第20話:隊長の背中を追う足音
――ガサリ、ザザッ。
深い原生林の木立の奥、人の背丈ほどもあるシダの青葉を強引になぎ倒すようにして、その影は姿を現した。
新しく掛けたばかりの山桜の看板に指を添えたまま、栞は呼吸を止めて身構えていた。首筋のパーカーの隙間では、ポムが栞の鎖骨にしがみつき、羽を固く閉じて震えている。冷たい汗が一筋、こめかみを伝い落ちた。
木漏れ日のスポットライトの中に踏み出してきたのは――見間違うはずもない、あの漆黒の甲冑だった。
百八十センチを優に超える圧倒的な巨躯。背中には無骨な両手大剣、漆黒のマントを冷たい朝風に翻し、鋭利な銀の双眸が木立の切れ間から真っ直ぐに栞を射抜く。
「……あ」
栞の口から、安堵の混ざった小さな吐息がこぼれ落ちた。
レオンハルトだ。
先週よりもさらに手入れの行き届いた甲冑は、朝の光を鈍く弾き返し、泥の汚れひとつない。昨夜、山小屋のポーチにあの極上の薪の束と羊皮紙のメモを置いていってくれた張本人。
けれど、いつもと様子が決定的に違っていた。
普段のレオンハルトは、冷徹で無表情な彫像のように感情を押し殺しているか、あるいは飢餓と疲労で今にも倒れそうな痛々しさを漂わせていた。
だが、今、木立の前に立つ彼の表情は――まるで苦虫を百匹ほどまとめて噛み潰したかのように、凄まじい険しさを帯びていたのだ。額には青筋がくっきりと浮き上がり、眉間には彫刻刀で抉ったような深い皺が寄っている。その銀の瞳は、栞ではなく、自らのすぐ背後――斜め後ろの藪を、今にも大剣を抜き放ちそうな殺気配で睨みつけていた。
「…………いつまで這い回っている。さっさと出てこい」
地を這うような、怒気を孕んだレオンハルトの重低音が森に響き渡った。
その瞬間だった。
「いや〜〜っ! バレてましたか隊長! さすがアクスベルの『氷の番犬』、五感の鋭さは化け物じみてますねぇ!」
藪の中から、なんとも軽妙で陽気な声が飛び出してきた。
バサバサと乱暴に葉をかき分けて飛び出してきたのは、身軽な動きの青年だった。
頭には、朝日に照らされて燃えるように輝く、短く刈り込まれた鮮やかな赤毛。年齢は二十代半ば、二十四、五といったところだろうか。引き締まった無駄のない体躯に、レオンハルトのような重装甲冑ではなく、動きやすさを重視した黒革と鍛鉄を組み合わせた軽装鎧をまとっている。腰には二本の短剣。
その顔立ちには少年のような人懐っこさが色濃く残っており、丸い鳶色の瞳を落ち着きなくキョロキョロと動かしながら、全身で周囲の情報を貪るように観察していた。
「……ダミアン」
レオンハルトが、低く唸るような声でその名を呼んだ。
拳がギリギリと音を立てて握り締められ、鋼鉄の手甲が軋む。
「貴様……砦での朝の訓練はどうした。副官の立場を放り出し、なぜ俺の背後を嗅ぎ回っている」
「いやいやいや! 放り出してなんかいませんって! 若手の素振りと防具の手入れは、出発前にぜーんぶ終わらせてきましたよ!」
ダミアンと呼ばれた青年は、隊長の凄まじい威圧感をものともせず、平然と肩をすくめてみせた。どうやらこの無口な隊長の怒りには慣れっこらしい。
ダミアンは腰に手を当て、ジトッとした目でレオンハルトを見上げた。
「それより隊長、問い詰めたいのはこっちのセリフっすよ! ここ最近の隊長、どう考えてもおかしいじゃないですか!」
「……何がおかしいというのだ」
「全部ですよ、ぜ・ん・ぶ!」
ダミアンは人差し指をビシッとレオンハルトの鼻先に突きつけた。
「まず第一に! この一週間、連日過酷な夜間哨戒が続いてるってのに、隊長の肌艶が異様にいい! 目の下の隈が消えてる! いつもなら任務明けは今にも人を斬り殺しそうな般若の顔をしてるのに、今週は部下に理不尽な雷を落とすこともなく、どこか穏やかな顔で空を見上げてたりする! 小隊の連中がどれだけ怯えてたか分かりますか!? 『隊長は過労で頭がやられたんじゃないか』『近いうちに死ぬ気なんじゃないか』って砦中で噂になってたんすよ!」
「なっ……愚鈍な部下どもが、勝手な邪推を……!」
レオンハルトの白皙の頬が、わずかに引きつった。
ダミアンの追及は止まらない。彼は得意げに指を二本に増やし、ずいっと顔を近づけた。
「そして第二に! 週末になるたびに、単独哨戒だとか言って一人で森の深部へ消えていく! 昨日の夕方なんか、誰にも見つからないように極上の樫の薪をふた袋も抱えてコソコソ歩いてるの、俺は見逃しませんでしたからね! あの仕事中毒で朴訥の塊みたいなレオンハルト隊長が、人知れず森の奥で何をやってるのか……副官として、小隊の危機管理として、命がけで尾行して突き止める義務があったんす!」
「貴様……昨日の夕方からつけていたのか……!?」
レオンハルトの銀の瞳が、驚愕と屈辱に見開かれた。
百戦錬磨の小隊長として、部下に背後を取られていたという事実。そして何より、自分が密かに抱えていた『秘密の聖域』を、一番口の軽い副官に暴かれてしまったことへの動揺が、その端正な顔立ちを急速に赤く染め上げていく。
「昨日からっすよ! 隊長が薪を運ぶ姿を見失って、今朝また森に入っていくのを執念で追跡してきたんです! ――で、辿り着いた先が、ここってわけですか」
ダミアンはふっと追及の表情を解き、くるりと身体を回転させて周囲を見渡した。
その視線が、木立の間に佇むログハウス、ピカピカに磨き上げられたウッドデッキのテラス、軒下に吊るされたセレス草の緑のブーケ、そして――。
広葉樹の幹に掛けられたばかりの、山桜の手彫り看板へと注がれた。
「『週末の隠れ家 森のカフェ』……? へぇ、なんだか見慣れない文字だけど……不思議と意味が頭に入ってくるな。カフェって、あの王都の貴族街にあるような、お茶を飲む店のことっすか……?」
ダミアンが看板の文字を指先でなぞろうとした、その時だった。
彼の鳶色の瞳が、看板のすぐ脇に立ち尽くしていた栞の姿を、真正面から捉えた。
「………………え?」
ダミアンの動きが、ピタリと止まった。
瞬きを二回、三回。
目の前にいるのは、動きやすいカーゴパンツに洗いざらしのパーカー、首元に手ぬぐいを巻き、髪を後ろでラフに束ねた、小柄な黒髪の女性。
手には彫刻刀の道具袋と金槌を持ち、驚いたように大きな瞳を瞬かせている。
ダミアンの視線が、栞の顔から、背後のレオンハルトの顔へと、信じられない速度で往復した。
「え……? えええっ!? お、女の子……!? 人っ子一人寄り付かないはずの魔境の森の奥に、なんでこんな優しそうなお嬢さんが……!?」
ダミアンの顎が外れんばかりに落ちた。
そして、突如として何かに合点がいったように両手をポンと打ち鳴らすと、レオンハルトに向かってニヤニヤとした下卑た笑みを浮かべてみせたのだ。
「あ〜〜〜〜〜〜ッ!! 分かった! 分かりましたよ隊長!! 密会だ!! 『氷の番犬』が森の奥で若い娘と密会してたんだ!! うわーっ、信じらんねえ! あの堅物で女っ気ゼロ、趣味は剣の手入れと筋トレだけだった隊長が、いつの間にこんな山奥に別宅を構えて愛人を囲ってたんすか!? だから肌艶が良くなってたんだ! 恋の力ってやつですか!?」
「だ、誰が愛人だ貴様ァッッ!!!」
ドスの利いた怒号とともに、レオンハルトの拳骨が唸りを上げてダミアンの脳天へと振り下ろされた。
――ゴツンッッ!!
重装歩兵の兜をも凹ませそうな鈍い音が森に響き渡る。
「ぎゃふんっ!?」
ダミアンは頭を押さえて地面に蹲り、涙目で悶絶した。
「い、痛ってえええええ! 本気で殴る奴があるかっすか! 頭蓋骨割れたかと思いましたよ!」
「割れておらんのならもう一発くれてやる! 無礼にも程があるぞ! シオリ殿は、先週行き倒れかけた俺の命を救ってくださった大恩人だ! これ以上下劣な妄言を吐くなら、貴様をこの場で肉片に変えて森の魔獣の餌にしてくれる!」
レオンハルトの顔は、怒りと羞恥のあまり耳の先まで完全に真っ赤に沸騰していた。
普段の冷静沈着な姿はどこへやら、落ち着かない様子で視線を宙に彷徨わせ、栞に向かってぎこちなく頭を下げる。
「……シ、シオリ殿。部下の非礼を……心から詫びる。この馬鹿者は後で骨の髄まで叩き直しておく故、どうか……どうかお許しいただきたい」
「あ、いえ……私は大丈夫ですから、顔を上げてください」
栞は思わず、くすくすと口元を押さえて笑ってしまった。
これまで見てきたレオンハルトは、過酷な任務を背負い、たった一人で世界と戦っているような孤独な騎士の姿ばかりだった。
けれど、目の前で繰り広げられているのは、生意気な部下に手を焼き、からかわれて赤面し、必死になって体裁を取り繕おうとする、年相応の人間味にあふれた男性の姿だった。
副官のダミアンも、軽口を叩いて殴られながらも、その瞳の奥には隊長に対する絶対的な信頼と親愛が宿っているのが見て取れる。
――いい関係なんだな。
オフィスでの、足の引っ張り合いや責任転嫁ばかりが渦巻いていた人間関係とは違う。命を預け合う者同士の、飾らない、温かな絆。
その光景を見ているだけで、栞の胸の奥の緊張はすっかり解け去っていた。
「ピィ……」
首筋に隠れていたポムも、どうやら命の危機ではないと察したのか、おずおずとパーカーの襟元から小さな顔を覗かせた。
蹲っていたダミアンが、頭をさすりながらのろのろと顔を上げる。
「痛たた……。大恩人って……じゃあ、隊長が急に元気になったの、本当にこの人の手当てのおかげなんすか……?」
「そうだ。俺が飢餓と疲労で倒れ伏していたところを、シオリ殿が温かい湯と、甘く香ばしい極上の糧食で救ってくださったのだ」
「へぇ……糧食……」
ダミアンは不思議そうに目を瞬かせ、それから、山小屋の方へと鼻先を向けた。
風が吹き抜ける。
テラスの軒下から漂ってくるのは、乾燥を始めたセレス草の清涼なアロマ。
そして――リビングの換気窓から漏れ出してくる、先ほど栞が煮詰めたばかりの、あのルミナスベリーのジャムが放つ、濃厚で甘酸っぱい果実と砂糖の香り。
ダミアンの鼻が、ピクピクと激しく動いた。
「…………っ、なんだこの匂い。めちゃくちゃ……甘くて、いい匂いがする……」
その瞬間だった。
――グギュルルルルルルゥゥゥゥッッ!!
静かな森の朝を切り裂いて、凄まじい重低音が響き渡った。
レオンハルトの腹の虫をさらに下品にしたような、内臓が軋み、喉を震わせるほどの盛大な咆哮。
音の発生源は――言うまでもなく、地面に座り込んだダミアンの下腹部だった。
「…………あ」
ダミアンは自らのお腹を両手で押さえ、間抜けな顔で固まった。
レオンハルトが、冷徹極まりない侮蔑の眼差しを部下へと突き刺す。
「……貴様、砦を出る前に朝食すら摂っていなかったのか」
「だ、だってしょうがないじゃないですか!」
ダミアンは顔を真っ赤にしながら、必死に弁解の声を上げた。
「隊長が朝イチでコソコソ出かけるのを見張ってたから、食堂に寄る暇なんてなかったんすよ! それに、昨日の夜の糧食当番が作った塩漬け肉のスープ、塩辛すぎて半分も喉を通らなかったし……今朝から水筒の水しか飲んでないんすから!」
情けない声を上げてお腹をさする青年剣士。
二十四歳。育ち盛りの男にとって、過酷な軍務の合間の空腹は、何よりも耐え難い苦痛に違いなかった。
栞は金槌を道具箱へ戻すと、エプロンの紐をキュッと締め直した。
ふたりのやり取りを見つめる栞の瞳には、困ったような、けれど料理人としての血が騒ぐような、温かな光が灯っていた。
「……ふふ。ちょうどよかった」
栞は悪戯っぽく微笑みながら、ふたりに向かって手招きをした。
「実は私、これからお昼ご飯を作ろうとしていたところなんです。大したものは作れませんけど……お腹が空いているなら、おふたりともテラスへどうぞ。腕によりをかけて、ご馳走しますよ」
「えっ!? マジっすか!?」
ダミアンの瞳が、まるで獲物を見つけた子犬のようにパアァッと輝いた。
「シ、シオリ殿、いかん! こんな無礼者に施しなど……!」
慌てて止めようとするレオンハルトだったが、栞は首を横に振って、柔らかく笑いかけた。
「いいんです。美味しいものは、お腹を空かせた人がたくさんいる方が、絶対に美味しくなりますから。……さあ、冷めないうちに席についてくださいね」
木漏れ日が揺れるテラスへ向かって歩き出す栞の背中を、赤毛の副官は歓喜の声を上げて追いかけ、黒騎士の隊長は居心地悪そうに頭を掻きながら、けれどどこか嬉しそうに、その後に続いて歩みを進めていった。




