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第16話:蜜蝋ワックスと丸太のテーブル

東の空が白み始め、夜の帳が群青から淡い菫色へと溶けていく頃、栞は古民家の土間で目を覚ました。


板張りの上に敷いた祖父の綿布団は少し固かったが、泥のように沈み込む都会のベッドよりも遥かに深く、心地よい眠りだった。スマートフォンの無機質なアラームに叩き起こされるのではなく、裏山の竹林を揺らす朝風のざわめきと、山雀(やまがら)の澄んだ一声で自然と目蓋が開く。


起き抜けの身体に微かに残る筋肉痛すら、昨夜車から資材を運び込んだ確かな証拠のように感じられて、どこか愛おしい。


栞は手早く顔を洗い、髪を後ろでひとつに束ねると、作業用の動きやすいカーゴパンツのポケットを叩いた。


「よし……今日から本格的に、あの子(ログハウス)のお手入れだ」


古民家の土間には、昨夜買い込んできた資材が整然と積まれていた。


ホームセンターで厳選した、国産の天然蜜蝋とオーガニックシトラスオイルを練り合わせた固形ワックスの丸缶。木肌の毛羽立ちを整えるための各種番手――百二十番の粗目から二百四十番の中目、そして仕上げ用の四百番まで揃えたサンドペーパー。手になじむ厚手のコットンウエス(古布)の束、そして夜間や薄暗い室内を照らすための、暖色系の調光ができる最新の充電式LEDランタンがふたつ。


両手いっぱいに抱え、欅(けやき)の板戸をくぐって異世界のログハウスへと足を踏み入れる。


早朝の山小屋は、冷涼な森の息吹をそのまま抱え込んでいた。


開け放たれたテラス窓からは、朝霧がうっすらとヴェールのように差し込み、原生林の巨木たちのシルエットを青白くぼかしている。足元で青く光る星型の野花たちも、夜明けの微睡みの中で淡くまばたきを繰り返していた。


リビングの中央に資材を下ろし、栞はぐるりと室内の壁と床を見渡した。


祖父が建て、あるいは手入れしていたであろうこの丸太小屋は、構造こそ頑強そのものだが、ここ数年は主を失っていたせいで、全体的に木の表面がカサカサと乾いて白っぽく粉を吹いたようなくすみを見せていた。人間で言えば、ひどい肌荒れと乾燥を起こしている状態だ。


「喉、乾いてたよね。今、綺麗にしてあげるからね」


無垢の床板にしゃがみ込み、手のひらでそっと撫でる。


松か杉に似た針葉樹の一枚板。足裏に触れる感触は柔らかいが、表面には長年の埃と微細な毛羽立ちが残り、光を鈍く乱反射させてしまっている。


まずは、下地作りからだった。


栞は牛革の作業用グローブをはめ、木片に巻きつけた二百四十番のサンドペーパーを握りしめた。


――シュッ、シュッ、サッサッ。


木目に沿って、一定の力加減でペーパーを滑らせていく。


乾いた木肌が削れ、微細な木の粉がふわりと舞い上がる。それと同時に、古い表面の下から、眠っていた針葉樹の真新しい芳香がツンと鼻腔をくすぐった。まるで、時を止めていた木が再び息を吹き返したかのような、甘く清々しい木の香り。


オフィスでパソコン画面の数字と睨み合っていたとき、栞の指先は常に冷え切り、キーボードを叩く音だけが神経を削り取っていた。他人の理不尽な要求に胃を痛め、終わりの見えないタスクに追われる日々。


けれど今、この手元の数平方センチメートルと向き合っている時間には、一切の欺瞞も打算も存在しない。


力を込めて磨けば、木はその分だけ素直に応えて滑らかになる。ささくれを取り除けば、吸い付くような優しい手触りが戻ってくる。


――シュッ、シュッ、シュッ……。


一定のリズムで腕を動かし続けるうちに、栞の頭の中から、会社のこと、上司の怒声、擦り減ったヒールの惨めさといった雑念が、まるで朝霧が晴れるように綺麗に消え去っていった。


無心。ただ目の前の木を愛しみ、整えることだけに没頭する。


それは、疲弊しきっていた魂の垢を、一枚ずつ丁寧に削り落としていくような、静謐で贅沢な時間だった。


床板の毛羽立ちを一通り落とし、固く絞った濡れ雑巾で削り粉を綺麗に拭き取る。


木肌が水分を吸って一時的に濃い色に沈み、乾くにつれてサラサラとした赤ちゃんの肌のような感触へと変わっていくのを確認して、栞は満足そうに頷いた。


「よし、いよいよワックス掛け!」


金属の丸缶の蓋を、コインを使ってパコンと押し開ける。


その瞬間――。


――ふわり。


部屋いっぱいに、息を呑むほど爽快で甘やかな芳香が広がった。


天然の蜜蜂が作り出した巣から採れる上質なビーズワックスの、どこか百花蜜を思わせるコクのある甘い香り。そこにブレンドされた、もぎたてのオレンジをギュッと絞ったかのようなフレッシュな柑橘系オイルの清涼感が重なり合い、冷え切っていたログハウスの空気を一瞬にして華やかに塗り替えていく。


「……んん、すっごくいい匂い……!」


思わず深呼吸をする。化学薬品特有のツンとした刺激臭は一切なく、肺の奥まで吸い込みたくなるような、自然の恵みそのものの香りだ。


栞は清潔なコットンのウエスを人差し指と中指に巻きつけ、黄色みがかった固形の蜜蝋ワックスを少量すくい取った。


体温でじんわりと柔らかくなったワックスを、磨き上げた無垢の床板へと円を描くように薄く塗り広げていく。


――ジュワッ。


まるで、砂漠が水を吸い込むかのようだった。


カサカサに乾いていた板材が、蜜蝋の油分を歓喜の声を上げるように吸い込んでいく。白っぽくくすんでいた木肌が、ワックスが浸透した端から、深く、温かみのある濃厚な「飴色(あめいろ)」へと鮮やかに変貌を遂げていくのだ。


木目のひとつひとつがくっきりと浮かび上がり、年輪のグラデーションがまるで工芸品のように立体的な陰影を帯びていく。


薄く塗り伸ばしたあと、別の乾いたウエスで力を込めて乾拭きをする。


ゴシゴシと布を滑らせるたびに、摩擦熱で蜜蝋が均一にコーティングされ、鈍かった木肌にしっとりとした、濡れたような極上の艶が宿っていく。


テラス窓から差し込んできた朝の陽光が、塗り終えたばかりの床板に反射した。


ピカピカと安っぽく光るウレタン塗装とは違う。木の呼吸を止めず、内側から滲み出るような、柔らかく深みのある黄金色の光沢。


「すごい……! こんなに綺麗になるんだ……!」


栞は膝をつき、掌で床をそっと撫でた。


指先に吸い付くような滑らかさ。冷たさを感じさせない、自然な木の温もり。柑橘の爽やかな残り香が、動くたびにふわりと立ち上る。


楽しくてたまらなくなり、栞は夢中になって作業を続けた。


リビングの床一面、壁の丸太の継ぎ目、そして見上げる太い梁の届く範囲まで、サンドペーパーをかけ、ウエスで蜜蝋を擦り込み、乾拭きで磨き上げていく。


額から流れる汗が顎を伝って落ちたが、不快感など微塵もなかった。背中の筋肉を使い、腕を動かし、自分の暮らす空間が美しく生まれ変わっていく達成感が、全身に心地よい熱を巡らせていた。


リビング全体のワックス掛けが終わる頃には、太陽はすっかり中天へと昇り、テラスの木漏れ日は柔らかな昼の光へと移り変わっていた。


時計を見ると、正午を少し回ったところだった。


栞はテラスの丸太ベンチに腰を下ろし、水筒の冷たいお茶を喉へと流し込んだ。


ピカピカに磨き上げられ、飴色に輝くリビングを眺めながら、息を整える。


「室内はこれで完璧。……次は、外のテーブルね」


現在テラスにあるのは、仮設として使っていた無骨な丸太のベンチと、作業台代わりの小さな丸太組みテーブルだけだった。珈琲とお菓子を二人分載せるだけで手狭になってしまうし、これからカフェとしてお客様――レオンハルトや、もしかしたら他の誰かを迎えるには、少しばかり心許ない。


栞は立ち上がり、一度現代の古民家側へと戻った。


目指したのは、母屋の裏手に建つ古い物置蔵だった。


生前、祖父が「いつか直して使おう」と言って集め、そのまま眠らせていた古道具や木材が、埃をかぶって山積みになっている場所。


薄暗い蔵の中へ踏み込み、奥の棚の隙間を改めていると、厚手の油紙に包まれた、ひとつの大きな家具が目に留まった。


「……あった!」


埃を払い、油紙を剥ぎ取ると、そこから現れたのは、見事な一枚板で作られた古い文机(ふづくえ)だった。


天板に使われているのは、樹齢何百年という欅の無垢材。厚みはゆうに五センチを超え、幅は一メートル半、奥行きは六十センチほどもある。脚部は素朴ながら極めて頑丈な角材で組まれており、がたつきは一切ない。


経年変化によって表面は黒ずみ、ところどころに小さな傷や輪染みがあったが、それすらも長い歳月を生き抜いてきた家具だけが持つ重厚な風格となっていた。


「これなら……テラスのカフェテーブルにぴったり!」


だが、問題はその重量だった。


分厚い欅の一枚板は、大人の女性が一人で抱え上げるにはあまりにも重い。


栞は作業用グローブをはめ直すと、文机の端を持ち上げ、下に毛布を滑り込ませた。力任せに持ち上げるのではなく、毛布を引っ張るようにして土間を滑らせ、一歩ずつ、慎重に移動させていく。


ズズズ……と重い音を立てて、文机は蔵を出て、土間を渡り、欅の板戸の前へと辿り着いた。


「ふぅ……っ、ここが難関……!」


敷居を越える瞬間だけは、自力で持ち上げなければならない。


栞は腰を深く落とし、太ももに力を込め、文机の天板の端をしっかりと抱え込んだ。


「せーのっ……んぐぅぅっ!」


奥歯を噛み締め、全身の筋力を総動員して持ち上げる。


ズシリと肩にめり込む欅の圧倒的な質量。数歩足を踏み出し、異世界ログハウスの敷居を跨いで、飴色に磨き上げたリビングの床へと着地させた。


そこからは、傷がつかないよう毛布の上を滑らせて、テラスのウッドデッキへと運び出す。


初夏の風が吹き抜けるテラスの特等席――木漏れ日が最も美しく差し込み、原生林の山並みが一望できる手すり沿いに、文机を据え付けた。


「はぁぁ……っ! 重かったぁ……!」


その場にへたり込みそうになりながらも、栞の瞳は達成感で輝いていた。


据え付けられた欅の文机は、まるで最初からそこにあったかのように、丸太造りのテラスの風景に完璧に溶け込んでいた。


仕上げの作業に入る。


サンドペーパーで長年の汚れと輪染みを丁寧に削り落とし、木肌を平滑に整える。そして、リビングの床と同じように、天然の蜜蝋ワックスをたっぷりとウエスに取り、欅の天板へと擦り込んでいった。


――スゥッ……。


ワックスが浸透した瞬間、黒ずんでいた欅の木肌から、燃えるような深い赤褐色――極上のべっ甲を思わせる、息を呑むほど美しい杢目(もくめ)が浮き上がってきた。


光の当たる角度によって、金色の絹糸を織り込んだかのような光彩が揺らめく。


「……綺麗。本当にお爺ちゃん、良いもの遺してくれたんだなぁ……」


乾いた布で磨き上げると、天板にはテラスを囲む木々の緑と、青い空が鏡のようにくっきりと映り込んだ。


手作りの、世界にひとつだけのカフェテーブル。


ここに椅子を並べ、ドリップした珈琲と焼き立てのスコーンを置けば、どんな高級ホテルのテラス席にも負けない、至高の特等席になる。


道具を片付け、雑巾を洗い終えた頃には、山あいの空はゆっくりと黄昏色に染まり始めていた。


西の空に広がる、濃密な橙(だいだい)と茜色のグラデーション。


吹き抜ける森の風が、昼間の暖かさを連れ去り、ひんやりとした夜の冷気を運んでくる。


栞はテラスの新しいテーブルに腰掛け、心地よい疲労感に包まれながら、深く、長く息を吐き出した。


掌はワックスと木の匂いに染まり、腕や腰には心地よい重みがある。けれど、心の中はどこまでも澄み渡り、まるで生まれ変わったかのように軽やかだった。


「……あ、そうだ。ランタン」


栞は足元に置いてあった充電式のLEDランタンを引き寄せた。


最新のアウトドア用ランタン。真鍮風のレトロな傘がついたガラスドームの中に、フィラメントを模した暖色のLEDが組み込まれている。


天面の木製ダイヤルを、カチリと回した。


――ポッ。


夕暮れの薄暗がりの中に、ぽっと小さな、温かな灯火が灯った。


ダイヤルをさらに回すと、光は柔らかく広がり、磨き上げられたばかりの欅のテーブルを黄金色に照らし出した。蜜蝋の艶が光を反射し、テラス全体がまるで絵本の中の隠れ家のように、優しく、親密なぬくもりで満たされていく。


「……うん。すごく、いい」


温かな明かりを見つめながら、栞が小さく微笑んだ――その時だった。


――カサリ。


テラスのすぐ脇、生い茂るシダの葉と、薄紫色の花をつけた低木の枝の隙間から、微かな葉擦れの音が聞こえた。


「……え?」


栞が視線を向けると、枝の隙間から、ふわりと小さな影が滑り出てきた。


夕暮れの光を受けて虹色に輝く、四枚の半透明の薄羽。


栗色の巻き毛に、大きな琥珀色の瞳。


ポムだった。


ポムは新しく灯されたランタンの光と、見違えるほど美しく磨き上げられたテラスを驚いたように見回すと、嬉しそうに羽を「ピピピッ!」と震わせた。


そして、空中でホバリングしながら、小さな両手を胸の前で合わせ、栞に向かってしきりに手招きをするような仕草を繰り返したのだ。


「ピピィ! ピキャ、ピキャッ!」


何かに怯えている様子ではない。


むしろ、早く来てくれと急かすような、ワクワクとした期待に満ちた鳴き声。


ポムはテラスの縁から少し離れた森の小道へと飛び、振り返っては栞を見つめ、また手招きをする。


「……ポム? どうしたの? 何か、見つけたの?」


栞が立ち上がると、ポムは歓喜の声を上げて森の奥へと数メートル進み、再び立ち止まって手招きをした。


夕闇が迫る森の奥。


その薄暗い木立の隙間から、昼間とは違う、甘酸っぱく濃厚な果実の香りが、夜風に乗って微かに漂い始めていた。

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