第9話:残された青い結晶
静まり返ったウッドデッキのテラスに、ゆっくりと夕暮れの気配が忍び寄っていた。
見上げる原生林の梢の向こう、ウルトラマリンブルーだった空の天頂には深い藍色が滲み始め、西の稜線近くは、まるで熟した杏を思わせる濃密な琥珀色の茜雲が広がっている。昼間の柔らかな木漏れ日は、長く伸びた木々の影へと姿を変え、テラスの床板を赤銅色に染め上げていた。
森の風が、一段と冷たさを増して吹き抜けていく。
その風に乗って、テラスの片隅から、先ほどまで漂っていた甘く香ばしいバターの匂いが名残惜しそうに薄らいでいくのが分かった。
「……ふふ」
丸太テーブルの向かい側で、栞は思わず口元を手ぬぐいで押さえて小さく笑みをこぼした。
テーブルの上に置かれた木皿の上は、見事なまでに空っぽだった。
スキレットの底に残っていたものも含め、合計で六つ焼き上げたはずのスコーンは、栞が味見として口にした半分を除いて、すべてこの大男の胃袋の中へと綺麗に消え去っていた。皿の隅に散らばっていた小さなパン屑すら、無骨な指先でひとつ残らず集めて口に運ばれた後だった。母のイチゴジャムの瓶も、クロテッドクリームの容器も、まるで最初からそうであったかのように底が見えるまで平らげられている。
厚手の白いマグカップも同様だった。深煎りの珈琲は最後の一滴まで飲み干され、陶器の底にわずかな黒褐色の輪郭を残すのみとなっている。
これほど気持ちよく、かつ必死に自分が作ったものを平らげてくれた人が、今までの人生にいただろうか。
オフィスで働いていた頃は、同僚に差し入れを買っていっても「あ、どうもー」とパソコン画面から目を離さずに受け取られ、気づけばデスクの端で常温のまま放置されているのが常だった。実家を出てからの一人暮らしでも、自分のためだけに作る食事はただの栄養補給に過ぎず、美味しさを分かち合う相手などどこにもいなかった。
――全部、食べてくれた。
それだけで、冷え切っていた胸の奥がじんわりと温かくなる。料理を作って誰かに届けるという行為の、最も素朴で原初的な喜びを、栞はこの見知らぬ異世界の森の中で、生まれて初めて噛みしめていた。
「……お粗末さまでした。お口に合って良かったです。お皿、片付けちゃいますね」
栞は丸太ベンチから腰を浮かせ、空になった木皿とマグカップを引き寄せようと両手を伸ばした。
その、刹那だった。
――ガタッ!
重厚な金属の擦れ合う音とともに、レオンハルトが弾かれたように勢いよく立ち上がった。
「きゃっ……!?」
突然の動きに、栞は思わず両手を引っ込めて肩をすくめた。
丸太の長椅子がミシリと軋み、男の影が栞の頭上をすっぽりと覆い隠す。
立ち上がったレオンハルトは、座っていたときよりも遥かに巨大だった。百八十センチ台後半の引き締まった長身、分厚い胸板、そして泥と血糊にまみれた漆黒の甲冑。
だが、その佇まいに先ほどのような剥き出しの殺気はなかった。
血色を取り戻した白皙の横顔は、彫像のように引き締まり、研ぎ澄まされた銀の瞳は、威圧するためではなく、どこか自らを律するような深い厳しさを湛えて栞を見下ろしている。
レオンハルトは無言のまま、腰の革帯へと右手を伸ばした。
大剣の鞘のすぐ脇に括り付けられていた、使い込まれた厚手の牛革の小袋。その留め紐を、手袋の破れた骨張った指先で手早く解いていく。
一体、何を取り出すつもりなのだろう。
栞が息を呑んで見守る中、男の掌が小袋の底から引き出された。
その指先に挟まれていたものが、夕暮れの斜陽を浴びて、キラリと鋭い閃光を放った。
――コトン。
澄んだ硬質な音を立てて、それが丸太テーブルの木肌の上に置かれた。
「…………え?」
栞は瞬きを忘れ、テーブルの上に視線を落とした。
そこに転がっていたのは、大人の親指の第一関節ほどの大きさがある、ひとつの鉱石だった。
いや、ただの石ではない。
六角柱のような規則正しい結晶の形を保ったその石は、まるで南国の深海水をそのまま凍らせて切り取ったかのように、驚くほど純度の高い透明感を湛えた、鮮烈な青色をしていた。
そして何より異様だったのは、沈みゆく夕日の光を浴びながら、その結晶の内側から、自発的に淡い光が脈打っていることだった。
まるで、小さな星屑をガラスの中に閉じ込めたかのように、微細な青白い燐光が、石の内部でゆっくりと明滅している。木製のテーブルの上に、水面が光を反射したときのような、青い光のさざ波が揺らめいていた。
「……施しを受ける謂れはない」
頭上から降ってきたのは、低く、地を這うような掠れた男の声だった。
「代金だ。受け取れ」
簡潔極まりない、けれど一切の反論を許さないような重みを持った響き。
栞は慌てて顔を上げ、見上げる位置にある男の銀の瞳を見つめ返した。
「だ、代金って……! そんな、困ります! こんな綺麗な石、受け取れるわけありません!」
栞は両手を胸の前で激しく左右に振った。
石の知識など何もない栞にすら、それが並大抵のものではないことくらい一目で分かった。人工的にカットされた宝石ではなく、天然の鉱石でありながら、内側から光を放っているのだ。現代の地球に持ち帰れば、どのような価値がつくのか想像もつかない。
「私、ただ自分が食べようと思って作ったスコーンと、買い置きの珈琲を淹れただけなんです! 余り物……というか、本当に大したことのない軽食なんですから。お金なんてもらえません!」
「大したことのない、だと?」
レオンハルトの漆黒の眉が、わずかに吊り上がった。
その表情には、侮辱されたかのような怒りではなく、信じがたい不器用さと、頑固な武人の誇りが色濃く滲み出ていた。
「貴様が口にしたものが何であれ、俺の命を繋いだ事実に変わりはない。森の深部で三昼夜に及ぶ魔獣の追撃任務を受け、水も糧食も尽き、意識を失いかけていた。……もしあの場で倒れ伏し、野垂れ死んでいれば、俺の小隊の哨戒網は崩壊していた」
男の喉仏が、苦渋を押し殺すようにトクンと上下した。
「あの温かい湯と、甘い糧食がなければ、俺は今ここで立ってはいられなかった。貴様が施してくれたものは、俺にとって命そのものだ」
「で、でも……っ」
「それに、俺はアクスベル王国辺境警備隊の隊長を務める身だ。名も知らぬ平民の女に無償で飢えを満たしてもらい、平然と背を向けて立ち去るなど、騎士の名折れ。そんな不義理を犯せば、先祖の墓前に顔向けができん」
澱みなく紡がれるその言葉には、一切の打算も、傲慢さもなかった。
ただただ、真っ直ぐで、不器用で、どこまでも頑なな誠意。
泥にまみれ、鎧を砕かれ、死に体の極限に追い詰められながらも、この男の魂の根底には、決して譲ることのできない気高い誇りが生きているのだ。
――アクスベル王国、辺境警備隊。
初めて耳にするその世界の地名や役職。
やはりこの人は、この異世界の国を守る本物の騎士なのだという実感が、遅れて栞の胸にすとんと落ちてきた。
「……その石は、森の奥で討伐した上位の魔獣の核から削り出したものだ」
レオンハルトは青い結晶石を顎で指し示しながら、淡々と続けた。
「純度は悪くない。街のギルドや商人に持ち込めば、当面の生活費にはなるはずだ。……命を繋いだ礼にしては、これでも安すぎるくらいだがな」
「安すぎるなんて、そんなこと……!」
「受け取れ。受け取ってもらわねば、俺の気が済まん」
そう言い切ると、レオンハルトはもう二度とテーブルの上の石に触れようとはしなかった。
銀の瞳は揺らぐことなく栞を射抜いており、「これ以上の押し問答は無用だ」と無言で告げていた。
三十年の人生の中で、これほどまでに頑固で、そしてこれほどまでに誠実な眼差しを向けられたことがあっただろうか。
会社での人間関係を思い出す。
手柄は自分のものにし、責任だけを他人に押し付け、誰かが身を削って差し出した善意を「やって当然」と踏みにじる人々。そんな薄汚い処世術ばかりが横行する世界に慣れきっていた栞にとって、目の前の男の、あまりにも愚直なまでの潔癖さは、眩しすぎて目を細めてしまうほどだった。
「…………わかりました」
栞は小さく息を吸い込み、折れるように頷いた。
「この石……お預かりします。でも、代金というよりは……『また美味しいものを食べに来てくれたときの、前払い』ということにさせてください」
「…………前払い?」
レオンハルトが、怪訝そうに眉をひそめた。
「はい。私は、週末……たまにここにやってきて、こうやって珈琲を淹れたり、お菓子を焼いたりしているんです。もしまたお腹が空いて倒れそうになったら、いつでも寄ってください。そのとき、この石の分まで、腕によりをかけて美味しいものを作りますから」
栞が柔らかく微笑みかけると、レオンハルトは虚を突かれたように数秒間、目を丸くして立ち尽くした。
そして、白皙の頬の端をわずかに引きつらせ、何かを言い淀むように唇を引き結んだ。
「……奇妙な女だ。得体の知れん森の山小屋で、見ず知らずの武装した男相手に、よくそんな呑気な口が利ける」
「私だって、最初はすごく怖かったですよ。手首、折れるかと思いましたし」
栞がわざとらしく自分の右の手首をさすって見せると、レオンハルトの耳の付け根が、カッと微かに赤く染まった。
「……す、すまなかった。あれは……咄嗟の迎撃行動だ。悪気配はなかった」
「ふふ、分かってます。もう痛くありませんから」
居心地悪そうに視線を逸らす男の姿に、栞は思わず笑ってしまった。
恐ろしい黒騎士様は、どうやら根っから女性の扱いに慣れていないらしい。その不器用なギャップが、先ほどまでの張り詰めた空気を完全に霧散させていく。
レオンハルトは一つ、深く息を吐き出すと、背筋を伸ばして右手を左胸の胸当ての上へと当てた。
甲冑の金属が擦れ合い、カチリと澄んだ音が響く。
騎士の、最も正式な敬礼の所作だった。
「……名を聞いていなかったな。俺はレオンハルト・ヴァルク。アクスベル王国辺境警備隊、第三小隊の長を務めている」
「私は……相沢栞です。シオリ、と呼んでください」
「シオリ……か。聞き慣れぬ響きだが、良き名だ」
レオンハルトはその名を唇の中で一度反芻するように呟き、それから、銀の瞳を森の深部へと向けた。
西の空の茜色は急速に濃紺へと沈み、木々の間には夜の帷が下り始めている。
「長居をしすぎた。部下たちが砦で騒ぎ始めている頃だ。……行く」
腰の大剣の位置を確かめ、レオンハルトは身を翻した。
泥にまみれた漆黒のマントが、夕暮れの冷たい風を孕んでバサリと翻る。
テラスの階段を一段ずつ、確かな足取りで降りていく。先ほどまでふらついていた足取りとは打って変わり、その背中には、百戦錬磨の小隊長としての堂々たる威厳と力強さが完全に蘇っていた。
階段を降りきったレオンハルトは、振り返ることはしなかった。
大股で、生い茂るシダの葉と青い花弁の絨毯を踏み分け、鬱蒼とした原生林の木立の奥へと、驚くほど静かに、そして足早に吸い込まれていく。
黒い影が夕闇に溶け、やがて金属の微かな擦れ合う音すら完全に森の静寂に呑まれて消え去った。
「…………行っちゃった」
ポツリと、栞の呟きがテラスに落ちた。
嵐が去った後のような静けさ。
頭上では、葉擦れの音に混ざって、夜の訪れを告げる虫の鳴き声が、かすかにチリチリと響き始めている。
栞はゆっくりと視線を下ろし、テーブルの上の青い石を見つめた。
恐る恐る、右手を伸ばす。
指先で、その結晶の表面をそっと撫でてみた。
「あ……」
ひんやりとしていると思っていた石肌は、驚いたことに、まるで人の肌のようにほんのりと柔らかな温もりを帯びていた。
掌の上に乗せてみる。
ずっしりとした、心地よい重み。
六角柱の滑らかなファセット(切断面)は、夕暮れの最後の残光を捉えて複雑に光を屈折させ、内側から淡い青白い光を、トクン、トクンと心臓の鼓動のような一定のリズムで明滅させている。
掌から伝わってくる微かな微振動。
それは、間違いなくこの石の中に、現代の科学では説明のつかない未知のエネルギーが満ち満ちている証拠だった。
視線を上げると、開け放たれたテラス窓の向こうに、ログハウスのリビングが見える。
そしてその奥には、見慣れた日本の古民家の土間へと続く、あの重厚な欅の板戸が、静かに口を開けていた。
向こう側には、山梨の山奥の、昭和の匂いが残る古い日本家屋がある。
そしてこちら側には、青く光る花が咲き誇る異世界の森と、漆黒の鎧をまとった銀の瞳の騎士が生きる世界がある。
「……夢じゃ、ないんだ」
掌の中の青い温もりをぎゅっと握りしめながら、栞は深く息を吐き出した。
仕事に追われ、すり減り、終電を逃して駅のホームで泣いていた自分。
そんな惨めな現実のすぐ隣に、こんなにも美しく、不思議で、そして温かな世界が、確かに存在していたのだ。
手の中の青い結晶石が、まるで栞の心を励ますかのように、夕闇の中で一層強く、優しく瞬いた。




