第19話:週末だけの看板
日曜日の朝は、霧がゆっくりと木々の梢を撫でていく、静かで柔らかな光とともに始まった。
板張りの床に差し込む陽光は、昨日塗り込んだ蜜蝋ワックスの油分を吸って、まるで琥珀の板のように温かみのある艶を放っている。空気を吸い込むたびに、シトラスオイルの微かな清涼感と、針葉樹の瑞々しい芳香が鼻腔を通り抜け、身体の隅々まで染み渡っていった。
古民家の台所で汲んできた湧水を沸かし、昨夜の残りのセレス草のドライハーブをひとつまみ浮かべた白湯を啜る。喉を通り、胃の腑へと温もりが落ちていく感覚を味わいながら、栞はテラスの隅に置かれた木箱へと視線を向けた。
「……うん。今日のうちに、ちゃんと形にしておきたいな」
木箱の中には、昨日のリノベーション作業で余った様々な寸法の木端材が収められていた。ホームセンターの端材コーナーで百円均一で買い集めたものや、祖父の物置蔵の隅で眠っていた古い板の切れ端だ。
その中から、栞は一枚の細長い板を引き抜いた。
長さ四十センチ、幅十五センチ、厚みは二センチほど。樹種はおそらく山桜だろうか。適度に重みがあり、木肌は緻密で、縁には樹皮の自然な凹凸がそのまま残されている。長い年月を経て乾燥しきったその板は、叩くと「コトン」と澄んだ乾いた音を立てた。
これなら、風雨に晒されても簡単には反り返らない。
「ピィ?」
テラスの丸太ベンチの上、昨夜栞が作ってやったセレス草の葉のベッドから、ポムが眠そうに目をこすりながら這い出してきた。栗色の巻き毛をパタパタと揺らし、栞の手元にある板を不思議そうに覗き込む。
「おはよう、ポム。よく眠れた?」
「ピキャッ!」
ポムは元気に両手を広げて羽ばたくと、ふわりと栞の肩へ飛び乗った。朝の挨拶代わりに、小さな手のひらで栞の頬をぺちぺちと優しく叩く。その小さな温もりに頬を緩ませながら、栞は古民家の物置から持ってきた道具箱を開けた。
布巻きのケースの中から現れたのは、祖父が生前、日曜大工や木工に使っていた彫刻刀のセットだった。
印刀、平刀、丸刀、三角刀。使い込まれた樫の柄は、祖父の手の脂を吸って黒光りしている。刃先は油を引いて丁寧に研ぎ澄まされており、錆ひとつ浮いていなかった。
「お爺ちゃんの道具、また借りるね」
心の中でそっと手を合わせ、栞は山桜の板を欅の一枚板のテーブルの上に据えた。
まずは下準備だ。三百二十番のサンドペーパーで板の表面を均し、長年の汚れを落としていく。シャッ、シャッと規則正しい音が響き、木粉が払われるたびに、淡い桜色の美しい木目が姿を現した。
次に、鉛筆を手に取り、板の中央に文字のアタリをつけていく。
どんな言葉を刻むべきか、昨夜の布団の中でずっと考えていた。
ここは、見知らぬ異世界の深い森の奥だ。王国の法律も、税金の制度も、商売の認可も分からない。大々的な商店として看板を掲げるつもりは毛頭なかった。
けれど、あの過酷な任務で身も心も擦り減らし、飢えと疲労で倒れ込んできたレオンハルトのような人が、ふと森の木立の隙間に見つけたとき――「ここは足を踏み入れてもいい場所なのだ」と、張り詰めた警戒の糸を緩められるような、小さな目印が欲しかったのだ。
鉛筆の先が、桜の木肌を滑る。
少し丸みを帯びた、けれど芯のある丁寧な筆致で、栞はその言葉を書き記した。
『週末の隠れ家 森のカフェ』
飾り気のない、素朴な日本語。
異世界の人々にこの文字が読めるのかは分からない。けれど、あの羊皮紙の文字が自然と意味を結んだように、想いを込めて刻んだ言葉なら、きっと見る者に温かな気配として伝わるはずだった。
「よし……彫っていこう」
栞は作業用グローブを左手だけにはめ、右手で三角刀を握りしめた。
刃先を下書きの線の端に当て、左手の親指で刃の背をそっと支える。息を潜め、手首のスナップを利かせてゆっくりと前へ押し出した。
――サクッ、ツツツッ……。
小気味よい感触とともに、山桜の硬い繊維が音を立てて削り取られていく。
彫り跡から、くるくると丸まった極小の木屑がリボンのように立ち上った。三角刀が通った後には、鋭利で清潔なV字の溝がくっきりと刻まれている。
オフィスでキーボードを叩いていた日々の、あの空虚な指先の感触とはまるで違う。
硬質な木材に刃を入れ、確かな手応えを感じながら、一筋ずつ線を刻んでいく。自分の体重と集中力が、そのまま目に見える形となって木肌に刻み込まれていく実感。
「ピピィ」
ポムがテーブルの上でちょこんと正座し、削り出された木屑が溜まるたびに、小さな息を「ふーっ!」と吹きかけて掃除を手伝ってくれた。木屑が舞い散るたびに、ポムは得意げに胸を張り、栞は「ありがとう、助かるよ」と笑いかける。
文字の輪郭を三角刀で彫り進め、要所要所を丸刀で優しくさらって、文字の底に柔らかな陰影をつけていく。
一文字、また一文字。
『週』のしんにょうが伸びやかに走り、『末』の横棒がしっかりと据わり、『隠れ家』の文字が温かな屋根のように板の中央を支える。
最後の一画を彫り終えたとき、木漏れ日はすでに中天へと昇りかけていた。
栞はふうと息を吐き出し、板を立てて光に透かしてみた。
掘り込まれた溝の深さは二ミリほど。荒々しくも温かみのある、手彫りならではの素朴な陰影が、山桜の木目と見事に調和している。
「ここからが、仕上げね」
栞は持参していた小さな缶を取り出した。
屋外用の水性ウレタン塗料――色は、真っ白ではなく、少し温かみのある『ミルキーホワイト』。
細筆の先に塗料をたっぷりと含ませ、彫り込んだV字の溝の中へ、慎重に、すっと流し込んでいく。毛細管現象のように、塗料が彫り跡の隅々まで行き渡り、桜色の木肌の中に、くっきりと白い文字が浮かび上がった。
溝の外側にはみ出してしまった余分な塗料は、半乾きのうちに濡らしたウエスでサッと拭い取る。
さらに、板の両端の上の角に、ハンドドリルで小さな貫通穴をふたつ開けた。
そこに、昨日使った無漂白の頑丈な麻紐を通し、すっぽ抜けないよう大きな固結びを作る。
完成した。
自然な樹皮の縁取りを残した山桜の板に、白い文字で誇らしげに浮かび上がる『週末の隠れ家 森のカフェ』の文字。
日光の下で眺めると、手前味噌ながら、森の静けさに寄り添うような、慎ましくも温かな佇まいに仕上がっていた。
「上出来、かな」
「ピキャッ!」
ポムが看板の縁に止まり、パチパチと小さな拍手を送ってくれた。
ペンキが完全に乾くまでの時間を利用して、栞はログハウスの室内の設え(しつらえ)を整えることにした。
テラス窓からリビングへと足を踏み入れる。
昨日、蜜蝋ワックスを塗り重ねた壁際の作り付けの飾り棚。白っぽく埃をかぶっていたその棚は、今や深く艶やかなマホガニー色を取り戻し、温かな光を湛えていた。
そこへ、ひとつずつ、持ち込んだ道具たちを並べていく。
一番上の棚には、昨日仕込んだばかりのルミナスベリーのジャムの小瓶を四つ。
透明なガラス越しに、光を透かして妖しく輝くロイヤルパープルの果実たち。手作りのクラフト紙に『Luminous Berry Jam』とインクで手書きしたラベルを貼り、麻紐で首元を縛ってある。並べるだけで、まるでヨーロッパの田舎町にあるコンフィチュール専門店の棚のような風情が生まれた。
その隣には、透明なガラスキャニスター。
中には、コロンビア産の深煎り珈琲豆がぎっしりと詰まっている。黒褐色の豆の表面に滲み出た良質な油分が、ガラス越しにきらきらと星のように光を反射していた。
二段目の棚には、軒下で乾燥させているものとは別に、すぐに使えるように小分けにした乾燥ハーブの瓶。摘みたてのセレス草を丁寧に葉だけにして詰めたもの、そして古民家から持ってきたカモミールとドライミント。
さらに、祖父が遺した素朴な白磁のマグカップと、木工の手削りの小皿を、いつでも取り出せるように等間隔で伏せて並べた。
そして――部屋の四隅。
充電を終えたふたつのアンティーク調ランタンを、それぞれ壁のフックと、暖炉の上のマントルピースへと据え置いた。
カチリ、とダイヤルを回す。
ガラスドームの中で、細いフィナメントを模したLEDが、ぽっと柔らかなオレンジ色の光を放ち始めた。
昼白色の蛍光灯のような冷たさは微塵もない。まるで本物のガス灯やランプの炎のように、ほんのわずかに揺らめく暖色の光が、磨き上げられた丸太の壁と、飴色の床板を優しく照らし出す。
――チク、タク、チク、タク。
部屋の柱に据え付けられた、古い真鍮の柱時計が、静かな室内に規則正しいリズムを刻んでいた。
都会にいた頃、時計の音は常に「締め切り」と「追われる焦燥感」の象徴でしかなかった。一分一秒が削り取られていく恐怖。
けれど今、この山小屋で響く振り子の音は、まるで穏やかな心臓の鼓動のように、栞の心を深く、静かに落ち着かせてくれた。
栞は部屋の中央に立ち、ぐるりと周囲を見渡した。
ただの埃っぽい物置だったログハウス。
理不尽な現実から逃げ出し、膝を抱えて震えるためだけの「避難場所」だったこの空間が、今、自分の手で少しずつ磨かれ、息を吹き返している。
誰かを拒絶するための砦ではなく。
傷つき、疲れ果てた誰かが訪れたとき、「よく来たね、座って温かいものでも飲みなさい」と、無言で両手を広げて迎え入れるための「居場所」。
「……できたんだ、私にも」
胸の奥から、じわりと温かいものがこみ上げてきた。
会社での自分は、いつでも替えの利く歯車でしかなかった。誰かの尻拭いを押し付けられ、使い捨てにされるだけの存在。
けれど、この場所にあるものはすべて、栞が自分の手で選び、磨き、作り上げたものだ。ここにある温もりは、誰にも奪えない、栞自身の人生の確かな足跡だった。
外に出ると、看板のペンキはすっかり乾いていた。
栞は看板と金槌、そして真鍮の長い釘を一本手に取り、山小屋の正面ポーチへと回った。
エントランスへと続く小道の脇。
ちょうど人の目線の高さに、太くどっしりとした一本の広葉樹が枝を広げていた。森からやってくる旅人が、一番最初に視界に捉える絶好のポイントだ。
栞は幹の硬い樹皮を選び、真鍮釘を金槌でコンコンと打ち込んだ。
心地よい金属音が森の静寂に吸い込まれていく。
しっかりと固定された釘の頭に、看板の麻紐を引っ掛けた。
――カサリ。
麻紐が揺れ、山桜の板が木肌に落ち着く。
深い原生林の緑を背景に、白い文字が慎ましく、けれど凛とした誇りを持って浮かび上がった。
『週末の隠れ家 森のカフェ』
栞は二、三歩後ずさりし、少し離れた位置から看板を眺めた。
木漏れ日が文字の溝に差し込み、白いペンキを柔らかく輝かせている。
「……うん、いい。すごくいい」
少しだけ右肩下がりに傾いていたのに気づき、栞は再び看板へと歩み寄った。
両手を伸ばし、桜の板の両端にそっと指を添える。
キュッと持ち上げ、水平になるよう傾きを直す。
指先に伝わる、削りたての木の確かな温もり。
――その、瞬間だった。
――ザッ、ザッ、ザッ。
静まり返っていた森の奥底から、突如として複数の足音が風に乗って届いた。
「……っ!?」
栞の指が、看板に触れたまま凍りついた。
風の音ではない。獣の足音でもない。
規則正しく、重々しく、土を踏みしめる靴底の音。
それも、ひとつやふたつではない。明らかに、二対以上の重い足音が、こちらへ向かって一直線に近づいてきている。
そして――。
――カチャ、チャリン……。
葉擦れの音の合間に、冷たく硬質な『金属の擦れ合う音』が、はっきりと耳朶を打った。
鎧だ。
それも、簡易な革鎧などではない。重厚な鋼鉄の甲冑が、歩行の振動に合わせてぶつかり合う、紛れもない軍靴の響き。
「ピィッ……!?」
看板の端に止まっていたポムが、短い警戒の悲鳴を上げ、一瞬で栞の首筋のパーカーの隙間へと飛び込んで身を隠した。小さな身体が、恐怖で小刻みに震えているのが肌越しに伝わってくる。
足音は、急速に近づいてきていた。
山小屋の敷地を取り囲む鬱蒼とした木立の向こう側。
生い茂る巨大なシダの葉が、バサリと乱暴になぎ倒される気配がした。
レオンハルトだろうか?
いや、それにしては足音が多すぎる。先週の彼のように一人きりではない。
もし、武装した見知らぬ兵士の集団だったら?
この森に勝手に看板を掲げ、不法に小屋を占拠している不審者として、取り囲まれてしまうのだろうか――。
心臓が跳ね上がり、背筋に冷たい緊張が走る。
栞は息を呑んだまま、看板の手前で立ち尽くし、木立の切れ目――森の入り口へと、じっと視線を凝らした。




