第29話:定時退社の鐘を鳴らせ
火曜日の朝、相沢栞はスマートフォンのアラームが鳴る数分前に、自然とすっきりと目を覚ました。
窓のカーテンを開けると、東京の空は薄い雲に覆われていたが、部屋に差し込む光は柔らかく、どこか心地よかった。
以前の栞にとって、火曜日の朝ほど憂鬱なものはなかった。月曜日に溜まりに溜まった週末明けのトラブル処理や理不尽な残業で心身をすり減らし、その疲労と絶望を完全に引きずったまま、あと四日も耐え忍ばなければならない現実に押し潰されそうになる曜日。ベッドから這い出すことすら億劫で、重い鉛のような手足を引きずりながら洗面台の鏡に向かい、死んだ魚のような濁った瞳の自分にため息をつくのが常だった。
けれど、今朝はまるで違っていた。
手足の先まで温かな血が巡り、呼吸はどこまでも深い。
朝食に丁寧なトーストを焼き、小さじ一杯のルミナスベリーのジャムを塗って口に運ぶと、あの木漏れ日の森の情景が鮮やかに脳裏に蘇った。
耳を赤く染めながらホットサンドを頬張っていた不器用な黒騎士、肩の上で陽気に踊る手のひらサイズのピクシー、そして何より――昨日の夕方、通帳の右端に確かに刻み込まれていた『9,240,000』という数字の重み。
――九百二十四万円。
それは、ただの金額ではない。
理不尽に耐え、媚びへつらい、自分の尊厳を削り落としてまでこの会社にしがみつく必要は、もうどこにもないのだという――絶対的な『自由の証本』だった。
通勤電車の殺人的な混雑に揉まれても、栞の心は驚くほど凪いでいた。
吊り革を握る指先が痛むこともなく、周囲の乗客の苛立ちの気配すら、遠い世界の出来事のように受け流すことができる。胸の奥に揺るぎない城壁を築いた人間は、外からの嵐に怯える必要などないのだ。
午前八時四十五分。オフィスフロアに足を踏み入れる。
窓のない無機質なフロアには、すでに週明けの疲弊をそのまま引きずった社員たちの淀んだ溜息が充満していた。チリチリと細かなノイズを立てる天井の蛍光灯、ひっきりなしに鳴り響く内線電話、そして誰かのミスを糾弾する低い舌打ちの音。
「おはようございます」
栞は澄んだ声で挨拶を交わし、自席へと腰を下ろした。
パソコンを立ち上げ、今日のタスクを冷静に組み立てていく。
自分の担当範囲である受発注伝票の入力、倉庫への出荷指示、そして正規ルートで回ってきた問い合わせへの回答。それらを午前と午後のスケジュールにきっちりと割り振り、一切の無駄を削ぎ落とした最短ルートでキーボードを叩いていく。
――カタカタカタ、ッターン。
栞の指先は、まるで熟練のピアニストのように滑らかに動いていた。
かつての栞は、他人の顔色ばかりを窺っていた。「これを断ったら嫌われるかもしれない」「怒鳴られるのが怖いから、頼まれる前にやっておこう」。そんな過剰な恐怖心から、他人の仕事まで先回りして引き受け、自らをパンクさせていたのだ。
けれど、今の栞の視界は研ぎ澄まされていた。
自分の責任範囲と、他人の甘えの境界線が、まるで定規で引いたようにくっきりと見えていた。
午前中、営業事務の後輩が困った顔で相談に来た際には、手取り足取り代わりにやってあげるのではなく、マニュアルの該当箇所を示し、自力で解決できるよう簡潔に要点だけを指導した。
「ここを見て、この手順通りにデータを抽出すれば五分で終わるわよ。大丈夫、あなたならできるから」
「あ……はい! ありがとうございます、相沢さん!」
後輩がパッと表情を明るくして自席へ戻っていくのを見届け、栞は再び自分の画面へと視線を戻す。
無駄な手出しはしない。だが、正規の業務は完璧な精度で完結させる。
正午のチャイムが鳴る頃には、栞の手元の午前中のタスクは、狂いなくすべて「完了」のフォルダへと振り分けられていた。
午後を過ぎると、フロアの空気は一段と粘り気を増していった。
夕方の締め切りに追われた営業マンたちがフロアをバタバタと駆け回り、あちこちで「まだ書類ができてないのか!」「こっちの案件を先に回せ!」と苛立った声が飛び交う。
この中堅商社において、営業事務という職種は、常に都合の良い『便利屋』として扱われていた。
営業が外回りでサボった分のデータ入力、本来なら自分でやるべき領収書の整理、果ては会議室のセッティングまで、少しでも面倒な雑務があれば「事務の女の子にやらせておけばいい」と押し付けられる。
特に、営業二課の課長――かつて栞に連日の終電残業を強いる元凶となっていた中年男性は、その悪習の権化のような人物だった。
自分の直属の部下には甘く、他部署の事務職には高圧的。期日間近になって自分のミスに気づくと、大声を張り上げて他人に丸投げし、手柄だけを自分のものにする。そんな卑劣な処世術で課長の椅子にしがみついている男だった。
十五時、十六時……。
時計の針が進むにつれて、フロアの端から、その営業二課長の不穏な苛立ちの気配が漂い始めていた。
デスクの上の電話を乱暴に叩き切り、部下の営業を怒鳴りつけ、頭をガシガシと掻きむしりながら書類の山を引っ掻き回している。どうやら、役員会へ提出する今月の販売実績データの集計を、今日が締め切りだと完全に忘れていたらしい。
普段の栞なら、その怒号を聞くだけで背筋が寒くなり、自分のところへ火の粉が飛んでこないかと胃を痛めていただろう。
だが、今の栞は違った。
自席の周囲を整理し、明日の午前中に処理すべき案件をインデックス付きのクリアファイルに整然と並べ、退社に向けた最終確認を着々と進めていた。
そして――時刻は、十七時三十五分を回った。
定時まで、あと二十五分。
フロア中の社員たちが「今日もどうせ残業だろう」と諦めの空気を漂わせ、ダラダラと長引きそうな夜に備えて栄養ドリンクの蓋を開け始めた、その時だった。
――ドカドカドカッ!
床を乱暴に踏み鳴らす、苛立ちに満ちた足音が、栞のデスクへと一直線に近づいてきた。
影が差す。
見上げるまでもなく、漂ってくる安っぽい整髪料と煙草のヤニが混ざった不快な臭気。
営業二課長だった。赤黒く充血した顔に、脂汗をびっしりと浮かべ、脇の下には大人の腕の太さほどもある分厚いバインダーと、未処理の伝票の束を抱え込んでいる。
――ドサリッッ!!
重々しい金属音とともに、その書類の山が、栞の整頓されたデスクの真ん中へと乱暴に叩き落とされた。
バインダーの金具がデスクの天板に当たって嫌な金属音を立て、風圧で栞のペン立てがカタカタと揺れる。
「おい、相沢」
課長は息を荒らげ、上から見下ろすようにドスの利いた声を放った。
「これ、今日の役員報告用のデータ入力と集計だ。うちの連中が外回りで手が回らん。悪いが、今日中にシステムへ全部打ち込んで、部門別のクロス集計表をエクセルで組んでプリントアウトしとけ。役員会の明朝イチに間に合わせなきゃならんからな」
あまりにも当然のような顔で吐き捨てられた、完全なる丸投げの業務命令。
バインダーの厚みを見れば、どれほどの作業量か一目で分かった。
手書きの乱雑な数字が書き殴られた伝票が数百枚。これを一つずつ確認し、手作業でシステムへ打ち込み、マクロすら組まれていない複雑な表へ転記していけば――どんなに早くても四時間、下手をすれば日付が変わる深夜までかかる途方もない作業だった。
しかも、それは本来、営業二課の専属アシスタントか、課員自身が業務時間内に終わらせておくべき仕事だった。栞が所属する営業一課のサポート業務とは、何の関係もない他人の仕事。
フロア中の視線が、一斉に栞のデスクへと集まった。
隣の席の後輩が息を呑み、遠くの席の同僚たちが「また始まったよ」「相沢さん、今日も終電コース確定だな」と、気の毒そうに、けれど自分に火の粉が飛ばないよう目を背ける。
課長は、栞がいつものように青ざめた顔で「わ、わかりました……」と引き受けるものだと、微塵も疑っていなかった。口元には、面倒な仕事を押し付けることに成功した者の、下卑た安堵の笑みすら浮かんでいた。
――けれど。
栞の心臓は、まったく跳ね上がっていなかった。
冷たい汗も出ない。喉の渇きもない。
胃の奥を焼き切るようなあの耐え難い苦痛は、何ひとつとして湧き上がってこなかった。
それどころか、栞の心は、あの雨上がりの原生林の湖面のように、どこまでも、どこまでも澄み渡っていた。
――ああ。
栞は静かに、心の中で息を吐いた。
この人は、私が怯えて従うことを見越して、こうやって他人の時間を奪い続けてきたのだ。
自分が無能であることを隠すために、真面目に生きている人間を踏み台にし、命を削らせてきたのだ。
けれど、私はもう、あなたの檻の中にはいない。
私には、帰る場所がある。
私には、あの温かなログハウスがあり、手挽きの珈琲の香りがあり、私の作った料理を命の恩だと受け取ってくれる大切な人たちがいる。
そして――この理不尽な世界を、いつでも捨て去ることのできる、九百万円の自由があるのだ。
栞は、デスクの上に叩きつけられた書類の束へと視線を落とした。
そして――その書類に、指先ひとつ触れようとはしなかった。
受領の印鑑も押さず、ファイルを開きもせず、ただ両手を膝の上で静かに重ねたまま、ゆっくりと、椅子の背もたれから背筋をすっと伸ばした。
顔を上げる。
課長の血走った瞳を、真正面から、少しの揺らぎもなく見つめ返した。
その唇には、氷のように冷徹で、けれど春風のようにどこまでも穏やかな、完璧なビジネスマナーの微笑みが浮かんでいた。
「……課長」
栞の口から零れ落ちたのは、オフィス中に驚くほどよく通る、澄み切った声だった。
栞は右手を伸ばすと、人差し指と中指の先を、バインダーの端にそっと添えた。
そして――。
――スッ……。
一切の力を込めることなく、滑らかに、その書類の山を課長の胸元へと押し戻したのだ。
「課長、それは私の担当業務ではありません」
「………………は?」
課長の喉から、間抜けな呼気が漏れた。
予想だにしなかった反応に、男の思考が完全に停止したのが分かった。
栞は怯むことなく、穏やかな笑みを崩さず、淀みなく言葉を続けた。
「私の所属は営業一課のサポート事務です。業務分担規定におきましても、他部署の月次集計代行は私の職務範囲に含まれておりません。また、本日の私の担当業務は、先ほどすべて正規の手順で完了させ、一課長へも報告済みです」
「なっ……な、何を言ってるんだお前は!? 役員会の資料だぞ!? 全社に関わる重要案件なんだぞ! 手が空いてるなら手伝うのが組織の一員としての常識だろうが!!」
課長は顔を真っ赤に沸騰させ、フロア中に響き渡る怒声を張り上げた。
いつもの、相手を威圧して屈服させるための恫喝。
以前の栞なら、その声量だけで震え上がり、涙目になって謝罪していただろう。
だが、今の栞には、その怒声がまるで遠い檻の中で遠吠えしている小型犬の鳴き声のようにしか聞こえなかった。中身のない、ただの無様な焦燥。
栞はまばたきをひとつし、首をわずかに傾げて、鈴を転がすような静かな声で言い放った。
「手が空いているのではなく、定時までに自分の仕事を計画通りに終わらせただけです。業務の逼迫が発生しているのであれば、正規の手続きに従い、二課長ご自身の部下に残業指示を出されるか、管理職である課長ご自身で処理なさってください」
「き、貴様……っ! 生意気な口を利くんじゃないぞ! 誰の指示に逆らってるのか分かってるのか!? 査定に響いてもいいのか!?」
査定。
組織にしがみつく社畜にとって、最大の脅迫の言葉。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、栞の胸の奥から湧き上がってきたのは、恐怖ではなく――抑えようのない、小さな可笑しさだった。
査定?
すずめの涙のようなボーナスの数万円を引かれることが、一体今の私にとって何のリスクになるというのだろう。
私には、あなたの年収を遥かに超える個人資産があり、森の奥には宝石のような魔石が眠っているというのに。
栞はふっと、どこまでも優しく、慈愛に満ちた笑みを深めた。
そして、デスクの引き出しを静かに閉め、立ち上がった。
「ご自身の部下の労務管理と業務設計の不備を、他部署の人間に押し付けるのはおやめください。これ以上不当な業務の強要を続けられるのであれば、人事部およびコンプライアンス委員会へ、ハラスメント事案として正式に報告書を提出いたします」
「っ……ぐ……!?」
課長は喉を詰まらせ、泡を食ったように数歩後ずさりした。
コンプライアンス。ハラスメント。
保身しか頭にない管理職が最も恐れる単語を、寸分の狂いもない論理で突きつけられ、男の顔は赤から青へと急速に変色していった。
「それでは失礼いたします」
栞は完璧な角度で頭を下げた。
フロアは、完全に静まり返っていた。
針の落ちる音すら聞こえそうな静寂の中、キーボードを叩く音も、電話の音も途絶えている。
誰もが信じられないものを見るように目を見開き、口をぽかんと開けて、立ち尽くす課長と、凛とした姿勢で佇む栞の姿を凝視していた。
誰も逆らえなかった理不尽な暴君を、たった一人の事務職の女性が、笑顔のまま完璧な正論で叩き伏せたのだ。
その瞬間――。
胸を突き抜けていったのは、かつて人生で一度も味わったことのない、圧倒的なまでの『爽快感』だった。
胃の奥の痛みが、跡形もなく消え去っている。
背中を覆っていた重たい鎖が、音を立てて弾け飛んだ。
理不尽を、理不尽だと毅然と撥ねつけること。
自分の尊厳を、自分の意志で守り抜くこと。
それがこれほどまでに誇らしく、息を吸うことを甘やかにしてくれるものだとは知らなかった。
――ピーン、ポーン、パーン、ポーン。
十八時ちょうどを告げる、終業のチャイムがフロアに高らかに鳴り響いた。
まるで、栞の完全勝利を祝福するファンファーレのように。
栞は誰よりも早くバッグを肩にかけると、呆然と立ち尽くす課長と、驚愕に固まる同僚たちに一度だけ会釈をし、迷いのない足取りでタイムレコーダーへと歩み寄った。
タイムカードを差し込む。
――ガチャンッ。
十八時〇〇分。
定時退社の刻印が、鮮やかにカードに刻み込まれる。
タイムカードをラックに戻し、栞はフロアの自動ドアをくぐり抜けた。
エレベーターホールへ向かう足取りは、まるで雲の上を歩いているかのように軽やかだった。
擦り減ったヒールではなく、しっかりと大地を捉えるスニーカーの底が、リズミカルに床を鳴らす。
ボタンを押すと、すぐにエレベーターの扉が静かに開いた。
乗り込み、一階のボタンを押す。
閉まりゆく扉の隙間から見えたのは、夕暮れのオフィスビルの重苦しい檻の残像。
扉が完全に閉ざされた瞬間、栞は深く、どこまでも深い息を吸い込み、そして満面の笑みを零した。
「……さあ、週末の準備をしなきゃ!」
下降を始めたエレベーターの中で、栞の心はすでに、あの緑深い木漏れ日の森へと、どこまでも高く羽ばたいていた。




