第39話:紫陽花色の雨音と、閉ざされた扉
深い原生林を包み込む雨は、朝から途切れることなく、淡い紫と藍を混ぜ合わせたような煙るような霧となって森の奥底を覆い尽くしていた。
まるで、日本の梅雨時を思わせるような、湿り気を帯びた長雨だった。
――ザァァァァァ……と、途切れることのない均一な水音が、屋根の杉板を優しく、けれど重厚に叩き続けている。
普段ならば木漏れ日が幾筋もの光の筋となって降り注ぎ、青く光る星型の野花たちがキラキラと輝いているテラスも、今日ばかりは厚手のキャンバス地の防水カーテンが隙間なく降ろされ、灰色の薄暗がりに包まれていた。
隙間から覗く原生林の木々は、雨水をたっぷりと吸い上げて青黒く沈み込み、大人の背丈を超える巨大なシダの葉は、降り注ぐ雨露の重みに耐えかねるように項垂れている。木々の幹にびっしりと張り付いた苔だけが、生命の水を浴びて鮮やかな深緑の光沢を放ち、雨の雫が梢からポタポタと落ちるたびに、水煙が白く立ち上っていた。
外は、初夏とは思えないほどに冷え込んでいた。
雨が森の地表からすべての熱を奪い去っていくような、骨身に沁みる湿った冷気。
けれど――その冷たく閉ざされた世界とは対照的に、山小屋のリビングの内部は、まるで別世界のように温かな光と熱気に満ちていた。
――パチッ、パチリ……。
黒い鋳鉄製の薪ストーブの火室の中で、レオンハルトが切り揃えてくれたあの極上の樫の薪が、穏やかなオレンジ色の炎を揺らめかせている。
完璧に乾燥した広葉樹の薪は、煙を上げることなく、じんわりとした遠赤外線の熱をガラス扉の向こうから放ち、飴色に磨き上げられた丸太の壁と床板を、琥珀色の柔らかな光で包み込んでいた。
空気中には、薪が爆ぜるかすかな芳香と、軒下に吊るしてあったセレス草のドライハーブが温気に触れて放つ、ライムとミントを思わせる爽やかな香気がふわりと漂っている。
「……ピィ……」
薪ストーブの真正面に据えられた、柔らかな革張りソファの上。
祖父の形見である深緑と紺色のチェック柄のウール毛布の上に、ポムが丸くなって横たわっていた。
外の激しい雨音を心地よい子守唄代わりにしているのか、栗色の巻き毛を微かに揺らし、小さな四枚の羽を背中にぴったりと畳んで、深い微睡みの中に沈んでいる。小さな胸がすー、すーと規則正しく上下する様は、見ているだけでこちらの呼吸まで穏やかに整えてくれるようだった。
「ふふ、よく眠ってるわね」
栞はソファの横のスツールに腰掛け、膝の上に広げていた文庫本からふっと目を上げた。
時計の針を見ると、時刻は午後二時を少し回ったところだった。
平日の、雨の午後。
かつての栞にとって、「雨の日の平日」ほど憂鬱で、息が詰まるものはなかった。
濡れた傘を握りしめ、満員電車の湿気と他人の濡れたレインコートに押し潰されながら出社し、冷房で冷え切ったオフィスで、湿った書類の束と格闘する日々。窓の外で降りしきる雨を眺めながら、「早く帰りたい」「靴の中に水が染みて気持ち悪い」「どうせ今日も終電まで帰れない」と、鉛のように重たい絶望に胃を痛め続けていた。
けれど今、この山小屋で聞く雨音は、不思議なほど栞の心を静かに落ち着かせていた。
屋根を叩く雨の音、薪が爆ぜる音、そして柱時計のチクタクという規則正しい針の音。
それらの自然の営みだけが満ちる空間で、温かなストーブの火に当たりながら、好きな本を心ゆくまで読み進める贅沢。
誰からの内線電話も鳴らない。
上司の理不尽な怒声も、他部署からの押し付けも、何ひとつ存在しない。
――私、本当に自由になったんだな。
栞は文庫本のページをそっと撫でながら、胸の奥から湧き上がる深い充足感に浸っていた。
有休消化に入ってからというもの、時間の感覚がすっかり変わってしまった。
分刻みのスケジュールに追われるのではなく、太陽の傾きや、風の匂いや、雨の冷たさを肌で感じながら、自分のペースで生きるということ。
人間にとって、これほどまでに尊く、心を健やかにしてくれる営みがあるだろうか。
パラリとページをめくる。
物語の登場人物たちの会話を目で追いながら、ふと、栞の思考は森の向こうにあるというアクスベル王国の砦へと飛んでいた。
「……さすがに今日は、誰も来ないわよね」
思わず口から零れ落ちた呟き。
先週の金曜日、ダミアンたち若手兵士がやってきて、具だくさんのキッシュとオムライスを平らげていってくれた。
賑やかで、笑いに満ちたあの昼下がり。
そして、部下たちを見送った後、夕暮れのテラスで並んで水仕事を手伝ってくれた、あの不器用な護衛隊長――レオンハルトの横顔。
冷えた栞の指先を気遣い、黙って熱湯を足してくれたあの無骨な手。
『あんたは……本当に、人が良すぎる』と、呆れたように、けれど酷く愛おしそうに呟いていた、あの深い銀の瞳。
あの日の記憶を思い出すたびに、栞の胸の奥が、薪ストーブの火に触れたかのようにぽっと熱くなる。
三十歳を過ぎて、オフィスで擦り切れ、もう自分の人生にこんな温かな感情が芽生えることなど二度とないと思い込んでいた。
けれど、あの寡黙で誠実な男と過ごす時間が、栞の凍てついていた心を少しずつ、けれど確実に解きほぐしてくれていた。
――レオンハルトさんは、今頃どうしているだろう。
こんな土砂降りの雨の中でも、あの人は重い甲冑を身にまとい、泥濘の森を巡回しているのだろうか。
それとも、砦の冷たい石造りの部屋で、部下たちの報告書に目を通しているのだろうか。
これほどの激しい雨だ。山小屋へ続く森の小道も、泥でぬかるんで足元が悪くなっているはずだ。いくら彼が屈強な騎士であっても、非番の日にわざわざこんな悪天候の中を歩いてやってくるはずがない。
「……うん。今日はお客さんはお休みね」
栞は小さく頷くと、文庫本をテーブルの上に伏せて置き、立ち上がった。
身体が少し冷えてきたのを感じる。
湿度の高い雨の日は、部屋が暖かくても指先や足先がじわりと冷えやすい。
「温かいお茶でも淹れようかな」
キッチンスペースへと向かい、棚から取り出したのは、祖父の遺品である重厚な銅製のドリップケトルだった。
裏の清流から汲んでおいた湧水をケトルに満たし、カセットコンロの火にかける。
ボッ、と青い炎が立ち上がり、銅の底面を均一に舐め始める。
――チリチリ、チリチリ……。
熱伝導率の高い銅ケトルは、あっという間に湯の温度を上げていく。
お茶は何にしようか。
いつもの深煎り珈琲もいいけれど、今日のような冷え込む雨の午後には、身体を芯から温めてくれるハーブティーがいいかもしれない。
棚のガラス瓶から、乾燥させたセレス草と、古民家から持ってきたカモミール、そしてスライスして乾燥させておいた生姜のチップを少量ずつ取り出し、ガラスのティーポットへと入れた。
ケトルの注ぎ口から、シュンシュンと細い湯気が立ち上り始める。
静かな山小屋。
雨音と、湯の沸く音だけが満ちる、穏やかで孤独な午後のひととき。
――その、瞬間だった。
――トントン。
「…………っ!?」
栞の身体が、ピクリと硬直した。
ケトルの火を止めようとしていた右手が、空中で止まる。
今、何かが聞こえた。
風の音ではない。
屋根を叩く雨の音でも、木々が擦れ合う擦過音でもない。
それは――明らかに人の意志を持った、乾いた打撃音だった。
――トントン……。
再び、響いた。
山小屋の正面入り口――普段は頑丈な閂が降ろされている、厚い樫の木のドア。
雨風を防ぐための深いポーチの奥にあるその扉を、何者かが、遠慮がちに、けれど確かにノックしていた。
「ピィッ……!?」
ソファの上で丸まっていたポムが、弾かれたように顔を上げ、琥珀色の瞳を見開いて羽を震わせた。
栞は息を呑み、ケトルの火を消した。
カチリ、と静かな音が落ちる。
こんな土砂降りの雨の日に、一体誰が?
ダミアンたちだろうか?
いや、あの賑やかな青年なら、扉を壊さんばかりの勢いで「シオリさぁぁん!」と大声を張り上げて叩くはずだ。こんな風に、控えめに、躊躇いがちにノックするはずがない。
それとも、森で道に迷った見知らぬ旅人……?
あるいは、アクスベル王国の別の警備兵だろうか。
心臓が、トクン、トクンと早鐘を打ち始める。
栞はエプロンのポケットに手を入れ、自らを落ち着かせるように深呼吸をひとつした。
そして、抜き足差し足でリビングを横切り、正面玄関のドアへと近づいていった。
ドアの前に立つ。
分厚い樫の板越しにも、外の激しい雨音と、吹き荒れる湿った風の気配が伝わってくる。
「……ど、どなたですか?」
栞は震えそうになる声をなんとか整え、ドア越しに呼びかけた。
一秒、二秒の沈黙。
雨の音だけが響く中、やがて――扉の向こうから、低く、掠れた、けれど耳慣れた重低音が返ってきた。
「…………俺だ」
「………………っ!」
その声を認識した瞬間、栞の緊張は一瞬にして霧散し、代わりに猛烈な驚愕と焦燥が全身を駆け巡った。
レオンハルトだ。
栞は躊躇うことなく、ドアの重たい鉄の閂を跳ね上げた。
――ガチャンッ。
金属音が響き、ドアノブを回して手前へと一気に引き開ける。
ギギィ……と蝶番が音を立てて開き、外の湿った冷気が一気に室内の温もりの中へと雪崩れ込んできた。
そして――。
雨烟る薄暗いポーチの下に立っていたその姿を捉えた瞬間、栞は思わず両手で口元を押さえ、息を呑んだ。
「…………っ、レオンハルトさん……!!」
そこに立っていたのは、間違いなくあの黒騎士だった。
けれど、その姿は――言葉を失うほどに、凄まじい有様だった。
身にまとった漆黒の甲冑は、滝のような雨水を浴びて黒光りし、隙間という隙間から泥水が混ざった飛沫がポタポタと床板へと滴り落ちている。
肩から羽織った分厚い黒のウールマントは、限界まで水分を吸い込み、十キロを超える鉛の塊のようになって男の逞しい巨躯に重たく張り付いていた。マントの裾からは、まるで絞ったタオルのように途切れることなく雨滴が流れ落ち、ポーチの足元に大きな水たまりを作っている。
バシャ、バシャッ……と、庇から落ちる太い雨だれが、男の鉄の手甲に当たって激しく弾け飛ぶ。
泥濘を踏み越えてきたのだろう、膝当てから下の脛当てや軍靴は、深い赤土の泥にまみれ、草の切れ端がびっしりとこびりついていた。
だが、何よりも栞の胸を締め付けたのは――その『顔』だった。
額に張り付いた漆黒の濡れ髪の隙間から覗く肌は、雨風と寒さに晒され続けたせいで、陶器のように白く、血の気を完全に失っていた。
薄い唇は紫色に変色し、呼吸をするたびに、男の口元から――。
――ふぅ……、ふぅ……。
冬の朝のように、真っ白く濃密な吐息が、温かな室内へ向かってかすかに漏れ出していたのだ。
銀の双眸は、雨水に濡れた長い睫毛の奥で、寒さに耐えかねるように細められていた。
腰には大剣ではなく、片手半剣。
単独でのパトロールの途中で、この土砂降りの嵐に巻き込まれたのか、それとも任務を終えて砦へ戻る途中に、足が勝手にこの場所へと向かってしまったのか。
外の、すべてを拒絶するような青暗い雨の世界。
そして、ドアの隙間から漏れ出す、山小屋の薪ストーブの赤々とした温かなオレンジ色の光。
そのふたつの世界の境界線の上に、男はまるで雨に打たれる捨て犬のように、身動きもせず立ち尽くしていた。
「レオンハルトさん……! 一体どうしたんですか、そのずぶ濡れの格好……! こんな雨の中、ずっと外にいたんですか!?」
栞が悲鳴のような声を上げると、レオンハルトは酷く緩慢な動作で、わずかに視線を動かした。
寒さのあまり、顎の筋肉が強張っているのが見て取れた。
男は自らの泥に汚れた足元と、濡れそぼったマントを見下ろし、それから、ピカピカに磨き上げられた山小屋の飴色の床板へと視線を落とした。
自分が一歩でも足を踏み入れれば、この美しく温かな空間を、泥と雨水で汚してしまう。
その事実に躊躇したのだろう。男の長い足は、ポーチの敷居の手前でピタリと止まったまま、どうしても中へ踏み込もうとはしなかった。
男の喉仏が、苦しげに上下した。
冷気で麻痺した唇が、ぎこちなく開かれる。
申し訳なさと、恥辱と、そして極限の寒さの中でどうしても抗えなかった切実な渇望が混ざり合った、震えるような声音。
男は視線をわずかに伏せながら、消え入りそうな声で、こう告げたのだ。
「…………すまない」
掠れた重低音が、雨音に掻き消されそうになりながら耳朶を打つ。
「……北の巡回中……急激な豪雨に見舞われた……。砦へ戻るには……あまりに雨脚が強く……」
男は拳を握り締め、濡れた前髪の隙間から、すがるように栞の顔を見つめた。
そして――。
「…………雨宿りを……させてくれ」
たったそれだけ。
百戦錬磨の誇り高い騎士が、他国の、それも自分より遥かに小さな女性に対して、これほどまでに小さく、頼りなげに願い出た言葉。
その言葉を聞いた瞬間、栞の胸の奥底で、何かが激しく弾け飛んだ。
迷いなど、一片たりとも残っていなかった。
「何言ってるんですか、当たり前じゃないですか……!!」
栞は叫ぶように言い放つと、玄関の脇の棚へ駆け戻り、あらかじめ用意してあった特大のコットンバスタオルを二枚、両手いっぱいに引っ掴んだ。
そして、躊躇うことなく敷居を跨ぎ、雨の降りしきるポーチの冷気の中へと飛び出した。
「さあ、早く入って! 唇が真っ青ですよ! 床の汚れなんて後でいくらでも拭けばいいんですから!!」
栞は広げた乾いたタオルを、濡れ鼠になった大男の肩の上から、ふわりと、力いっぱいに被せかけた。
冷え切った鋼鉄と、濡れたウールの重み。
男の身体から立ち上る、凍てつくような冷気の水蒸気。
それらすべてを受け止めながら、栞は男の逞しい腕を両手で抱え込み、温かなオレンジ色の光が揺れるリビングの中へと、強引なまでの力で引き入れようとしていた。




