第21話:ダッチオーブンの魔法
木漏れ日が柔らかく揺れるテラス席へ案内されたダミアンは、まるで珍しい宝物殿にでも迷い込んだ子供のように、落ち着きなく首を巡らせていた。
「うわぁ……すっごいな。このテーブル、欅の一枚板じゃないですか。肌触りがすべすべで、蜜蝋の良い匂いがする……。それにあの軒下にぶら下がってるの、セレス草ですよね? あんな風に束ねて飾るなんて、王都の洒落た店でも見たことないっすよ」
「……ダミアン。静かに座っていろと言ったはずだ」
向かい側に腰を下ろしたレオンハルトが、低く鋭い声で部下を制した。
先ほどまでの耳まで赤く染まった狼狽はなんとか引っ込めたものの、やはり年頃の部下に自分の「秘密の隠れ家」を知られてしまった居心地の悪さは拭いきれないらしい。長身を丸太の背もたれに預け、腕を組んだまま、銀の瞳をわずかに斜め下へと逸らしている。
そのレオンハルトの広い肩の上では、ポムがまだ少し警戒するように身を縮めていた。
最初はダミアンの大きな声と派手な赤毛に怯えて栞のパーカーの襟元に隠れていたのだが、レオンハルトが「こいつは騒々しいだけの無害な男だ」と不器用に指先で頭を撫でてやると、ようやく安心したのか、今は隊長の肩当の毛皮にすっぽりと収まり、ダミアンの顔を上からじっと観察していた。
「あ、ピクシーだ! 可愛いっすね! 隊長、いつの間にこんな小っちゃい相棒まで手懐けてるんですか?」
「手懐けてなどいない。シオリ殿の友人だ。……それ以上騒ぐなら、今すぐ砦へ強制送還するぞ」
「ひっ、すみません! 大人しくしてます!」
ダミアンは慌てて両手で口を押さえ、欅のテーブルの上にちょこんと行儀よく肘をついた。
ふたりのやり取りを背中で聞きながら、栞はテラスの調理スペースへと立ち、エプロンの紐をきゅっと結び直した。
――さて、何を作ろう。
二十四歳の現役兵士。それも朝から何も食べずに森を駆け回ってきたというダミアンの胃袋を満たすには、先週のような上品なスコーンやマフィンだけでは到底足りないはずだ。
若い男性が求めているのは、小手先の軽食ではない。
ガツンと腹に溜まる、力強い肉の旨味。脂の香ばしさ。そして、パンを何枚でも放り込みたくなるような、濃厚で滋味あふれる温かい料理。
「……うん。あれを使おう」
栞はテラスの隅、雨風を避けるように置かれていた頑丈な木箱の中から、黒々とした巨大な鉄の塊を取り出した。
――ズシリ。
両腕に伝わってくる、圧倒的な重力の手応え。
持ち込んだキャンプ道具の中でも、最も重厚で本格的な調理器具――十インチの鋳鉄製『ダッチオーブン』だった。
蓋だけでも二キロ近くあり、本体と合わせれば五キロを超える分厚い鉄鍋。蓋の縁がせり上がったディープタイプで、炭火や熾火を蓋の上にも乗せられる、正真正銘の野外調理の王様だ。長年使い込まれて油が焼き付き、表面は漆黒の濡れたような光沢を放っている。
「おっ……重そうな鉄鍋ですね。煮込みですか?」
ダミアンが興味津々に首を伸ばす。
「はい。男の人二人分ですから、たっぷり作りますね。……レオンハルトさん、昨日の薪、使わせてもらってもいいですか?」
栞が振り返って尋ねると、レオンハルトの銀の瞳が微かに揺れ、小さく頷きを返してきた。
「……ああ。好きに使え。あれは……貴様のものだ」
「ありがとうございます。すごく助かります」
栞は微笑み、テラスのすぐ脇に設えた安全な焚き火スペースへと向かった。
耐火レンガで囲まれた炉の中に、レオンハルトが置いていってくれたあの樫の薪を組む。細く割られた焚き付けに火をつけると、驚くほど素直にパチパチと火の粉が爆ぜ、あっという間に太い薪へと火が燃え移っていった。
完璧に乾燥している証拠に、煙はほとんど出ず、透き通った力強い炎が立ち上る。やがて炎が落ち着き、薪の芯が真っ赤に発熱する『熾火』の状態になった。遠赤外線をたっぷりと放つ、最も安定した極上の熱源だ。
炉の上の頑丈な鉄五徳にダッチオーブンを載せ、プレヒート(予熱)を始める。
分厚い鋳鉄がじわじわと熱を蓄え、黒い肌から陽炎のような熱気が揺らめき出した。
その間に、栞は食材の準備に取りかかった。
クーラーバッグの底から取り出したのは、今朝の買い出しで仕入れてきた、見事な『豚バラブロック肉』だった。
ドスン、と清潔なまな板の上に横たわったそれは、ゆうに八百グラムはある巨大な肉の塊。赤身と純白の脂身が綺麗な三層を描き、鮮やかな桜色をしている。
「うわっ……! すげえ肉の塊……!」
ダミアンの喉仏が、ゴクリと音を立てて大きく跳ね上がった。
栞は果物ナイフよりも二回り大きな牛刀を構え、その豚バラブロックに刃を入れた。
――サクッ、ジュウ。
冷えた脂身を断ち切る心地よい感触。
ケチケチと細切れにするつもりは毛頭なかった。大人の親指の幅――厚さ三センチ、一口では到底頬張れないような、贅沢極まりない大振りの角切りへと切り分けていく。全部で八つの、堂々たる肉の塊がまな板の上に並んだ。
そこへ、粗塩をたっぷりと振りかける。
パラパラと白い結晶が肉の表面に散り、さらにミルで挽きたての黒胡椒を、これでもかというほど豪快にガリガリと擦り込んでいく。
両手で肉を揉み込み、常温に戻しながら下味をしっかりと馴染ませる。手のひらの熱で豚の脂がわずかに緩み、胡椒の野性的なスパイシーな香りが立ち上った。
「よし、焼いていこう」
十分に熱せられたダッチオーブンの底に、ほんの少しのオリーブオイルを垂らす。
白煙が一筋立ち上った瞬間、下味をつけた豚バラ肉を、トングで手際よく投入していった。
――ジュゥゥゥゥゥッッッッ!!
森の静けさを一瞬にして吹き飛ばすような、凄まじい水蒸気爆発と焼き音が炸裂した。
熱された分厚い鋳鉄肌に触れた瞬間、豚肉の表面がキュッと引き締まり、肉汁を閉じ込める強固な焼き色がつき始める。
立ち上る真っ白な煙。
その煙とともにテラス一面に吹き荒れたのは、暴力的なまでに香ばしい、焦がし豚脂のアロマだった。
じゅわじゅわと溶け出したラードが鉄底で泡立ち、粗挽き黒胡椒の香ばしさと混ざり合って、風に乗ってテラス席へと容赦なく雪崩れ込んでいく。
「ぐっ……!? な、なんですかこの匂い……! 肉を……ただ肉を焼いてるだけなのに、胃袋が破裂しそうなくらい良い匂いがする……!」
ダミアンが両手でテーブルの端を掴み、身を乗り出して目を血走らせている。
レオンハルトもまた、平静を装って腕組みを維持していたが、その視線はダッチオーブンから立ち上る白い煙に完全に釘付けになっていた。喉仏がトクンと無意識に上下し、組まれた腕の指先が、微かにピクリと動くのを栞は見逃さなかった。
栞は長いトングを操り、肉の六面すべてを転がしながら、手早く焼き色をつけていく。
表面をこんがりとした濃いキツネ色に焼き固めることで、肉の旨味を完全に内側に閉じ込めると同時に、余分な脂を鍋底に落とすのだ。
全面がカリッと香ばしく焼き上がったところで、栞はキッチンペーパーを丸めてトングで挟み、鍋底に溜まった余分なラードを丁寧に吸い取っていった。これを怠ると、後で煮汁が脂っこくなりすぎてしまう。家庭料理の手間暇を、野外のダッチオーブンでも惜しみなく注ぎ込む。
続いて、野菜の出番だった。
「ポム、さっき採ってきてくれたお野菜、使わせてもらうね」
「ピピィッ!」
ポムが朝の散歩のついでに、山小屋の敷地内に自生している菜園跡のような場所から案内してくれた、異世界の新鮮な根菜たち。
まずは、現代のニンジンに似ているが、もっと鮮やかな朱色をした長細い根菜。泥を洗い落として皮ごと、ゴロゴロとした乱切りにする。刃を入れると「パキッ」と瑞々しい音を立て、切り口から甘い果汁のような露が滲み出してきた。
次に、丸々と太った、カブとジャガイモの中間のような白い根菜。皮を厚めに剥き、煮崩れしないよう大振りの四つ割りにする。
そして、現代から持参した大きめの玉ねぎふたつを、ざっくりとしたくし形切りに刻んだ。
表面を焼き上げた豚肉の隙間へと、それらの野菜を一気に放り込む。
――ジャァァァッ!
冷たい野菜が熱い鉄鍋に触れ、再び激しい蒸気が立ち上る。
木べらを持ち、底に残ったわずかな肉の焦げ目をこそぎ落とすようにしながら、野菜全体に豚の旨味脂を絡め合わせていく。
玉ねぎが透き通り、甘い香りを放ち始めた。ニンジンの角が取れ、白い根菜の表面がうっすらと油を吸って艶めく。
「ここからが、味付け」
栞はクーラーバッグから、赤いラベルの紙パック――料理用の赤ワインを取り出した。
ドバドバと惜しげもなく、肉と野菜の頭が半分浸かるくらいまで注ぎ入れる。
――ジュワワワッ!
アルコールが一気に気化し、ワインの芳醇な葡萄の香りと酸味が立ち上る。鍋肌の焦げ付きがワインの水分で完全に溶け出し、極上のソースのベースへと変わっていく。
アルコール分をしっかりと煮飛ばしたところで、現代のスーパーで買ってきた、大容量のカットトマト缶を二缶、丸ごと投入した。
真っ赤な完熟トマトの果肉と濃厚なピューレが、鍋いっぱいに広がる。
そこへ、裏の小川から汲んできた奇跡の清流水をカップ一杯、固形コンソメを二個、きび砂糖を小さじ一杯(これがトマトの酸味をまろやかにする隠し味だ)、そして乾燥させたローリエの葉を二枚、手でパキリと割って放り込んだ。
木べらで全体を底から大きく混ぜ合わせる。
真っ赤なトマトの海の中に、香ばしく焼き目のついた分厚い豚バラ肉と、大振りの根菜たちがゴロゴロと頭を覗かせている。
――コトコトコトコト……。
沸騰が始まり、鮮やかな赤の表面に、ポコポコと力強い気泡が湧き上がってきた。
「あとは、お鍋に魔法をかけてもらうだけ」
栞は耐熱グローブを両手にはめ、重厚な鋳鉄製の蓋を両手でしっかりと持ち上げた。
そして、ダッチオーブンの上へと、静かに降ろす。
――ガチャンッ。
精密に研磨された鉄と鉄が噛み合い、密閉された重々しい金属音が響いた。
この圧倒的な蓋の重さこそが、ダッチオーブンの真骨頂だ。内部の蒸気を一切逃さず、適度な圧力をかけることで、硬い肉の繊維を短時間でホロホロに解きほぐし、野菜の持つ水分と甘みを極限まで引き出してくれる。
さらに栞は、火ばさみを使って、炉の底から真っ赤に熾った樫の炭をいくつか拾い上げた。
そして、ダッチオーブンの蓋の上のくぼみへと、手際よく並べていく。
上火だ。
下からの熾火と、蓋の上の炭火。
上下から挟み込むように均一な熱を加えることで、鍋の内部は完全にオーブンと同じ熱循環を生み出す。
「よし……これで三十分から四十分、じっくり煮込みます」
栞が立ち上がり、額の汗を手ぬぐいで拭った。
テラスの静寂の中に、次第に新しい音が満ち始めていた。
――グツグツ、コトコト、コトコト……。
分厚い鉄の壁を透かして、鍋の底で濃厚なソースが煮えたぎる、重厚で小気味よい音が響いている。
そして、蓋のわずかな蒸気口から、シュウシュウと細い湯気が吹き出し始めた。
その蒸気に乗って風に乗ってきたアロマは、先ほどの肉を焼いたときの匂いとは、また別次元の破壊力を持っていた。
完熟トマトが熱で凝縮された、甘酸っぱく濃厚なコク。
赤ワインの奥深い渋みと、ローリエの爽やかなハーブの気品。
そして何より――豚バラ肉から溶け出した極上の脂と出汁が、異世界の根菜の甘みと完全に融合し、一つの完成された『ご馳走』へと熟成されていく、暴力的なまでに食欲を刺激する香り。
「…………うぐっ」
テラス席から、ダミアンの苦悶に満ちた呻き声が漏れた。
両手で自らの腹を抱え込み、テーブルの上に突っ伏している。
「た、隊長……俺、死ぬかもしれません……。こんな美味そうな匂いを嗅がされながら三十分も待つなんて、どんな敵の拷問より過酷っすよ……!」
「……黙って耐えろ」
レオンハルトは厳しく言い放ったが、その本人の視線もまた、ダッチオーブンの蓋から噴き出す白い蒸気に完全に釘付けになっていた。
いつもは氷のように冷徹な銀の双眸が、肉食獣のような切実な渇望を帯びて微かに潤んでいる。
――ゴクリ。
静まり返ったテラスに、レオンハルトの喉が鳴った乾いた音が、はっきりと響いた。
ダミアンがパッと顔を上げ、驚いたように隊長の横顔を見上げる。
「えっ!? 隊長、今、喉鳴らしましたよね!?」
「……鳴らしておらん」
「鳴らしましたって! 『ゴクリ』って、めちゃくちゃデカい音しましたよ!」
「気のせいだ。……貴様の耳を切り落としてやろうか」
「うわっ、出た! 誤魔化すときの脅し文句!」
ふたりの微笑ましいやり取りに、栞は思わず口元を押さえて吹き出してしまった。
強面な黒騎士の隊長も、年若い副官も、この美味しい匂いの前ではただのお腹を空かせた素直な男の人たちだ。
――待っている時間も、最高のご馳走。
空腹という最高のスパイスが、ふたりの胃袋を極限まで研ぎ澄ましていく。
栞はテラスの欅のテーブルへと戻ると、買い出しの紙袋から、細長い紙包みを二本取り出した。
「煮込みを待つ間に、こっちの準備をしておきましょうか」
包み紙を破ると、中から現れたのは、表面にこんがりと深い焼き色のついた、見事なフランスパン――『バゲット』だった。
東京の有名なブーランジェリー(パン屋)で、今朝一番に焼き上げられたものを買ってきた、自慢の逸品。
さらに、昨夜の買い出しで用意しておいた上質な発酵バターの塊と、青森県産の大粒のニンニク。
「……ニンニク……?」
ダミアンが顔を上げ、栞の手元を凝視した。
「はい。ただのパンじゃなくてね、カリッと焼いて、香ばしいガーリックトーストにするんです。熱々のトマト煮込みのソースを、これですくいながら食べると……とっても美味しいんですよ」
栞がいたずらっぽく微笑みながらパン切り包丁を握ると、ダミアンの目が限界まで見開かれ、レオンハルトの背筋がピクンと跳ね上がった。
トントントン、と軽快なリズムを立てて、バゲットが斜めにスライスされていく。
濃厚なトマトと肉の煮込みの香りが満ちるテラスに、新しく、刺激的なニンニクと小麦の香りが加わろうとしていた。




