第24話:消えない目の下の隈
森を包む雨は、夜の帳が下りるにつれて、その重苦しい音を一段と強めていた。
――ザァァァァ……。
屋根を打つ規則正しい水音と、深い原生林の巨木たちが濡れた葉を激しく擦り合わせる重低音が、まるで潮騒のように途切れなく山小屋を取り囲んでいる。
土曜日の夜八時。
一週間の仕事をなんとか切り抜け、夕暮れ前に山梨の古民家へと滑り込んだ栞は、土間の欅の板戸を開け放ち、この異世界のログハウスで雨の夜を過ごしていた。
リビングの中央、黒い鋳鉄製の薪ストーブの火室の中では、レオンハルトが置いていってくれたあの極上の樫の薪が、パチリ、パチリと小さな火の粉を爆ぜさせながら、静かに赤く燃え盛っている。
完璧に乾燥し、ミリ単位で寸法が揃えられた薪は、煙をほとんど上げることなく、澄み切った力強い熱をガラス扉の向こうから放ち続けていた。
部屋の中は、心地よい暖気と、乾燥させたセレス草の微かなハーブの香りに満たされている。
「……ピィ……」
丸太のローテーブルの上、カゴの中に敷いたウールタオルの上で、ポムが小さな身体を丸めて微睡んでいた。外の激しい雨音に怯えることもなく、ストーブの温もりに包まれて、小さな胸を規則正しく上下させている。栗色の巻き毛が呼吸に合わせて微かに揺れる様は、見ているだけでこちらの肩の力を抜いてくれた。
栞はマグカップに淹れた白湯を両手で包み込み、ソファに深く腰を沈めた。
平日、オフィスで擦り切れるように働いていた時間のこと。
他部署からの理不尽な押し付けを淡々と捌き、定時で退社したこと。
エプロンのポケットの奥底には、先週レオンハルトが置いていったあの巨大な紫の魔石が、今も布越しにトクンと微かな脈動を伝えてきている。月曜日の半休で真壁の鑑定事務所へ持ち込む予定だが、あの規格外の輝きを見れば、また老鑑定士が目を丸くすることは目に見えていた。
けれど、そんなお金の算段よりも、栞の頭を占めていたのは、ここ数日の天候のことだった。
「……外、ずいぶん冷えてきたな」
立ち上がり、テラス窓の木枠に手を添えて外を窺う。
ガラスのない開口部には雨除けの厚いキャンバス地のカーテンを降ろしていたが、その隙間から吹き込んでくる風は、初夏とは思えないほどキリリと冷たく、肌を粟立たせるような湿気を孕んでいた。
魔獣が活性化しやすいという季節の変わり目。
あの大男は、そしてあの軽妙な赤毛の副官は、今夜もこの冷たい雨の中、過酷な任務についているのだろうか。
先週、ダミアンが語ってくれた辺境警備隊の劣悪な糧食や、泥水のようなお茶の話が、胸の奥でチクリと痛んだ。
――その時だった。
――ギシッ。
激しい雨音の合間を縫って、テラスの木製階段を軋ませる、ひどく重々しい音が耳朶を打った。
「……え?」
栞の身体が、ピクリと強張る。
風の悪戯ではない。
階段の一段、また一段を、鉛のような重い何かが、足を引きずるようにしてゆっくりと上がってきている。
――ギシリ……、ミシッ……。
ウッドデッキの床板を踏みしめる靴音。
けれど、先週ダミアンを連れて颯爽と現れた時の、あの力強く規則正しい軍靴のリズムでは決してなかった。まるで、今にも崩れ落ちそうな巨木が、強風に煽られて軋みながら倒れ込んでくるかのような、危うく、途切れがちな足取り。
ポムがハッと目を開け、琥珀色の瞳を丸くして警戒の羽音を立てた。
栞は息を呑み、キャンバス地のカーテンの端を、震える手でそっと持ち上げた。
――トントン。
テラスの掃き出し口の柱を、何か硬いものが弱々しく叩いた。
ノックというよりは、倒れかかった手が偶然当たったかのような、頼りない打撃音。
「だ、誰……?」
栞はカーテンを一気に引き開けた。
そして――そこに立っていた影の姿を捉えた瞬間、息を吸い込んだまま喉を凍りつかせた。
「…………っ、レオンハルトさん……!?」
雨の闇の中に佇んでいたのは、間違いなくあの黒騎士だった。
けれど、そこに立っていた男の姿は、以前行き倒れていた時とはまた別の意味で、見るに堪えない痛々しさに満ち満ちていた。
漆黒の甲冑は、泥と冷たい雨水をこれでもかと吸い込み、鈍く重苦しい黒光りを放っている。肩から羽織った分厚いマントは完全に水浸しになり、裾から滝のように冷たい雫がウッドデッキへと滴り落ちていた。
マントの隙間から立ち上っているのは、男の体温が冷気によって奪われていく際に生じる、白く濁った冷たい水蒸気だった。
大剣を杖のように両手で握り締め、長い足を震わせながら、なんとか自重を支えている。
だが、何よりも栞の胸を鋭利な刃物で抉ったのは――その『顔』だった。
額に張り付いた漆黒の濡れ髪の隙間から覗く肌は、土気色を通り越して、まるで凍死者のように血の気を完全に失い、青白く透き通っていた。
固く結ばれた薄い唇は紫色に変色し、寒さのあまり小刻みにカタカタと震えている。
そして――その銀の双眸の周り。
頬骨の上から目頭にかけて、抉り取られたかのような、濃く、黒々とした紫色の隈が、痛々しいほど深く刻み込まれていたのだ。
ただの寝不足ではない。
一日や二日の徹夜で刻まれるような浅い影では断じてなかった。
何日もの間、一秒たりとも脳の緊張を解くことを許されず、極限の死線の上で神経を張り巡らせ続けた人間だけが浮かべる、精神の擦り切れ果てた痕跡。
いつもなら氷のように研ぎ澄まされ、他者を寄せ付けない鋭利な光を放っていた銀の瞳が、今は焦点すらおぼつかず、濁った霧の底のように弱々しく揺らいでいた。
「レオンハルトさん……! どうしたんですか、その身体……!」
栞は思わずテラスへ飛び出し、冷気に濡れる男の腕へと手を伸ばしかけた。
だが、男の身体から放たれる圧倒的な冷気と、生々しい鉄錆の匂いに気圧され、指先が空中で止まる。
男は、ゆっくりと、酷く緩慢な動作で顔を上げた。
栞の姿を視界に捉えるまでに、数秒もの時間を要しているようだった。泥に濡れた睫毛が瞬き、掠れた銀の瞳が、微かに揺れる。
男の喉仏が、苦しげに上下した。
何かを言おうとして唇を開くが、乾ききった喉からは、ただかすかな呼気しか漏れ出さない。
寒さと疲労で麻痺した舌を、男は必死の意志の力で無理やり動かしているようだった。
「…………シ……オリ……殿……」
絞り出されたのは、声と呼ぶのも憚られるほど、掠れ、擦り切れた重低音だった。
「……すま……ない……。夜陰に……いきなり……押しかけて……」
「そんなこと、どうでもいいです! 早く中へ入ってください、唇が真っ青ですよ……!」
「……いや……泥で……床を……汚す……」
この期に及んで、男はそんな馬鹿げた気遣いを口にしていた。
大剣を支えにしている腕の筋肉が、限界を迎えて小刻みに痙攣している。身長百八十センチ台後半の筋骨隆々たる巨躯が、今にも前のめりに崩れ落ちてしまいそうだった。
男は自嘲するように、力なく口角をわずかに持ち上げた。
「……北の峡谷で……大型魔獣の群れが……出た……。三日三晩……小隊を率いて……泥濘の中を……追撃した……。一睡も……できんかった……」
三日三晩。
あの過酷な寒風と泥濘の戦場で、一睡もせず、部下の命を背負いながら剣を振るい続けていたというのか。
ダミアンの姿はない。きっと、任務を終えて砦に部下たちを帰還させたあと、自分一人だけが神経の高ぶったまま眠ることができず、ふらふらとこの山小屋まで辿り着いてしまったのだろう。
男は震える右手を持ち上げ、胸元をぎゅっと掴んだ。
指先が青白く硬直している。
そして――恥じるように、すがるように、伏せられた銀の瞳から、ポツリと、小さすぎる願いが零れ落ちた。
「…………湯を……。湯を、一杯……分けてもらえないだろうか……」
「……え……?」
「喉が……焼けるように……渇くのだ……。砦の泥水が……どうしても……喉を通らん……。温かい……湯を……一口だけでいい……」
その声の、あまりの細さと脆さに。
栞の胸の奥が、ぎゅっと雑巾のように強く絞り上げられた。
痛い。
見ているだけで、自分の心臓が引き裂かれそうだった。
目の前にいるのは、一国の辺境を守るエリートの小隊長だ。大剣一本で巨大な魔獣を両断し、部下たちから恐れ敬われ、「氷の番犬」と呼ばれる屈強な戦士だ。
そんな男が。
百戦錬磨の誇り高い大人の騎士が、雨に濡れ鼠になり、今にも泣き出しそうな子供のように肩を震わせながら、ただ「温かい湯を一杯くれ」と、震える声で請い願っているのだ。
その姿には、傲慢さも、騎士としての気取りも、何ひとつ残っていなかった。
あるのは、極限まで肉体と精神を追い詰められ、誰にも弱音を吐けずに擦り切れてしまった、ひとりの孤独な人間の『剥き出しの脆さ』だけだった。
――この人を、休ませてあげたい。
猛烈な感情が、栞の全身の血を駆け巡った。
それは単なる同情や哀れみではなかった。
自分もかつて、理不尽な環境で心身を削り取られ、誰にも助けを求められず、終電のホームで座り込んで泣いていた。あのときの底知れない孤独と、寒さと、出口の見えない絶望を、栞は痛いほど知っている。
そして何より、この男は、自分にあの青い石をくれ、薪を割り、静かに居場所を守ってくれた人なのだ。
この頑固で不器用な人を、今すぐ温かい毛布で包み込んであげたい。
張り詰めて千切れかけているその神経を、すべて解きほぐして、安全な場所で泥のように眠らせてあげたい。
栞の胸の奥底から湧き上がったのは、大人の女性としての、抑えようのない激しいまでの『庇護欲』だった。
「……何言ってるんですか、お湯だけで済むわけないじゃないですか」
栞は毅然とした、けれどどこまでも温かな声で言い放った。
迷うことなく一歩を踏み出し、雨の降りしきるテラスの冷気の中へ飛び込む。
そして、濡れそぼったレオンハルトの漆黒のマントの上から、その分厚く冷え切った左腕を、両腕でしっかりと抱え込んだ。
「シ、シオリ殿……濡れる……っ」
「いいから! 私のことはどうでもいいですから、足を動かしてください!」
――ズシリ。
腕にのしかかってくる、鉄と筋肉の凄まじい重み。
けれど、以前抱え上げたときのような戸惑いはなかった。栞は腰を低く落とし、全身で男の巨躯を受け止める。
至近距離から、男の荒く苦しげな吐息が吹きかかってきた。熱っぽいのに、皮膚は氷のように冷たい。全身の筋肉が強張り、神経痛のような細かな震えが止まらないのが、触れている腕を通じて痛いほど伝わってくる。
「さあ、入って。靴の泥なんて後でいくらでも拭けばいいんですから。ほら、せーのっ」
栞は奥歯を噛み締め、男を支えながら、リビングの敷居を跨がせた。
飴色に磨き上げられた無垢の床に、泥と雨水の混ざった重たい靴音が落ちる。
部屋に入った瞬間、薪ストーブの柔らかな暖気と、セレス草の清々しい芳香がふたりを包み込んだ。
「……あ…………」
レオンハルトの喉から、掠れた息が漏れた。
暖かな空気に触れただけで、強張っていた彼の背筋が、ガクリと折れそうになる。
栞は男をなんとか誘導し、薪ストーブの真正面に据えられた、大きな革張りのソファの前へと立たせた。
「まず、その濡れたマントを脱ぎましょう。重たいですから」
栞は背伸びをし、男の首元の留め金へと手を伸ばした。
冷たい雨水を吸ってずっしりと重くなった漆黒の厚手ウールマント。真鍮のフックを外すと、水分を含んで十キロ近くになった布の塊が、ドサリと床へと滑り落ちた。
甲冑の肩当てや胸当ての表面も、冷たい水滴で覆われている。
栞は棚から清潔な大判のコットンタオルを二枚引っ掴むと、一枚を男の濡れた漆黒の頭髪の上からふわりと被せ、もう一枚で、冷え切った鋼鉄の甲冑の表面と、泥に汚れた首筋の雫を、手早く、丁寧に拭き取っていった。
「…………すま……ない……」
タオルの下から、レオンハルトの消え入りそうな声が漏れる。
「謝らないでください。……さあ、ここに座って」
肩を押し、ソファへと腰掛けさせる。
沈み込むクッション。レオンハルトの長い足が床に投げ出され、背中が革の背もたれへと深く預けられた。
大剣を取り落としそうになるその手を支え、ソファの脇の壁へと立てかける。
ストーブの炎が、ガラス扉を通してオレンジ色の光を投げかけていた。
赤々とした火影が、レオンハルトの白皙の横顔と、深く刻まれた紫の隈を照らし出す。
暖かい場所に腰を下ろしたことで、張り詰めていた緊張の糸がわずかに緩んだのだろう。男の銀の瞳は、今にも完全に目蓋の裏へと落ちてしまいそうなほど、とろんと濁り、定まらなくなっていた。
だが、それでも眠れないのだ。
あまりにも過酷な緊張状態が長く続きすぎたせいで、自律神経が狂い、身体は限界を迎えているのに、脳の芯だけが興奮して悲鳴を上げている。眠りたいのに眠れない――その生き地獄のような疲労が、彼の眉間に消えない苦悶の皺を刻みつけていた。
「ピィ……」
ポムがテーブルの上から心配そうに飛び立ち、ソファの背もたれの上に着地した。
先週ダミアンの前で見せていた元気な姿とは打って変わった隊長の痛々しさに、小さな妖精も心を痛めているようだった。
栞は膝をつき、男の足元から視線を上げた。
手袋を外したレオンハルトの素手は、骨張って大きく、けれど氷のように冷たく硬直し、膝の上で握り締められたまま微かに震えている。
ただのお湯を飲ませただけでは、この冷え切った身体と、壊れかけた神経を救うことはできない。
必要なのは、内臓の芯から温めること。
胃袋に優しく膜を張り、緊張を解くための上質な糖分と乳脂肪。
そして――何日も眠れずに張り詰めた脳を、優しく鎮静させるための、温かなハーブの魔法。
栞の頭の中に、ひとつの温かな光景が浮かび上がった。
母が昔、自分が風邪を引いて熱にうなされ、眠れずに泣いていた夜に、枕元へ運んでくれたあの甘い飲み物。
そして、昼間のうちに焼いておいた、焦がしバターの香り豊かな小さなお菓子。
栞はレオンハルトの冷え切った大きな手の甲の上に、自らの温かな手のひらをそっと重ねた。
ビクッと男の指先が反応し、焦点の合わない銀の瞳が、栞の顔を見下ろす。
「……レオンハルトさん」
栞は、母親が幼子に語りかけるような、どこまでも静かで、柔らかい微笑みを浮かべた。
「少しだけ……待っていてくださいね」
その言葉を残し、栞は立ち上がった。
キッチンスペースへと向かい、カセットコンロのゴトクの上に、小さなホーローの片手鍋を静かに置いた。




