第10話:空っぽのジャム瓶と羽音
一週間という時間は、これほどまでに長く、そしてこれほどまでに短く感じられるものだっただろうか。
月曜日から金曜日までの五日間、相沢栞は東京のオフィスで、相変わらずの書類の山と格闘していた。相変わらず理不尽な営業からの急な依頼は飛んできたし、上司の機嫌取りのような無駄な根回し会議も連日のように続いた。けれど、何かが決定的に違っていた。
これまでは理不尽な言葉を投げつけられるたびに、自分の存在価値そのものが削り取られていくような痛みを覚えていた。胃がキリキリと痛み、終電の窓に映る自分の顔を見るのが恐ろしくて仕方がなかった。
だが、今週の栞の胸の奥には、誰にも知られていない『小さな灯火』が灯っていた。
――私には、あの場所がある。
引き出しの奥、私物のポーチの中に忍ばせたあの真鍮の鍵。指先でそっと触れるだけで、あの透き通った冷涼な風と、木漏れ日のぬくもり、そして深煎り珈琲を喉を鳴らして飲み干した大男の、不器用で穏やかな横顔が鮮明に蘇った。
いつでも逃げ込める隠れ家がある。自分を人間として受け入れ、淹れた珈琲を「命そのものだ」と言ってくれた人がいる。その秘密の支えがあるだけで、オフィスに漂う淀んだ空気も、上司の小言も、まるでガラス越しに眺める遠い世界の雑音のように受け流すことができたのだ。
そして迎えた、土曜日の朝。
目覚まし時計が鳴るよりも早く目を覚ました栞は、昨夜のうちに用意しておいたボストンバッグと買い出しの段ボールを軽自動車のトランクに積み込み、夜明け前の首都高速へと滑り出した。
中央自動車道を西へひた走り、甲府盆地を抜けて、山あいの深い緑の中へ。
愛車の窓を全開にすると、初夏の冷涼な山の空気が勢いよく飛び込んできて、オフィスの埃っぽさを綺麗に洗い流してくれた。
古民家の前庭に車を止め、小走りで玄関を抜ける。黒光りする廊下を渡り、ひんやりとした土間の奥へ。
重厚な欅の板戸の前に立ち、ポケットから取り出した透かし彫りの真鍮鍵を、十字の鍵穴へと差し込んだ。
――カチリ。
静かな土間に、心地よい金属の重なり合う音が響く。
取っ手に手をかけ、横へと滑らせる。
すうっ、と隙間から吹き抜けてきたのは、先週と変わらない、熟れた野果実と清冽な針葉樹が織りなす甘やかな風だった。
「……ただいま」
敷居を跨ぎ、陽光の降り注ぐログハウスの無垢材の上に足を踏み降ろした瞬間、栞の全身の強張りが、ふわりとほどけて消え去った。
一週間ぶりの山小屋は、先週栞が立ち去ったときの静けさをそのまま保っていた。
飴色の床には木漏れ日の格子模様が揺れ、開け放たれたテラス窓の向こうには、どこまでも深い緑の原生林が広がっている。遠くから聞こえる鈴を転がすような小鳥のさえずりと、裏手の清流が奏でるサラサラという涼やかな水音。
すべてが、夢ではなかった。
栞は持参した荷物を丸太のテーブルの上に下ろすと、両腕を天に向かってぐーっと伸ばし、深く息を吸い込んだ。
「よしっ、まずはテラスのお掃除から!」
先週はレオンハルトの突然の来訪と介抱で慌ただしく、後片付けもそこそこに日没を迎えてしまったのだ。
持参した雑巾とバケツ、そして古民家の物置から持ってきたシュロの小箒を手に、栞はウッドデッキのテラスへと足を踏み出した。
テラスの丸太ベンチや手すりには、一週間の間に風が運んできた細かな花粉や枯れ葉が少し積もっていた。まずは箒でサッサと掃き清め、裏の清流から汲んできた冷たい湧水に雑巾を浸して固く絞る。
キュッ、キュッと木肌を拭き清めていく作業は、無心になれて実に気持ちが良かった。
ベンチを拭き終え、丸太テーブルの汚れを拭き取ろうと近づいた時だった。
――カサカサ、コトッ。
微かな、乾いたガラスの擦れ合うような音が耳に届いた。
「……ん?」
栞は手を止め、首を傾げた。
風の音ではない。もっと規則的で、何かがもがいているような、小さな引っ掻き音。
――バタバタバタッ! コトコトッ!
音の発生源はすぐに見つかった。
丸太テーブルの端、先週のティータイムのあと、うっかり回収し忘れていた空き瓶だった。
母の手作りイチゴジャムが入っていた、あの六角形のすりガラスの小瓶。中身はレオンハルトがスプーンで綺麗に掬い取って平らげていたが、底の角や内壁には、わずかに赤いシロップの糖分が残っていたはずだ。
その瓶が、テーブルの上で小刻みに揺れていたのだ。
「え……なに? 蜂……? それとも甲虫……?」
もし毒のある蜂や大きな虫が閉じ込められているのだとしたら怖い。栞は腰を引いて身構えながら、雑巾を握りしめたまま、恐る恐るすりガラスの小瓶へとすり足で近づいた。
三十センチほどの距離まで顔を寄せ、瓶の中を覗き込む。
その瞬間、栞は「あっ」と声を上げて目を丸くした。
虫ではなかった。
六角形のガラスの内側で激しくバタついていたのは、驚くほど精緻で、美しい『半透明の薄羽』だった。
トンボや蜻蛉の羽に似ているが、もっと細やかで、ステンドグラスのように微細な銀色の葉脈が走り、光を浴びて虹色にきらきらと輝いている。その羽が四枚、目にも留まらぬ速さで羽ばたいているのだ。
そして、その羽の根元から伸びていたのは――。
なんと、緑色の柔らかな葉っぱでできた小さなズボンを穿いた、二本の細い『人間の足』だった。
「……ええっ!?」
思わず声が裏返る。
足のサイズは、栞の小指の爪ほどしかない。
その小さな両足が、ガラスの内壁を必死に蹴り上げ、ジタバタと悶絶するように宙を掻いていた。
よくよく観察してみると、その生物は、瓶の底に残っていたわずかなイチゴジャムの糖分を舐め取ろうとして、細い瓶の口から頭から突っ込んでしまったらしい。
だが、頭と両肩、お腹まではすっぽりと入ったものの、腰のあたりでガラスの首の部分に引っかかってしまい、自力で抜け出せなくなってしまったのだ。
まさに『頭隠して尻隠さず』。
お尻と足、そして背中の羽だけを外に突き出し、抜け出そうと必死で羽ばたくたびに、小瓶がテーブルの上を「コトコト、カタカタ」と情けなく転がり回っている。
「ぷっ……あはははっ!」
あまりの滑稽さと愛らしさに、栞の口から堪えきれない笑いが吹き出した。
緊張など一瞬で吹き飛んでしまった。手のひらに乗るほどの、小さな小さな命。絵本やおとぎ話にしか出てこないような、正真正銘の『森のピクシー(妖精)』が、現代のイチゴジャムの空き瓶に頭を突っ込んでジタバタしているのだ。
笑い声を聞きつけたのか、小人はさらにパニックになったらしく、両足を激しくバタつかせて「フガフガ! ムガァーッ!」と、瓶の奥からこもった怒りの声を響かせた。
「ごめんごめん、笑って悪かったわ。今、助けてあげるからね」
栞は雑巾をテーブルに置き、息を潜めて小瓶をそっと両手で固定した。
ガラス越しに伝わってくる、小さな体の一生懸命な心拍と体温。壊してしまわないよう、慎重に力を加減しなければならない。
左手で瓶の底をしっかりと押さえ、右手の親指と人差し指をそっと伸ばす。
暴れる小さな葉っぱのズボンの腰回りを、指の腹で優しく、けれど滑らないようにしっかりと挟み込んだ。
指先に伝わる感触は、まるで摘みたてのマシュマロのように柔らかく、温かい。
「いくよー、痛かったらごめんね。せーのっ」
栞は息を詰め、真上に向かってすっと指先を引き上げた。
――スポンッ!!
ワインのコルクが抜けたような、なんとも間の抜けた小気味よい音がテラスに響き渡った。
「わっ!」
勢い余って、小人の身体が栞の手からポロリとこぼれ落ちる。
小さな影は空中でバランスを崩してクルクルと二回転し、テーブルの上に広げてあった清潔な白手ぬぐいの上へと、お尻からペタリとしりもちをついた。
「だ、大丈夫……?」
栞が屈み込んで覗き込むと、手ぬぐいの上に座り込んだ小人は、目を白黒させながら自分の両手をパタパタと動かしていた。
背丈は、大人の手のひらほど――十センチから十二センチ程度だろうか。
頭には、栗色のふさふさとした巻き毛が生えており、その隙間からピコピコと動く小さな尖った耳が覗いている。着ている服は、森の頑丈な若葉を器用に縫い合わせたようなチュニックと半ズボン。背中には、先ほどガラス越しに見えた虹色に輝く四枚の薄羽が、息を整えるようにゆっくりと開閉していた。
そして――何より強烈だったのは、その頭部だった。
瓶の奥深くまで突っ込んでいたせいで、栗色の巻き毛から丸い鼻の頭、ふっくらとした頬っぺたに至るまで、赤く透き通ったイチゴのシロップがべっとりとこびりついていたのだ。
小さな頭のてっぺんから、ふわりと甘酸っぱく濃厚な、母の手作りイチゴジャムの香りが部屋いっぱいに漂ってくる。
「……ぷぷっ、頭がジャムまみれ……」
栞が喉を鳴らして笑いを噛み殺した、その瞬間だった。
小人がハッと我に返ったように顔を跳ね上げた。
大きな琥珀色の瞳がカッと見開かれ、ふっくらとした両の頬が、まるで風船のように限界まで「ぷくーーーっ!」と膨らむ。
「ピギィーーーッ! ピキャ、ピキャキャキャッ!」
甲高い、小鳥のさえずりと鈴の音を混ぜ合わせたような怒鳴り声がテラスに響き渡った。
小人は手ぬぐいの上にすっくと立ち上がると、両手を腰に当て、小さな足を踏み鳴らしながら、栞に向かって猛烈な勢いで抗議を始めたのだ。
言葉の意味は分からない。けれど、身振り手振りを見れば何を言いたいのかは一目瞭然だった。
両手を広げてガラス瓶を指差しては、「あの透明な罠は何なんだ!」と怒り狂い、自分のベタベタになった頭を指差しては、「こんなに汚れてしまったじゃないか!」と地団駄を踏む。そして最後に、自分を笑った栞の鼻先に向かって、小さな人差し指をビシッと突きつけてみせた。
怒っているのだ。
猛烈に、命がけで怒っている。
だが、身長十センチのちびっ子が、頭からイチゴの甘い匂いをプンプンさせながら頬を膨らませて威嚇してくる姿は、どう贔屓目に見ても『愛らしさの塊』でしかなかった。
「あはは、ごめんね! 本当にごめん! 罠のつもりじゃなかったのよ、片付け忘れてただけなの」
栞は両手を合わせて平謝りした。
そして、水道代わりの湧水で濡らしたガーゼの端を指先に巻きつけ、ゆっくりと小人へと差し出した。
「ほら、そのままじゃベタベタして気持ち悪いでしょ? じっとして、綺麗に拭いてあげるから」
小人はビクッと後ずさりし、琥珀色の瞳に警戒の色を浮かべて両腕を胸の前で組んだ。
けれど、頭のジャムが乾き始めて毛先が固まりかけているのが不快だったのだろう。栞がそっとガーゼを額に当てると、嫌そうに「むー」と唸りながらも、逃げ出すことはしなかった。
栞は細心の注意を払いながら、指先で優しくジャムを拭い取っていく。
額のシロップを拭き、丸い鼻の頭を撫で、尖った耳の周りについた赤みを取り除く。温かい布で撫でられるのが気持ちよかったのか、最初はいかり肩で警戒していた小人の表情が、次第にとろりと緩んでいく。
「……ピィ……」
喉の奥から、子猫が喉を鳴らすような甘えた声が微かに漏れた。
最後に、乾いた柔らかいタオルで栗色の髪をくしゃくしゃと拭いてやると、毛先がふわりと空気を含んで広がり、本来の艶やかな毛並みが戻った。
すっかり綺麗になった小人は、自分の両手を見つめ、髪を触り、それから満足そうに背中の羽を「プルルッ!」と小刻みに震わせた。
だが、ひとしきり身づくろいを終えると、再び栞を見上げて、どこか気まずそうに唇を尖らせる。助けてもらい、綺麗にしてもらった恩はあるものの、まだ完全には心を許していないといった風情だ。
「よし、仲直りの印に……これ、あげるね」
栞は微笑みながら、今日持参した買い出しのバッグへと手を伸ばした。
取り出したのは、古民家へ来る途中の道の駅で見つけて、「山小屋でのお茶請けにちょうどいいかな」と何気なく買っておいた、手のひらサイズの小さな紙袋だった。
紐を解き、中から取り出したのは――色とりどりの、小さな砂糖菓子。
京都の老舗が作った、伝統的な『金平糖』だった。
ガラスの小皿の上に、パラパラと数粒を滑り落とす。
淡い桜色、澄んだ空色、若草色、そして柔らかなレモン色。
表面に無数の角を持ったその砂糖の粒は、テラスに差し込む木漏れ日の光を浴びて、まるで削り出されたばかりの極小の宝石のように、キラキラと美しく瞬いた。
「これ、日本の金平糖っていうお菓子なの。甘くて美味しいよ」
栞は人差し指の腹の上に、一番小さな、淡い桜色の金平糖を一粒だけ乗せた。
そして、小人の目の前へと、そっと差し出す。
「食べてみる?」
小人の視線が、栞の指先へと落ちた。
その瞬間。
小人の琥珀色の瞳が、カッと見開かれた。
信じられないものを見るように、顔を限界まで近づける。
小さな鼻がヒクヒクと動き、砂糖が放つ微かな純粋な甘い香りを捉えたのだろう。虹色の薄羽が、興奮のあまり「ピピピピピッ!」と目にも留まらぬ速さで羽ばたき始めた。
光を浴びて星のように輝く、ピンク色の小さな角を持った粒。
その神聖なまでの美しさと、漂ってくる純粋な糖分の誘惑に、小人は完全に心を奪われていた。
先ほどまでの警戒心も、意地っ張りなプライドも、一瞬にしてどこかへ吹き飛んでしまったかのように、その琥珀色の瞳には、ただただ純粋な憧憬と輝きが、満天の星のように灯っていた。




