第22話:ガーリックトーストと歓喜の悲鳴
まな板の上で、パン切り包丁の波刃がリズミカルに滑るたび、「サクッ、サクッ」と小気味よい乾いた音がテラスに響き渡っていた。
東京の老舗ベーカリーで今朝焼き上げられたばかりのバゲットは、外側のクラスト(皮)がしっかりと硬く焼き締められ、包丁の刃が触れるだけで無数の微細な亀裂を走らせる。だが、その硬質な殻に刃が食い込むと、内側のクラム(気泡を含んだ白い生地)は驚くほどしっとりと柔らかく、指先に吸い付くような弾力を返してきた。
厚さは二センチ弱。トマト煮込みの濃厚なソースをたっぷりと吸わせてもへたらず、かつ一口で心地よい歯触りを楽しめる絶妙な厚みに、斜めへと大きくスライスしていく。
全部で十六枚。大皿いっぱいに並んだパンの断面には、大小不揃いの気泡が美しく散らばり、良質な小麦の素朴で甘い香りがふわりと立ち上っていた。
「……うん、良いパン」
栞は満足そうに頷くと、木製の小さなボウルを引き寄せた。
ボウルの中には、室温に戻してマヨネーズ状に柔らかくなった有塩の発酵バターがたっぷりと入っている。そこへ、おろし金で細かくすりおろしたばかりの青森県産ニンニクを、ふた片分、惜しげもなく投入した。
ツンと鼻腔の奥を鋭く刺激する、フレッシュな生ニンニクの強烈なアロマ。
さらに、風味を軽くするために良質なオリーブオイルを大さじ一杯、彩りと爽やかさを添える乾燥パセリの微塵切りをパラパラと散らし、粗塩をひとつまみ。木べらを使って、白っぽく空気を含ませるように丹念に練り合わせていく。
――グニグニ、サリサリ。
ニンニクの粒と塩の結晶がバターの中で均一に混ざり合い、淡い黄緑色を帯びた、極上の自家製ガーリックバターが完成した。
栞はバターナイフを手に取ると、スライスしたバゲットの一枚一枚に、その特製ペーストをたっぷりと塗り広げていった。
パンの無数の気泡の穴を埋め尽くすように、惜しみなく、分厚く。
テラス席の最前列でその手元を凝視していたダミアンが、すでに生唾を何度も飲み込み、喉をゴロゴロと鳴らしている。
「あ、あの……シオリさん……。その、パンに塗ってるやつ……それ、絶対にヤバい代物ですよね? まだ焼いてすらいないのに、ニンニクとバターの匂いだけで、俺の頭がクラクラしてきましたよ……」
「ふふ、これだけで食べても美味しいですけど、炭火で焼くと化けるんですよ。見ててくださいね」
栞は耐熱グローブをはめ、テラス脇の炉へと向かった。
ダッチオーブンの下で静かに赤熱している、樫の木の極上の熾火。
その熾火の脇、炎が直接当たらない絶妙な火加減のスペースに、あらかじめセットしておいた頑丈なステンレス製の焼き網。網はすでにしっかりと予熱され、表面からは陽炎のような熱気が立ち上っている。
栞はトングを使い、ガーリックバターを塗った面を上にして、網の上にバゲットを並べていった。
まずは下側――パンの底面から、遠赤外線でじっくりと水分を飛ばし、トーストしていく。
――チリチリチリ……。
網に触れたパンの底が、微かな音を立て始める。
小麦の焼ける香ばしさが立ち上り、パンの縁がわずかに反り返ったところで、栞は手早くトングを返した。
ガーリックバターをたっぷりと塗った面を、一気に熱い焼き網へと押し当てる。
その瞬間だった。
――ジュワワワワワワッッッ!!
耳朶を心地よく叩く、激しい音とともに、白い煙が一気に爆発した。
熱された網肌に触れた瞬間、パンの表面に塗られていたバターが一瞬にして液状に溶け出し、網の隙間から下の真っ赤な熾火へとポタポタと滴り落ちる。
脂が炭火に触れてパチリと爆ぜ、青白い芳香の煙を立ち上らせた。
そして――。
テラスの空気が、完全に狂気的な芳香によって塗り替えられた。
すりおろされたニンニクが熱で一瞬にして焦がされ、放たれる暴力的なまでの食欲への刺激。発酵バター特有の芳醇なミルクのコクとナッツのような香ばしさ。それがカリカリに焼き締められていくフランスパンの小麦の香りと完璧に融合し、風に乗ってテラス席のふたりの鼻先へと直撃したのだ。
「ぐわぁぁぁぁぁっ!?」
ダミアンが頭を抱えて椅子の上で仰け反った。
「な、なんですかこれ!? 匂いだけで飯が三杯食えるって、まさにこのことじゃないっすか! 反則だ! こんなの戦場で流されたら一瞬で全軍降伏しますよ!!」
レオンハルトもまた、平静を装って腕組みをしていたが、その銀の瞳は焼き網の上のパンに完全に縫い止められていた。
眉間の皺がピクピクと痙攣し、組まれた太い指先が、膝の上で落ち着きなく何度も握り締め直されている。普段なら部下の軽挙妄動を叱責するはずの口からは、一言の小言すら出てこない。男の全身の神経が、ただ目の前の「ニンニクとバターの塊」へと吸い寄せられていた。
「よし……良い色!」
栞はトングでバゲットを網から救い上げた。
バターが染み込んだパンの表面には、網目の香ばしい焦げ目が美しく刻まれ、縁は黄金色にカリッと焼き上がっている。それでいて、中心部は溶け出した熱々のバターをスポンジのように吸い込み、指で押せばジュワッと溢れ出しそうなほどジューシーに仕上がっていた。
ざるの上にトーストを立てて並べ、余分な蒸気を逃がす。
そして――いよいよ、本日の主役の出番だった。
ダッチオーブンの蓋の隙間からは、すでに三十分以上にわたって、トマトと肉の濃厚な蒸気が噴き出し続けていた。
栞は火ばさみを手に取り、蓋の上に載せていた真っ赤な熾火を、手早く炉の底へと払い落とした。
厚手の耐熱グローブを両手にはめ、蓋の中央の重厚なループハンドルをしっかりと握り締める。
「開けますよ。熱い蒸気配に気をつけてくださいね」
そう声をかけ、栞は二キロを超える分厚い鉄の蓋を、真上に向かって一気に持ち上げた。
――ボワッッッッ!!
立ち上ったのは、テラス全体を覆い尽くさんばかりの、真っ白で濃密な熱い蒸気だった。
立ち込める霧が風に吹かれて晴れゆく中、ダッチオーブンの内部が露わになる。
「…………っ!!」
テラス席から、ふたつの息を呑む音が同時に重なった。
黒い鉄鍋の底で、ポコポコと小さな気泡を上げながら揺らめいていたのは――息を呑むほどに深く、艶やかな真紅の海だった。
水分の大部分が程よく飛び、完熟トマトと赤ワインが極限まで煮詰まって生まれた、とろみのある濃厚なソース。その表面には、豚バラ肉から溶け出した澄んだ黄金色のラードが、宝石のような油滴となってキラキラと浮かんでいる。
そして、そのソースの海の中に鎮座していたのは、もはや角を失い、丸みを帯びてトロトロに沈み込んだ巨大な豚バラブロック肉の塊だった。
表面につけた香ばしい焼き目はそのままに、肉の繊維は内部までしっかりと赤ワインとトマトの赤を吸い込み、今にも自らの重みで崩れてしまいそうなほど柔らかく膨らんでいる。
脇を固める異世界の根菜たちも、見事な変貌を遂げていた。
鮮やかな朱色のニンジンは角が完全に取れてソースと一体化し、白いカブのような根菜は、豚肉の旨味を余すところなく吸い上げて琥珀色に透き通っていた。
栞は大きめのスープレードル(おたま)を持ち、鍋の底から肉と野菜をすくい上げた。
――ほろり。
レードルの縁が触れた瞬間、厚さ三センチの豚バラ肉の塊が、抵抗することなくスッと半分に裂けた。
ナイフなどいらない。スプーンの背を当てるだけで、繊維がほどけて崩れてしまうほどの柔らかさ。
「うわぁ……すごく柔らかくなってる」
栞は古民家の戸棚から持ってきた、深さのある素朴な白磁の深皿をふたつ並べた。
崩さないよう慎重に、巨大な豚肉の塊をふたつずつ、ゴロゴロとした根菜たちとともに器の中央へと盛り付ける。
その上から、鍋底の濃厚なトマトソースをたっぷりと回しかけた。
仕上げに、先ほど焼き上げたばかりの熱々のガーリックトーストを、器の縁に三枚ずつ、ソースに寄り添わせるように添える。緑のパセリを散らし、黒胡椒をひと挽き。
さらに、テーブルの端で目を輝かせていたポムのために、木製の小さな小皿に、スプーンで崩した一口大の柔らかな豚肉とニンジンの甘い破片を盛り付け、冷ましてから差し出してやった。
「ピキャッ!」
ポムが歓喜の声を上げて小皿にしがみつく。
「お待たせしました! 豚バラ肉と森の根菜のトマト煮込み、ガーリックトースト添えです。熱いので気をつけて召し上がってくださいね」
栞が欅のテーブルの上へ、湯気を立てるふたつの器をコトンと置いた。
真っ白な湯気、鮮烈なトマトの赤、黄金色に輝くガーリックトースト。
至近距離に運ばれてきたその料理の圧倒的な迫力に、ダミアンは完全に言葉を失っていた。
鳶色の瞳孔が限界まで開き、指先が微かに震えている。
「こ、これを……俺が食っていいんすか……? 夢じゃないですよね……? 砦のクソ不味い塩漬け干し肉じゃなくて、本物の……こんな神様みたいな肉を……?」
「ふふ、夢じゃありませんよ。冷めないうちにどうぞ!」
「いただきっっ……ますっっっ!!」
ダミアンは合掌するのもそこそこに、テーブルに置かれていた大きな真鍮のスプーンを引っ掴んだ。
そして、器の中央に鎮座する、一番大きな豚肉の塊へとスプーンの先を突き入れた。
――スッ……。
金属のスプーンが、まるで常温のバターを切り裂くかのように、一切の抵抗なく肉の中へと沈み込んでいく。
肉の繊維がホロホロとほどけ、内側から閉じ込められていた透明な肉汁が、ジュワッとトマトソースの中へ溢れ出した。
スプーンの上に、一口大の豚肉の塊を乗せる。赤身と脂身が絶妙なバランスで重なり、そこに真っ赤なトマトソースがたっぷりと絡みついている。
ダミアンはハフハフと二、三度息を吹きかけ――迷うことなく、大口を開けてそれを口の中へと放り込んだ。
その瞬間だった。
「…………っっっっ!?」
ダミアンの身体が、ピキリと直立不動のように固まった。
スプーンを握った右手が宙で静止し、丸い鳶色の瞳が、これ以上ないほど見開かれる。
咀嚼。
歯を当てる必要すらほとんどなかった。
舌と上顎で軽く押し潰しただけで、豚肉の繊維がハラハラとほどけ、体温でとろりと溶け崩れていく。
口いっぱいに押し寄せてきたのは、信じがたいほどの旨味の濁流だった。
じっくりと煮込まれたことで余分な脂っこさは完全に消え去り、ただただ純粋な豚肉のコクと甘みだけが舌を包み込む。
そこへ、赤ワインの芳醇な深みと、完熟トマトの爽やかで力強い酸味が、怒涛の勢いで追いかけてくるのだ。
酸味が肉の脂を完璧に引き締め、ローリエの気品ある香りが後味をすっきりと整える。
そして何より――一緒に煮込まれた異世界の根菜の甘み。大地の滋味を吸い上げたニンジンの濃厚な糖分が、ソース全体に底知れない深みを与えていた。
――ゴクリ。
重厚な喉仏が上下し、熱い肉の塊が胃の腑へと落ちていく。
次の瞬間。
「う、うめえええええええええええっっっっっっ!!!」
静寂の森を揺るがすような、絶叫がテラスに木霊した。
ダミアンは両手で自らの頭を抱え、椅子の上で激しく身悶えした。目尻からは、本当に大粒の涙がポロポロと零れ落ちている。
「なんだこれ!? なんだこれぇぇぇっ!? 肉が……肉が噛まなくても溶けて消えるっすよ! ソースがめちゃくちゃうめえ! 酸っぱいのに甘くて、コクがあって、身体の芯まで染み渡る……! 俺、今まで砦で一体何を食わされて生きてきたんだ!?」
「おい、ダミアン、落ち着け。見苦しいぞ」
レオンハルトが眉をひそめて叱責したが、ダミアンの耳には上官の声など一切届いていなかった。
青年の手は、すでに次の獲物へと伸びていた。
器の縁に添えられた、黄金色のガーリックトースト。
指先でつまみ上げると、カリッと香ばしい手応えが伝わってくる。ダミアンはそれを、器の底に残る濃厚なトマトソースの海へと、躊躇うことなくズブッと突き刺した。
トーストの断面の気泡が、スポンジのようにジュワジュワと赤いソースを吸い上げていく。
ソースをこれでもかとたっぷりと纏わせたパンを、豪快に口へと運ぶ。
――ザクッ、ジュワァァッ!!
テラスに響く、暴力的なまでの破断音。
外側のカリッとした香ばしい皮。その直後に押し寄せてくる、パンの内側から染み出す熱々のガーリックバターの濃厚な脂質と塩気。
そして、そこに重なり合う、豚肉の出汁を極限まで吸い込んだトマトソースの酸味とコク。
小麦の甘み、ニンニクの刺激、バターの濃厚さ、肉の旨味、トマトの爽快感。
その五重奏の調和は、もはや一つの完成された小宇宙だった。
「ひぃぃぃっ……! パンが……パンが吸う! ソースを吸ってさらに化ける! うまい、うますぎるっすシオリさん!!」
ダミアンは狂ったようにスプーンとパンを交互に動かし始めた。
スプーンでホロホロの豚肉をすくって口へ放り込み、ハフハフと息を吹きながらニンジンを咀嚼し、空いた隙間にガーリックトーストを突っ込む。
ソースが少しでも皿に残るのを許せないとばかりに、最後はトーストの切れ端で皿の底や縁をこれでもかと拭い、真っ白な陶器の肌がピカピカに磨き上がるまで、余すところなく口へと運んでいく。
その凄まじい食べっぷりに、栞は圧倒されながらも、料理人としてこれ以上の歓喜はないと胸を熱くしていた。
そして――。
ふと視線を向けると、向かい側の席で、もう一つの『異変』が起きていた。
「…………」
レオンハルトだった。
彼はダミアンのように叫び声を上げることはなかった。
背筋をピンと伸ばし、無言のまま、端正な顔立ちを崩すこともなく、静かに料理と向き合っていた。
だが――その手元の動きは、明らかに異常だった。
スプーンを動かす速度が、先週のスコーンの時の、ゆうに倍速に達していたのだ。
――スッ、モグッ、ゴクリ。
――スッ、モグッ、ゴクリ。
スプーンが皿と口の間を、目にも留まらぬ正確無比なストロークで往復している。
銀の双眸はギラギラとした野性的な光を湛え、白皙の頬は熱気と興奮でカッと紅潮していた。
一口運ぶたびに、男の重厚な喉仏が力強く上下し、荒い鼻息がフシューと漏れ出る。
大振りの豚肉の塊が、瞬く間にふたつとも男の胃袋の中へと消え去った。
続いて、レオンハルトの大きな手がガーリックトーストへと伸びる。
迷うことなくソースの海へと沈め、たっぷりと赤い旨味を吸わせると、大口を開けてバクリと喰らいついた。
――ザクッ、ジュワッ。
咀嚼する男の眉間が、グッと深く寄る。
甘党の彼にとって、先週のスコーンやジャムは至高の癒やしだったはずだ。
けれど、何日も過酷な任務で体力を削り取られてきた一人の屈強な戦士として、このニンニクと豚肉とトマトが織りなす圧倒的なスタミナの奔流は、本能の最も深い部分を容赦なく揺さぶり起こしていた。
美味い。ただひたすらに、身体が、血が、筋肉が、この栄養を貪り求めている。
レオンハルトは最後の一枚のトーストで、皿のソースを完璧に拭い取った。
ダミアン同様、洗った後かのようにピカピカになった皿を前に、男は最後の一口を飲み干した。
――トスッ。
スプーンが静かに皿の上に置かれた。
開始からわずか数分。
八百グラムの豚バラ肉と山盛りの根菜、十六枚のガーリックトーストは、ふたりの屈強な騎士の胃袋の中へと、跡形もなく消え去っていた。
「…………ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
ダミアンの口から、魂の抜けたような、長く重たい溜息が漏れ出た。
青年は両腕をだらりと下ろし、欅のテーブルから背中を離すと、テラスの丸太ベンチの背もたれへと、深々と自らの身体を沈み込ませた。
お腹はぽっこりと丸く膨らみ、ベルトのバックルを無意識にひとつ緩めている。
頭上を見上げれば、木漏れ日が青々とした葉を透かしてきらきらと揺れ、森を渡る涼やかな風が、火照った頬を優しく撫でていく。
遠くで響く清流のせせらぎ。
満たされた胃袋から、温かな血液が全身の血管へと巡り、極度の満腹感と多幸感が、全身の筋緊張を完全に溶かしてしまっていた。
ダミアンは潤んだ鳶色の瞳をゆっくりと動かし、向かい側に座る自らの上官――同じように深く息を吐き、穏やかな顔で空を見上げている黒騎士の横顔を、じっと見つめた。
そして、目頭を押さえながら、泣き出しそうな声でこう訴え出たのだ。
「…………隊長」
「……何だ」
「隊長……ずるいっすよ……!」
ダミアンの声は、震えていた。
「ずるい! ずるすぎるっすよ隊長!! こんな……こんな天国みたいな場所を、こんな美味い飯を、自分一人だけで独り占めしてただなんて!! 小隊の仲間たちがあの砦で泥水みたいな茶を啜って、石みたいに硬い乾パンで歯を折られそうになってる時に、隊長だけ毎週こんな場所で極楽を味わってたなんて……! 俺、あんまり悔しくて……そして美味すぎて、涙が止まんないっすよぉぉぉ……!」
両手で顔を覆って本気でぐすんと鼻をすする副官の姿に、レオンハルトは心底気まずそうに顔を背け、耳の先を再びカッと赤く染め上げた。
そんなふたりの姿を眺めながら、栞は空になったふたつの皿を両手に持ち、テラスの柔らかな木漏れ日の中で、胸いっぱいの温かな笑みを零していた。




