↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/60

第12話:日曜日午後五時の影

森の境界線、鬱蒼とした木立の切れ目に直立する漆黒の影。


木漏れ日がその広い肩口と、手入れされた黒漆の胸当てを斑(まだら)に照らし出していた。先週の行き倒れていたときの凄惨な泥濘(ぬかるみ)や血の匂いは綺麗に洗い落とされ、研ぎ澄まされた刃物のような静けさだけがそこにある。


栞の頭の上、栗色の髪の毛の奥深くに潜り込んだポムが、「ピピッ……」と細い悲鳴を漏らしながら震えていた。身長十センチの妖精にとって、百八十センチを優に超える歴戦の騎士は、天敵たる大型肉食獣そのものに見えているのだろう。


「あ、あの……レオンハルトさん?」


重たい竹籠を両手で抱え直しながら、栞がおずおずと呼びかけると、男の銀の瞳が微かに揺れた。


腕組みをしていた頑強な両腕が、解かれる。


レオンハルトは小さく喉を鳴らすと、わずかに視線を斜め下へと泳がせ、地を這うような低音で口を開いた。


「……巡回だ」


「え?」


「このあたりは魔獣の活動域との境界に近い。……警備小隊長として、異常がないか見回りをしていただけだ。決して、貴様がまた得体の知れん菓子を焼いているのではないかなどと、余計な期待をして立ち寄ったわけではない」


聞かれてもいない弁解を、一息に早口で捲し立てる黒騎士。


白皙の肌の耳の付け根が、カッと微かに朱に染まっている。先週、あれほど必死にスコーンとジャムを平らげておきながら、この大男はどこまでも不器用で、プライドの置き所に困っているらしかった。


栞は思わず、くすりと吹き出してしまった。


「ふふ、見回りご苦労さまです。ちょうどよかった。今、ポムと一緒に森で摘んできたばかりのベリーがあるんです。お茶にしませんか?」


「……ポム?」


レオンハルトの鋭利な眉が不審そうに跳ね上がった。


栞は頭の上にそっと手を添え、髪をかき分けて見せた。そこには、大きな琥珀色の瞳を涙目にして、栞の指にしがみつく手のひらサイズの有翼小人の姿があった。


「ピクシーか。森の深部に棲む臆病な種族だが……よく懐かせたものだ」


「懐かせたというか、ジャムの空き瓶に頭を突っ込んで抜けなくなってたところを助けただけなんですけどね。ほらポム、怖がらなくて大丈夫よ。この人は見た目がちょっと強面なだけで、本当はすごく優しい人だから」


栞が言い聞かせると、レオンハルトは「強面で悪かったな」と苦虫を噛み潰したような顔をしたが、それ以上は何も言わず、促されるままテラスの丸太ベンチへと長い足を運んだ。


ウッドデッキのテーブルの上に、収穫したばかりの竹籠を下ろす。


籠の中には、深い藍色に熟れた大粒のルミナスベリーと、清涼な芳香を放つ銀灰色の野草――セレス草が山盛りに積まれていた。


「さてと……お茶請けは何にしようかな」


栞は腕まくりをして、持参した道具箱を開けた。


車から運んできた食材ボックスには、先週の残りのホットケーキミックスがまだ半袋ほど残っている。卵がひとつ、牛乳、そして有塩バターときび砂糖。


「よし、即席のマフィンを作ろう」


まずはカセットコンロに火を点け、裏の清流から汲み立ての湧水をケトルで沸かす。


ボウル代わりに持参したステンレスの深型クッカーに、卵を割り入れて泡立て器でほぐし、きび砂糖を加えてすり混ぜる。そこへ、コンロの横で温めて液状に溶かしたバターと牛乳を注ぎ、ホットケーキミックスをふるい入れる。


ゴムベラでさっくりと、粉っぽさが消える程度に切るように混ぜ合わせる。


そこへ、竹籠から選りすぐった大粒のルミナスベリーを、惜しげもなく丸ごとふた掴みほど投入した。


「ポム、あなたが採ってくれたベリー、マフィンに入れるね」


「ピピィ!」


テーブルの端、安全な距離を保ちながら見守っていたポムが、嬉しそうに羽を震わせる。


マフィンカップなどという気の利いたものはないため、アルミホイルを二重にして丸太のコップの底に押し当て、即席の型を四つ作った。


生地をスプーンですくい、型の八分目まで流し込む。ぷっくりとしたベリーの粒が、淡い黄色の生地の海に浮かんでいる。


それを、あらかじめ火にかけて温めておいた八インチの鋳鉄製スキレットに並べた。


スキレットの底にほんの少しだけ湧水を注ぎ、上からアルミホイルでぴっちりとドーム状の蓋をする。弱火でじっくりと加熱することで、水蒸気の力と鋳鉄の遠赤外線が組み合わさり、簡易的な蒸し焼きオーブンとなるのだ。


「あとは火が通るのを待つ間に、お茶を淹れましょう」


栞は沸騰したお湯を少し冷まし、ガラスのティーポットを取り出した。


底に、摘みたてのセレス草を指先で軽く揉んで放り込む。清涼感のあるライムのようなアロマがふわりと立ち上った。さらに、珈琲の道具袋から取り出したドライのカモミールをひとつまみブレンドし、静かに熱湯を注ぎ入れる。


ポットの中で、銀灰色の葉がゆっくりと舞い踊る。


透明だったお湯が、瞬く間に淡い黄金色――若草のような透き通った緑金色へと染まっていった。


それと同時に、スキレットの蓋の隙間から、猛烈に甘く香ばしい蒸気が噴き出し始めた。


――パチパチ、チリチリ。


加熱された生地がふっくらと持ち上がる音。


生地の中のルミナスベリーが熱で皮を破り、濃厚な果汁がジュワジュワと溢れ出して生地と溶け合っていく、甘酸っぱい極上の香りがテラスいっぱいに充満していく。


レオンハルトの視線が、スキレットのアルミ蓋に釘付けになっていた。


無言のまま、ゴクリと重たい喉仏が上下する。


先週のスコーンの味を舌が鮮明に覚えているのだろう。銀の瞳には、戦場で見せる冷徹さの欠片もなく、獲物を待つ大型犬のような切実な熱が宿っていた。


「……そろそろ、いいかな」


耐熱ミトンをはめ、栞はアルミホイルの蓋をそっと持ち上げた。


――フワァッ!!


真っ白な熱い蒸気が立ち上り、ふたりの顔を包み込む。


アルミホイルの型の中で、生地はこんもりとキノコのように丸く膨らみ、表面には美味しそうなひび割れが走っていた。その割れ目から、濃い赤紫色のベリーの果汁がジャムのようにとろりと溢れ出し、香ばしい焼き目の上でツヤツヤと輝いている。


「わぁ、上手に焼けた!」


竹串を刺してみるが、生の生地はついてこない。完璧な焼き上がりだ。


栞は木皿の上に焼き立てのアツアツのマフィンをふたつ並べ、淹れたてのハーブティーを注いだ白いマグカップを添えて、レオンハルトの前へ差し出した。


「摘みたてのベリーとハーブの即席マフィンです。熱いので気をつけて食べてくださいね」


「…………いただく」


レオンハルトは小さく頭を下げると、手袋を外した素手でマフィンを持ち上げた。


大人の拳ほどもあるマフィンだが、男の大きな手の中では小ぶりに見える。指先に伝わる焼き立ての熱気を確かめるように一瞬息を呑んだあと、彼は大口を開けて豪快にかぶりついた。


――サクッ、フワッ。


表面の香ばしい焼き目が心地よい音を立てて崩れ、中から熱々のしっとりとした湯気が溢れ出す。


「…………ッ」


レオンハルトの銀の瞳が、限界まで見開かれた。


優しい卵とバターの甘み。それを噛みしめた刹那、生地の中に丸ごと閉じ込められていたルミナスベリーが、口の中でプチリと弾けたのだ。


熱で極限まで糖度を増した濃厚な果汁が、洪水のように舌の上へと迸る。巨峰のような力強いコクと、カシスの気品ある酸味。それが、ふんわりとした甘い生地と絶妙に絡み合い、噛むたびに幸福な味わいが口蓋を満たしていく。


咀嚼するレオンハルトの顎が、先週以上の猛スピードで動き始めた。


一口、また一口。


熱い蒸気にハフハフと息を漏らしながら、男は無心でマフィンを頬張っていく。指についた紫色の果汁すら、惜しそうに舐め取るほどだった。


あっという間にひとつ目を平らげ、間髪入れずにふたつ目へと手が伸びる。


そして、口の中が濃厚な甘みで満たされた絶妙なタイミングで、レオンハルトはハーブティーのマグカップを両手で持ち上げ、口をつけた。


――スッ……と、清らかな雫が喉を通る。


ミントに似たセレス草の鋭い清涼感と、カモミールの柔らかなリンゴのような香りが、マフィンの油分と甘みを爽やかに洗い流していく。


「…………美味い」


最後の一口を飲み干したレオンハルトの口から、魂の底から絞り出されたような重い感嘆が漏れた。


「こんな木の実が、この森にあったとはな。……ただ酸っぱいだけの雑草の実だとばかり思っていた」


「ふふ、火を通して甘みを引き出してあげると、こんなに化けるんですよ。ポムのおかげです」


栞が言うと、テーブルの端で金平糖をかじっていたポムが、「ピピィ!」と誇らしげに胸を張った。


レオンハルトはポムを見つめ、それから自分自身の大きな掌を見つめた。


そして、おずおずと、マフィンの皿の上に残っていた小さな焼き菓子の欠片を指先でつまむと、ポムの前へと差し出した。


「……小人。礼を言う」


ポムは驚いて目を丸くし、レオンハルトの顔と、差し出された欠片を交互に見比べた。


そして、恐る恐る近づくと、小さな両手でその欠片を受け取り、一口かじって「ピキャッ!」と嬉しそうに飛び跳ねた。


屈強な黒騎士と、手のひらサイズの小さな妖精。


ふたりの間に、ほんの少しだけ温かな絆が芽生えた瞬間だった。


「……美味かった。哨戒任務に戻る」


マフィンをふたつとも綺麗に完食し、ハーブティーを最後の一滴まで飲み干したレオンハルトは、名残惜しそうに立ち上がった。


「また……立ち寄ってもいいか」


「もちろんですよ。いつでも大歓迎です」


栞が微笑むと、レオンハルトは満足そうに口元をわずかに緩め、漆黒のマントを翻して森の奥へと消えていった。


――けれど、そんな夢のように穏やかな時間は、瞬く間に過ぎ去ってしまうものだった。


翌日、日曜日の午後。


楽しい週末の時間は残酷なほど早く針を進め、気づけば山の端に夕日が沈みかけていた。


山小屋のテラスを掃除し、調理器具を洗い、ゴミをまとめて古民家側へ運び込む。


異世界のログハウスに鍵をかけ、欅の板戸を閉ざす。


カチリ、と真鍮の鍵を左に回して引き抜いた瞬間、あの甘い果実と清涼な風の気配は完全に遮断され、土間にはただ、湿った日本の古い埃の匂いだけが残された。


古民家の雨戸を閉め、戸締まりを確認し、愛車の軽自動車に乗り込む。


山梨の山あいを抜け、中央自動車道を東へ。


近づくにつれて増えていく車の列、赤く連なるテールランプ、そしてコンクリートの無機質なビル群。


現実が、猛烈な速度で栞の輪郭を侵食していった。


都内の一人暮らしのアパートに辿り着いたのは、ちょうど午後五時を回った頃だった。


ガチャリ、と鍵を開けて部屋に入る。


「…………ただいま」


誰もいない六畳間に、自分の声が虚しく反響する。


締め切っていた部屋には、生ぬるく淀んだ空気が充満していた。


西向きの窓から、沈みゆく夕日の赤黒い西日が容赦なく差し込み、畳んだままの万年床と、散らかった雑誌の山を無慈悲に照らし出している。


テレビのリモコンを押し、何気なく電源をつけた。


スピーカーから流れてきたのは、日曜日の夕方特有の、明るく軽快なアニメ番組のオープニングテーマだった。


家族団らんを象徴するような、何の憂いもない陽気な音楽。


その音が、今の栞の胸を狂おしいほどに締め付けた。


――明日から、また仕事だ。


日曜日の午後五時。


社会人なら誰もが一度は経験する、あの胃の底が冷え切るような「サザエさん症候群」の絶望。


けれど今の栞にとって、それは単なる憂鬱の域を遥かに超えていた。


あの静かで清らかな森、温かい木漏れ日、笑顔でマフィンを頬張ってくれた人々との触れ合い。それらがあまりにも美しく幸福だったからこそ、これから戻らなければならない「現実の泥沼」との落差が、耐え難い暴力となって心にのしかかってくるのだ。


明日になれば、またあの無機質な蛍光灯の下で、誰かの尻拭いをさせられる。


理不尽に頭を下げ、擦り減ったヒールを引きずり、死んだ魚のような目で満員電車に揺られる日々が、再び始まるのだ。


――ピロリン、ピロリン。


沈黙を切り裂くように、スマートフォンの無機質な電子音が連続して鳴り響いた。


栞の心臓が、ドクンと嫌な跳ね方配をする。


震える指先で画面をスワイプすると、会社のグループウェアから、直属の上司の名前で複数のメールが届いていた。


『相沢、金曜に営業から引き継いだ修正案件だが、先方から追加の変更要望が入った。週明けの朝イチ九時までに、再集計したエクセルデータを全役員分プリントアウトして会議室にセットしておけ』


『あと、先週頼んでいた月次の営業経費精算、まだ承認回してないだろう。期限は明日の午前中だ。遅れるようなら理由書を出してもらう』


送信時刻は、今日の午後三時と四時。


休日であるはずの日曜日に、当たり前のように私用の端末へ送りつけられてくる業務命令。


「…………っ」


胃の奥が、雑巾のようにギリギリと強く絞り上げられた。


吐き気が込み上げる。


身体が、全身の皮膚が、明日あのオフィスへ足を踏み入れることを拒絶して悲鳴を上げていた。


もう嫌だ。行きたくない。息ができない。


どうして私ばかりが、こんな理不尽に耐え続けなければならないのだろう。


逃げ出したい。でも、仕事を辞めたら生きていけない。家賃も払えず、日々の食費も稼げず、社会から脱落してしまう――その恐怖の鎖が、栞の手足をがんじがらめに縛り付けていた。


栞は着替えようと、肩にかけていた通勤用のボストンバッグをベッドの上に放り出した。


その時だった。


――コロン。


バッグの底から、何かが滑り落ちた。


フローリングの床の上を転がり、西日の差し込む部屋の真ん中で、静かに止まる。


「……あ」


栞は息を呑んだ。


床の上に落ちていたのは、先週、レオンハルトが「命を繋いだ代金だ」と言ってテーブルに置いていった、あの石だった。


親指大の、六角柱の結晶。


蛍光灯も点けていない薄暗い部屋の中で、西日の赤黒い光を浴びながらも、その石は決して濁ることはなかった。


それどころか、石の内部から、トクン、トクンと規則正しい青白い燐光を放っている。まるで、凍りついた深海水をそのまま切り取ってきたかのような、息を呑むほどに純粋で、清冽な輝き。


栞は吸い寄せられるように床に膝をつき、その青い石を拾い上げた。


掌に乗せた瞬間、じわりとした柔らかな温もりが、冷え切っていた皮膚を通じて心臓へと伝わってくる。


『純度は悪くない。街のギルドや商人に持ち込めば、当面の生活費にはなるはずだ』


レオンハルトの、あの低く武骨な声が耳元に蘇る。


当面の生活費。


もし……もしも、この石に本当に価値があるのだとしたら。


未知の鉱石。内側から光を放つ、現代の地球には存在しない結晶。


これを、しかるべき場所で見てもらえたら――。


栞の脳裏に、ふと、ひとりの老人の温和な笑顔が浮かび上がった。


母方の祖父の長年の大親友で、かつて銀座で古美術商を営み、引退した今も自宅に膨大な鉱物標本コレクションを抱えているという、あの人。


「……真壁の、おじいちゃん……」


乾ききっていた栞の瞳に、ひとすじの、強烈な光が差し込んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。