第26話:暖炉の前で落ちる瞼
ことり、と木肌の上で乾いた音が鳴り、湯気がふわりと揺れた。
ストーブの真正面、赤々と燃え盛るオレンジ色の火影に照らされた丸太のローテーブル。その中央に置かれたのは、なみなみと注がれた純白のホットハニーミルクと、山桜の木皿に寄り添うように並べられたふたつの黄金色のフィナンシェだった。
立ち上る湯気は、冷え切った夜の空気に触れて濃密な白い筋となり、ゆらゆらと天井へと立ち昇っていく。
牛乳の優しくまろやかな乳糖の香り。そこへ重なり合う、ソムニア草のリンゴに似た清々しい薬効の芳香と、百花蜜の野性味あふれる花の蜜のコク。さらに、焼きたてのフィナンシェから放たれる、焦がしバターとローストアーモンドの暴力的なまでに香ばしいアロマ。
それらの香気があたり一面に満ちた瞬間、ソファに深く沈み込んでいたレオンハルトの喉仏が、小さく、けれど切実に上下した。
「……レオンハルトさん、冷めないうちにどうぞ。まずは、温かいミルクから」
栞は男の横に静かにしゃがみ込み、目線を合わせるようにして柔らかく促した。
男の銀の瞳は、依然として酷使による疲弊で焦点が定まりきっていなかった。
だが、鼻腔をくすぐる温かな匂いに引き寄せられるように、その視線はゆっくりとテーブルの上の白いマグカップへと落ちた。
手袋を外された男の右手は、武骨で、無数の刃傷やタコが刻み込まれ、指先は氷のように白く強張っていた。
その手が、まるで触れたら壊れてしまう幻影を恐れるかのように、ぎこちなく、震えながら持ち上がる。
――カサリ。
指先が、厚手の白い陶器の肌に触れた。
その刹那、レオンハルトの眉根がわずかに跳ね上がった。
指先から掌へと、じんわりと流れ込んできたのは、耐え難い冷気を押し流すような、確かな『熱』だった。
男は吸い寄せられるように、もう片方の左手も伸ばした。
大人の両手で包み込んでも余りあるほどの大きなマグカップ。その丸みを帯びた陶器の側面を、二つの大きな掌で、まるで雪山で凍えた小鳥を暖めるかのように、慈しむようにすっぽりと覆い隠した。
冷え切っていた皮膚の毛細血管が、急激な温もりに晒されてピリピリと心地よい痺れを走らせる。
男はカップを持ち上げた。
ずっしりとした確かな重み。
顔を近づけると、こんもりと盛り上がったフォームミルクの白い泡の表面に、細い黄金の線を描くように垂らされた蜂蜜が、ストーブの炎を反射してきらりと艶やかに光っていた。
息を吹きかける力すら惜しむように、レオンハルトは乾ききった唇を、その白い泡の海へとそっと浸した。
――スゥッ……。
唇を割って滑り込んできたのは、驚くほどきめ細かく、柔らかな泡の感触だった。
舌の上に触れた瞬間、まず弾けたのは、熱で活性化された百花蜜の濃厚な甘み。
山あいの無数の花々から集められた天然の蜜は、砂糖のような角のある刺激が一切なく、どこまでも円やかで、舌の粘膜を優しく撫でるように甘美な余韻を残していく。
続いて、泡の蓋をすり抜けて流れ込んできたのは、六十度前後の適温に温められた、極上のホットミルクだった。
北海道産の特濃牛乳が持つ、豊かな乳脂肪のコク。
それが、喉を滑り落ちていく瞬間――。
「…………っ」
レオンハルトの喉から、押し殺した短い呼気が漏れた。
熱い雫が食道を通り、何日もの間、空腹と緊張で硬く縮こまっていた胃袋へと落ちていく。
じわり。
まるで、氷漬けになっていた内臓のひだの奥深くまで、温かな毛布が敷き詰められていくような感覚だった。
牛乳の持つ上質なタンパク質と油分が、荒れ果てていた胃壁を優しくコーティングし、保護していくのが生々しく実感できる。
そして――何より奇跡的だったのは、その奥から静かに立ち上がってきた、ソムニア草の作用だった。
ハーブの清冽な香気が、鼻へと抜け、血流に乗って全身の血管へと運ばれていく。
三日三晩、雨と泥の戦場で張り詰め続け、切れる寸前までピンと尖っていた神経の糸。頭蓋骨の内側でガンガンと鳴り響いていた過剰な警戒の警報が、その温かな湯気を吸い込むたびに、まるで春の雨に溶かされる薄氷のように、急速にその輪郭を失っていった。
痛覚が、鈍る。
重圧が、遠のく。
男の喉仏が、トクン、トクンと規則正しく上下した。
一口。また一口。
レオンハルトは目を伏せ、取り憑かれたようにマグカップを傾け続けた。
ただの湯ではない。
この一杯には、疲弊しきった人間の生命を内側からすくい上げるための、計算し尽くされた慈悲と甘美が満ち満ちていた。
半分ほど飲み干したところで、男はふっと息を吐き、カップを胸元に抱えたまま、テーブルの上の山桜の平皿へと視線を落とした。
木皿の上には、まだ余熱で微かにパチパチと音を立てているような、黄金色のフィナンシェ。
表面の割れ目から立ち上る焦がしバターの匂いに、男の意識が自然と引き寄せられる。
栞は微笑みながら、小皿をそっと彼の手元へと近づけた。
「お菓子も、温かいうちにどうぞ。手でつまんで大丈夫ですから」
レオンハルトは小さく息を吸い込むと、カップを膝の上に置き、右手の親指と人差し指で、金塊の形をした焼き菓子をひとつ、慎重につまみ上げた。
彼の大きな手の中にあると、まるで小さな木の実のように愛らしく見えた。
指先に伝わる、焼きたての確かな熱。
型に触れていた外側の生地は、焦がしバターとアーモンドの油分でカリッと香ばしく焼き締められているのが、触れただけでも分かる。
男は迷うことなく、その端を口元へと運び、前歯を当てた。
――サクッッ。
静かな夜のログハウスに、驚くほど軽快で、小気味よい音が響き渡った。
外側の殻が心地よく砕け散った、次の刹那。
「………………ッ!」
レオンハルトの銀の瞳が、見開かれた。
内側の生地から、一気に溢れ出してきたのは、息を呑むほどしっとりとした、熱い蒸気と甘みの奔流だった。
じゅわり。
噛みしめるたびに、生地の中に閉じ込められていた焦がしバターの濃厚な油脂が、舌の上へと染み出してくる。
ナッツの王様を思わせるヘーゼルナッツ色の香ばしさと、キャラメルのような奥深いほろ苦さ。
そこに、細かく挽かれたアーモンドプードルの力強いコクと、きび砂糖の素朴でまろやかな甘みが完璧に溶け合い、口蓋の隅々にまで幸福な熱を広げていく。
甘い。
けれど、くどさなど微塵もない。
外側は驚くほどサクサクと香ばしく、内側はまるで極上のカステラのように、蒸気をたたえてしっとりとほどけていく。
噛む必要すらなく、体温でとろりと崩れ去り、喉の奥へと甘やかな余韻だけを残して消えていくのだ。
――ゴクリ。
飲み干したレオンハルトの顔から、目に見えて力が抜けていった。
眉間に刻み込まれていた、あの頑なな彫刻のような深い皺。
誰をも寄せ付けず、常に部下の死と己の責任を背負い続けていた「氷の番犬」の険しい面魂が、まるで陽だまりの雪のように、跡形もなく、ふわりと緩んでいく。
唇の端が、微かに、本当に微かにほころんでいた。
大の甘党である彼にとって、この極限の飢餓と疲労の中で口にした焼きたてのフィナンシェとハニーミルクは、もはや食事という概念を超えた、魂の救済そのものだったに違いない。
男は残りの半分を口へと放り込み、目を細めてその甘美な咀嚼を慈しんだ。
そして、再び両手でマグカップを持ち上げると、残っていた温かいハニーミルクを一気に喉へと流し込んだ。
サクサクとしたバターの塩気とナッツの香ばしさを、蜂蜜とハーブの優しいミルクが綺麗に包み込み、胃袋へと届けていく。
最後の一滴まで飲み干したレオンハルトは、カップをテーブルへと戻した。
――コトッ。
静かな音が落ちる。
男は両腕をだらりと膝の上へと下ろし、背中を革張りのソファへと、深く、深く沈み込ませた。
窓の外では、依然として激しい雨が原生林を叩き続けている。
屋根を打つ雨音の重低音。
けれど、部屋の中にあるのは、パチパチと薪が爆ぜる音と、ストーブのガラス越しに揺れる、穏やかなオレンジ色の光だけだった。
火影が、男の白皙の横顔を柔らかく照らし出している。
レオンハルトは、その揺らめく炎の先端を、瞬きも忘れたようにじっと見つめていた。
瞳の奥に宿っていたあの刺すような銀の光は、すでに完全に消え去っていた。
代わりに浮かんでいたのは、生まれて初めて重荷を下ろした人間だけが見せる、どこまでも静かで、無垢な光だった。
男の薄い唇が、微かに動いた。
「…………温かいな」
掠れた、けれど酷く穏やかな呟きだった。
それは誰かに向けた言葉というよりは、心臓の奥底から零れ落ちた、純粋な安堵の吐息のようだった。
そして――それを最後に。
レオンハルトの長い漆黒の睫毛が、ゆっくりと、抗いようのない重力に引かれるようにして、伏せられていった。
一度、二度、微かに瞬きを繰り返す。
理性で身体を支えようとするかのように、膝の上の指先がピクリと動いた。
だが、ソムニア草の柔らかな鎮静と、満たされた胃袋から巡る心地よい糖分の熱波は、歴戦の騎士の鉄の意志すらも容易く呑み込んでいった。
すぅ……と、深い息が鼻から抜ける。
頭がわずかに横へと傾き、ソファの背もたれのクッションへと沈み込んだ。
完全に、目蓋が閉ざされた。
――スー……、スー……。
静寂のリビングに、規則正しく、深々とした寝息が響き始めた。
意識を手放すその瞬間、男の顔には、もはや任務の重圧も、過去の傷も、貴族のしがらみも、何ひとつ残っていなかった。
泥と鉄にまみれた鎧の奥から現れたのは、ただただ疲れ果て、安全な場所で泥のように眠る、二十九歳のひとりの青年の素顔だった。
「…………眠った」
栞は息を殺し、しゃがみ込んだ姿勢のまま、その寝顔を見つめた。
三日三晩、一睡もできなかった男が、今、自分の目の前で、完全に無防備になって熟睡している。
大剣を手に取ることすら忘れ、喉元を無防備に晒し、子供のように穏やかな呼吸を繰り返しているのだ。
他国から迷い込んできた素性の知れない女の前で、これほどの警戒を解き放ってしまうなんて、騎士としては落第点なのかもしれない。
けれど、栞の胸を満たしたのは、呆れなどではなく、胸を締め付けられるような愛おしさと、深い安堵感だった。
「……本当にお疲れ様でした、レオンハルトさん」
栞は足音を立てないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと立ち上がった。
ストーブの火は十分に燃え盛っているが、雨の夜の底冷えは侮れない。
金属の甲冑を身につけたまま眠れば、外気が冷えるにつれて体温が奪われ、風邪を引いてしまうかもしれない。かといって、眠っている彼の鎧を勝手に脱がせるわけにもいかなかった。
栞は静かにリビングを抜け、欅の板戸をくぐって、現代の古民家の母屋へと足を踏み入れた。
暗い座敷を通り、祖父の寝室の押し入れを開ける。
奥の段から取り出したのは、祖父が生前、山梨の厳しい冬を越すために愛用していた、極厚のウール毛布だった。
上質な純毛で織られた、落ち着いた深緑と紺色のチェック柄の毛布。天日干しされて防虫香の爽やかな香りが染み込んでおり、大人の男性の身体をすっぽりと包み込める大判サイズのものだ。
両手で抱え、再び異世界のログハウスへと戻る。
暖かなリビングへ足を踏み入れると、ポムがソファの背もたれの上から、栞の姿を見て「ピィ……」と小さく鳴いた。まるで「起こさないでね」と囁くような、慎ましい羽音。
「大丈夫よ、ポム」
栞は静かに頷き、忍び足でソファへと近づいた。
広げた厚手のウール毛布を、両手で優しく掲げる。
そして――。
深く眠り続けるレオンハルトの身体の上へ、ふわりと、静かに降ろした。
泥の跳ねた膝上を覆い、逞しい胸板を包み込み、冷え切っていた鋼鉄の肩当ての上まで、しっかりと毛布を引き上げる。
冷たかった金属の感触を遮断するように、首元まで毛布の端をそっと織り込んでやる。
その瞬間、レオンハルトの身体が微かに動き、温もりを求めるように無意識のうちに首元を毛布の柔らかなウールへと擦り寄せた。
――スー……、スー……。
寝息はさらに一段と深くなり、強張っていた肩の線が、完全に脱力して沈み込んでいく。
男の指先が、毛布の端を無意識にきゅっと握り締めていた。
その大きな手の甲の上に、栞はもう一度だけ視線を落とし、心の中でそっと微笑んだ。
これで、朝まで凍えることはないはずだ。
栞はテラス側の換気口の隙間を少しだけ狭め、雨風が吹き込まないよう確認した。
それから、キッチンスペースに戻り、残っていたもうひとつのマグカップに、自分用の温かいハーブティーを注いだ。
道具の片付けは、明日の朝でいい。
今は、この静謐で優しい時間を、何にも邪魔されたくはなかった。
薪ストーブの前、ソファのすぐ脇に置かれた小さな丸太のスツール。
栞はそこへ腰を下ろし、熱いカップを両手で包み込んだ。
ローテーブルの端には、古民家から持ってきていた一冊の文庫本が置かれている。
カチリ、とダイヤルを回し、真鍮風のLEDランタンの光を、読書ができる最小限の明るさまで絞った。
柔らかなオレンジ色の光が、栞の手元と、眠る男の穏やかな横顔を仄かに照らし出す。
外では、雨が原生林の木々を濡らし続けている。
けれど、山小屋の中には、時折パチリと爆ぜる樫の薪の音と、規則正しい男の寝息だけが、静かに、優しく満ちていた。
文庫本のページをめくる、微かな紙の擦れる音。
栞は膝の上に置いた本に視線を落としながら、すぐ隣で眠る不器用な騎士の一晩の安らぎを、静かに、どこまでも温かく見守り続けていた。




