第11話:手のひらサイズの同居人
木漏れ日が差し込む丸太テーブルの上で、小人は息を呑んだまま、差し出された栞の人差し指を凝視していた。
指の腹に乗せられた、小さな淡い桜色の塊。
無数の角を四方八方へと突き出したその砂糖菓子は、太陽の光を浴びるたびに微細な乱反射を繰り返し、まるで職人が気の遠くなるような時間をかけて磨き上げた極小の鉱石のように輝いている。
小人は恐る恐る、両手を伸ばした。
葉っぱの服の袖口から覗く、小枝のように細い二本の手。指先でそっと触れると、ツルリとした硬質な感触と、指の熱で微かに溶け出す甘い糖分の気配が伝わったのだろう。琥珀色の大きな瞳が、カッと見開かれた。
割れ物を扱うかのような慎重さで、小人は両腕でその金平糖をしっかりと抱え込んだ。
身長十センチほどの小人にとって、直径一センチ足らずの金平糖は、まるで抱きかかえる大きなリンゴのようなサイズ感だ。胸元にぎゅっと抱きしめ、鼻先を近づけてクンクンと匂いを嗅ぐ。
そして、意を決したように小さなお口を精一杯に大きく開けると、突き出た角のひとつへと、前歯を当てた。
――カリリッ。
静かなテラスに、驚くほど澄んだ硬質な音が小さく響き渡った。
その瞬間、小人の全身がピキリと凍りついた。
背中の虹色の薄羽がピンと直立し、尖った耳がピコピコと痙攣するように激しく揺れる。
「……ど、どう……?」
栞がおずおずと顔を寄せて尋ねる。
次の瞬間、小人の小さな口元から、爆発的な感動の吐息が零れ落ちた。
「ピ、ピピピピィィィッッ!!」
それは、言葉を持たない森の妖精が放つ、純粋無垢な魂の歓喜の叫びだった。
無理もない。現代日本の伝統技術によって、何週間もかけて糖蜜を幾重にも掛け合わせ、結晶化させた純度百パーセントの精製糖。自然界の粗野な果実や野蜜の味しか知らなかった森の小人にとって、舌の上で雑味なくほどけていくその鋭敏で透き通った甘みは、まさに天上の神々が口にする奇跡の結晶そのものだったに違いない。
小人は抱えた金平糖に齧りついた。
――カリッ、サクサクッ、カリカリカリッ!
小さなリスのように凄まじい勢いで前歯を動かし、欠片を頬張り、口いっぱいに広がる甘美な波に溺れていく。
あっという間に、桜色の金平糖は丸ごと小人の胃袋の中へと吸い込まれていった。
最後の一粒を飲み込んだ小人は、うっとりと頬を手で押さえ、まるで夢見心地のようにその場にペタリと座り込んだ。両の頬は桃のようにほんのりと赤く染まり、琥珀色の瞳からは、感動のあまり小さな涙の粒がポロリとこぼれ落ちていた。
「ふふ、そんなに美味しかったんだ」
栞が目を細めて微笑んだ、その時だった。
――ブンッ!
小人の背中の薄羽が、突風のような唸りを上げて羽ばたいた。
光の尾を引くようにしてテーブルから垂直に飛び上がると、宙で器用にくるりと一回転し、迷うことなく栞の左肩の上へと着地したのだ。
「わっ……!」
思わず肩をすくめた栞の耳元で、パタパタパタと軽快な足音が響く。
小人は栞のグレーのパーカーの生地をしっかりと小さな足で踏みしめると、両手を空へと突き上げ、なんともリズミカルで陽気なステップを踏んで踊り始めた。
右へトントン、左へトントン。
飛び跳ねるたびに、背中の羽が「プルルッ」と小気味よい風を起こす。その風が栞の首筋や耳たぶをくすぐり、思わず「くすぐったい、あははっ!」と笑い声が漏れてしまう。
ひとしきりダンスを踊り終えた小人は、栞の耳元へ顔を寄せると、小さな両手を合わせて「ピィ〜、ピピィ!」と切なげに鳴いてみせた。
そして、テーブルの上のガラス皿――色とりどりの金平糖が残る皿を、必死に指差す。
身を乗り出し、両手を広げて「もっと! もっとちょうだい!」とおねだりしてくる姿は、まるでお気に入りのおやつをねだる子猫のようだ。
「もう……食いしん坊なんだから」
栞は人差し指の先で、小人のふっくらとしたお腹をそっと撫でた。
イチゴジャムの空き瓶に頭を突っ込んで抜けなくなっていた姿といい、甘いものに目がなさすぎる。
「でもね、ただであげるわけにはいかないの。美味しいものは、ちゃんと働いてから食べるのがルールよ」
そう言って栞が人差し指を立ててみせると、小人はピタリと動きを止め、小首をかしげて「ピ?」と呟いた。
「私ね、この森のことをもっと知りたいの。カフェで使うための安全で美味しいハーブとか、甘い木の実がどこにあるのか探してるの。……森を案内してくれる?」
栞は目線を小人に合わせ、ゆっくりと言い聞かせるように語りかけた。
小人は琥珀色の瞳をしばたたき、栞の顔を見つめ、それからテーブルの上の金平糖の皿を見つめた。頭の中の小さな天秤が、猛烈な勢いで上下しているのが見て取れる。
やがて、小人は覚悟を決めたように、ふわりと栞の肩から飛び上がった。
宙に静止し、小さな右手で自らの平らな胸を「ドンッ!」と誇らしげに叩いてみせる。
「ピキャッ!」
任せておけ、と言わんばかりの力強い鳴き声。
その仕草があまりにも頼もしく、そして可笑しくて、栞は吹き出してしまった。
「頼りにしてるね。……あ、そういえば、あなたの名前なんていうの?」
もちろん、返ってくるのは「ピィ」という鈴のような声だけだ。
栞は少し考え、丸っこい頭と、リンゴのように赤く染まった頬を思い浮かべた。
「じゃあ……『ポム』って呼んでもいい? フランス語のリンゴ(pomme)みたいで、甘いものが大好きなあなたにぴったりだと思うんだけど」
「……ピ?」
小人は空中で一回転し、それから自分の胸を指差した。
「そう、ポム。今日からあなたはポムよ」
栞が指先を差し出すと、ポムはその指先にちょこんと小さな両手で捕まり、嬉しそうに「ピピィッ!」と鳴いた。どうやら気に入ってくれたらしい。
こうして、森の小さな住人との間に、初めての契約が成立したのだった。
「よし、じゃあ出発!」
栞は古民家の土間から持ってきた、祖父の遺品の竹編みの収穫籠を腕に掛け、果物ナイフと清潔な布巾をポケットに入れた。
山小屋のテラスを降り、腐植土を踏みしめて森の小道へと足を踏み出す。
頭上では、ポムが先導するようにフワフワと飛んでいた。
太陽の光を浴びたポムの羽からは、微細な金色の光の粉がキラキラとこぼれ落ち、まるで木漏れ日の中に引かれた光の道標のように見える。
山小屋のすぐ周囲は、先週レオンハルトが倒れ込んできた際に確認したように、青く光る星型の野花が群生している。だが、ポムはその群生を避けるようにして、小屋の裏手、清流の上流へと続く獣道へと栞を導いていった。
森の奥へ進むにつれて、空気の質がさらに一段と変わっていく。
梢を渡る風はどこまでも冷涼で、肺を満たすたびに体の芯が洗われていくような感覚があった。足元には柔らかな苔が絨毯のように広がり、巨木の根元には見たこともないほど肉厚で純白のキノコが傘を広げている。
「ピピッ!」
前方を飛んでいたポムが、突如として急降下し、岩陰に生い茂る草むらの前でホバリングした。
栞が追いついてしゃがみ込むと、そこには先端が丸みを帯びた、銀灰色の柔らかな葉を持つ野草が群生していた。
ポムは葉の一枚をちぎると、自分の鼻先に近づけて匂いを嗅ぎ、それから栞に向かって「これだ!」とばかりに両手を広げてみせる。
「これ、ハーブなの?」
栞も一枚、そっと指先で摘み取ってみた。
肉厚な葉を指先で軽く揉むと、ぷちりと瑞々しい組織が弾け、信じられないほど爽快な香りが立ち上った。
「……わぁっ、すごい……!」
思わず声が漏れる。
現代のスペアミントをさらに清らかにし、ライムの柑橘系の果汁を数滴垂らしたような、目の覚めるような清涼感。苦味や青臭さはまったくなく、ただただ爽やかな風そのものを凝縮したような芳香だった。
ポムは誇らしげに胸を張り、毒がないことを示すように、その葉の端を美味しそうにシャキシャキと齧って見せる。
「ありがとう、ポム。これ、お茶に入れたら絶対に美味しいわ」
栞は果物ナイフを使い、根を傷つけないよう茎の途中から丁寧に刈り取って、竹籠の中へと収めていった。緑と銀色の美しいコントラストが、籠の底を彩っていく。
収穫を終えると、ポムは再び「ピピィ!」と鳴いて森のさらに奥へと飛び立った。
次に案内されたのは、陽当たりの良い傾斜地だった。
巨木が倒れたことでぽっかりと頭上が開け、金色の光がスポットライトのように降り注ぐ斜面に、人の背丈ほどの低木が幾重にも茂っていた。
その枝先には、鈴なりに実った果実の房がぶら下がっている。
「これって……ベリー?」
近づいて見てみると、それは日本のブルーベリーを二回りほど大きくしたような、深い藍色の実だった。表面には朝露をまとったような白い粉が薄く覆い、光の角度によっては、内側から微かに紫色の光を放っているようにも見える。
ポムは熟した大粒の実をひとつ、小さな両手で抱えるようにしてもぎ取ると、栞の手のひらの上へとゴロンと転がしてくれた。
「食べていいの?」
ポムがコクコクと力強く頷く。
栞は指先でその実をつまみ、口の中へと放り込んだ。
――プチッ。
薄い皮が弾けた瞬間、口いっぱいに濃厚な果汁が迸った。
「…………っ!」
甘い。そして、驚くほど濃密だ。
ブルーベリーの爽やかさに、巨峰のような力強いコクと、カシスのような優美な酸味が絶妙なバランスで溶け合っている。現代の高級フルーツパーラーで出されるどんな果実よりも、味が深く、濃かった。
「美味しい……! こんなの、ジャムにしたら最高のスコーンができるわ……!」
栞の言葉に、ポムは自分のことのように嬉しそうに目を細め、空中でパチパチと拍手をした。
それからふたりは、夢中になって収穫作業に没頭した。
ポムが上の方にある一番熟した実を見つけては揺らして落とし、栞が下でそれを手で受け止め、傷つけないよう竹籠へと並べていく。
時折、ポムが実を一粒まるごと抱え込んで頬張り、口の周りを濃い紫色に染めてしまうのを見て、栞が吹き出す。
森の柔らかな風が吹き抜けるたび、木々の葉がざわめき、梢の隙間から差し込む光の筋が揺れた。
ポムが羽ばたくたびに起きる、微風のくすぐったい感触。
指先に残る、摘みたての果実の甘い香りと、清涼なハーブのアロマ。
――ああ、私、笑ってる。
ふと、栞は自らの胸の内に湧き上がる感情に気づいた。
オフィスにいた頃の自分は、他人の機嫌を取るための作り笑いしか浮かべることができなくなっていた。心から可笑しくて笑うことなど、もう何年も忘れていたはずだった。
けれど今、この静かな森の隠れ家で、言葉の通じない小さな妖精と一緒に木の実を摘んでいるだけで、こんなにも胸の奥が温かく、軽やかになっている。
孤独を癒やすために逃げ込んできたはずの場所が、少しずつ、けれど確実に、温かな「生活の場」へと変わり始めている――その確かな手応えが、栞の心を深く満たしていった。
小一時間ほど経った頃には、竹籠の底はすっかり見えなくなっていた。
籠の半分を埋め尽くすほどの、瑞々しい藍色のベリー。そしてその上には、丁寧に束ねられた銀灰色の清涼なハーブが、山盛りに積まれている。
「ポム、今日はこれくらいにしようか。案内してくれて、本当にありがとうね」
栞が声をかけると、ポムは満足そうに「ピピィ」と喉を鳴らし、ふわりと栞の頭の上へと舞い降りた。栗色の髪の毛の中にすっぽりと埋まり、そこを特等席と決めたらしい。頭頂部に伝わってくる小さな重みと体温が、なんとも愛おしい。
栞は重くなった竹籠を抱え直し、木漏れ日の小道を辿って山小屋へと戻り始めた。
小屋に戻ったら、約束通りポムに金平糖をあげよう。それから、この摘みたてのベリーを使って、カセットコンロで小さなジャムを煮詰めてみよう。あの爽やかなハーブは、湧水で丁寧に煮出して、冷たいハーブティーにするのも良さそうだ。
頭の中に次々と浮かぶレシピの構想に胸を躍らせながら、緩やかな坂道を登りきる。
原生林の木立が途切れ、あの懐かしい丸太作りのログハウスと、ウッドデッキのテラスが視界に飛び込んできた。
――その時だった。
「……ピピッ!?」
栞の頭の上でくつろいでいたポムが、突如として短い警戒の悲鳴を上げ、髪の毛の奥深くにキュッと縮こまった。
「え……? ポム、どうしたの……?」
栞は足を止め、怪訝そうに視線を巡らせた。
そして――息を呑んだ。
山小屋の敷地の手前。
森の木立と、小屋の前庭を分かつ境界線のあたりに。
ひとつの巨大な『黒い影』が、彫像のように微動だにせず、真っ直ぐに直立していたのだ。
昼下がりの木漏れ日を浴びて、鈍く光る漆黒の甲冑。
腰に佩いた、長大な大剣。
そして、風に揺れる濡れ羽色の黒髪の隙間から覗く――あの、氷のように研ぎ澄まされた、鋭利な銀の双眸。
先週よりも泥や血糊は綺麗に洗い落とされているものの、その圧倒的な威圧感と体躯の逞しさは、見間違うはずもなかった。
「……レオンハルト、さん……?」
栞の口から、驚きの混ざった掠れた声が零れ落ちる。
黒騎士――レオンハルトは、腕を胸の前で組んだまま、直立不動の姿勢でそこに佇んでいた。
まるで、最初からそこに生えていた大木であるかのように厳めしく、けれどその銀の視線は、籠を抱えて立ち尽くす栞の姿を、じっと、真っ直ぐに見つめ据えていた。




