第27話:朝焼けの耳たぶ
夜を支配していた激しい雨音は、いつの間にか途絶えていた。
湿った森を覆っていた分厚い雨雲が東の風に押し流され、夜明けの訪れとともに、空は深い藍色から淡い白菫色へと、息を呑むほど滑らかなグラデーションを描いて移り変わっていく。
原生林の木々は、雨の雫をたっぷりとまとって朝露のヴェールを織りなし、昇り始めた太陽の光を浴びて無数のプリズムのようにきらめいていた。梢のあちこちから、鈴を転がすような小鳥たちの澄んださえずりが響き渡り、森全体が一斉に息を吹き返したかのように瑞々しい生命のざわめきに満たされていく。
山小屋のテラスに張られたキャンバス地のカーテンをそっと引き開けると、雨上がりの冷涼で澄み切った大気が、部屋の中へと滑り込んできた。
濡れた土と青葉の瑞々しい匂い。そこに混ざる針葉樹の凛とした芳香が、肺の奥底を清らかに洗い流してくれる。
「……んん〜っ」
栞はテラスの掃き出し口に立ち、両腕を空へと突き出して小さく背伸びをした。
昨夜はソファのすぐ脇のスツールに腰掛け、文庫本を読みながら男の眠りを見守っていたのだが、パチパチと爆ぜる薪ストーブの心地よい熱気と、男の穏やかで深い寝息に包まれているうちに、いつの間にか自分も丸太の壁に寄り添ってうとうとと浅い眠りに落ちていたらしい。
けれど、身体は驚くほど軽かった。
オフィスで椅子に座りっぱなしだった頃の、鉛を背負わされたような倦怠感はない。澄んだ森の空気を吸い込むだけで、頭の芯がすっきりと覚醒していく。
リビングを振り返ると、ストーブの前の革張りソファには、まだ深い眠りの中にいるレオンハルトの巨躯が横たわっていた。
祖父の遺品である深緑と紺色のチェック柄のウール毛布が、男の広い肩口から足元まですっぽりと覆っている。昨夜あれほど苦しげに波打っていた胸板は、今は波ひとつない湖面のように、規則正しく、静かに上下していた。
泥を拭き取ったその素顔には、もはやあの痛々しい張り詰めた緊張感はない。
ソムニア草のハーブと甘いハニーミルク、そして焼きたてのフィナンシェが、彼の頑なな防壁を内側から優しく溶かしてくれたのだろう。深く刻まれていた眉間の険しさは消え去り、酷使されていた銀の瞳を覆う長い睫毛が、微睡みの中で微かに震えていた。
「ピィ……」
ローテーブルの隅、タオルのベッドからポムがもぞもぞと這い出してきた。
栗色の巻き毛をパタパタと振り、小さな両手で目をこすりながら、栞の足元へとふわりと飛び降りてくる。
「おはよう、ポム。静かにね」
栞が人差し指を唇に当てて囁くと、ポムは琥珀色の瞳を瞬かせ、コクコクと器用に頷いて見せた。
時計を見ると、時刻は午前六時を回ったところだった。
ストーブの火室の扉を開け、灰を軽く均して新しい樫の薪を一本くべる。熾火の熱を吸って、乾いた木肌からパチリと小さな火花が散り、穏やかなオレンジ色の炎が再び立ち上がった。
「よし……朝ご飯の支度をしよう」
栞は洗いざらしの清潔なリネンエプロンを身につけ、キッチンスペースへと立った。
昨夜、限界を超えて飢え渇いていた男の胃袋は、温かなミルクと焼き菓子でようやく一息ついたばかりだ。朝になれば、過酷な軍務で削り取られた筋力と体力を補うため、再び力強い栄養を欲するはずだった。
クーラーバッグから取り出したのは、昨日焼いたバゲットの残りではなく、古民家の台所から持ち込んでいた、厚切りの角食パンだった。山梨の老舗ベーカリーが手掛ける、生クリームとバターを贅沢に練り込んだリッチな食パン。六枚切りのふっくらとした純白の生地が、二枚。
そして、具材として選んだのは――。
じっくりと燻製された厚切りのロースハムが二枚。
冷蔵庫で冷やしておいた、濃厚なゴーダチーズのスライスが二枚。
シャキシャキとした食感を残すために冷水にさらして水気を切った、新鮮なキャベツの千切り。
さらに、昨夜の残りの特製ルミナスベリージャムをほんの少しだけ隠し味に忍ばせた、粒マスタードの特製ソース。
「道具は……これね」
棚の奥から引き出したのは、二枚の小さな黒い鉄板を蝶番で繋ぎ合わせた、直火式の『ホットサンドメーカー』だった。
長年使い込まれ、内側まで油がしっかりと馴染んだ鋳鉄製の道具。パンの耳ごとギュッと挟み込んで焼き上げることで、外側を極上のパイのようにカリカリに仕上げてくれる、野外料理の頼れる相棒だ。
まずは、珈琲の準備から取りかかる。
朝の目覚ましには、昨夜のような鎮静ハーブではなく、頭をキリリと冴えさせる深煎りのブラック珈琲がふさわしい。
手挽きの木製ミルに、コロンビア産の深煎り豆を二杯分、サラサラと落とし入れる。
ハンドルを握り、ゆっくりと回し始めた。
――ゴリッ、ゴリゴリ、ガリリ……。
静かな山小屋に、硬質な豆が砕ける小気味よい音が響き渡る。
挽き進めるにつれて、ミルの排出口から、焦がしキャラメルとビターチョコレートを思わせる、深く濃厚なアロマがふわりと立ち上った。
裏の清流から汲んできた湧水をケトルで沸騰させ、少しだけ冷ましてから、陶器のドリッパーにセットした無漂白ペーパーフィルターへと注ぎ入れる。
細い湯の筋が、黒褐色の粉の中心へと静かに落ちる。
――ぷすぷすと音を立て、粉が生き物のようにふっくらと丸くドーム状に膨らみ上がった。
立ち上る真っ白な湯気。
濃厚な珈琲の香りが、テラスから吹き込む雨上がりの冷涼な空気と混ざり合い、部屋の隅々へと広がっていく。
ドリップがサーバーの底へ琥珀色の雫を滴らせる間に、栞はホットサンドメーカーを弱火にかけた。
内側に少量の有塩バターを滑らせると、ジュッと微かな音を立てて溶け広がる。
そこへ、一枚目の食パンを敷く。
パンの上に、粒マスタードソースを薄く塗り、厚切りロースハムを二枚重ね、その上に山盛りのキャベツの千切りをこんもりと乗せる。さらに、二枚のゴーダチーズで雪崩を防ぐように覆い隠し、二枚目の食パンを上から重ね合わせた。
溢れんばかりの分厚いパンの山。
栞はホットサンドメーカーのハンドルを両手でしっかりと握り、上蓋を体重をかけてグッと押し下げた。
――ギチチ……ミシリ。
分厚いパンが鉄板に挟まれ、縁がしっかりと圧着されていく。ハンドル先端の留め金をパチンと固定し、薪ストーブの上の熾火へと網を置いて、その上へと鉄器を据えた。
――チリチリチリ……、パチパチ。
鋳鉄を通して、パンの表面に塗られたバターが爆ぜる、心地よい微細な音が響き始めた。
小麦が焼ける香ばしい匂いと、燻製ハムの燻煙の香り、そして熱で溶け出したチーズの芳醇な乳脂肪の匂いが、珈琲のアロマと手を取り合うようにしてテラスの空気を塗り替えていく。
表を二分、裏返してさらに二分。
完璧な朝食の音楽と匂いが、静寂のリビングを幸福な熱気で満たしていった。
――その時だった。
――ッガタッ!!
弾かれたような、凄まじい衝撃音が部屋に響いた。
「きゃっ……!?」
栞が思わず振り返ると、ソファの上の毛布が、突風に煽られたかのように大きく跳ね上がっていた。
レオンハルトだった。
男は、まるで戦場で敵の奇襲を受けたかのような恐るべき反応速度で、跳ね起きるように上半身を起こしていた。
見開かれた銀の双眸には、一瞬にして猛烈な警戒心と殺気が宿り、右手は無意識のうちに、腰の大剣があるはずの虚空へと電光石火の勢いで伸ばされていた。
だが――そこに剣の柄はなかった。
大剣は、昨夜栞が倒れないようストーブ脇の壁へと立てかけておいたのだ。
「…………っ!?」
掴むべき鉄の感触がないことに気づいた瞬間、男の動きがピキリと凍りついた。
大剣を求めて空を切った右手。
前傾姿勢をとった逞しい背中。
そして――跳ね起きた勢いで、肩からハラリと滑り落ちた、あの深緑と紺色のチェック柄の毛布。
男は自分の右手を信じられないものを見るように見つめ、それから、膝の上に崩れ落ちたウール毛布の柔らかな質感へと視線を落とした。
さらに、ゆっくりと首を巡らせる。
見慣れた冷たい石造りの兵舎の天井ではない。
見渡す限りの泥濘が広がる過酷な戦場でもない。
そこにあったのは――。
蜜蝋の艶をたたえた、温かな飴色の丸太の壁。
パチパチと穏やかに爆ぜる薪ストーブの炎。
開け放たれたテラス窓から差し込んでくる、雨上がりの眩いばかりの金色の朝陽。
そして――キッチンの前で、厚手のミトンをはめたまま、驚いたように目を丸くして立ち尽くす、エプロン姿の栞の姿だった。
「…………あ」
レオンハルトの喉から、間の抜けた、掠れた息が零れ落ちた。
男の表情が、目に見えて劇的な変化を遂げていった。
警戒、困惑、疑念。
それらが一瞬にして吹き飛び、次に訪れたのは――圧倒的なまでの『驚愕』だった。
男の鋭利な銀の瞳が、これ以上ないほど限界まで見開かれる。
――俺は……寝ていたのか?
――この見知らぬ小屋で、他国の、それも丸腰の女の前で?
――朝まで? 一晩中、完全に意識を手放して熟睡していただと……!?
百戦錬磨の軍人として、国境を守る警備小隊長として、到底あり得てはならない大失態。
いつ敵に襲われてもおかしくない境界の森で、武器すら手放し、他人に毛布を掛けられて朝を迎えるなど、騎士としての誇りも規律も根底から覆すような大醜態だった。
青白かった男の顔が、みるみるうちに血の気を帯びていく。
それは健康的な血色などでは断じてなかった。
屈辱と、信じがたい自己嫌悪と、そして大人の男性としての猛烈な羞恥の炎。
白皙の陶器のように滑らかだった男の肌が、首筋から、引き締まった顎のライン、そして頬骨にかけて、カッと鮮烈な赤に染まり上がっていく。
何より雄弁だったのは――その『耳たぶ』だった。
漆黒の乱れた髪の隙間から覗く、形の良い男の耳が、まるで熟れきった野イチゴのように、真っ赤に、限界まで沸騰していたのだ。
男は膝の上に落ちたウール毛布の端を、手袋のない素手でぎゅっと、引きちぎらんばかりの力で握りしめた。
指の関節が白く浮き上がるほどの圧力。
顔を背け、伏せられた銀の瞳は激しく泳ぎ、呼吸は昨夜とは別の意味で乱れきっていた。
そのあまりにも分かりやすく、そして純情極まりない狼狽ぶりに、栞は喉元まで出かかった笑いを必死で噛み殺した。
――可愛い。
大人の、それも百八十センチを超える大剣使いの屈強な騎士に対して、そんな言葉を使うのは失礼極まりないと分かっていた。
けれど、耳たぶまで真っ赤にして毛布を握りしめ、身の置き所に困り果てているその姿は、どう贔屓目に見ても愛らしさの塊でしかなかったのだ。
栞はミトンを外し、何事もなかったかのように、柔らかく穏やかな声で呼びかけた。
「……おはようございます、レオンハルトさん。よく眠れましたか?」
「………………ッ!」
男の肩が、ビクッと跳ね上がった。
向けられた声音のあまりの優しさと自然さに、レオンハルトはますます顔を上げられなくなったらしく、背筋を固く強張らせたまま、毛布の一点を見つめて押し黙ってしまった。
薄い唇が何度もわななき、何か言い訳を口にしようとしては呑み込み、喉仏がトクン、トクンと激しく上下している。
「……あ、あの……シオリ、殿……」
数秒の長すぎる沈黙の後、ようやく絞り出されたのは、地を這うような、消え入りそうな掠れ声だった。
「……俺は……その……貴様に……湯を一杯所望しただけで……決して……このような……朝まで居座るような不埒な真似を……するつもりでは……」
「ふふ、分かってますよ。昨日は本当に疲れ切ってらっしゃいましたから。体が限界だったんです」
栞は微笑みながら、ストーブの上のホットサンドメーカーへと向き直った。
「ちょうど今、朝ご飯が焼き上がるところなんです。お腹、空いてるでしょう? 顔を洗うなら、裏の小川の湧水を使ってくださいね。タオル、ここに置いておきますから」
そう言って、栞は清潔な白手ぬぐいをテーブルの端に置いた。
レオンハルトは逃げるように立ち上がると、大剣を手に取り、長い足をもつれさせそうになりながらテラスへと足早に出て行った。
冷たい湧水で顔を洗い流すジャバジャバという音と、深く荒い息を吐き出す気配が、朝の静寂に響いてくる。
その間に、栞は朝食を仕上げた。
耐熱グローブをはめ、ホットサンドメーカーの留め金を外して、パカンと開く。
――ジュワァァァッッ!!
一気に解き放たれたのは、黄金色の湯気と、暴力的なまでの香ばしさだった。
パンの表面は、鉄板の圧力を受けて見事なキツネ色に焼き上がり、波打つような格子模様がくっきりと刻まれている。バターが染み込んだパンの耳は、まるで揚げたてのパイのようにカリカリに焼き締められていた。
まな板に移し、パン切り包丁を中央に当てる。
――ザクッッ!!
最高の破断音が響き、包丁が吸い込まれるようにパンを二つに断ち割った。
切り口から、ボワッと白い蒸気が立ち上る。
断面からは、熱でトロトロに溶け崩れた純白のゴーダチーズが、滝のようにとろりと溢れ出していた。厚切りのロースハムの鮮やかな桜色と、蒸されて甘みを凝縮させたキャベツの淡い黄緑色。そこに粒マスタードの黒い粒が散りばめられ、完璧な断面美を作り出している。
山桜の平皿に、切り分けた熱々のホットサンドをふたつ、寄り添わせるように立てて盛り付けた。
そして、厚手の白い陶器のマグカップに、淹れたての深煎り珈琲をなみなみと注ぐ。
表面には、朝の光を浴びてキラキラと輝く微細な油滴。立ち上る深くビターな湯気が、ホットサンドの濃厚なチーズとバターの香りを優しく包み込んでいく。
「お待たせしました」
テラスから戻ってきたレオンハルトの前に、栞はその一式を静かに置いた。
顔を洗い、濡れた黒髪をかき上げたレオンハルトの表情は、先ほどよりは幾分落ち着きを取り戻していた。
けれど、依然としてその耳の先はほんのりと赤みを残しており、栞とまともに視線を合わせることができず、視線はテーブルの上の皿へと釘付けになっていた。
「……すまない」
男は小さく頭を下げ、掠れた声で呟いた。
「……醜態を晒した。取り乱して……情けない姿を見せた」
「醜態だなんて、そんなこと誰も思っていませんよ」
栞は向かい側の席に腰を下ろし、自分の分の珈琲カップを両手で包み込みながら、優しく微笑んだ。
「誰だって、倒れるくらい疲れることはあります。……ここはね、レオンハルトさんが誰の目も気にせず、安心して眠っていい場所なんですから」
「…………っ」
レオンハルトの銀の瞳が、射抜かれたように揺れた。
男の喉が、言葉にならない感情を押し殺すように大きく鳴る。
それ以上、男は何も言わなかった。言えなかったのだろう。
ただ、自らの動揺と羞恥をすべて誤魔化すかのように、男の大きな手が、皿の上のホットサンドへと伸びた。
骨張った指先が、熱々のトーストを掴む。
指に伝わる、カリッとしたパンの耳の硬質な感触と、内側から伝わるチーズの熱気。
男は大口を開け――迷うことなく、豪快にかぶりついた。
――ザクッッ、ジュワァァッ!!
テラスに、小気味よい音が響き渡った。
外側の生地は、驚くほど軽快に砕け散るクリスピーな歯触り。
だが、その香ばしい殻を突き破った瞬間、内側から溢れ出してきたのは、熱々とろとろのゴーダチーズの濃厚なコクと、厚切りハムから迸るジューシーな肉汁の奔流だった。
噛みしめるたびに、蒸されたキャベツの自然な甘みがジュワッと広がり、粒マスタードの爽やかな酸味と辛味が、濃厚なチーズの脂っぽさを絶妙に引き締めていく。
「…………ッ!!」
レオンハルトの咀嚼の手が、止まらなくなった。
無言のまま、猛烈な勢いで顎が動く。
ハフハフと熱い息を鼻から漏らしながら、溢れ出るチーズを唇で受け止め、指についた香ばしいパン粉すらも惜しそうに口へと運んでいく。
あっという間にひとつ目が消え去り、男は間髪入れずにふたつ目のホットサンドへと手を伸ばした。
そして、口の中が濃厚なチーズとハムの旨味で満たされた完璧なタイミングで、白い陶器のマグカップを持ち上げ、黒褐色の珈琲を口へと流し込んだ。
――ゴクリ。
深煎り珈琲の上質な苦味と香ばしさが、口の中に残っていたチーズの油分をすっきりと洗い流し、互いの旨味を何倍にも引き立て合う。
「………………美味い」
ふたつ目のホットサンドを綺麗に平らげ、珈琲を最後の一滴まで飲み干したレオンハルトの口から、深い、魂の底からの吐息が漏れ出た。
皿の上には、パン屑ひとつ残っていなかった。
空になったカップをテーブルへと戻し、男はゆっくりと息を吐き出した。
窓の外から差し込む朝の光が、男の白皙の肌を金色に照らし出している。
昨夜の痛々しい隈は驚くほど薄らぎ、銀の双眸には、本来の澄み切った力強い輝きが完全に蘇っていた。
男はまだ少し赤みの残る耳を誤魔化すように、無骨な手で首筋をポリポリと掻きながら、けれどその瞳には、嘘偽りのない深い感謝の色を宿して、静かに栞を見つめ返したのだった。




