第28話:真壁の金庫と膨らむ預金通帳
月曜日の午後十七時半。
都心のオフィスビル十階に広がる営業事務フロアには、週明け特有の重苦しく淀んだ空気が立ち込めていた。
週末の余韻を強引に断ち切られた社員たちの苛立ちが、カタカタと乱暴にキーボードを叩く打鍵音や、内線電話の受話器を荒っぽく置く金属音となって、無機質な蛍光灯のジーというノイズに混ざり合っている。あちこちの島から、ため息と小声の舌打ちが漏れ聞こえていた。
かつての栞であれば、この月曜の夕方という時間帯は、一週間の中で最も胃の腑がきりきりと痛む魔の時間だった。
他部署の営業が週末に溜め込んだ面倒な見積もり作成の丸投げ、数字の合わない伝票の押し付け合い、そして「悪いけど、これ今日中に頼める?」と定時間際に悪びれもせずデスクへ積み上げられるファイルたち。それらを断る勇気も持てず、ただ愛想笑いで引き受けては終電まで一人で残業を強いられていた。
けれど、今日の栞のデスクの上は、まるで最初からそうであったかのように整然としていた。
朝一番から優先順位を冷徹なまでに組み立て、午前中のうちに定例のデータ入力を終わらせ、午後の突発的な問い合わせも、相手の甘えを丁寧に牽制しながら最短ルートで処理を完了させていた。
――ピーン、ポーン、パーン、ポーン。
十八時を告げる終業のチャイムが、フロアのスピーカーから鳴り響いた。
栞はパソコンの画面を迷いなく閉じると、椅子の背からすっと立ち上がった。
隣の席で、山積みの請求書を前に頭を抱えていた同僚が、信じられないものを見るような目でこちらを見上げる。斜め向かいのデスクでは、いつも栞に残業を押し付けていた中堅の男性社員が、書類の束を手に持ちかけたままぽかんと口を開けていた。
「相沢さん……? もう上がるの? まだ週明けの営業集計が……」
「本日の私の割り当て分は、すべて共有フォルダへ格納し、課長へも完了のメールをお送りしてあります。それでは皆様、お疲れ様でした。失礼いたします」
淀みなく、柔らかな、けれど一切の反論を差し挟ませない完璧な笑顔で一礼する。
背中に突き刺さる無数の怪訝な視線をさらりと受け流し、栞は軽やかな足取りでフロアを後にした。
更衣室で窮屈なパンプスからウォーキング用のスニーカーへと履き替え、地下鉄の駅へと向かう。
胸元に抱えた通勤用ボストンバッグの底には、タオルに厳重に包まれた、ずっしりとした重みが沈んでいた。
触れるまでもなく、布地越しにじわりとした微細な温もりを伝えてくるもの。
――あの、規格外の巨大な紫色の魔石。
先週の金曜日の夜、そしてあの雨の土曜日。
満身創痍で倒れ込んできたレオンハルトに、ダッチオーブンの豚肉と根菜のトマト煮込みを振る舞い、夜にはホットハニーミルクと焼きたてのフィナンシェを差し出した。
その対価として、彼が無言のままテーブルに残していった、大人の掌に余るほどの巨大な結晶。
山梨の古民家から都内のアパートへ戻る際、栞はその石を大切に持ち帰っていた。月曜日の定時退社を勝ち取ることができたら、そのままあの場所へ持ち込むと決めていたのだ。
中央線と西武線を乗り継ぎ、都心から武蔵野の閑静な住宅街へと向かう。
電車の窓から差し込む夕日は、すでにビル群の谷間へと沈みかけ、沿線の住宅街を穏やかな琥珀色に染め上げていた。
駅から歩くこと十五分。手入れの行き届いた白壁と黒塗りの門扉を構える、元古美術商・真壁宗助の屋敷の前に辿り着いた。
インターホンを鳴らすと、以前と変わらない張りのある老人の声が返り、すぐに門が開かれた。
「おや、栞ちゃん。よく来てくれたね。さあさあ、上がりなさい」
墨色の作務衣を纏った真壁が、目尻に温和な笑い皺を浮かべて出迎えてくれた。
通されたのは、母屋の奥にあるあの重厚な鑑定室兼書斎だった。
壁一面を埋め尽くす革装丁の古い洋書や鉱物図鑑、ガラスキャビネットの中で静かにライトアップされた世界中の名品標本たち。マホガニーのデスクの上では、アンティークの振り子時計が「チク、タク、チク、タク」と、変わらぬ硬質なリズムを刻んでいた。
「急にお邪魔してしまってすみません、真壁のおじいちゃん」
「何を言っているんだ。君が来てくれるだけで、この退屈な隠居生活が一気に華やぐよ。……それで、どうしたんだい? わざわざ月曜のこんな時間に訪ねてくるなんて。もしや、また源蔵の遺品の中から何か出てきたのかね?」
真壁はお茶を淹れながら、丸眼鏡の奥の目をいたずらっぽく細めた。
初回のあの青い結晶石を買い取って以来、真壁の鑑識眼と知的好奇心は、亡き祖父の遺品という謎に完全に魅了されているようだった。
「はい。実は……土蔵の奥を整理していたら、以前の木箱のさらに底の方から、別の布包みが見つかりまして……」
栞は居住まいを正すと、膝の上のバッグから、タオルに包んだ塊を両手で慎重に取り出した。
「おじいちゃんに、一度見ていただきたくて」
「ほう……。またあの青い石のようなものかい?」
真壁は楽しそうに笑いながら、デスクの引き出しからビロードの黒い鑑定用トレイを取り出し、机の中央に敷いた。
「さあ、見せてごらん。源蔵が今度はどんな悪戯を仕掛けてきたのか」
「はい……これです」
栞は息を殺しながら、タオルの結び目をほどいた。
そして、両手でその塊をすくい上げ、黒いビロードのトレイの上へと、静かに置いた。
――コトン。
硬質な、澄み渡るような音が書斎の静寂に落ちた。
「………………」
真壁の手から、カチャリと小さな金属音が零れ落ちた。
ポケットから取り出しかけていた十倍率のトリプレットルーペが、老人の指先から滑り落ち、デスクの革張りのマットの上へと転がっていたのだ。
真壁はそれを拾い直すことすら忘れ、目を見張ったまま、金縛りに遭ったかのようにその場に硬直していた。
トレイの上に現れたのは――夕暮れの薄暗い書斎の空気を、一瞬にして幻想的な光で塗り替えるほどの、巨大な結晶石だった。
大人の掌にずっしりと収まるほどのサイズ。
前回の青い石の、ゆうに三倍を超える体積。
そして、何よりも異様だったのは、その『色』と『輝き』だった。
息を呑むほどに深く、濃密な紫紺。
地球上の最高峰と呼ばれるウルグアイ産のアメジストすら、これに比べれば泥水で薄めたガラス玉に見えてしまうほどの、完璧な透明度。
多面体にカットされた六角柱の結晶の奥底から――。
――トクン、トクン、トクン。
生き物の鼓動を思わせる、規則正しい波長で。
息を呑むほどに純粋で神聖な、濃密な紫色の光の粒子が、自発的に明滅を繰り返していた。
その光は単に暗がりを照らすだけではない。触れる者を圧倒するような、重厚で静謐なエネルギーの波動が、目に見えない空気のさざ波となって書斎全体を包み込んでいた。
「…………な……」
真壁の喉から、掠れた、信じられないものを見た者の呼気が漏れ出た。
老鑑定士は震える手でデスクの上のルーペを拾い上げると、椅子から身を乗り出し、デスクライトのスイッチを入れた。
昼白色の強力なスポットライトが、紫の結晶を真上から照らし出す。
その瞬間、光を浴びた結晶の内部で無数のファセット(切断面)が屈折を起こし、壁一面に、まるでプラネタリウムの星雲のような紫と銀の光彩が広がった。
「馬鹿な……! なんだこれは……!? アメジスト……? いや、違う! 硬度も比重も、こんなものは水晶系の鉱物であるはずがない……!」
真壁はピンセットで石を挟むことすら諦め、清潔な白手袋を急いではめると、自らの両手でその巨大な結晶を抱え上げた。
老人の手が、あからさまに武者震いを起こしている。
「冷たい……いや、違う、温かいのか……!? なんだこの内圧は……! 結晶格子の歪みが一切ない! インクルージョン(内包物)も気泡もゼロ……まるで、純粋なエネルギーそのものをそのまま冷やして固めたような……!」
真壁は狂気じみた眼光でルーペを目に押し当て、石の内部を凝視し始めた。
紫外線ライトを照射すると、石は前回の青い結晶を遥かに凌駕する、目が眩むほどの強烈な蛍光反応を示し、デスクの周囲一帯を紫碧色の炎で包み込んだかのような錯覚をもたらした。
電子天秤に載せ、比重を測る。
超音波測定器を当て、内部の共振周波数を計測する。
機械が数値を弾き出すたびに、真壁は「あり得ん……」「物理法則が狂っている……」と呻くように呟き、額にじわりと大粒の汗を滲ませていった。
十五分、二十分……。
振り子時計の「チク、タク」という音だけが部屋を切り刻む中、老鑑定士の全身全霊の鑑定が続いた。
やがて、真壁は深い、深い息を吐き出しながら、石をそっと黒いビロードの上へと戻した。
白手袋を脱ぎ捨て、椅子に深々と背中を預ける。
丸眼鏡を外し、両手で顔を覆ったまま、老人はしばらくの間、天井を仰いで動かなくなった。
「…………栞ちゃん」
ようやく絞り出された声は、極度の興奮と畏怖で微かに震えていた。
「君は……とんでもないものを持ち込んできたね」
「……おじいちゃん?」
真壁はゆっくりと眼鏡をかけ直し、真剣そのものの眼差しで栞の目を真っ直ぐに見据えた。
「これはね……アメジストなんて生易しいものじゃないよ。前回の青い石も前代未聞の超高純度鉱石だったが、この紫の石は……内部に宿しているエネルギー密度が、桁違いだ。前回の石の十倍、いや、計測限界を超えているから百倍と言ってもいいかもしれん」
真壁の指先が、ビロードの上の紫の結晶を愛おしそうに、そして恐れるように指し示した。
「もしこれを現代の科学技術研究所や、軍事関連の機関に持ち込んでごらん。国家予算が動くレベルの大騒動になる。未知の新エネルギー資源、あるいは超高密度の半導体結晶として、世界中の大国が血眼になって奪い合いを始めるだろうね。……源蔵のやつ、一体どこの異世界の鉱山を掘り当ててきたんだか……」
冗談めかして言ったその「異世界」という単語に、栞の心臓がトクンと小さく跳ねた。
けれど、真壁の表情には疑念はなく、ただただ悪友が遺した底知れない奇跡への賛嘆だけが満ちていた。
「……栞ちゃん。前にも言ったが、私の提示する買い取り額は、あくまで『私個人の標本コレクション』としての評価だ。市場に出せない以上、真の学術的・エネルギー的価値からすれば、雀の涙のような額にしかならんかもしれん。……だが、それでも私の全財産を傾けてでも、この石を私の手元で保護したい」
真壁はデスクの引き出しから、上質な万年筆と帳面を取り出した。
そして、一切の迷いのない筆致で、ひとつの数字を書き付け、栞の前へと滑らせた。
「……一石で、三百五十万円。これで私に譲ってもらえないだろうか」
「さ、三百五十万……っ!?」
栞は息を呑み、思わず両手で口元を押さえた。
三百五十万円。
先週の青い石の三十万円ですら、月給を遥かに超える大金だった。
それが、今回は一石で三百五十万。
あの雨の夜、山小屋のテラスで振る舞ったのは、カセットコンロで温めた一杯のホットハニーミルクと、ダッチオーブンで焼いたふたつのフィナンシェ。そして、朝に焼いたホットサンド。
原価にすれば、千円にも満たない家庭の味。
それが、三百五十万円という現実の数字に化けたのだ。
不器用で、誰よりも誇り高いあの黒騎士が、自分の命と安眠を救われた対価として置いていった誠意の結晶。その重みが、あまりにも生々しい数字となって栞の目の前に突きつけられていた。
「……少ないかい? これでも、私の今月動かせる自由資金のほぼ全額なんだがね」
「い、いえっ! とんでもありません! むしろ多すぎて……私なんかがこんな大金をいただいていいのか、足が震えてしまいます……」
「ははは! 相変わらず無欲だねえ」
真壁は声を立てて笑うと、表情を引き締め、机の上の書類を指トントンと叩いた。
「だがね、栞ちゃん。ここからが前回の続きだ。大金を手にする以上、法と税の防壁を完璧に固めねばならん。君の平穏な日常を守るための、大人の手続きだよ」
真壁の手際は、恐ろしいほどに迅速かつ完璧だった。
用意されていたのは、祖父の遺品整理に伴う正式な動産売買契約書。
品目は『遺品整理による未鑑定鉱物標本一式』。売主を栞、買主を真壁宗助とし、正当な売買取引であることを証明する契約書が二部作成された。
「前回の三十万、そして今回の三百五十万。さらに、先週君が相談してくれた土蔵の古い木箱や金具類の売却分……それらを合わせると、君がこの数週間で手にした遺品売却益は、かなりの額になる」
真壁は電卓を叩きながら、税務署への確定申告の手順を懇切丁寧に指南していく。
「青色申告で『雑所得』および『一時所得』として適正に処理する。取得費が不明な遺品の場合の概算取得費控除、そして特別控除枠の適用……これらを正しく帳簿につけておけば、来年の確定申告で堂々と納税できる。税務署からお尋ねが来ても、この契約書と私の鑑定証明があれば、何の後ろ暗いところもない。完全に合法的な、君の正当な個人資産だ」
真壁は電話を取り、自身のメインバンクの担当者へ連絡を入れて、即時の電信振込の手続きを済ませてくれた。
契約書に署名と捺印を交わし、紫の魔石は真壁の書斎の特大耐火金庫の奥深くへと、恭しく収められた。
「源蔵の遺品は、本当に底が知れないね。もしまた何か見つかったら、真っ先に私に知らせておくれ。この石を眺めながら飲む酒は、どんな銘酒よりも格別だよ」
「はい。本当に……何から何まで、ありがとうございました」
深々と頭を下げ、真壁の屋敷を後にした。
門を出ると、武蔵野の街にはすっかり夜の帷が下りていた。
街灯の明かりに照らされた住宅街の道を、栞は駅に向かって歩いた。
駅前のロータリーにある銀行のATMコーナーに入り、鞄から自分の個人口座の通帳を取り出す。
機械のスロットへと差し込む。
――カタカタカタ、ジジジ……。
静かなブース内に、硬質な印字音が響き渡る。
吐き出された通帳を手に取り、ページを開いた。
そこには、真新しい黒いインクで、くっきりと刻まれていた。
『マカベ ソウスケ +3,500,000』
そして――一番右端の『現在残高』の欄。
過去の給与の蓄え、先週までの換金分、そして今回の三百五十万円が加算された、その最終行の数字。
『9,240,000』
「…………っ」
栞の喉が、息を呑んで小さく鳴った。
きゅうひゃくにじゅうよんまんえん。
一千万円に迫る、途方もない金額。
それは、中堅商社の事務職として、どれほど身を粉にして働いても、十年以上かけてようやく貯められるかどうかという大金だった。
毎月の家賃を気にし、スーパーの見切り品を選び、擦り減ったヒールを騙し騙し履き続け、それでも理不尽な上司の怒声に耐え忍んで手に入れていた微々たる手取り額。
そのすべてが、この通帳に刻まれた数字の前では、まるで遠い世界の霞のように思えた。
――すぅ……と。
胸の奥底から、信じられないほど深く、清らかな息が漏れ出た。
何年間もの間、栞の心臓を締め付け、呼吸を浅くし、夜眠ることを恐れさせていた冷たい鎖が。
音を立てて、粉々に砕け散っていく感覚。
もう、怯える必要はないのだ。
明日、会社で理不尽に怒鳴り散らされても。
他人の業務を不当に押し付けられても。
もしそれが耐え難いものなら、いつだって、その場で荷物をまとめて背を向けることができる。
家賃が払えなくなる恐怖も、生活が破綻する不安も、今の栞を縛り付けることはできない。
自分の足で立ち、自分の意志で人生を選び取るための、絶対的な『自由の切符』が、今、この両手の中にあった。
通帳を胸元にぎゅっと抱きしめ、栞はATMコーナーを出た。
夜の駅前を行き交う人々。
疲れた顔で家路を急ぐサラリーマンや、スマートフォンを見つめながら足早に歩くOLたち。
以前の自分も、あの群衆の中に埋もれ、ただ流されるだけの無力な存在だった。
けれど今、栞の胸の中には、揺るぎない安全基地があった。
九百万円を超える、清廉潔白な個人資産。
そして――あの欅の板戸の向こうに広がる、美しい木漏れ日の森。
手挽きの珈琲の香りと、甘酸っぱいベリーのジャム。
自分の作った料理を、喉を鳴らして美味しそうに平らげてくれた、あの不器用で優しい騎士と、小さな妖精。
――私には、帰る場所がある。
――そして、いつでも会社を辞められる。
その揺るぎない確信が、冷え切っていた背骨に熱い芯を通すように、栞の背筋をすっと、美しく伸ばしていた。
夜風を胸いっぱいに吸い込み、栞は力強い足取りで、駅の改札へと歩み出した。




