第17話:森の案内人と青い真珠
夜明け前の張り詰めた冷気が、ゆっくりと森の梢を伝って地表へと降りてきていた。
山小屋のテラスに吊るしたランタンの灯火を絞り、栞は足元を固く締め直した。昨日、ポムが手招きして教えてくれたあの甘い香りの主を確かめるため、薄暗い森へ足を踏み入れる準備を整えていたのだ。
足元には厚手のトレッキングソックスと履き慣れたスニーカー、腰には祖父の物置で見つけた頑丈な剪定鋏、そして腕には昨日使った竹編みの収穫籠。
「ピピィ! ピキャッ!」
テラスの手すりの上で、ポムが待ちきれない様子で四枚の薄羽を細かく震わせていた。朝の冷気に息を白く弾ませながら、小さな両手を前後に振って「早く来い」と栞を急き立てる。栗色の巻き毛のてっぺんには、昨日プレゼントした淡い桜色の金平糖のかけらが、大事な宝物のようにちょこんと乗せられていた。
「はいはい、待たせてごめんね。さあ、案内をお願いできる?」
栞が微笑みかけると、ポムは空中へふわりと舞い上がり、くるりと宙返りをして見せた。
向かう先は、山小屋の裏手――清らかな湧水が流れるあの小川のさらに上流、原生林の巨木たちが壁のように立ち並ぶ獣道の奥だった。
人が踏み固めた道などどこにもない。けれど、ポムの小さな身体が通る軌道には、微細な金色の光の粉がさらさらと尾を引いて残り、薄暗い森の中に確かな道標を描き出してくれていた。
足を踏み出すたびに、ザクッ、ザクッと腐植土が沈み込み、足裏からひんやりとした湿り気が伝わってくる。
木々の幹には幾重にも重なる青碧の苔がびっしりと張り付き、大人の背丈を優に超える巨大なシダの葉が、夜露に濡れて重たげに垂れ下がっていた。手袋をはめた手で葉を押し分けながら進むと、パササッと露の雫が肩口に落ち、冷たい感触に思わず首をすくめる。
小川のせせらぎの音が、次第に遠ざかっていく。
代わりに耳を支配し始めたのは、湿った風が巨木の梢を渡る重々しい擦過音と、どこか遠くで響く水鳥の低く澄んだ啼き声だった。
緩やかな傾斜を回り込むようにして獣道を抜けた瞬間、ふっと視界が開けた。
「……わぁ……っ」
栞の口から、無意識のうちに感嘆の息が漏れ出た。
そこは、鬱蒼とした原生林の中にぽっかりと口を開けた、擂鉢状の湿地帯だった。
東の稜線から昇り始めた朝の太陽が、巨大な木々の隙間を縫って、斜めの光の筋――幾筋もの黄金色の木漏れ日となって降り注いでいる。立ち込める朝霧がその光を浴びて淡い金色に煙り、空気中のチリや胞子が星屑のようにきらめきながら揺蕩っていた。
そして、その湿地の斜面を埋め尽くしていたのは、息を呑むほど幻想的な光景だった。
人の膝丈から腰ほどの高さしかない低木が、群生となって幾反にもわたって広がっている。
その細くしなやかな枝先という枝先に、たわわに実を結んでいたのは――まるで夜空の星屑をそのまま零し落としたかのような、無数の果実たちだった。
青紫色の光の粒。
深く濃密な藍色と、透明感のある赤紫色が混ざり合った丸い実は、現代の地球で見かけるブルーベリーよりも二回り、いや三回りは大粒だった。大人の親指の先ほどもある丸々とした果実が、重みに耐えかねるように枝をしならせている。
果実の表面は、朝露の細かな水滴と、自らを守るための白い果粉をたっぷりとまとっていた。斜光を浴びるたびに、水滴がレンズの役割を果たし、青紫色の光の粒がさざ波のように明滅して見える。
「ピピキャッ! ピキャキャ!」
ポムが歓喜の声を上げて急降下し、一番手前の低木の枝先へと飛び込んだ。
小さな両手で、自分の顔ほどもある巨大な一粒をむんずと掴み、ぷちりと引き千切る。そして、躊躇うことなく大口を開けて齧り付いた。
――プチッ。
小気味よい破断音が響き、弾けた果皮から鮮烈な紫色の果汁が迸る。
ポムは頬袋をリスのようにパンパンに膨らませ、喉を鳴らして果汁を飲み干すと、紫に染まった口元を袖で拭いもせず、両手を腰に当てて「どうだ!」とばかりに胸を反らせてみせた。
自慢げに細められた琥珀色の瞳が、「美味しいだろ! すごいだろ!」と誇らしげに語りかけてくる。
「ふふっ、ポムったら口の周りが真っ紫よ。……これが、ルミナスベリーね」
栞は手袋を外し、ポケットに突っ込んだ。
生の果実に触れるのに、布越しでは失礼な気がしたのだ。
低木の前に膝をつき、生い茂る葉の隙間へと、素肌の指先を差し入れる。
触れた瞬間、指の腹に伝わってきたのは、ピリッとするほど清冽な朝露の冷たさだった。
冷蔵庫で冷やされた人工的な冷感とは根本から違う。夜の間の冷気と森の清水をたっぷりと吸い上げ、大自然の生命力そのものを凝縮した、透き通るような冷たさ。
枝の根元から、一番丸々と太り、濃い藍色に熟れきった一粒を選び取る。
親指と人差し指でそっと挟み、軽く手首を捻ると、ぷつりと乾いた音を立てて、驚くほどあっさりと枝から離れた。
手のひらに転がしてみる。
ずっしりとした、確かな重量感。
薄い果粉の奥から透けて見える果皮は、まるで磨き抜かれたサファイアかアメジストの原石のようだ。転がすたびに、手のひらの体温で朝露が溶け、指先がじわりと鮮やかな赤紫色に染まっていく。
鼻先に近づけると、昨日テラスまで届いていたあの香りが、何倍もの濃密さで鼻腔を満たした。
高原の風のような清々しさと、完熟したプラムを思わせる濃厚な甘いアロマ。
栞は息を呑み、その大粒の果実を、そっと唇の間へと滑り込ませた。
前歯で、薄い果皮を噛む。
――プチィッッ!
口蓋の中で、小さな果実がまるで風船のように弾け飛んだ。
「…………っ!!」
瞬間、栞の全身の毛穴がキュッと引き締まるような、鮮烈な衝撃が走った。
迸り出たのは、冷たく澄み切った果汁の奔流だった。
まず舌を打つのは、一切の雑味を含まない、鋭利なまでに爽快な酸味。柑橘のトゲトゲしさはなく、清涼な泉の水を思わせるみずみずしい酸味が、眠気の残っていた神経を一瞬で覚醒させる。
そして――酸味の波が引くと同時に、怒涛の勢いで押し寄せてくるのが、驚くほど濃密で奥深い甘みだった。
ただ甘いだけではない。ブドウの王様と呼ばれる高級品種のコク、野イチゴの素朴な野生味、そしてカシスの上品な渋みが、複雑に、けれど完璧な黄金比で絡み合っている。噛み締めるたびに果肉の繊維が柔らかく崩れ、芳醇な香りが鼻へと突き抜けていった。
――ゴクリ。
喉を滑り落ちていく果汁の冷たさが、食道を通って胃の腑へと届く。
その瞬間、身体の芯からじわりと微かな熱が湧き上がり、指先の冷たさが引いていくような不思議な感覚があった。
「……美味しい……!」
栞は胸元に手を当て、目を見張った。
東京の高級フルーツ店で木箱に入って売られているどんな名産品とも違う。人の手で過保護に品種改良された甘みではなく、厳しい森の自然を生き抜き、豊かな大地と魔力を吸い上げて結実した、生命力そのものの味。
「ポム、これ本当にすごいわ! こんなに美味しいベリー、生まれて初めて食べた!」
栞が満面の笑みで呼びかけると、ポムは待ってましたとばかりに両手をパチパチと打ち鳴らし、空中で嬉しそうにピョンピョンと跳ね回った。
「ピキャッ! ピピィ!」
言葉は通じなくとも、「だろう! 俺が見つけたんだぞ!」という誇らしげな感情が痛いほど伝わってくる。
「よしっ……たくさん採ろう! 最高のジャムを作らなきゃ!」
栞は腕まくりをすると、竹編みの籠を足元に据え、夢中になって手を動かし始めた。
収穫は、驚くほど心躍る作業だった。
指先を伸ばし、熟した実の軸に触れて軽く引く。ぷちり、ぷちりとリズミカルに実がもぎ取れ、籠の底へコロンと落ちていく。
ひと房に五、六粒ついている実の中から、色づきが最も深く、皮がピンと張った極上の粒だけを選り分けていく。
ポムも負けじと小さな身体を駆使して手伝ってくれた。
栞の手が届きにくい茂みの奥や、細い枝の先端にある大粒を見つけると、小さな身体を滑り込ませ、両腕で大事そうに抱えて運んできては、栞の籠の中へと誇らしげにポトリと落とす。
「ふふ、ありがとうポム。上手ね」
「ピピィッ!」
褒められるたびに、ポムは羽を震わせて得意げな声を上げ、また次の果実へと飛んでいく。
朝露に濡れた葉が擦れ合い、爽やかな水飛沫が肌を冷やす。
指先は完全に赤紫色に染まり、爪の間まで甘い果汁の香りが染み込んでいく。
かつてオフィスで、パソコンのキーボードを埃まみれの指先で叩き続け、インクの切れたボールペンを苛立ち紛れに握り直していた日々のことが、まるで前世の記憶のように遠く感じられた。
泥にまみれ、木の実を摘み、自分の手で糧を集める。
自然の恵みを直接この手で受け取るという行為が、どれほど人の心を健やかに満たしてくれるのか。籠の重みが増していくにつれて、栞の胸の奥に澱のように溜まっていた過去の疲労感が、澄んだ朝風の中にさらさらと溶け出して消えていくようだった。
一時間ほど夢中で摘み続けた頃、竹籠はすっかり山盛りになっていた。
朝露をまとった何千粒ものルミナスベリーが、青紫色の光の絨毯のように籠の縁まで敷き詰められている。持ち上げると、ずっしりとした心地よい重みが腕にかかり、朝露のひんやりとした冷気が籠の編み目から溢れ出してきた。
「ポム、今日はここまで! これ以上採ったら、小屋まで運べなくなっちゃう」
「ピィ〜」
もっと採りたそうにしていたポムだったが、籠の中の豊穣な実りを見ると満足したように栞の肩へと降り立ち、柔らかなパーカーの襟元にちょこんと腰を下ろした。
「さあ、帰ろう。冷めないうちに仕込みをしなきゃ」
朝露の輝く湿地帯に一礼し、栞は来た道をゆっくりと辿り直した。
小川のせせらぎの音が次第に近づき、木立の向こうに、昨日ワックスを塗り終えたばかりのあの丸太小屋が、朝日に照らされて見えてくる。
ウッドデッキのテラスへ上がり、欅の一枚板のテーブルの上に重たい竹籠を下ろした。
蜜蝋の艶をまとった飴色の天板の上に、青紫色の果実が山のように盛られた竹籠が鎮座する。それだけで、まるで絵画の中の静物画のように完成された美しさがあった。
「よし……まずは水洗いからね」
栞は小屋の裏手の小川へと籠を運び、汲み立ての清流水で果実を優しく洗った。
表面についていた埃や枯れ葉の破片が水に浮き、超軟水の清流の中で、ベリーの粒が宝石のように澄んだ輝きを取り戻していく。ザルにあげて水気をしっかりと切ると、一粒一粒が濡れた紫の真珠のようにツヤツヤと光を跳ね返した。
テラスに戻り、調理の準備を整える。
持参した食材ボックスから取り出したのは、祖父の台所の戸棚の奥で大切に保管されていた、重厚な打ち出しの『銅鍋』だった。
内側に錫が引かれた厚手のフランス製ジャム鍋。熱伝導率が極めて高く、短時間で均一に熱を通すことができるため、果物の鮮やかな色とフレッシュな香りを損なわずにジャムを煮詰めるには、まさに最高の相棒だった。
そしてもうひとつ、未開封の茶色い紙袋――ミネラルを豊富に含んだ上質な『きび砂糖』。
「果物の重さに対して、お砂糖の量は……まずは四十パーセントくらいかな」
ルミナスベリーは野生種でありながら糖度が非常に高いため、砂糖を控えめにしても十分に濃厚なジャムになるはずだ。酸味とフレッシュな香りを主役に据え、スコーンやパンにたっぷりと乗せても重たくならない、大人の味付けを目指す。
水気を切ったルミナスベリーを、惜しげもなく銅鍋の中へと一気に投入した。
――サワサワサワッ。
重厚な銅の底に、何百粒もの果実が落ちる小気味よい音が響く。
そこへ、きび砂糖をサラサラと雪のように振りかけていく。薄茶色の砂糖の粒が、紫色の果皮の隙間を埋め尽くし、美しいグラデーションを描いていく。
「少しの間、果汁が染み出すのを待とうね」
木べらで全体をさっくりと底から持ち上げるように混ぜ合わせ、三十分ほど置く。
砂糖の浸透圧によって、果実の中から透明感のある美しいルビー色の果汁が、じわり、じわりと滲み出し、鍋の底に贅沢なシロップの海を作り出していった。
「……うん、いい感じ。火にかけるよ」
カセットコンロのツマミを捻り、点火する。
ボッ、と青い炎が立ち上がり、銅鍋の底を舐めた。
最初は中火。
銅の優れた熱伝導性によって、鍋の中の果汁はあっという間に温度を上げていく。
――チリチリ、パチパチ。
鍋肌から微細な泡が立ち始め、やがて底からプツプツと大粒の泡が湧き上がってきた。
木べらを持った手で、底が焦げ付かないよう、ゆっくりと「の」の字を描きながらかき混ぜる。
熱が通るにつれて、ルミナスベリーの張りのあった果皮が柔らかくほどけ、内側に閉じ込められていた濃厚な果汁が、一気にシロップの中へと溶け出していった。
――コトコト、コトコト……。
森の静けさの中に、優しく、温かな煮込みの音が響き渡る。
鍋の中は、みるみるうちに鮮烈な赤紫色から、深みのある濃密なロイヤルパープルへと色を変えていった。
そして――。
――フワァッ……!
沸き立つ蒸気とともに、爆発的な芳香がテラス一面へと広がった。
熱せられたきび砂糖の香ばしいキャラメルのような甘みと、ルミナスベリーが放つ野生の酸味が交じり合い、甘美な霧となって立ち上る。
テーブルの端で行儀よくお座りしていたポムが、その匂いを嗅いだ瞬間、琥珀色の瞳を丸くして「ピピィ〜〜ッ!」とうっとりとした歓声を上げた。香りに引き寄せられるように、ふわふわと鍋の周りを旋回し始める。
「危ないから近づいちゃ駄目よ、ポム。跳ねたら熱いからね」
栞は木べらを休めることなく、浮き上がってきた細かな灰汁を網じゃくしで丁寧にすくい取っていく。
灰汁を取り除くたびに、シロップの濁りが消え、息を呑むほど透き通った、深い紫紺の艶が生まれていく。
弱火に落とし、コトコトと煮詰めること十五分。
木べらを持ち上げると、ぽた、ぽたと落ちる雫が次第に重みを帯び、とろりとした糸を引くようになってきた。
果実の粒は適度に残され、果肉の食感を楽しめる絶妙な仕上がり。冷めればペクチンの力でさらにプルンとした極上のとろみがつくはずだ。
「よし……火を止めよう」
コンロの火を消す。
余熱で静かに落ち着いていく鍋の中には、まるで夜空の星雲をそのまま煮詰めて閉じ込めたかのような、艶やかで、深い青紫色の特製ジャムが、誇らしげに湯気を揺らめかせていた。
木べらの先に残ったジャムを、少し冷ましてから、指先でぬぐって口に含んでみる。
「…………っ」
甘酸っぱさが、舌の上でとろけるように広がった。
生で食べたときのフレッシュな野生味はそのままに、熱ときび砂糖の魔法によって角が丸められ、信じられないほどまろやかで、濃厚なコクへと昇華している。
スコーンの香ばしいバターの風味にも、焼きたてのパンの小麦の香りにも、絶対に負けない力強さ。
指先についた紫の雫を見つめながら、栞は満ち足りた吐息を漏らした。
自分の足で森を歩き、小さな友人と一緒に摘み取り、自分の手で火にかけて作り上げた、世界にたったひとつのジャム。
森の緑と木漏れ日に包まれたテラスで、甘い湯気がゆっくりと青空へと昇っていくのを眺めながら、栞の心は、次の週末への確かな期待と喜びに満たされていた。




