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第23話:男たちの秘密基地

完食されたふたつの白い深皿の上には、トマトソースの赤い飛沫すら一滴も残っていなかった。


ダッチオーブンの底で煮えたぎっていた八百グラムの豚バラ肉も、山盛りの根菜も、十六枚ものガーリックトーストも、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗さっぱりと胃袋の中へ収まっている。


木漏れ日が揺れるテラスには、濃厚な肉とニンニクの残り香を優しく薄めるように、清冽な森の風がさらさらと通り抜けていた。


「……あ、あったかいお茶、淹れますね」


栞は余韻を邪魔しないよう小声で告げると、裏手の清流から汲み立ての湧水を沸かし、ガラスのティーポットにセレス草のドライハーブをひとつまみ落とした。


若草色の淡い緑が透明なお湯の中に溶け出していく。立ち上るライムのような清涼なアロマが、油分で満たされた口内をすっきりと整えてくれるはずだ。


白い陶器のマグカップに注ぎ分け、欅(けやき)の一枚板のテーブルへそっと置く。


「どうぞ。お腹、びっくりしちゃったでしょうから」


「あ……ありがとうございます、シオリさん……」


ダミアンは両手で恐る恐るカップを包み込み、ふうと息を吹きかけてから一口啜った。


喉を通る清らかな温もりに、青年はふたたび「はぁぁ……」と深いため息を漏らし、丸太ベンチの背もたれに体重を預けた。


「……死ぬかと思いました。いや、美味すぎて天国が見えたというか……。俺、二十四年間の人生の中で、今日が一番美味いものを食いましたよ」


ダミアンの鳶色(とびいろ)の瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。本当に心の底から感動し、同時に何かに打ちのめされたような、複雑な色を帯びている。


青年は手元のお茶を見つめながら、自嘲気味に口角を歪めた。


「シオリさん……笑うかもしれないですけどね。俺たち辺境警備隊の普段のメシって、豚の餌にも劣るんですよ」


「……え?」


栞が小さく瞬きをすると、向かい側に座るレオンハルトが咎めるように眉を寄せたが、ダミアンは止まらなかった。満腹になったことで、張り詰めていた軍人としての愚痴の栓が、一気に抜けてしまったようだった。


「主食は『軍用乾パン』って呼ばれる代物なんですけどね。大麦のふすまとライ麦を水だけで練って、石炭釜で水分を限界まで焼き飛ばした黒いレンガみたいな塊なんです。湿気ないようにって理由なんですけど……これが冗談抜きで、木槌で叩き割らないと歯が立たない。無理にかじりついたら前歯が欠けます。味なんて一切なくて、ただ埃っぽい麦の苦味と土の匂いがするだけ」


ダミアンは指先で顎をさすりながら、忌々しそうに顔をしかめた。


「おかずは、岩塩の結晶がそのまま吹き出してるような『塩漬け干し肉』です。三年前に仕込んだのか五年前に仕込んだのかも分かんねえような、カチカチの魔獣の肉。水で半日かけて塩抜きしなきゃ舌が痺れて動かなくなるし、煮込んでもゴムを噛んでるみたいに硬くて、噛み切るのに数分かかる。……それと、枯れ草を泥水で煮出したような、渋みしかない軍用茶。それが俺たちの日常の全てっす」


淡々と語られるその実情に、栞は息を呑んだ。


先週、レオンハルトが行き倒れていた時の凄惨な姿が脳裏に蘇る。


ただ任務が過酷だっただけではない。日頃からそんな粗悪で生命力を削り取るような糧食しか口にできず、極限の寒風と緊張の中で神経をすり減らしていたのだ。


「特に、魔獣の活発化が続く冬場や雨季は地獄っすよ」


ダミアンはカップを握りしめ、遠くの原生林を見つめた。


「砦の若い連中はみんな、口内炎だらけで歯茎から血を出してます。肌はカサカサに荒れて、体力は落ちて、怪我の治りは遅くなる。……兵士なんて国を守る盾だって言われりゃそれまでですけど、せめて死ぬ前に一度くらい、温かくて柔らかい、本物の肉を腹いっぱい食いたいって……夜の見張り番の時に、みんなで焚き火を囲んでそんな話ばっかりしてるんです」


青年のみぞおちから絞り出されたような言葉が、テラスの静寂に重たく落ちた。


現代の日本で、冷めきったコンビニのおにぎりを虚しく胃に流し込んでいた自分の姿が重なる。もちろん、命のやり取りをしている彼らと、オフィスの理不尽な残業を比較することなどできない。


けれど、「食べる」という人間の最も根源的な営みが踏みにじられ、心と体がすり減っていく惨めさと孤独は、世界が違ってもまったく同じだった。


栞の胸の奥に、じわりと熱いものが込み上げてきた。


先ほど、ダミアンが無我夢中で皿を舐めるように空にしてくれたこと。


レオンハルトが、無言ながら普段の倍速でスプーンを動かし、血色の戻った顔で空を見上げていたこと。


自分の作った料理は、ただの自己満足や暇つぶしではない。過酷な現実の中で命を削って生きる彼らにとって、明日を生き延びるための本物の「救い」と「活力」になり得るのだという事実。


料理人として、そして同じようにすり減っていた一人の人間として、これ以上の誇りと喜びがあるだろうか。


「……ダミアンさん」


栞は静かに、けれど柔らかな芯のある声で呼びかけた。


「私、料理くらいしかできませんけど……ここに来てくれたときは、いつでもお腹いっぱい作りますからね。お肉でも、お野菜でも、甘いものでも。食べたいものがあったら、何でも言ってください」


ダミアンは顔を跳ね上げ、丸い鳶色の瞳を潤ませて栞を見つめた。


「シオリさん……! あ、あなた様は……女神様ですか……!? この魔境の森に舞い降りた慈愛の精霊様なんですか……!?」


感動のあまりテーブル越しに身を乗り出し、栞の手を握り締めようとした――その瞬間だった。


――バシィッッ!!


鋭い風切り音とともに、レオンハルトの鋼鉄の手甲がダミアンの手首を正確無比に叩き落とした。


「ぎゃっ!?」


「調子に乗るな、ダミアン」


レオンハルトの銀の瞳から、氷点下の冷気が放たれていた。


椅子から立ち上がった隊長の長身が、日光を遮ってダミアンの上に巨大な影を落とす。


「シオリ殿はお前の母でもなければ、砦の厨房係でもない。善意に甘えて無礼な図に乗るな」


「い、痛ってぇ……! わ、分かってますよ隊長、ちょっと感動のあまり手が滑っただけじゃないですか!」


「手が滑って他国の女性の手を握ろうとする奴があるか」


レオンハルトは低く喉を鳴らすと、部下の胸ぐらを片手で軽々と掴み上げ、逃げ場のない至近距離から鋭く睨み据えた。


その顔は、先ほどまでの食事を楽しんでいた男の顔ではなく、百の兵を統べる辺境警備隊長の、峻厳そのものの貌(かお)だった。


「……ダミアン。よく聞け」


「は、はい……!」


空気が一瞬にして凍りつき、ダミアンの背筋がピンと伸びる。


「この場所のこと、そしてシオリ殿の存在について、砦の何者にも漏らすな。たとえ貴様の直属の部下であろうと、同期の騎士であろうと、一言たりとも口にしてはならん」


レオンハルトの声には、冷徹なまでの厳しさと、それ以上に栞を守ろうとする強い警戒心が滲んでいた。


「砦には様々な思惑を持った貴族の息のかかった者もいる。この森のログハウスがどれほど異質で、シオリ殿の差し出す食事がどれほどの価値を持つか、貴様にも理解できるはずだ。もし嗅ぎつけられれば、シオリ殿の平穏が脅かされる。……分かっているな?」


「…………っ、はい!」


ダミアンの表情から、軽薄な甘えが完全に消え去った。


青年は隊長の銀の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、軍人としての硬直した敬礼を胸の前で掲げた。


「了解しました。この場所は、俺と隊長だけの……『絶対機密』です。もし俺がこの秘密を誰かに漏らしたら、軍法会議にかけられる前に、隊長の手で俺の首を刎ねてください」


「……首など刎ねん。最果ての北嶺岩峰地帯への、三ヶ月にわたる単独雪中哨戒に回すだけだ。糧食は干し肉の切れ端のみでな」


「ひぃぃぃっ! 首を刎ねられるより遥かにエグい拷問だ!! 絶対に言いません! 墓場まで持っていきます!」


ダミアンが必死に首を横に振ると、レオンハルトは掴んでいた胸ぐらをトンと放した。


ふたりの間に流れる空気は、厳罰の脅し合いのようでいて、その根底には何年もの死線を共に潜り抜けてきた者たちだけが持つ、絶対的な相互信頼が満ち満ちていた。


このふたりなら、決してこの山小屋の秘密を外に漏らしたりはしない。


自分と、祖父が遺してくれたこの静かな森を、確実に守ってくれる――その確信が、栞の胸を温かく満たした。


「……ふう」


レオンハルトは小さく息を整えると、背筋を正し、今度は栞に向き直った。


そして――。


ガシャリ、と重厚な甲冑を擦り合わせながら、深々と頭を下げたのだ。


「……シオリ殿。部下の無作法と、度重なる非礼を詫びる」


「えっ……レオンハルトさん、頭を上げてください!」


「いや、言わせてくれ」


頭を下げたまま、レオンハルトは掠れた、けれど力強い声で言葉を紡いだ。


「あいつの言う通りだ。俺たちの任務は過酷で、糧食は泥のように不味い。それが辺境を守る武人の務めだと、自分に言い聞かせて心を殺してきた。……だが、今日、貴方が作ってくれたあの温かい煮込みと、香ばしいパンを口にして……俺たちは、救われたのだ。胃の腑だけでなく、凍りついていた心まで、解きほぐしてもらった。……本当に、美味かった。心から、礼を言う」


不器用で、朴訥で、どこまでも愚直な武人の感謝。


頭を上げたレオンハルトの白皙の頬は、先ほど部下を叱り飛ばしていたときとは打って変わり、耳の先までカッと微かに赤く染まっていた。


そのギャップに、栞は思わず胸がきゅんと跳ねるのを覚えた。


「……お粗末さまでした。そう言っていただけるのが、何よりのご褒美です」


栞が微笑むと、隣で神妙にしていたダミアンが「あ、そうだ!」と声を上げ、腰の革袋に手を突っ込んだ。


「シオリさん! 俺も、タダ飯食らいのまま帰るわけにはいきません! 隊長みたいに凄いものは持っていませんけど……これ、受け取ってもらえませんか?」


ダミアンが掌を広げて差し出したのは、硬い木の実のような、小さな袋だった。


中から取り出されたのは、小指の爪ほどの大きさの、赤黒く艶やかな種子。表面には虎の爪のような鋭い筋が走っており、鼻を近づけると、クローブと山椒と完熟ペッパーを足して割ったような、甘く痺れるような芳醇なスパイスの香りがツンと立ち上った。


「これ……スパイスですか?」


「はい! 森の深部に棲む『爪獣(そうじゅう)』の巣の近くに自生してる、『カラの実』っていう香辛料の種っす! すっごく硬い魔獣の爪を砕いて粉にするための木なんですけど、この種を乾燥させてすり潰すと、めちゃくちゃ良い匂いがするんですよ。砦の兵士が肉の臭み消しに隠し持ってる貴重品なんです。シオリさんの料理なら、絶対に美味しく化けると思って!」


ダミアンは誇らしげに、けれどどこか照れくさそうに笑った。


自分にできる精一杯の恩返し。その気持ちが嬉しくて、栞は両手で大切にその赤い種を受け取った。


「ありがとう、ダミアンさん。すごく良い香り……! 今度、お肉のソースやカレーに使ってみますね」


「おおっ! カ、カレー……? よく分かんねえけど美味そうっす! 楽しみにしてます!」


「……ダミアン、行くぞ。哨戒の刻限だ」


レオンハルトが腰の大剣の位置を直し、踵を返した。


「あ、待ってください隊長! シオリさん、ごちそうさまでした! また絶対に来ますからねー!」


ダミアンは名残惜しそうに何度も手を振りながら、大股で歩くレオンハルトの後を小走りで追いかけていく。


木漏れ日が揺れる原生林の木立の奥へ、赤毛の青年と漆黒の騎士の背中が吸い込まれていく。


やがて、金属の擦れ合う硬質な足音も、森のざわめきの中に完全に溶け込んで消え去った。


「…………ふふ」


嵐のような賑やかさが去ったテラスで、栞は小さく息を吐いた。


頭の上から、ずっと大人しくしていたポムがふわりと降りてきて、空になったダミアンのマグカップの縁に止まり、「ピピィ」と喉を鳴らした。


「賑やかだったね、ポム。でも……楽しかったね」


栞はエプロンを整え、空になった器をトレイにまとめて片付けようと、欅のテーブルへと歩み寄った。


そして――。


「…………あっ」


テーブルの中央に目を落とした瞬間、栞は息を呑んで動きを止めた。


西に傾き始めた太陽の光が、木々の隙間から斜めに差し込み、テラスの蜜蝋の床を赤銅色に染め上げていた。


その夕暮れのスポットライトを一身に浴びて、テーブルの木肌の上に――鎮座していたのだ。


大人の掌に収まりきらないほど巨大な、ひとつの結晶石。


息を呑むほどに深い、濃密な紫紺(しこん)。


最高品質のアメジストすら泥水に見えるほどの圧倒的な透明度を誇り、多面体にカットされた結晶の奥底から、トクン、トクンと、まるで生きている心臓のように妖しく、けれど息を呑むほど神聖な紫の光の粒子が、ボウッと幻想的に明滅していた。


触れるまでもなく、テラスの空気を震わせるほどの重厚な魔力の波動。


先週、レオンハルトが置いていったあの青い石の、ゆうに三倍以上の大きさと密度を持った結晶石だった。


「……レオンハルトさん……」


栞は恐る恐る手を伸ばし、その紫の石を両手ですくい上げた。


手のひらに伝わってくるのは、夕日の熱だけではない。


あの不器用で、口下手で、けれど受けた恩義を決してそのままにはしておけない黒騎士の、真っ直ぐすぎる誠意の熱気だった。


――あいつの無礼を詫びる。だが、本当に美味かった。


去り際のあの男の言葉が、耳元に鮮やかに蘇る。


部下にタダ飯を食わせた申し訳なさと、心からの感謝を、男はまたしても言葉ではなく、この規格外の「対価」として無言でテーブルに残していったのだ。


「……こんなもの、置いていっちゃって……」


掌の中で脈打つ紫の光を見つめながら、栞は呆れたように、けれど目元を潤ませて小さく笑った。


真壁のところへ持っていけば、一体いくらの値がついてしまうのだろう。


けれど、今の栞にとって何より心強かったのは、通帳の残高が増えること以上に――この見知らぬ異世界の深い森の片隅に、自分を待ってくれている、かけがえのない「居場所」と「仲間たち」ができたという確かな実感だった。


夕風が吹き抜け、軒下のセレス草のブーケが静かに揺れる。


山桜の看板に刻まれた『週末の隠れ家 森のカフェ』の文字が、赤茜(あかね)色の光を浴びて誇らしげに輝いていた。

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