕刻の最終哨戒の担当だ。まだ小半刻ほど……時間に余裕がある」
低く、掠れた重低音。
男はそれだけぶっきらぼうに告げると、腰の片手半剣の位置を直し、大股でキッチンスペースへと歩み寄ってきた。
そして――。
ガシャリ、と硬質な音を立てて、両手の鋼鉄の手甲を外したのだ。
続いて、手首を締め付けていた黒革のグローブを脱ぎ、作業台の端へと整然と置く。
現れたのは、無数の刃傷やタコが刻み込まれた、武骨で大きな素手だった。
「……え? レオンハルトさん?」
「手伝う」
たった一言。
男は黒いウールマントの裾を邪魔にならないよう腰のベルトに挟み込むと、作業台の上に山積みになっていた、油で汚れた巨大な鋳鉄製スキレットと、四人分の重たい木皿へと手を伸ばした。
「えっ……! い、いいですよ! レオンハルトさんはお客様なんですから、私が一人でやります!」
「客ではない。……腹を満たし、無礼な部下どもを連れ込んだ張本人だ。この程度の雑役、当然の務めだ」
反論を許さない強固な口調。
レオンハルトは片手で軽々と、女性の腕力では持ち上げるのすら一苦労な二キロを超える鋳鉄スキレットを二つ同時に掴み上げ、テラス脇に設えた洗い場へと運んでいった。
その淀みのない流れるような動作に、栞は呆気にとられながらも、胸の奥にじわりとした温かなものが広がっていくのを止められなかった。
山小屋のテラス脇にある洗い場は、裏手の巨木の根元から湧き出る奇跡の清流水を、竹の樋を使って直接引き込んだ素朴なものだ。大きな木製の洗い桶と、自然石を組み合わせた排水溝が備え付けられている。
栞は慌ててエプロンの袖を肘の上までまくり上げると、男の隣へと小走りで駆け寄った。
「じゃあ……お言葉に甘えて、お願いしてもいいですか?」
「ああ。指示を出せ」
「はい。まずは、木皿とカトラリーから洗いましょうか。油が移らないように、油汚れの少ないものから洗うのがコツなんです」
栞は木製の洗い桶に水を張り、天然ヤシ油を原料にした無添加の石鹸を泡立てた。
並んで立つ、ふたりの影。
身長百八十センチ台後半の筋骨隆々たる騎士と、小柄な栞。
体格差は歴然としており、レオンハルトが隣に立つだけで、夕方の冷たい西風がすっぽりと遮られ、男の纏うかすかな鉄と革、そして先ほど食べたチキンライスの香ばしい温もりが栞の肩口を包み込んだ。
――ザッ、ザッ。
レオンハルトは大きな掌で木皿を持ち、栞が渡した麻のたわしを使って、驚くほど丁寧に、丹念に汚れを擦り落としていく。
大剣を振るい魔獣を両断する剛腕とは思えないほど、その指先の動きは繊細で几帳面だった。皿の縁のわずかな凹凸や、底面の溝まで見落とすことなく、木肌を傷つけない絶妙な力加減で磨き上げていく。
栞は隣で、彼が擦り洗いした皿を清流水で濯ぎ、乾いた清潔なリネンで一枚ずつ拭き上げていく。
――ジャバジャバ……。
澄んだ水の音と、布が擦れ合う微かな衣擦れの音。
ふとした拍子に、まくり上げた栞の肘と、レオンハルトの逞しい前腕の袖口が、かすかに触れ合った。
――サワリ。
「…………っ」
栞の心臓が、トクンと小さく跳ね上がった。
布越しに伝わってくる、男の硬質な筋肉の感触と、熱い体温。
オフィスにいた頃、同僚や上司と肩が触れ合うことなど日常茶飯事だったはずなのに、そのどれとも全く違う、肌の奥を粟立たせるような甘美な緊張感。
栞は思わず視線を伏せ、手元の皿を拭く指先に力を込めた。
隣を盗み見ると、レオンハルトの横顔もまた、わずかに顎を強張らせていた。視線は手元の木皿に完全に固定されているが、漆黒の髪の隙間から覗く耳の先端が、夕暮れの赤光とは明らかに違う、熱っぽい赤みを帯びているのが見て取れた。
言葉はなくとも、互いの存在がこれ以上ないほど濃厚に意識されている、密やかで親密な沈黙。
その静寂の中で、水仕事は着々と進んでいった。
けれど――。
初夏の陽気とはいえ、夕暮れを迎えた原生林の冷え込みは容赦がなかった。
山あいの地下深くから湧き出る超軟水は、夕刻になるにつれて氷水のように冷たさを増し、幾十枚もの食器を濯いでいるうちに、栞の白い指先はみるみるうちに感覚を失い、痛々しいほど赤く染まり始めていた。
「……う、冷た……」
思わず小さく漏れた呟き。
栞自身、誰かに聞かせるつもりなど微塵もない、無意識の吐息だった。
だが、その微細な呟きを、隣の大男の耳は見逃さなかった。
ピクリ、とレオンハルトの手が止まった。
男は無言のまま洗い場を離れると、テラスの中央――パチパチと弱火で熾火が燻っている薪ストーブの元へと大股で歩み寄った。
そして、ストーブの天板の上でずっと保温されていた、黒いホーローの大型ケトルの取っ手を素手で掴み上げた。
戻ってきたレオンハルトは、栞の前に立ち塞がるように影を落とすと、傾けたケトルの注ぎ口から、木製の洗い桶の中へと、静かに熱湯を注ぎ入れたのだ。
――トトトトト……。
湯気とともに、洗い桶の中の冷水が渦を巻き、一瞬にして心地よいぬるま湯へと温度を変えていく。
「…………っ」
栞は目を見張り、顔を上げた。
至近距離にある、男の峻厳な横顔。
レオンハルトはケトルを床に置くと、手元のスキレットの油汚れに視線を落としたまま、低く、掠れた声でぽつりと呟いた。
「……冷えるだろう。無理をするな」
たったそれだけ。
言い訳も、飾り立てもない、極限まで削ぎ落とされた言葉。
けれど、その言葉の奥底にどれほど深い気遣いと優しさが込められているか、冷え切っていた栞の指先に流れ込んできた温かな湯の熱が、何よりも雄弁に物語っていた。
じわり。
温もりが指先から手首へ、そして胸の奥底へと染み渡っていく。
寒さで強張っていた身体の芯が、春の陽だまりに包まれたかのようにふわりと解けていった。
「……ありがとうございます、レオンハルトさん」
栞が柔らかく礼を言うと、レオンハルトは小さく鼻を鳴らし、再び黙々とスキレットの焦げ付きを落とす作業へと戻った。
油汚れのひどい重厚な鋳鉄スキレットも、男の強靭な腕力にかかれば、たわしが力強く擦られるたびに黒々とした本来の美しい肌を取り戻していく。
洗い終えた鉄器を乾いた布で拭き上げ、油を薄く塗り直して棚へ戻す。
さらにレオンハルトは、指示されるまでもなくテラスの隅へ向かうと、ポーチに積まれていた太い樫の薪を四本、軽々と抱え上げ、山小屋のリビングの薪ストーブの脇にある薪入れへと整然と補充してくれた。
ミリ単位で切り揃えられた美しい薪の山。
男の背中には、一切の迷いも傲慢さもなく、ただ栞の生活の基盤を少しでも支えようとする、愚直なまでの誠意が満ちていた。
すべての片付けが終わり、テラスが再びピカピカに磨き上げられた頃。
空は完全に夕闇のグラデーションへと沈み込んでいた。
西の空に残るわずかな茜色の残光と、東から迫る深い紫紺の夜の帳。
山小屋の足元に群生する青い星型の野花たちが、ぽつり、ぽつりと、夜の訪れを告げる淡い燐光を灯し始めている。
涼やかな夜風が吹き抜け、軒下のセレス草のブーケが静かに揺れた。
レオンハルトは洗い場の水気を拭き終えると、外していた鋼鉄の手甲を再び身につけ、革のベルトを締め直した。
そして、テラスの手すりへと歩み寄り、薄暗くなりゆく原生林の彼方を見つめた。
ふたりの間に、穏やかで、けれどどこか名残惜しい沈黙が流れる。
やがて――男が、重い口を開いた。
「…………シオリ殿」
「はい?」
レオンハルトは振り返らず、夕闇に沈む森を見つめたまま、低く、重たい声音で言葉を紡ぎ出した。
「……あいつらが、騒がしくしてすまなかった」
その声には、部下たちの無作法に対する隊長としての責任感と、それ以上に、栞の静かな隠れ家の平穏を乱してしまったことへの、切実な申し訳なさが滲んでいた。
「ダミアンも、リュカもマークも……根は悪い奴らではない。だが、育ち盛りの兵士特有の軽薄さと、礼節の欠如がある。……あんたの大切な休息の場を、泥靴で踏みにじるような真似をさせてしまった」
男の太い指先が、手すりの丸太をぎゅっと握り締める。
そして――苦渋に満ちた決断を下すように、男は喉を詰まらせながら、こう告げたのだ。
「……迷惑なら、言ってくれ。あいつらには俺から厳命を下す。二度とこの小屋へ近づかせぬよう、立ち入りを完全に禁じることもできる。……あんたの平穏を脅かす権利など、誰にもないのだから」
自分自身も、この場所に引き寄せられていながら。
部下たちがどれほど栞の料理に救われたかを知っていながら。
それでも、栞の安全と心の平穏を最優先に考え、必要とあらば自らの部下を切り捨てる覚悟を口にする男の、あまりにも不器用で、痛ましいほどの誠実さ。
その言葉を聞いた瞬間、栞は思わず目を見張り、それから――静かに、けれど力強く、首を横に振った。
「ううん」
栞は一歩、男の背中へと歩み寄った。
夕風が、栞の黒髪をふわりと撫で上げていく。
「ううん、レオンハルトさん。迷惑だなんて……そんなこと、これっぽっちも思っていませんよ」
「……だが」
「本当に、とっても楽しかったんです」
栞の声は、夜の森の静寂に染み渡るように、どこまでも澄み切っていた。
レオンハルトが驚いたように肩を揺らし、ゆっくりと振り返る。
見下ろす銀の双眸を、栞は真正面から見つめ返した。その瞳には、嘘偽りのない、温かな光が満ち満ちていた。
「私ね……会社にいた頃、毎日毎日、誰かのために身を粉にして働いていました。でも、どんなに頑張っても、返ってくるのは怒声か、理不尽な押し付けばかりで……自分が作った書類が、誰の役に立っているのかも分からなくて、自分の存在そのものが消えてしまえばいいのにって、ずっと思っていたんです」
遠い昔のことのように語られる、過去の傷跡。
レオンハルトの眉間が、痛ましげにわずかに寄る。
「でも、ここは違います」
栞は微笑み、綺麗に片付けられたテラスのテーブルへと視線を向けた。
「ダミアンさんも、リュカさんも、マークさんも……みんな、目をキラキラさせて、大声で笑って、私の作ったご飯をあんなに美味しそうに食べてくれました。『生きててよかった』って、涙を流して喜んでくれました。……自分の作ったもので、誰かが元気になってくれて、笑顔になってくれる。それを見届けることができるのが、私にとって……どれほど幸せなことか」
胸元に手を当て、栞はふうと温かな息を吐き出した。
「だからね、レオンハルトさん。あの子たちを叱らないでください。ここはね……過酷な任務で傷ついたみんなが、鎧を脱いで、お腹いっぱい美味しいものを食べて、また明日から頑張ろうって思えるための……『みんなの止まり木』になりたいんです。もちろん、レオンハルトさんにとっても、ね」
「…………っ」
レオンハルトの息が、喉の奥で止まった。
射抜かれたように見開かれた銀の瞳。
名門貴族の権力闘争に絶望し、死に場所を探すように辺境の過酷な泥濘へと身を投じ、部下の命を背負って一瞬たりとも弱みを見せられなかった孤独な騎士。
そんな男の凍てついた魂の最も深い場所に、栞の言葉は、まるで春の陽光のように、何の衒いもなく真っ直ぐに染み込んでいった。
誰かを救い、誰かに救われる。
温かな食事を囲み、言葉を交わすだけで、人はこれほどまでに満たされるのだという奇跡。
男の胸の奥底で、何かが静かに、けれど決定的に音を立てて崩れ去り、代わりに温かな泉が湧き上がっていく。
「………………」
男はしばらくの間、呆然と栞を見つめていた。
薄い唇が微かに震え、何かを言おうとしては呑み込み、やがて――。
男の口角が、自嘲するように、けれど酷く愛おしそうに、ゆっくりと持ち上がった。
それは、栞がこれまで見た中で、最も柔らかく、人間味にあふれた笑みだった。
「…………あんたは」
男は片手を持ち上げ、自らの額を覆うようにしながら、低く、喉を鳴らして苦笑した。
「あんたは……本当に、人が良すぎる」
呆れたような、けれど底知れない敬愛と温もりを滲ませた呟き。
男は手を下ろすと、手すりに肘を預け、再び横を向いた。
だが、その銀の瞳は、もう森の暗闇を警戒してはいなかった。
夕闇の中に浮かび上がる、栞の柔らかな横顔。
初夏の風に揺れる黒髪と、誇らしげに胸を張る小さな背中。
そのすべてを慈しむように、男の視線は、優しく、どこまでも穏やかに注がれ続けていた。
テラスの軒下で、セレス草のブーケがカサリと心地よい音を立てる。
森の境界線に夜の帳が完全に降りきるまで、ふたりは並んだまま、静かに重なり合う互いの気配と温もりを、言葉もなく分かち合い続けていた。




