第13話:古美術商の眼鏡が光るとき
月曜日と火曜日の二日間、栞はまるで泥水の中を這い回るような心地で過ごしていた。
日曜の夕方に送りつけられてきた上司からの理不尽な指示通り、月曜の朝イチには役員会議用の資料を完璧に印刷して並べ、他人の営業経費の精算ミスを平謝りしながら修正し、鳴り止まない内線電話と突発的な書類作成の嵐をひたすらに捌き続けた。
だが、かつてのように胃の腑が焼き切れるような絶望感に呑まれることはなかった。
オフィスの自分のデスクの引き出し、施錠できる最下段の鍵付きスペースの奥深く。ハンカチに厳重に包んだ小さな巾着袋の中に、あの青い結晶石が静かに眠っていたからだ。
理不尽な怒号がフロアに響くたび、他人のミスを擦り付けられそうになるたび、栞は指先で引き出しの鍵穴に触れた。そこに確かに存在する、人知れぬ温もり。あの奇跡のような異世界の森と、無骨で不器用な黒騎士がくれた「対価」が、栞の精神の防波堤となっていた。
そして水曜日の昼。
「課長、午後から通院のため半休をいただきます。本日のルーティン業務および緊急性の高い手配はすべて午前中に完了させ、引き継ぎ書を山田さんのデスクに置いてありますので」
「あ? 通院? まったく、忙しい時期なんだから体調管理くらいしっかりしてくれよな」
舌打ち混じりに書類へ承認印を叩きつける上司の顔を、栞は穏やかな笑みを貼り付けたまま見つめた。以前なら「申し訳ありません」と平身低頭して萎縮していただくだけだったが、今の栞は心の中でただ静かに「お世話になりました、近いうちに必ず辞めますので」と呟くだけだった。
正午のチャイムとともに、オフィスを出る。
エレベーターを降り、駅の改札を抜け、山手線に乗り込んだ。平日の昼下がりの電車は驚くほど空いており、シートに深く腰を下ろすと、久しぶりに胸いっぱいに息を吸い込めた気がした。
向かう先は、東京都の西武線沿線、緑豊かな武蔵野の面影を残す閑静な住宅街だった。
駅から住宅街の緩やかな坂道を歩くこと十五分。手入れの行き届いた生垣と白壁が続く一角に、重厚な黒塗りの門扉を構えた日本家屋が見えてきた。
門柱の真鍮の表札には、端正な筆文字で『真壁』とだけ刻まれている。
真壁宗助。
先月他界した母方の祖父の、六十年来の無二の親友だった人物だ。
かつて銀座で格式ある古美術商を営み、政財界の大物や海外のコレクターを相手に数々の名品を仲介してきた鑑識眼の持ち主。十数年前に店を畳んで引退した後は、ライフワークである世界各地の珍奇な鉱物標本や隕石、古美術の個人コレクションに囲まれ、気の向いた鑑定依頼だけを細々と受けて気ままに暮らしていると聞いていた。
子供の頃、祖父に連れられて何度かこの屋敷を訪れたことがあった。祖父が山で見つけてきた奇妙な形の石や古木を持ち込んでは、ふたりで縁側に座り、日が暮れるまで酒を酌み交わしながら熱っぽく語り合っていた姿が鮮明に思い出される。
栞はインターホンのボタンを押した。
数秒の後、スピーカーから「はい、どなたですかな」と、低く掠れているが張りのある老人の声が返ってきた。
「真壁のおじいちゃん、ご無沙汰しております。相沢栞です。先日は祖父の葬儀にご参列いただき、本当にありがとうございました」
「おや……! 栞ちゃんかい! ちょっと待ちなさい、すぐ開けるからね」
ガチャンと鍵が解かれる音がして、門扉が内側から開いた。
現れたのは、白髪を綺麗に撫で付け、丸眼鏡をかけた小柄な老人だった。上質な墨色の作務衣を纏い、目尻に無数の温和な笑い皺を刻んでいる。六十八歳という年齢よりもずっと若々しく、その瞳の奥には少年のようないたずらっぽい光が宿っていた。
「まあまあ、よく来てくれたね。立ち話もなんだ、上がりなさい。さあさあ」
「突然お邪魔してしまって、ごめんなさい」
「何を言っているんだ。源蔵の忘れ形見が訪ねてきてくれて、嬉しくないはずがないだろう。さあ、こちらへ」
手入れの行き届いた敷石の庭を抜け、母屋の奥にある離れへと通された。
そこは、真壁が鑑定室兼書斎として使っている特別な部屋だった。
壁一面の本棚には、革装丁の古い洋書や鉱物図鑑、学術雑誌が隙間なくぎっしりと詰め込まれている。重厚なマホガニーのデスクの上には、ガラスドームに収められたアンティークの振り子時計が置かれ、静まり返った室内に「チク、タク、チク、タク」と規則正しい硬質なリズムを刻んでいた。
部屋の隅のガラスキャビネットには、深紅のルビーの原石、夜空のように煌めくラピスラズリ、複雑な結晶構造を持つ黄鉄鉱や砂漠の薔薇など、世界中から集められた極上の鉱物標本が美しくライトアップされて並んでいる。
どこか博物館のバックヤードに迷い込んだかのような、知的で静謐な空気に満ちた空間だった。
「お茶を淹れたよ。熱いから気をつけておくれ」
真壁が盆に載せて運んできたのは、香ばしい香気を放つ上質なほうじ茶と、老舗の栗羊羹だった。
「いただきます」
湯呑みを両手で包み込み、一口含む。喉を滑り落ちる温かな茶が、オフィスで凍りついていた神経を優しく解きほぐしていく。
「それで……栞ちゃん。今日は源蔵の形見分けの相談かい? それとも、あの頑固爺さんが遺した山梨の古民家の処分についてかな」
真壁は湯呑みを置き、丸眼鏡の奥の目を細めて優しく微笑みかけた。
「源蔵が逝ってしまって、君も心細いだろう。あいつは山と木と石のことばかりで、世俗の金儲けにはとことん疎い男だったからねえ。何か困ったことがあれば、遠慮なくこの爺さんに言いなさい。あいつへの長年の借りを、孫の君に返すいい機会だ」
その言葉に含まれる損得のない純粋な慈愛に、栞の胸がきゅっと締め付けられた。
これから自分が口にする「嘘」に対する罪悪感が、チクリと痛む。
けれど、あの異世界の存在を正直に明かすわけにはいかない。万が一にもあの扉の秘密が公になれば、自分だけでなく、あの静かな森も、レオンハルトたちも、現代の好奇と欲望の目に晒されて破壊されてしまう。
自分自身の手で生活の基盤を築き、あの場所を守るためにも、ここだけは揺らいではならなかった。
栞は居住まいを正し、膝の上に置いた通勤バッグのファスナーを開けた。
「おじいちゃん。実は今日伺ったのは……祖父の遺品整理のことで、どうしてもおじいちゃんに見てもらいたいものがあったからなんです」
「ほう、遺品整理?」
「はい。先週末、山梨の古民家の土蔵の奥を片付けていたところ……祖父が生前、古い木箱の中に厳重にしまい込んでいたものを見つけまして」
栞はバッグの中から、ベルベット調の小さな巾着袋を取り出した。
真壁の視線が、自然と栞の手元へと注がれる。
「あいつが厳重にしまい込んでいたもの……? ふむ、源蔵のことだから、どこかの山で拾ってきた珍奇な形の倒木か、あるいは変な形の川原の石ころかと思ったが……君のその改まった顔を見ると、どうやらただのガラクタではなさそうだね」
真壁は楽しそうに笑いながら、デスクの引き出しからビロードの黒い鑑定用トレイを取り出し、机の中央に敷いた。
「さあ、見せてごらん。源蔵がどんな宝物を隠していたのか」
「はい……これです」
栞は巾着の紐を解き、慎重に、指先を震わせながら中身を傾けた。
――コロン。
黒いビロードの布地の上に、それが転がり出た。
親指大の、六角柱の結晶石。
薄暗い書斎の照明の下に現れたその石は、まるで深海の底の澄み切った海水をそのまま四角く削り取ったかのような、鮮烈なコバルトブルーを湛えていた。
そして――。
トクン、トクン、と。
まるで生き物の心臓が拍動するように、石の内部から淡い青白い燐光が、静かに、けれど確かに明滅していた。
「………………」
真壁の表情から、先ほどまでの温和な好々爺の笑みが、一瞬にして綺麗に消え去った。
振り子時計の「チク、タク」という音だけが、部屋の静寂を切り刻む。
真壁は微動だにしなかった。丸眼鏡の奥の瞳が、トレイの上の青い結晶石の一点に縫い付けられている。
数秒間の完全な沈黙の後、真壁は無言のままスッと立ち上がった。
その動作には、六十代後半の老人とは思えないほどの無駄のない鋭利さと、長年一線で本物の国宝や名品を見極め続けてきた超一流の鑑定家だけが放つ、凄まじい気迫が宿っていた。
真壁は書斎のカーテンを一気に引き、外からの自然光を遮断した。
薄暗くなった部屋で、トレイの上の石が放つ青白い燐光は、さらに一段と神秘的な輝きを増し、黒いビロードの上に水面のような光のさざ波を描き出す。
「…………栞ちゃん。明かりをつけるよ」
掠れた声でそう告げると、真壁はデスクライトのスイッチを入れた。昼白色の強力なスポットライトが、ピンポイントで青い石を照らし出す。
真壁は胸ポケットから、シルバーのチェーンで首から下げていた小さな金属製の器具を取り出した。
宝石鑑定士が用いる、十倍率のトリプレットルーペ。
さらに、先端に極細のシリコンカバーがついたピンセットを右手に持ち、息を殺しながら、石の端を慎重に挟み上げた。
金属と石が触れ合う瞬間、真壁の手が、ほんのわずかに震えていたのを栞は見逃さなかった。
ルーペを右目に密着させ、石を眼球から数センチの位置まで近づける。
真壁の眼光が、獲物を狙う鷹のように極限まで細められた。
「…………っ」
ルーペ越しに石の内部を覗き込んだ瞬間、真壁の喉から、押し殺した短い呼気が漏れた。
ピンセットを持つ指先が、完全に静止する。
一分、二分、三分……。
針の落ちる音すら聞こえそうな静寂の中、真壁は石の角度をミリ単位で変えながら、光の屈折、結晶の成長線、内包物の有無を、狂気じみた集中力で観察し続けた。
額に、じわりと玉のような汗が滲み出ている。
やがて真壁はピンセットを置き、デスクの引き出しから紫外線ライト(ブラックライト)と、比重を計測するための精密電子天秤を取り出した。
紫外線ライトのスイッチを入れ、紫色の不可視光線を石へと照射する。
その瞬間――。
――ボワッ!
石が、まるで青い炎を吹き上げたかのように、部屋の壁にまで届くほどの強烈な青碧色の蛍光反応を示した。単に光を反射しているのではない。外部からの刺激に反応し、石そのものが励起して自発光の出力を跳ね上げているのだ。
「馬鹿な……! なんだこの発光効率は……! 合成宝石のレーザー照射でもこれほどの励起現象は起きんぞ……!」
真壁の独り言が、震えていた。
続いて、電子天秤の上に極小のビーカーを置き、蒸留水を満たして石を沈める。液中重量法による比重測定。
液晶画面にデジタルで表示された数値を一瞥した瞬間、真壁は息を呑み、眼鏡を押し上げた。
「硬度は……おそらくダイヤモンドと同等かそれ以上。だが比重は水晶よりも遥かに軽い。割れやすい劈開性も見当たらん。内部の結晶格子に至っては……六方晶系でありながら、分子同士が幾重にも折り畳まれたような、未知の幾何学螺旋を描いている……」
真壁はライトを消し、ルーペをデスクの上に置いた。
肩で息をしていた。まるで猛獣と素手で対峙したあとのような、凄まじい精神の消耗と興奮が、その青白い横顔からありありと伝わってきた。
部屋の中に、再び振り子時計の「チク、タク」という音だけが響く。
真壁はゆっくりと椅子に深く腰掛け直すと、震える指先で丸眼鏡を外し、眉間を親指と人差し指で強く揉みほぐした。
そして、再び眼鏡をかけ直すと――。
その研ぎ澄まされた双眸で、デスクを挟んで座る栞の顔を、射抜くようにまっすぐに見つめた。
「…………栞ちゃん」
低く、重々しく、底知れない緊張を孕んだ声だった。
「君に、ひとつだけ聞く。……腹を割って、真実を答えなさい」
「……は、はい……」
栞は背筋をピンと伸ばし、固唾を呑んで老鑑定士の言葉を待った。
真壁は黒いビロードの上の青い結晶石を指差すと、震える唇を開き、こう告げたのだ。
「この石を……君は一体、どこで手に入れた? ……源蔵の土蔵などという子供騙しの嘘は抜きだ。内包されている結晶構造も、比重も、自発光のエネルギー密度も……現代の地球上のあらゆる鉱物学、地質学のデータバンクのどこを探しても、こんな物質は一片たりとも存在しない」
真壁の眼光が、鋭く光った。
「これは……現代科学の常識を根底から覆す、完全なる『未知の超高純度鉱石』だぞ」




