第14話:通帳の数字と、ほどける呼吸
書斎の中に、重苦しい沈黙が満ちていた。
壁掛けの振り子時計が「チク、タク、チク、タク」と刻む硬質な音だけが、張り詰めた空気を規則正しく切り刻んでいる。
真壁宗助の鋭利な眼光は、黒いビロードのトレイの上に置かれた青い結晶石から、栞の顔へと真っ直ぐに注がれていた。長年、無数の古美術や宝石、名品を見極め、時に数億円もの巨額の取引を背負ってきた老鑑定士の気迫。その眼差しは、嘘や誤魔化しの一切を許さない刃物のような凄みを帯びていた。
「…………」
栞は喉元がきゅっと締まるのを感じながら、膝の上で握りしめた拳にぐっと力を込めた。
ここで怯んではいけない。異世界の存在、あの欅の板戸の向こうに広がる緑深い森や、漆黒の甲冑をまとった騎士のことを口にするわけには絶対にゆかなかった。もしそんな荒唐無稽な話をすれば、真壁に精神の失調を心配されるか、最悪の場合、あの静かな居場所が現代社会の好奇と欲望の目に晒されて破壊されてしまう。
栞は背筋をすっと伸ばし、真壁の丸眼鏡の奥の瞳を、迷いなく見つめ返した。
「……おじいちゃん。私が言える真実は、ひとつだけです」
静かに、けれど芯の通った声で言葉を紡ぐ。
「この石は、確かに祖父の遺品の中から見つけたものです。古民家の土間の奥……木箱の底に、古い布に厳重に包まれて入っていました。祖父が生前、どこでどうやってこれを手に入れたのか、私には本当に分かりません。ただ……おじいちゃんなら、この石の本当の価値を正しく見てくれるんじゃないかと思って、こうして持ってきました」
真壁は無言のまま、栞の瞳の奥をじっと覗き込み続けた。
嘘をついている者の目の泳ぎ、脈拍の乱れ、声の震え――そうしたものを探るように、数秒、十秒と時間が流れる。
やがて、老人の唇から、ふう、と深く重たい息が漏れ出た。
「…………源蔵め」
真壁は背もたれに深く体重を預け、天井を仰ぎ見た。
「あの偏屈爺め……死んでからも、私にこんな途方もない宿題を押し付けていくとはな」
その呟きには、先ほどまでの刺すような警戒心は消え去り、昔馴染みの悪友に対する、呆れと懐かしさが混ざり合った苦笑が浮かんでいた。
「あいつは若い頃から、人が立ち入らんような険しい山奥ばかり好んで歩く男だった。山師まがいの連中とつるんで怪しげな坑道跡に潜り込んだり、海外の放浪画家から得体の知れん骨董を酒代代わりに押し付けられたり……世間の常識など鼻で笑うような奴だったからな。人知れず未発見のペグマタイト(巨晶花崗岩)の鉱脈を掘り当てていたとしても、あるいは闇ルートの標本を誰かから預かっていたとしても、あいつなら不思議ではない」
真壁は自らそう結論づけると、眼鏡を外し、疲れたように眉間を指先で揉んだ。
祖父の生前の破天荒な人柄が、図らずも栞の言葉に最高の信憑性を与えてくれた形だった。栞は心の中で、亡き祖父に向かって深く頭を下げた。
「……栞ちゃん。よく聞きなさい」
真壁は再び眼鏡をかけ直すと、真剣な面持ちで身を乗り出した。
「この石を、大学の研究機関や大手の宝石鑑定鑑別団体に持ち込んではいかん。絶対にだ」
「……どうしてですか?」
「どうして、だと?」
真壁は呆れたように眉を八の字に曲げた。
「こんなものが世間に知られてごらん。新種の超高純度鉱石、未知の自発光エネルギー結晶……学会は大騒ぎ、鉱山資源を狙う企業やメディア、果ては怪しげな投資ファンドの連中までがハイエナのように群がってくる。出所を巡って警察や税務署が君の身辺を洗いざらい嗅ぎ回り、山梨の古民家は蜂の巣をつついたような騒ぎになるだろう。君のような若い女性の平穏な日常など、一瞬で木っ端微塵に吹き飛んでしまうよ」
真壁の言葉は、恐ろしいほど具体的で現実的だった。
もし不用意にネットオークションに出品したり、街の買取専門店に持ち込んだりしていれば、今頃どうなっていたか。想像するだけで背筋に冷や汗が流れる。
「……じゃあ、この石はどうすれば……」
「私が引き取る」
真壁は即座に、力強く言い切った。
「私の個人コレクションとして、非公開の鉱物標本として買い取らせてもらいたい。学術的な発表など一切せん。私が生きている間は、この書斎の耐火金庫の奥に厳重に保管し、私が死んだら墓場まで持っていく。……正直に言えばね、栞ちゃん。長年石を見てきたこの老いぼれの鑑識眼が、この石を手放すなと激しく叫んでいるんだよ。死ぬ間際に、これほどの奇跡に出会えるとは夢にも思わなかった」
真壁の瞳には、少年のように純粋で熱狂的な光が灯っていた。
金儲けのためではない。ただ純粋に、美しく未知なる鉱物に対する敬意と愛着。この人になら、レオンハルトのくれた大切な石を預けても絶対に裏切られない――栞はそう確信した。
「……ありがとうございます、おじいちゃん。おじいちゃんに持っていていただけるなら、私も一番安心です」
「そう言ってくれるかい。……さて、そうなると問題は『金額』だ」
真壁はデスクの引き出しから、万年筆と上質な革張りの帳面を取り出した。
「本来なら、未知の鉱石など値のつけようがない。無価値とも言えるし、エネルギー資源としての研究価値を考えれば億の値がついてもおかしくない。だが、市場に流通させず、私個人の愛好品としての標本として評価するなら……」
真壁は指先で青い結晶をそっと撫で、数字を頭の中で弾くように視線を巡らせた。
「親指大、目立ったクラック(ひび割れ)なし、極めて安定した自発光。……初回の手付けとしては、現金で『三十万円』。これでどうだろうか。もちろん、今後も源蔵の遺品から同様の石が見つかったなら、その都度、適正な価格で私が全量買い取ることを約束する」
「さ、三十万……っ!?」
栞は思わず目を見張り、息を呑んだ。
三十万円。
手取りにして、栞が過酷な残業を重ね、心身をすり減らして得ていた月給を、たった一石があっさりと超えていた。
あの時、山小屋のテラスで振る舞ったのは、ホットケーキミックスで作った手作りのプレーンスコーン数個と、カセットコンロで淹れた二杯のハンドドリップコーヒーに過ぎない。原価にすれば、数百円にも満たない軽食だ。
それが、三十万円という現実の数字に化けたのだ。
「……少ないかい? すまないね、私も引退した身だ。いきなり数百万の現金をポンと動かすには少し準備が必要でね。だが、決して君を買い叩くつもりはないよ」
「い、いえっ! とんでもないです! むしろ多すぎて……本当にそんなにいただいていいのか、怖いくらいで……」
「ははは、相変わらず欲のない子だ。源蔵の孫らしい」
真壁は声を立てて笑うと、眼鏡の位置を直しながら表情を引き締めた。
「だがね、栞ちゃん。ここからが一番大事な話だ。大金を手にするということは、現代社会においては必ず『税金』と『法的手続き』がついて回る。これを蔑ろにすると、後で痛くもない腹を探られることになる」
真壁は便箋を取り出し、栞に見せるようにペンを走らせた。
「今回は、祖父の遺品整理に伴う『動産の売却処分』として処理する。祖父から正式に古民家と家財を相続した君が、遺品の中から見つかった正体不明の鉱物標本を、古美術商である私に売却した……という体裁だ。正規の売買契約書を作成し、領収書も切る。そして君は、来年の確定申告でこれを『一時所得』あるいは『雑所得』として正しく申告するんだ」
流れるような手際で、真壁は税務上のリスクを徹底的に排除するための道筋を提示していく。
「申告さえしっかり行い、正規に納税していれば、税務署も警察も文句のつけようがない。後ろ暗いところは一切作らん。君の人生を守るためにも、金の流れはどこまでも清廉潔白にしておく必要があるんだよ」
真壁の用意周到で親身な指南に、栞の目頭がじわりと熱くなった。
ただ石を買い取るだけでなく、会社員である栞が法的なトラブルに巻き込まれないよう、税務処理の防壁まで完璧に整えてくれている。
「……はい。おじいちゃんの言う通りにします」
「うむ。話が早くて助かるよ。契約書は私が二部作成しておく。代金だが……君の口座へ、私の個人口座から正規の電信振込で送金しよう。通帳に記録を残すことが、何よりの潔白の証明になるからね」
真壁は手慣れた手つきで電話機を取り、自身の取引銀行の担当者へ連絡を入れて振込手続きを済ませてくれた。
契約書に署名と捺印を交わし、黒いビロードの上に残された青い結晶石を、真壁は愛おしそうに金庫の奥へと収めた。
「源蔵の遺品は、まだまだ奥が深そうだね。もしまた何か見つかったら、いつでも持ってきなさい。この老いぼれの楽しみが増えたよ」
「はい。本当に……ありがとうございました」
深々と頭を下げ、真壁の屋敷を辞去した。
門を出ると、武蔵野の住宅街には柔らかな初夏の木漏れ日が揺れていた。
駅へ向かう足取りは、いつになく地に足がついているような、不思議な確かさを帯びていた。
駅前のロータリーにあるメガバンクの支店に入り、ATMの機械の前に立つ。
鞄から取り出した自分の給与振込口座の通帳を、機械のスロットへと差し入れた。
――カタカタカタ、ジジジ……。
硬質な印字音が、静かなブース内に響く。
機械から吐き出された通帳を手に取り、ページを開いた。
そこには、真新しい黒いインクで、はっきりと刻まれていた。
『マカベ ソウスケ +300,000』
現在残高――それまで日々の生活費の引き落としで微増微減を繰り返していた頼りない数字の末尾に、ぽんと大きな重みが加わっていた。
「…………っ」
栞は通帳を胸元に抱きしめ、その場に立ち尽くした。
三十万円。
それは、ただの紙切れや電子データではない。
毎日、満員電車に押し潰され、理不尽な上司の叱責に耐え、他人のミスを押し付けられて頭を下げ続け、擦り切れたヒールで夜道を泣きながら歩いて得ていた、あの血のにじむような労働の対価を、たった一回の取引があっさりと超えてしまったのだ。
――すぅ……と。
胸の奥底から、信じられないほど深く、長い息が漏れ出た。
何年もの間、栞の喉の奥に頑固に詰まっていた冷たい鉛の塊のようなものが、温かなお湯に溶かされるように、すうっと消え去っていく感覚。
呼吸ができる。
肺いっぱいに、酸素が入ってくる。
――私、会社にしがみつかなくても生きていけるかもしれない。
その確信が、冷え切っていた全身の細胞に、じわりと温かな火を灯していった。
明日すぐに会社を辞めることはできなくても、いざとなればいつでもこの檻から抜け出せる。自分の生活を支え、自分の足で立っていくための「別の道」が、確かにこの世界に存在するのだ。
通帳を大切にバッグの奥へとしまい、栞は駅の改札を抜けた。
半休を終え、午後からの業務に戻るため、再び都心のオフィスへと向かう。
午後二時過ぎ。
自動ドアをくぐってフロアに入ると、そこには午前中と何ひとつ変わらない、息の詰まるような光景が広がっていた。
窓のないフロアを照らす蛍光灯の、無機質なジーという唸り。
ひっきりなしに鳴り響く内線電話のベルの音、苛立ちを隠そうともせず乱暴にエンターキーを叩く同僚のタイピング音。
そして――。
「おい、相沢! どこほっつき歩いてたんだ! 半休だからって連絡も寄こさずに! 営業の提出書類、またフォーマットが違うって経理から突き返されたぞ! お前が午前中にちゃんと確認しとかないからだろ!」
デスクに戻るなり、他部署の課長が赤黒い顔をして書類の束をバンッと叩きつけ、怒鳴り散らしてきた。
いつも通りの、理不尽な責任転嫁。
いつも通りの、八つ当たり。
以前の栞なら、心臓を跳ね上がらせ、顔を真っ青にして「申し訳ありません!」と反射的に腰を折っていただろう。胃の奥がきりきりと痛み、自分が悪いのではないかと自分自身を責め苛んでいただろう。
だが――。
「……失礼いたしました。すぐに経理の規定フォーマットと照合し、修正箇所をリスト化してご本人のデスクへ回しておきますね」
栞の口から出たのは、驚くほど静かで、どこまでも穏やかな声だった。
口元には完璧なビジネスマナーの笑みを浮かべ、上司の血走った目を真っ直ぐに見つめている。
「なっ……あ、ああ……そうしろ。早くしろよ!」
拍子抜けしたように毒気を抜かれた課長は、居心地悪そうに鼻を鳴らすと、乱暴な足取りで自席へと戻っていった。
デスクの椅子に腰を下ろす。
周囲の同僚たちが「また課長が理不尽なこと言ってるよ」と同情の視線を向けてくるのが分かった。
けれど、栞の心は驚くほど凪いでいた。
上司の怒声も、オフィスの耳障りなノイズも、まるで分厚い強化ガラスの向こう側――遠い水槽の中で魚が口をパクパクと動かしているかのように、客観的で、無意味な雑音として綺麗に聞き流すことができていた。
バッグの中には、確かな重みを持った預金通帳。
そして心の中には、あの緑深い木漏れ日の森と、手挽きの珈琲の香り。
誰にも侵されることのない、絶対的な『安全基地』ができたのだ。
その揺るぎない事実が、栞の背筋をすっと伸ばし、心に静かな強さを与えてくれていた。
「……さっさと終わらせて、定時で帰ろう」
栞は小さく呟くと、軽やかな指先でキーボードへと手を伸ばした。




