第37話:黄金色のオムライスと、鋭い視線の護衛隊長
木々の葉が陽光を浴びて深緑へと色濃く変わりゆく初夏、森を渡る風はどこまでも穏やかで、青く光る星型の野花たちが敷地一面に爽快な香りを振りまいていた。
山小屋のテラスに吊るされたセレス草のドライハーブのブーケは、すっかり水分が抜けて美しい銀緑色のスワッグとなり、風が通り抜けるたびにライムとミントを思わせる清涼なアロマを周囲へと降らせている。
キッチンスペースに立つ栞は、リネンエプロンの紐をきゅっと結び直し、調理台の上に整然と並べられた食材たちを見つめて小さく微笑んだ。
今日は、先週キッシュを平らげたダミアンたちが「次は絶対にアレをお願いします!」と熱狂的にリクエストしていった、あの洋食の王道メニューの仕込み日だった。
「さて……腕によりをかけて、とびきりのを作らなきゃね」
「ピピィッ!」
棚の上のガラスキャニスターの縁に止まったポムが、まるで料理長を激励する助手のように小さな両手を打ち鳴らした。
まな板の上には、新鮮な鶏もも肉。余分な黄色い脂と筋を丁寧に取り除き、大人の親指の先ほどの一口大にリズミカルに切り揃えていく。塩と白胡椒、そしてダミアンが以前くれたあの『カラの実』を微量だけすり潰して揉み込むと、鶏肉特有の生臭さが消え失せ、爽快で上品なスパイシーさが立ち上った。
合わせる野菜は、じっくりと甘みを蓄えた大玉の玉ねぎ。粗みじん切りに刻むと、サクサクと心地よい音を立ててまな板に純白の山を築いていく。
そして――何より重要なのが、主役となる卵だった。
ボウルに用意されたのは、濃いオレンジ色の黄身を持つ、新鮮な平飼い卵。
卵殻を割ると、ぷっくりと弾力のある黄身が白身を従えてつるりと落ちる。そこへ、北海道産の特濃生クリームをひと回し、ごく少量の塩を加えて、泡立て器の先で白身のコシを優しく断ち切るようにほぐしていく。
空気を抱き込ませすぎず、けれど均一に。
生クリームを合わせることで、火を通した際にも熱が急激に入りすぎず、あの洋食屋特有の「とろとろ、ふわふわ」の半熟状態を限界までキープできるのだ。
仕込みが一通り整った、ちょうどその時だった。
――ザッ、ザッ、ザッ。
森の小道から、賑やかな笑い声とともに複数の足音が近づいてきた。
「だから言ったろリュカ! 朝イチの訓練を全力で片付ければ、こうやって堂々と昼飯に来られるんだって!」
「ダミアン副官、歩くの早すぎますよ! マークの足、まだ完治してないんですから!」
「へへっ、副木は外れたから平気っすよ! シオリさんの飯を食えると思ったら、痛みなんて吹き飛びました!」
木立を押し分けて現れたのは、先週と同じく、赤毛の副官ダミアン、そして包帯を小さく巻き直したリュカと、足取りが随分と軽やかになったマークの三人だった。
先週の痛々しい青白さはすっかり消え去り、その頬には健康的な血色が戻っている。栞の作ったキッシュの栄養と、何より「美味しいものを食べる喜び」が、彼らの生命力を急速に底上げした証拠だった。
――だが。
現れたのは、その三人だけではなかった。
――カチャ、チャリン……。
若い兵士たちの騒がしい足取りの、三歩ほど後方。
森の静寂そのものを身に纏ったかのような、重厚極まりない金属の擦過音。
若手たちの背後から、悠然と木漏れ日の中へ姿を現したのは――漆黒の甲冑に身を包んだ大男、小隊長レオンハルト・ヴァルクその人だった。
「…………」
無言。
背中には無骨な両手大剣、漆黒のマントを初夏の微風に静かに翻し、彫像のように端正な白皙の顔には、氷点下の厳格さが張り付いている。
ただ歩いているだけだというのに、その全身から放たれる威圧感は凄まじく、まるで戦場を巡回する漆黒の守護神そのものだった。
「あ……レオンハルトさん!」
栞がテラスから顔を覗かせると、レオンハルトの鋭利な銀の双眸が、ピクリと揺れた。
男はわずかに顎を引き、胸の前で手甲を打ち鳴らして、硬質な礼を返してきた。
「……シオリ殿。部下どもが再び押し掛け、騒ぎ立ててすまない。……境界の巡回任務の途上、規律の乱れを監視するため、小隊長として同行した」
「監視だなんて、隊長! 昨日から『明日の昼の巡回ルートは山小屋方面を重点的に警邏する』って、自分で当番表を書き換えてたくせに!」
「ダミアン。貴様、舌を切り落とされたいのか」
「ひっ!? じょ、冗談ですってば!」
ダミアンが首をすくめて飛び退くと、レオンハルトは氷のような視線で部下を一瞥し、それからテラスの隅――エントランスが見渡せる頑丈な丸太の柱の脇へと、音もなく歩み寄った。
椅子には座らない。
柱に背中を預け、太い腕を胸の前で組み、腰の大剣の柄に片手を添えたまま、直立不動の姿勢を取る。
あくまで「警護」であり「監視」であるという建前を崩さないその頑固な立ち姿に、栞は心の中でくすりと笑ってしまった。
本当は、部下たちに抜け駆けされたのが悔しくて、そして栞がどんな様子で過ごしているのかが気になって、居ても立ってもいられずに付いてきたのだ。その不器用すぎる心情が手に取るように伝わってきて、愛おしさが胸を満たす。
「いらっしゃい、みんな。席について待っててね。今、一番美味しいところを作るから!」
「「うおおおっ! よろしくお願いします、シオリさん!!」」
リュカとマークが歓喜の声を上げて欅のテーブルのベンチへと滑り込む。
栞はキッチンスペースへ戻ると、カセットコンロの火を強火に捻った。
まずは、オムライスの土台となる『チキンライス』の調理だ。
十分に熱した大きなフライパンに、大さじ二杯の発酵バターを落とす。
――ジュワッ……!
甘く香ばしい乳脂肪の香りが爆ぜ、溶けたバターが黄金色の海を作る。
そこへ、下味をつけた鶏もも肉を一気に投入した。
――ジュウウウウゥッ!
強火で一気に表面を焼き固め、肉汁を閉じ込める。表面が白っぽくなり、香ばしい焼き目がついた瞬間、粗みじん切りの玉ねぎをどっさりと放り込んだ。
木べらをリズミカルに走らせる。
鶏肉から溢れ出た良質な油とバターが玉ねぎのひと粒ひと粒に絡みつき、次第に透き通って甘いアロマを放ち始める。
そして――ここが、家庭のオムライスを洋食屋の味へと跳ね上げる決定的な分岐点だった。
栞は具材をフライパンの奥へと寄せ、手前にぽっかりと空きスペースを作った。
そこへ、完熟トマトケチャップを、これでもかというほどたっぷりと絞り出す。
具材やご飯の上に直接かけるのではない。
熱々のフライパン肌に、直接ケチャップを落とすのだ。
――パチパチ、ジュクジュクッ!
熱された鉄肌に触れた瞬間、ケチャップに含まれる余分な水分とツンとした酢酸の刺激臭が一気に蒸発し、白い湯気となって立ち上った。
同時に、トマトの糖分が熱によってキャラメリゼされ、驚くほど濃厚で、どこか懐かしい甘酸っぱい芳香へと劇的な変化を遂げていく。
「これこれ……! ケチャップは、しっかり焼き付けて酸味を飛ばすのがコツなのよね」
香ばしく煮詰まった特製トマトペーストを、炒めた鶏肉と玉ねぎに一気に絡め合わせる。具材全体が艶やかな深紅に染まったところで、炊きたての温かい白米をドスンと投入した。
木べらを立て、ご飯のダマをほぐすように素早く切るように混ぜ合わせる。
フライパンを煽り、米粒のひと粒ひと粒をケチャップとバターの旨味でコーティングしていく。水分を徹底的に飛ばしたことで、べチャッとした重さは微塵もなく、パラリとしながらもしっとりとした極上のチキンライスが仕上がった。
栞は木皿を四つ並べ、ラグビーボール型の木枠を使って、チキンライスをふんわりと山高に盛り付けた。
赤く輝くご飯の山から、バターと甘酸っぱいトマトの湯気がゆらゆらと立ち上る。
だが、これはまだ序章に過ぎない。
「よし……ここからが本番!」
栞は小さめのフッ素樹脂加工のフライパンを取り出し、強めの中火にかけた。
有塩バターをひとかけら落とし、フライパン全体に馴染ませる。
バターの泡が細かく立ち上がった絶妙な刹那、生クリームを混ぜておいた卵液を一気に流し込んだ。
――ジュワワワッ!
フライパン一面に広がる、鮮やかなカスタードイエローの海。
栞は左手でフライパンの柄を激しく前後に揺すりながら、右手に持った菜箸を高速で円を描くように動かした。
――シャカシャカシャカッ!
固まりかけた底面の卵をすくい上げ、半熟のトロトロの層を均一に折り重ねていく。
火が入りすぎる一歩手前。表面がきめ細かなスクランブルエッグ状になったところで、箸を止め、フライパンの奥側へと卵を寄せていく。
トントン、とフライパンの柄を手首の付け根で叩く。
その振動で、卵がくるりと宙を舞うように反転し、継ぎ目が内側へと巻き込まれていく。
わずか十数秒の神業。
フライパンの上には、外側は傷ひとつなく滑らかで、内側には限界まで水分と脂質を閉じ込めた、ふるふると揺れる見事な『木の葉型のオムレツ』が誕生していた。
栞はフライパンを傾け、チキンライスの山の上へと、そのオムレツを滑らせるように乗せた。
――ぷるん。
柔らかすぎるオムレツが、ライスの頂点で頼りなげに揺れる。
「リュカさん、マークさん、ダミアンさん。よく見ててくださいね」
栞はペティナイフを右手に持ち、テラス席の兵士たちに向かって微笑みかけた。
「え……? な、何をするんすか……?」
三人が身を乗り出し、目を皿のようにして手元を凝視する。
柱の脇で腕を組んでいたレオンハルトの銀の瞳も、無意識のうちにスッと細まり、そのナイフの切っ先へと吸い寄せられていた。
栞はオムレツの中心に、ナイフの刃先をそっと当てた。
そして――端から端へと、撫でるように一筋の切れ目を入れた。
その瞬間だった。
――パカァッ……!
まるで花弁が一斉に開くかのように。
薄い皮膜を破って内側から溢れ出してきたのは、息を呑むほど滑らかで、黄金色に輝く、とろっとろの半熟卵の奔流だった。
重力に従い、とろける卵の波がチキンライスの山肌を滑り落ち、あっという間に赤いご飯のすべてを、優しく、濃密に覆い尽くしていった。
立ち上る、濃密な湯気。
生クリームのミルキーな甘美さと、半熟卵の濃厚なコク、そして下から押し寄せる焦がしケチャップライスの香ばしさが融合し、テラス一面を完全に制圧した。
「「「うわあああああああああああああああっっっっっっ!!!!」」」
テラスが、割れんばかりの絶叫で揺れた。
ダミアンは椅子から転がり落ちそうになりながら頭を抱え、リュカは怪我をした腕の存在を完全に忘れて身を乗り出し、マークはテーブルを激しく叩いて咆哮した。
「な、なんだこれぇぇぇぇっ!? 卵が……卵が割れて、トロトロになってご飯を包んだぞ!?」
「奇跡だ! 魔法だ! こんなの王都のどんな宮廷料理人だって作れねえっすよ!!」
「シオリさん……! あなたは……あなたはやっぱり、天から舞い降りた女神様だぁぁぁっ!!」
若い兵士たちは興奮のあまり立ち上がり、テーブルを囲んで栞に向かって両手を合わせ、拝むようにして大騒ぎを始めた。
「女神様! 俺の怪我を治してくれた上に、こんな天国の飯まで授けてくださるなんて!」
「シオリさん、一生ついていきます! 王国の騎士をやめて、シオリさんの下僕になります!!」
「ちょ、ちょっとみんな、大げさですよ……!」
栞が赤面しながら手を振って宥めようとした、その時だった。
――ゴォッ……。
突如として、テラスの気温が目に見えて数度低下したかのような、凄まじい『冷気』が吹き荒れた。
「…………っ!?」
大騒ぎしていたダミアン、リュカ、マークの三人の背筋が、まるで氷水を直接首筋に流し込まれたかのように、ピキリと直立不動に凍りついた。
恐る恐る、視線をテラスの隅へと向ける。
そこに立っていたのは――。
柱に背中を預けたまま、黒々とした殺気配のオーラを全身から立ち昇らせている、漆黒の小隊長だった。
「ひっ…………!?」
レオンハルトの銀の双眸は、もはや獲物を屠る瞬間の魔獣のように細まり、射抜くような冷徹な眼光となって、栞の周囲に群がる部下たちの脳天へと突き刺さっていた。
無言。
一言も発していない。
けれど、その眉間には彫刻刀で抉ったような深い溝が刻まれ、引き締まった薄い唇は固く真一文字に結ばれ、大剣の柄を握る鋼鉄の手甲が、ギリ……ギリ……と軋む音を立てていた。
――誰が下僕だ。
――誰が女神様だ。
――気安く近づき、馴れ馴れしく群がるな、愚鈍な部下どもが。
言葉にせずとも、その全身が雄弁にそう叫んでいた。
傍から見れば、誰がどう見ても丸わかりの――猛烈なまでの不機嫌さと、隠しようもない独占欲の嵐。
リュカとマークは顔面を蒼白にし、ガタガタと膝を震わせながら、脱兎の勢いで自席へと後ずさりした。
「た、隊長の目が……笑ってない……」
「殺される……! 一歩でもシオリさんに近づいたら、背後から両断されるっす……!」
「お、おい二人とも、黙って席についてスプーンを持て! 命が惜しければ飯に集中するんだ!」
ダミアンが冷汗を滝のように流しながら震える声で指示を出し、三人はまるで処刑台の前の罪人のように背筋をピンと伸ばしてスプーンを握りしめた。
そして、恐怖を打ち消すように、熱々のオムライスへとスプーンを突き立てた。
――スッ……。
とろとろの卵と、赤いチキンライスが一体となってスプーンに乗る。
口の中へ放り込んだ瞬間、三人の表情は恐怖から一転、歓喜の痙攣へと塗り替えられた。
「…………ッ!! う、うめえええええええっ!!」
「卵が……卵が信じられないくらい甘くてふわふわだ! 生クリームのコクが押し寄せてくる!」
「チキンライスのケチャップが香ばしくて、鶏肉がプリプリで……噛むたびにバターの味が染み出してくるっすよぉぉぉっ!!」
三人は狂ったようにスプーンを動かし始め、背後の隊長の殺気配すら忘れて、無我夢中で黄金色の山を平らげていった。
そんな部下たちの無様な狂乱を、レオンハルトは依然として冷ややかな瞳で見下ろしていた。
けれど、その喉仏が、チキンライスとバターの香ばしい匂いが漂ってくるたびに、トクン……と切実に上下しているのを、栞は見逃さなかった。
腕組みをして仁王立ちを保ちながらも、その視線は、部下たちが貪る黄色い皿へと、吸い寄せられるように何度も落ちている。
――もう、本当に素直じゃないんだから。
栞は口元を押さえ、喉の奥でクスリと笑った。
そして、キッチンの作業台へと戻ると、最初から用意してあった、他の三人用の皿の『倍以上』の大きさを誇る、特大の深皿を持ち上げた。
山のように盛られた特大のチキンライス。
その上に、卵を贅沢に四個使い、生クリームとチーズをたっぷりと抱き込ませた、巨大なオムレツ。
栞はナイフを入れ、パカッと黄金色の波を解き放つと、さらに上から、自家製のルミナスベリージャムを隠し味に加えた特製デミグラス風トマトソースを、惜しげもなくたっぷりと回しかけた。
湯気を上げる、圧巻の特大オムライス。
栞はその重たい大皿を両手でしっかりと抱え、柱の脇に立つ黒騎士のもとへと、足音を弾ませて歩み寄った。
「レオンハルトさん」
「…………」
呼ばれて、レオンハルトが強張った顔のまま視線を下ろした。
部下たちへの威圧の残滓を纏ったままの、険しい銀の瞳。
栞はその瞳を真正面から見つめ返し、満面の、春の日だまりのように温かな笑顔を咲かせた。
「お待たせしました。……レオンハルトさんの分は、特盛にしておきましたよ」
「………………え?」
レオンハルトの動きが、完全に止まった。
目の前に差し出された、巨大な白い皿。
部下たちの皿のゆうに二倍はある、黄金色と深紅のグラデーションを描く美しいご馳走の山。
立ち上る甘酸っぱく濃厚な湯気が、男の鼻腔を直撃する。
その瞬間だった。
男の眉間に刻み込まれていた、あの氷のように冷徹な険しさが。
春の激しい陽光を浴びた残雪のように、跡形もなく、一瞬にしてふわりと霧散していったのだ。
銀の双眸が、驚愕と、信じがたい歓喜に見開かれる。
「……お、俺の分……?」
「当たり前じゃないですか。レオンハルトさんが一番たくさん食べて、一番体力をつけなきゃいけないんですから。……さあ、冷めないうちにどうぞ」
栞がテーブルの端の席を手のひらで示すと、レオンハルトの喉が大きく上下した。
男は自覚がないのか、固く引き結ばれていた薄い唇を、隠しようもなくふわりと緩めていた。
そして――。
漆黒の髪の隙間から覗く、白皙の耳たぶが。
まるで熟れきった果実のように、カッと、鮮やかな赤に染まり上がっていく。
「…………すまない」
掠れた、けれど酷く穏やかな声で呟き、男は大皿を両手で恭しく受け取った。
席につき、スプーンを握るレオンハルトの背中からは、先ほどまでの刺すような殺気配は完全に消え去り、ただただ温かな、幸福な空気だけが漂っていた。
木漏れ日が揺れるテラスに響く、スプーンと皿が触れ合う軽快な音。
美味しいものを囲み、満たされていく男たちの背中を見守りながら、栞の胸の奥には、どこまでも甘やかで深い充足感が広がっていた。




