第15話:来週もまた、あの森で
金曜日の午後十七時五十五分。
壁掛け時計の秒針が、カチ、カチ、カチと無機質に円を描いて進んでいく。
普段の金曜日であれば、この時間帯のオフィスはまさに阿鼻叫喚の様相を呈していた。週明けに回せない緊急案件の擦り付け合い、夕方になって急に舞い込む取引先からの修正依頼、そして「悪いけどこれ、今日中に頼むよ」と悪びれもせずに部下のデスクへ書類を積み上げていく管理職の無神経な足音。
以前の栞であれば、この時間が近づくたびに心臓が嫌なリズムで跳ね上がり、背中を冷たい汗が伝うのを感じていたものだ。誰とも視線を合わせないよう俯き、キーボードを叩くふりをしながら、理不尽の刃が自分に向かわないことを祈るだけの惨めな時間。
だが、今日の栞のデスクの上は、かつてないほど美しく整頓されていた。
処理すべき伝票はすべて午前中にシステム登録を済ませ、他部署からの問い合わせ対応も完璧に文書化して共有フォルダへ格納済み。来週月曜日に出社した誰が見ても一目で状況が把握できるよう、インデックス付きのクリアファイルに整然とまとめられていた。
他人の甘えや業務の丸投げを穏やかに、かつ毅然と押し返し、自分の担当範囲を完璧な精度で完結させる――水曜日に手にした「いつでも辞められる」という心の自由が、栞の仕事の処理速度を劇的に研ぎ澄ませていた。
――ピーン、ポーン、パーン、ポーン。
十八時ちょうどを告げる、定時のチャイムがフロアに鳴り響いた。
栞はパソコンのシャットダウンボタンをクリックすると、椅子の背もたれからスッと立ち上がった。バッグを肩にかけ、デスクの引き出しの施錠を確認する。
「……えっ、相沢さん?」
隣の席で、山積みの伝票を前に頭を抱えていた後輩の女子社員が、驚いたように目を丸くして顔を上げた。斜め向かいの席では、いつも面倒な入力作業を栞に押し付けて定時退社していた中堅の男性営業が、信じられないものを見るような顔でこちらを凝視している。
フロア中の視線が、まるで異端者を見るかのように栞の背中に突き刺さる。
だが、栞の唇には、少しの淀みもない柔らかな笑みが浮かんでいた。
「本日の業務はすべて完了いたしました。急ぎの案件はすべて課長へ回覧済みです。それでは皆さん、今週もお疲れ様でした。お先に失礼いたします」
淀みなく、澄んだ声で一礼する。
誰の反論も、引き止める隙すら与えない完璧な所作。背後から「あ、おい、相沢……!」と課長が何か言いかける声が聞こえたが、栞は一度も振り返ることなく、軽やかな足取りでフロアの自動ドアをくぐり抜けた。
更衣室に入り、ロッカーの扉を開ける。
まず行ったのは、あの忌々しい靴を脱ぎ捨てることだった。
先週の金曜日の夜、冷たい雨の中で終電を逃し、金属の芯が剥き出しになっていた黒いパンプス。平日の間は騙し騙し履いていたが、もう一秒たりともこんな窮屈な檻に爪先を押し込めていたくはなかった。
ストッキングを脱ぎ、ロッカーの奥から取り出した厚手のコットンの靴下を履く。そして、足元に滑り込ませたのは――履き慣れた、クッション性の高いお気に入りのウォーキングスニーカーだった。
「…………あぁ」
思わず、深いため息が零れ落ちた。
足を包み込む柔らかなインソール。締め付けられていた指先が自由に広がり、足首がしっかりと保護される感覚。
床を踏みしめると、まるで地面が自分の味方になってくれたかのような、確かな弾力が返ってくる。擦り減ったヒールで足首を痛めながら歩いていた日々が、嘘のように遠のいていく。足取りは羽のように軽く、階段を駆け下りるスニーカーの音が、小気味よいリズムを刻んでいた。
地下駐車場に止めてあった軽自動車に乗り込み、エンジンをかける。
栞が最初に向かったのは、自宅のアパートではなく、郊外のバイパス沿いにある地域最大級の超大型ホームセンターだった。
金曜日の夜、広大な売り場はプロの職人やDIY愛好家たちで賑わっていた。
木材の清々しい匂いと、塗料や金属の香りが混ざり合う通路を、栞はカートを押しながら足早に進む。
「まずは……木材のメンテナンス用品」
塗料コーナーに立ち、壁一面に並んだ缶やボトルを吟味する。
異世界のあのログハウス。丸太組みの頑丈な建物だが、長年人の手が入っていなかったため、ウッドデッキのテラスやテーブルの木肌は乾燥し、ところどころ艶を失いかけていた。週末カフェとして整えていくなら、まずはあの愛しい生活空間を自分の手で守り、育てていかなければならない。
棚から手に取ったのは、プロの家具職人も愛用する高級な木材保護用の天然オイルステインだった。屋外の過酷な雨風や紫外線から木を守り、木目を美しく浮き上がらせる浸透性の塗料。深みのある落ち着いたウォールナット色の大缶をカートに入れる。
さらに、塗装用の平刷毛を数本、木肌のささくれを滑らかに均すための各種番手のサンドペーパー、そして手肌を守るための厚手の牛革製作業用グローブ。
続いて、生活用品と雑貨のコーナーへ向かった。
棚の間を歩いているだけで、胸が弾んで仕方がなかった。
森の緑に映えるような、未晒しのクラフト紙で作られたカフェ用のペーパーナプキン。素朴な風合いの麻のキッチンクロス。珈琲豆や乾燥させたハーブを美しく保存するための、密閉性の高いガラス製のキャニスターボトルをいくつか。
さらに、スーパーの食料品売り場にも立ち寄り、良質な発酵バター、香りの高い小麦粉、きび砂糖、そして珈琲のドリップに使うための無漂白ペーパーフィルターをカゴいっぱいに買い込んだ。
手元には、真壁から振り込まれた三十万円という確かな軍資金がある。
かつては百円ショップの安物ばかりを選び、少しでも切り詰めることばかりを考えていた栞が、今は「あの場所を心地よくするため」に、本当に良いと思える道具を自分の意志で選んでいる。
お金を使うことが、これほどまでに楽しく、誇らしいものだとは知らなかった。
買い込んだ資材と食料を車のトランクと後部座席に隙間なく積み込み、バックドアをバタンと閉める。
「よし……行こう!」
運転席に乗り込み、ナビの目的地をセットすることもなく、栞は車を西へと走らせた。
インターチェンジから中央自動車道へと合流する。
夜の高速道路は、昼間の混雑が嘘のようにスムーズに流れていた。
車の窓を数センチ開けると、初夏の夜風が心地よい音を立てて車内を吹き抜けていく。東京の街を離れ、高尾の長いトンネルを抜けるにつれて、沿道の無機質な街灯の光が途切れ、深い山の稜線が夜の闇の中に浮かび上がってきた。
ふと、見上げるフロントガラスの向こう。
「……わぁ……」
思わず、ハンドルを握る手が緩みそうになるほどの絶景が広がっていた。
都会の空を白く濁らせていた光害が消え去り、視界を埋め尽くしていたのは、息を呑むような満天の星空だった。
漆黒の夜空に、天の川の淡い光の帯が横たわり、無数の星々がダイヤモンドの粉を撒き散らしたかのように瞬いている。
擦り切れたヒールで俯き、スマートフォンの画面ばかりを見つめていた一週間前の自分には、こんな空が頭上に広がっていることすら気づく余裕がなかった。
自分の手で選んだスニーカーでアクセルを踏み、自分の人生の時間を、自分の行きたい場所へと進めている。
ただそれだけのことが、胸がいっぱいになるほど誇らしく、愛おしかった。
甲府盆地の夜景を眼下に見下ろしながら高速を降り、街灯のまばらな山間の国道から、木々の生い茂る細い林道へと車を進める。
時刻は深夜一時を回ったところだった。
砂利を踏みしめるタイヤの音とともに、祖父の古民家の前庭へと車を滑り込ませる。
エンジンを切ると、訪れる圧倒的な静寂。
虫の声と、遠くのせせらぎの音だけが響く中、栞はヘッドライトの明かりを頼りに、トランクから買い込んできた資材や道具を手早く母屋の土間へと運び込んだ。
母屋の引き戸を閉め、土間の奥へ進む。
冷んやりとした土間の突き当たり、あの重厚な欅の板戸が、暗闇の中で静かに佇んでいた。
ポケットから、祖父の形見である透かし彫りの真鍮鍵を取り出す。
指先に伝わる、金属の滑らかな質感と、微かな温もり。
十字の鍵穴へ差し込むと、吸い込まれるようにカチリと嵌まり込んだ。
右へとゆっくり回す。
――カチリ。
澄み渡るような硬質な金属音が土間に反響し、密閉されていた空間の圧力がふっと抜ける。
取っ手に手をかけ、ガラリと引き戸を横へ滑らせた。
その瞬間。
すうっ、と暗がりを押し開くようにして、あの懐かしい風が吹き抜けてきた。
夜露をたっぷりと含んだ原生林の冷涼な息吹。熟れた野果実の甘酸っぱいアロマと、清冽な針葉樹の芳香。
敷居を跨ぎ、ログハウスの無垢材の上に足を踏み入れる。
夜の山小屋の中は、テラス窓から差し込む青白い月光によって、幻想的な青と銀のグラデーションに染め上げられていた。外の原生林では、足元に群生する星型の野花が蛍のように淡く青い燐光を瞬かせ、まるで地上に星空が降りてきたかのような美しさだった。
「……ただいま」
静かな部屋に向かって呟き、栞はテラスへと続く窓辺へ歩み寄った。
そして――テラスの光景を目にした瞬間、栞は息を呑んで足を止めた。
「…………え?」
月光に照らし出されたウッドデッキ。
そこには、栞が立ち去った日曜日にはなかったはずの『明らかな変化』が存在していた。
まず目に飛び込んできたのは、テラスの奥、雨風の吹き込まない軒下の壁際だった。
そこには、太さも長さも完璧に均一に切り揃えられた、極上の薪の束が――大人の胸の高さまで、几帳面すぎるほど美しく、整然と積み上げられていたのだ。
樹皮が綺麗に削ぎ落とされ、しっかりと乾燥した良質な薪。これだけの量を一人で森から切り出し、運んで積み上げるのに、一体どれほどの労力がかかっただろうか。
そして、驚きはそれだけではなかった。
テラスの中央、あの丸太のテーブルの上。
夜風に吹かれる木肌の上に、何かが『コロン』と無造作に転がされていた。
栞は吸い寄せられるようにテラスへ足を踏み出し、テーブルへと近づいた。
月光を浴びて、妖しく、けれど息を呑むほどに美しく輝くその物体を、両手でそっとすくい上げる。
「…………っ、これは……」
掌の上に乗ったのは、先週の青い石よりもさらに一回り大きく、大人の掌の半分ほどもある巨大な結晶石だった。
色は――息を呑むほどに深い、濃密な紫。
最高品質のアメジストをも凌駕する圧倒的な透明度を誇り、多面体にカットされた結晶の奥底から、脈打つような紫紺の光の粒子が、ボウッと幻想的に明滅している。
触れた皮膚を通じて伝わってくるのは、先週の石とは比べものにならないほど重厚で、満ち満ちた魔力の波動のような温もりだった。
誰が置いていったのかなど、考えるまでもなかった。
不器用で、無口で、けれど受けた恩義は命がけで返そうとする、あの漆黒の甲冑をまとった銀の瞳の騎士。
先週の日曜日、マフィンとハーブティーを綺麗に平らげて帰っていったレオンハルトが、栞の留守の間にわざわざ森を訪れ、薪を割り、そしてこの途方もない石を置いていったのだ。
――『また美味しいものを食べに来てくれたときの、前払いということにさせてください』
先週、栞が口にしたあの言葉を、男は一言一句違わずに覚えていたのだ。
「……ふふっ」
静寂のテラスに、栞の柔らかな笑い声が零れ落ちた。
掌の中の温かい紫の魔石をぎゅっと握りしめ、夜の原生林を見渡す。
「お代の前払いなんて……本当に、気が早い人なんだから」
呆れるような、けれど胸の奥がじんわりと熱くなるような、愛おしい感情が込み上げてくる。
こんなにも規格外の結晶石、真壁のところへ持っていったら一体いくらの値がついてしまうのだろう。けれど今の栞にとって、その金額の多寡よりも、あの強面な黒騎士が、この石をここに置くときに浮かべていたであろう不器用な表情を想像する方が、遥かに心を温めてくれた。
栞は紫の魔石をエプロンのポケットに大切に収めると、腕を胸の前で交差させ、勢いよく腕まくりをした。
東の空の端が、ほんのわずかに白み始めている。
車から運び込んだばかりの、オイルステインと刷毛。
手挽きのミルと、上質な深煎りの珈琲豆。
そして、たっぷりのバターと小麦粉。
「よし……! 最高のカフェにするからね、待っててよ、レオンハルトさん」
夜明け前の清冽な風が、栞の黒髪をふわりと揺らした。
週末だけの、森の隠れ家カフェ。




