第2話:山あいの静寂と、祖父の納戸
土曜日の朝、カーテンの隙間から差し込んできた白っぽい光で目が覚めたとき、栞の頭の芯にはまだ重苦しい鈍痛が残っていた。
昨夜、アパートに辿り着いてからの記憶はひどく曖昧だった。メイクだけを落とし、破れたストッキングを脱ぎ捨ててベッドに倒れ込んだのが午前二時過ぎ。泥のように眠ったはずなのに、睡眠の質は最悪で、夢の中まであの無機質なオフィスの蛍光灯の明かりと、鳴り止まない内線電話の着信音が追いかけてきた。
「……もう、無理」
ベッドから起き上がり、ぼさぼさの髪のまま小さく呟く。
枕元に置いたスマートフォンを見ると、時刻は午前七時を少し回ったところだった。会社用のチャットツールには、昨晩の書類不備を押し付けて逃げた営業担当から『相沢さん昨日はマジ助かりました! あ、月曜の朝イチで先方から修正受領の確認電話取っといてもらえます?』という、絵文字混じりの呑気なメッセージが届いている。
胃の奥がきゅっとねじれるような不快感が込み上げた。通知を非表示にし、スマートフォンの画面を伏せる。
このまま東京の狭いワンルームに閉じこもっていれば、月曜日の出社に向けて刻一刻とカウントダウンが進む恐怖に押し潰されてしまう。息が詰まる。壁が迫ってくるような圧迫感に耐えかねて、栞は着の身着のままで動き出した。
洗いざらしの厚手のデニムパンツに、着古したチャコールグレーのコットンパーカー。足元には、履き潰したパンプスではなく、しっかりと足首を支えてくれるスニーカーを選んだ。小さなボストンバッグに二日分の下着と洗面用具、祖父の遺品である鍵の束を乱雑に放り込み、部屋の鍵をかける。
向かう先は一つしかなかった。
アパートの狭い平置き駐車場に止めてある、長年乗り続けている中古の軽自動車。キーを捻ると、頼りないセルモーターの回転音のあとに、低く控えめなエンジン音が響いた。
中央自動車道に乗り、西へと車を走らせる。
週末の下り線は行楽客の車で混み合っていたが、高尾を過ぎ、山梨県へと入る長大なトンネルをいくつも抜けるにつれて、視界を塞いでいた灰色のコンクリートの塊が徐々に薄れていった。代わりに視界を満たしたのは、昨夜の雨をたっぷりと吸い込んで鮮やかな緑色に輝く山々の稜線だった。
甲府盆地を抜け、さらに奥深く、甲斐の山間へと続く曲がりくねった国道から、一台の車が通るのがやっとの細い林道へと舵を切る。杉や檜の深い木立が頭上を覆い、フロントガラスに落ちる木漏れ日が規則正しく揺れた。車の窓を数センチ開けると、都会の生ぬるい排気ガスとは根本から異なる、冷涼で湿り気を帯びた針葉樹と腐植土の香りが一気に車内を満たした。
――すう、と深く息を吸い込む。
それだけで、胸の奥底に溜まっていた黒く淀んだ澱が、わずかに薄まっていくような気がした。
林道の終点、鬱蒼とした木立の切れ間に、その家は静かに佇んでいた。
母方の祖父が遺した古民家。
築年数はゆうに八十年を超えているはずだったが、手入れを怠らなかった祖父のおかげで、どっしりとした黒漆喰の壁や、いぶし瓦の屋根には荒れた様子が一切ない。敷地の周囲を取り囲む石垣の間からは、昨夜の雨露を宿した青々とした苔がみずみずしく顔を出している。
車を砂利敷きの前庭に止め、エンジンを切った。
訪れる静寂の深さに、栞はしばらく運転席から降りることができなかった。
耳を澄ませても、車の走行音も、電車の通過音も、人々のざわめきも聞こえない。ただ、遠くの梢で鳴く小鳥のさえずりと、裏山の斜面を流れる名もなきせせらぎの水音、そして風が濡れた葉を揺らす微かな笹鳴りだけが、波のように寄せては返している。
「……静かだなあ」
ドアを開けて外に出ると、ひんやりとした山の空気が肌を撫でた。
玄関の格子戸に、鍵の束から選んだ古びた真鍮の平鍵を差し込む。がちゃり、と重たい金属音が静寂に波紋を広げ、引き戸を横に滑らせると、長年締め切られていた家特有の、乾燥した木と畳、そして微かな線香の香りが混ざり合った懐かしい空気が鼻腔をくすぐった。
三和土でスニーカーを脱ぎ、磨き上げられた黒光りする廊下に上がる。
八畳間が二つ並んだ広間には、祖父が愛用していた欅の座卓と、古い茶箪笥がそのまま残されていた。埃は薄く積もっているものの、雨漏りの跡ひとつない。縁側に出て障子を開け放つと、前庭の苔庭と、その向こうに広がる山並みが一枚の絵画のように切り取られて見えた。
縁側の濡れ縁に腰を下ろし、両手を膝の上に置いて、栞はしばらくぼんやりと空を見上げた。
東京のオフィスにいたときは、一分一秒が何かに追われるように過ぎ去り、常に誰かの顔色を伺って神経を張り詰めていた。だが、ここには誰もいない。栞を評価する上司も、仕事を押し付けてくる同僚も、電話をかけてくる顧客もいない。
自分という存在が、誰にも邪魔されず、ただここに在ることを許されている――そんな当たり前の感覚を思い出すだけで、目頭がじんわりと熱くなった。
「……よし。少し、片付けよう」
ずっと座り込んでいると、また余計な思考の渦に呑まれてしまいそうだった。栞は立ち上がり、腕まくりをすると、古民家の点検を兼ねて掃除を始めることにした。
台所へ向かい、古い水道の蛇口を捻る。錆混じりの水が数秒流れたあと、驚くほど透明で氷のように冷たい地下水が勢いよく噴き出した。手ぬぐいを濡らして固く絞り、廊下や柱を丁寧に拭いていく。
廊下を抜け、母屋の北側に位置する勝手口と、かつて農具などを置いていた広い土間へと足を踏み入れた。
土間はひんやりと薄暗く、外の光は高い位置にある小さな格子窓からわずかに差し込むだけだった。壁際には、祖父が趣味で使っていた木工用の鋸や鉋、古い火鉢、竹で編まれた収穫籠などが整然と並んでいる。生前の祖父の几帳面な性格が偲ばれ、胸がきゅっと締め付けられる。
その土間の突き当たり、一番奥の壁際に、異様な存在感を放つ扉があった。
「……これだ」
重厚な欅の一枚板で作られた、幅一メートル、高さ二メートルほどの引き戸。
周囲の漆喰壁に溶け込むように設えられているが、使われている木材の厚みも、四隅を補強している黒錆の浮いた鍛鉄の金具も、普通の民家の納戸とは思えないほど頑丈な造りだった。
幼い頃の記憶が、鮮明に蘇る。
夏休みにこの家へ遊びに来るたび、栞はこの扉が気になって仕方がなかった。祖父に「あそこには何が入ってるの?」と尋ねるたび、祖父は白い眉を八の字にして笑いながら、決まってこう言ったのだ。
『栞、あそこは開けちゃいかんぞ。爺さんの特別な宝箱なんだからな。大きくなって、どうしても心が迷ったときまで、取っておく場所なんだ』
子供心に「お化けでも封印されているんじゃないか」と怯え、それ以上近寄ることはなかった。祖父が亡くなり、遺品目録を見たときも、この納戸の中身については特に記載がなかったはずだ。
栞はゆっくりと欅の板戸に近づいた。
戸の中央、大人の腰の高さあたりに、丸い鉄の座金に囲まれた鍵穴が口を開けている。
現代のギザギザした鍵やディンプルキーとはまったく違う、縦に細長い十字のような、奇妙な形状の鍵穴。
ポケットの中に手を入れる。
指先に触れたのは、昨夜アパートの封筒から見つけ出した、あの真鍮の鍵だった。
大人の人差し指ほどの長さ。緻密な植物の蔦模様が透かし彫りにされた、ずしりと重みのある金属の塊。ポケットから取り出し、薄暗い土間の光に透かしてみると、真鍮の鈍い金色が微かに光を跳ね返した。
吸い寄せられるように、栞は鍵の先端を欅の戸の鍵穴へと近づけた。
カチ、と触れ合う音がした。
息を呑む。形状は、狂いなく一致していた。
そのまま、ゆっくりと力を込めて鍵を押し込んでいく。驚いたことに、何十年も放置されていたはずの鍵穴は、油を差したばかりのように滑らかで、一切の引っ掛かりもなく真鍮の鍵を根元まで飲み込んだ。
土間の空気が、ぴたりと止まったような錯覚を覚える。
風の音も、遠くのせせらぎも、すべてが遠のいた。
栞はごくりと唾を飲み込み、真鍮の持ち手を指先でしっかりと掴むと、右方向へとゆっくり回した。
――カチリ。
静まり返った土間に、澄み渡るような硬質な金属音が響き渡った。
それと同時に、欅の板戸の隙間から、プシュウと密閉された空間の内圧が抜けるような微かな空動音が漏れ出した。
「……開いた」
心臓が早鐘を打っている。
何が入っているのだろう。祖父の古い骨董品か、あるいは日記の類か、それともただの空っぽの物置なのか。
恐る恐る、板戸の引き手に指をかけ、横へと数センチ引いた。
その瞬間だった。
すうっ、と扉のわずかな隙間から、信じられないものが吹き出してきた。
それは、風だった。
密閉されていた納戸特有のカビ臭さや埃の匂いなど微塵もない。
どこまでも冷涼で、みずみずしく、まるで熟れた野イチゴと柑橘を足して割ったような甘酸っぱい果実の芳香と、嗅いだこともないほど清冽な針葉樹のアロマが混ざり合った、圧倒的に透明な風。
その風が、栞の頬を撫で、乱れた髪をふわりと揺らした。
「え……?」
山梨の山あいの古民家の、奥まった土間。外の気温は初夏の陽気で少し汗ばむほどなのに、扉の隙間から溢れ出てくる空気は、まるで標高二千メートルの高原の朝のように冷たく、澄み切っていた。
そして何より、暗がりであるはずの納戸の隙間から、漏れ出していたのだ。
暖かく、柔らかい、黄金色の『木漏れ日』の光が。
栞は目を見張り、呼吸を止めたまま、その光の筋を見つめた。
常識ではあり得ない。この納戸の壁の向こうは、母屋の裏山に面した北側の斜面のはずだ。窓などあるはずがなく、ましてやこんな眩しい陽光が差し込むはずがなかった。
しかし、鼻腔を満たす甘い果実の香りと、肌を撫でる冷涼な風は、紛れもない現実としてそこに存在していた。
胸の奥で、恐怖よりも遥かに強い、強烈な好奇心と衝動が鎌首をもたげる。
栞は両手で欅の引き手を握り直すと、躊躇うことなく、その重い扉を一気に引き開けた。




