第18話:野草のブーケと小さな手紙
銅鍋の底で艶やかに煮詰まったルミナスベリーのジャムは、火を止めた後も微かにパチパチと極小の気泡を弾かせながら、ゆっくりと熱を冷ましていた。
立ち上る甘美な湯気は、冷え始めた森の空気に溶け込み、山小屋のテラスをまるでおとぎ話の菓子工房のように甘やかなヴェールで包み込んでいる。
「ピィ……ピピィ……」
テラスの欅の一枚板のテーブルの端で、ポムが身を乗り出し、喉を鳴らしながら鍋の中を覗き込んでいた。小さな鼻をひくひくさせ、落ちてしまいそうなほど前のめりになっている。
「ダメよポム、まだ熱いんだからね。舌を火傷しちゃうわ」
栞が優しく声をかけると、ポムはハッと我に返ったように後ずさりし、両手で自分の小さな口元を押さえてフルフルと首を横に振った。その愛らしい仕草に吹き出しそうになりながら、栞は持参していた清潔な木べらの先で、鍋肌に薄く残ったジャムをほんの数滴だけすくい取った。
フーフーと息を吹きかけ、完全に人肌まで冷ましたそれを、指先にちょんと乗せてポムの目の前へと差し出す。
「はい、味見役のご褒美。冷めたから大丈夫よ」
「ピキャッ!」
ポムの琥珀色の瞳がパッと輝いた。
小さな両手で栞の指先にしがみつくと、ペロリと舌を伸ばす。
瞬間、ポムの四枚の薄羽がピーンと直立し、まるで電流が走ったかのように全身を震わせた。きび砂糖の丸みを帯びた甘みと、熱を加えてなお瑞々しく弾けるルミナスベリーの濃厚なコク。野生の果実が、火と人の手によって至高の甘味へと昇華したその味に、ポムはうっとりと目を細め、栞の指に頬擦りをするようにして最後の一滴まで夢中で舐め取った。
「ふふ、美味しかった? 冷めたらもっととろみがついて美味しくなるからね」
鍋を自然冷却させている間に、やるべきことはまだたくさんあった。
ジャムを詰めるためのガラス瓶は、すでに古民家の台所で熱湯消毒を済ませて持ち込んである。あとは、ジャムの粗熱が取れて瓶詰めできる温度になるまでの小一時間――この豊かな森の恵みを、もうひとつ仕込んでおく計画だった。
「ポム、さっき教えてくれたあの良い匂いの草……セレス草だったわね。もう少し摘みに行きたいんだけど、付き合ってくれる?」
「ピピィッ!」
甘いジャムで完全に胃袋を掴まれた小さな案内人は、胸をドンと叩いて快諾してくれた。
栞は腰の道具入れから、祖父の遺品である小さな真鍮の園芸鋏を取り出し、空になった竹編みの収穫籠を腕に掛けた。
小屋の裏手、湧水の小川を渡ったすぐ先の斜面へ向かう。
午前中の光を浴びて、岩陰に群生するセレス草は、しっとりと柔らかな銀灰色の葉を風に揺らしていた。朝露はすっかり乾き、太陽の熱を浴びたことで、葉の内部に蓄えられた精油の成分が最も活性化している時間帯だった。
近づくだけで、鼻腔をすっきりと貫くような清涼感が漂ってくる。
「いただきますね」
自然への敬意を込め、栞は膝をついて鋏を入れた。
――サクッ、サクッ。
小気味よい音とともに、朝露の引いたセレス草の茎がリズミカルに切り落とされていく。
根元からすべて刈り取るのではなく、次の季節にも新しい芽を吹くよう、地面から五センチほどの位置で丁寧に枝葉を整える。
指先が葉に触れるたび、葉の表面に密生した微細な産毛がプチプチと弾け、ミントにライムとユーカリを掛け合わせたような、胸がすくほど爽快な香気があたり一面に広がっていく。
オフィスで一日中パソコンのブルーライトに晒され、重く淀んでいた頭の芯が、この香りを吸い込むだけでみるみるうちに軽やかに洗われていくようだった。
ポムも手伝おうと、小さな手で葉っぱを一枚ずつちぎっては籠へ運んでくれる。
「ありがとう、ポム。でもね、今日は葉っぱだけじゃなくて、こうやって茎ごと長めに収穫したいのよ」
「ピ?」
首を傾げるポムに笑いかけながら、栞は長さ二十センチほどに切り揃えたセレス草を、籠の底へ綺麗に並べていった。
摘み取ったばかりの瑞々しい野草は、あっという間に籠の半分を満たした。
これ以上摘むと乾燥させるスペースが足りなくなる。栞は鋏を仕舞い、ポムを肩に乗せてテラスへと戻った。
テラスのテーブルの上には、先ほどホームセンターで買ってきた資材のひとつ――無漂白の素朴な麻紐と、クラフト紙のタグが用意されていた。
「よし、ハーブブーケを作ろう」
栞はテラスの丸太ベンチに腰を下ろすと、収穫したばかりのセレス草を数本ずつ手元に引き寄せた。
まずは傷んだ下葉を手で優しくしごき落とし、茎の長さを揃える。八本から十本ほどを一束にまとめると、まるで小さな野の花の花束――グリーンのブーケのような愛らしい姿になった。
その根元を、麻紐でキュッときつめに巻き留める。
乾燥すると植物の茎は水分を失って細くなるため、最初にしっかりとテンションをかけて縛っておくのが、途中で抜け落ちないためのコツだった。
端の麻紐を少し長めに残し、吊るすための輪っかを作る。
一本、また一本と、栞の指先からセレス草の小さなスワッグ(壁飾り)が生み出されていく。
ポムはその様子を興味津々で見守り、切り落とされた余分な下葉を集めては、自分の寝床にでもするつもりなのか、テーブルの隅にせっせと小山を作っていた。
「さあ、吊るしましょうか」
束ね終えたハーブブーケは、全部で六つになった。
栞は脚立代わりに小さな木箱をテラスの隅へ運び、その上に乗って、ウッドデッキの深い軒下を見上げた。
丸太小屋の屋根は庇が深く張り出しており、直射日光を遮りつつ、森を渡る乾いた風が吹き抜ける絶好の構造になっている。祖父が昔、道具や干し柿を吊るすために打ち込んだのだろうか、軒桁には黒錆の浮いた鉄のフックがいくつも等間隔で並んでいた。
そのフックのひとつに、麻紐の輪を引っ掛ける。
――ふわり。
逆さに吊るされたセレス草のブーケが、風を受けて静かに揺れた。
ふたつ、みっつ、よっつ……。
六つの緑のブーケが軒下に一列に並ぶと、それだけで山小屋の外観が、まるで南フランスの片田舎にあるハーブ農家のテラスのように、温かみのある佇まいへと様変わりした。
「……うん、すごく素敵」
木箱から降り、少し離れた場所からテラスを見上げて、栞は満足そうに微笑んだ。
吹き抜ける風が、吊るされたハーブの隙間をすり抜けていく。
そのたびに、乾燥を始めたセレス草から、青々とした瑞々しさと、凝縮された薬効成分の爽快なアロマがふわりと零れ落ち、テラス全体に清涼な結界を張ったかのように空気を浄化していく。
一週間も風に晒せば、水分が完全に抜けてパリパリの極上ドライハーブになるはずだ。
手で揉み砕いて熱湯を注げば、あのレオンハルトの目を丸くさせた特製ハーブティーが、いつでも手軽に淹れられるようになる。
その頃には、冷ましたルミナスベリーのジャムも完璧な状態に落ち着いていた。
栞はスプーンを使い、煮沸消毒したガラス瓶の口から、深いロイヤルパープルのジャムをとろりと流し込んでいった。瓶の八分目まで満たし、しっかりと蓋を閉める。
全部で四つの小瓶が出来上がった。
透明なガラス越しに見える深紫のジャムは、夕方の光を透かして、まるで夜空の星雲を閉じ込めた鉱石のように美しかった。
道具を洗い、テラスの床を掃き清め、作業の後片付けを終える頃には、森はすっかり夕暮れの気配に包まれていた。
太陽は西の山並みの向こうへと沈み、空は淡い茜色から、濃密な紫紺のグラデーションへと移り変わっていく。
昼間は穏やかだった木々のざわめきが低く重たい音へと変わり、足元の青く光る星型の野花たちが、夜の訪れを告げるようにぽつり、ぽつりと淡い光の粒を灯し始めていた。
「そろそろ、今日の作業はおしまいね。古民家に戻って、夕飯の準備をしなきゃ」
栞はエプロンを外しかけ、ふと、山小屋の正面入り口の様子を確認しておこうと思い立った。
普段、栞が出入りしているのは、現代の古民家の土間と直結している勝手口のような欅の板戸だ。
だが、このログハウスには当然ながら、森の外へと通じる本来の「正面玄関」が存在する。太い丸太の柱に支えられた、小さな屋根付きのエントランスポーチだ。
先週も今週も、テラス側の掃き出し窓ばかりを使っていたため、正面のポーチには足を踏み入れていなかった。
リビングを横切り、頑丈な閂がかけられた重厚な木製ドアを開ける。
ギギィ……と蝶番が控えめな音を立て、外の冷涼な夕気が流れ込んできた。
夕闇の迫るポーチへ一歩踏み出した、その瞬間だった。
「……あれ?」
栞の足が、ピタリと止まった。
ポーチの足元。雨風の当たらない軒下の壁際に、見慣れない『巨大な影』が鎮座していたのだ。
栞は目を瞬かせ、恐る恐る歩み寄った。
それは、粗く織られた分厚い麻袋だった。
大人の上半身ほどもある大きさの袋が、ふたつ。
現代のホームセンターで売られているような薄手のプラスチック繊維ではなく、植物の繊維を何重にも固く撚り合わせた、極めて頑丈で無骨な本物の麻袋だ。表面には微かに乾いた土の粒子が付着しているが、湿り気はなく、置かれてからそれほど時間は経っていないように見えた。
「これ……なんだろう……?」
ポムが警戒するように栞の肩の上で身を縮める。
栞は屈み込み、麻袋の口を縛っている太い革紐へと指をかけた。
誰かの忘れ物だろうか。それとも、何かの罠……?
一瞬、先週のレオンハルトの行き倒れ事件が脳裏をよぎり、緊張が背筋を走る。
けれど、袋の隙間から漂ってきたのは、血や獣の生々しい臭気などでは断じてなかった。
どこまでも清々しく、乾いて引き締まった、上質な『木』の芳香。
革紐を解き、麻袋の口を左右に押し広げる。
中を覗き込んだ瞬間、栞は思わず目を見張り、小さく息を呑んだ。
「…………薪……?」
袋の中にぎっしりと詰まっていたのは、薪だった。
だが、ただの薪ではない。
栞は吸い寄せられるように、一番上に置かれていた薪を一本、両手で持ち上げた。
――ずしり。
見た目以上の、重厚な手応えが腕に伝わってくる。
樫か楢に似た、極めて密度の高い広葉樹の薪だった。
何より驚くべきは、その仕立ての完璧さだった。
太さは大人の手首よりわずかに太い程度、長さはおよそ四十センチ。
それは、山小屋のリビングの隅にあるあの黒い鋳鉄製薪ストーブの火室の寸法に、ミリ単位で寸分の狂いもなく一致していた。
さらに、樹皮は虫や煙の出やすい外側の部分がナイフで丹念に削ぎ落とされ、乾燥を促すための四つ割りの断面は、まるで名工がノミを入れたかのように鋭く、美しく切り揃えられている。
含水率を確かめるように指の背で叩いてみると、「カツン、カツン」と乾いた金属を思わせる澄んだ硬質な音が響いた。完璧に自然乾燥された、極上の薪の証拠だった。
これほどの薪を、これだけの量、森から切り出して割り、乾燥させて運んでくるのに、一体どれほどの時間と手間がかかるだろう。
大人が二人で運ぶのも難儀するような重量の麻袋が、ふたつ。
それが、栞がテラスでジャムを煮込み、ハーブを吊るしている間に、誰にも気づかれないほど静かに、このポーチへ運び込まれていたのだ。
「……あ」
二つ目の麻袋の口を開けたとき、薪の隙間に、何かが挟まっているのが目に入った。
栞は指先を差し入れ、それをそっと引き抜いた。
手のひらに載ったのは、手のひらほどの大きさに無骨に切り取られた、一枚の『羊皮紙』の切れ端だった。
現代の滑らかなパルプ紙とは違う、獣の皮を丁寧に鞣して作られた、黄色みがかった厚手の紙。指先に伝わるざらりとした独特の手触りと、微かな乾いた革の匂い。
その表面に、黒い煤のインクで、文字が走っていた。
栞は夕暮れの残光に透かすようにして、その文字を見つめた。
異世界の文字のはずだった。
けれど、あの真鍮の鍵の加護なのか、それともこの世界特有の理なのか、刻まれた筆跡の意味が、頭の中にすうっと鮮やかに像を結んでいく。
『前回の礼。薪に使え』
たったそれだけ。
名乗りも、時候の挨拶も、言い訳の一言すら添えられていない。
飾りのない、極限まで削ぎ落とされた、短すぎる言葉。
だが、そこに刻まれた文字の筆致は、驚くほど雄弁だった。
大剣を振るう強靭な腕力で叩きつけるように走った、角張った力強い線。
それでいて、一文字一文字の間隔は几帳面なまでに均一に揃い、インクの跳ねや擦れには、幼少期から厳格な教育を受けてきた者だけが持つ、気品ある知性が隠しようもなく滲み出ていた。
「…………レオンハルトさん」
栞の唇から、その名がこぼれ落ちた。
胸の奥底で、ぽっと小さな炭火が爆ぜたような、温かな熱が広がっていく。
あの不器用で、無口で、誰よりも頑固な黒騎士の姿が、鮮明に脳裏に浮かび上がった。
先週、手作りのスコーンと珈琲を、まるで飢えた大型犬のように必死で平らげていった男。
命を救われたからと、法外な価値を持つ青い魔石をテーブルに叩きつけていった男。
そして、栞が留守にしている間に、この山小屋のストーブのサイズを正確に測り、森で硬い大木を切り倒し、寸分の狂いもなく薪を割り、誰にも恩着せがましい態度を取ることなく、ただ「礼だ」とだけ書き残して去っていったのだ。
会いに来て、顔を合わせればいいのに。
珈琲の一杯でもねだれば、喜んで淹れてあげたのに。
きっと、先週の自分の醜態――空腹で倒れ込み、腹の虫を鳴らしてしまったことが恥ずかしくて、栞と顔を合わせる勇気が出なかったのだろう。あるいは、任務の合間を縫って、栞の邪魔をしないよう気を使って、そっと置いていったのかもしれない。
「……本当に、どこまでも不器用なんだから」
夕闇のポーチで、栞は思わずくすりと笑ってしまった。
けれど、その笑みはすぐに、胸を締め付けるような切なく温かな感情へと変わっていった。
オフィスにいた頃、栞が誰かのために身を粉にして働いても、返ってくるのは「やって当たり前」という無関心か、さらなる理不尽な要求ばかりだった。感謝の言葉すら形式的なメールの一行で済まされ、栞という人間が存在していることへの敬意など、どこにもなかった。
けれど、この人は違う。
拙い手料理ひとつに対して、これほどまでに誠実に、全身全霊で「ありがとう」を返そうとしてくれている。
言葉は少なくても、この重たい二つの麻袋と、完璧に切り揃えられた薪の山が、何よりも雄弁に彼の真心を物語っていた。
冷たい夕風が吹き抜け、ポーチを通り抜けていく。
だが、栞の身体の芯は、まるで薪ストーブの火に当たっているかのように、ぽかぽかと温かかった。
栞は両手で羊皮紙の端をそっと持ち、愛おしそうに指の腹でその文字の凹凸をなぞった。
煤のインクが、わずかに指先に触れる。
端を綺麗に合わせ、二つに折り、さらにもう一度折って、小さな四角形にする。
そして――。
作業用エプロンの胸ポケット、一番心臓に近い位置へと、その折りたたんだ羊皮紙を、大切に、大切に滑り込ませた。
ポケットの上から手のひらを当てると、紙の角張った硬い感触が、布越しにトクンと脈打つ胸元へと伝わってくる。
「……ありがとう、レオンハルトさん」
静寂の森に向かって呟いた声は、夜露の降り始めた木々のざわめきの中に、優しく溶けて消えていった。
来週、またあの人がやってきたら。
この極上の薪をストーブにくべて、部屋をうんと暖めておこう。
そして、今日作ったあの甘酸っぱいルミナスベリーのジャムをたっぷりと使って、とびきり美味しいお菓子を焼いて待っていよう。
暗闇を照らすように、足元の青い花々が一斉に強く瞬いた。
栞はポーチのドアを静かに引き寄せると、確かな温もりを胸に抱いたまま、山小屋の明かりを灯すために部屋の中へと戻っていった。




