第3話:扉の向こうの木漏れ日
ガラリ、と鈍く重たい音を立てて欅の引き戸が引き切られた瞬間、栞の視界は圧倒的な光の奔流によって真っ白に塗り潰された。
薄暗い土間の陰気に慣れきっていた瞳が、急激な明度に反射的に細められる。思わず掲げた腕の隙間から、恐る恐る目蓋を開いた。
「……なに、これ……」
呆然とした呟きが、喉の奥から乾いた息とともに漏れ出た。
そこに広がっていたのは、埃の積もった薄暗い納戸などでは断じてなかった。
見上げるほど高い吹き抜けの天井。太い丸太を組み上げた重厚なログハウスのリビングが、燦々とした陽光を浴びて広がっていたのだ。
床一面には、飴色に磨き上げられた滑らかな無垢の板材が敷き詰められている。窓から差し込む斜めの光が木肌の年輪を美しく浮き上がらせ、宙を舞う微小な塵の粒までもが、黄金色に輝く星屑のようにゆっくりと揺らめいていた。部屋の中央には素朴ながら頑丈そうな丸太組みのローテーブルと、擦り切れた風合いの革張りの長椅子。部屋の隅には、黒い鋳鉄製の薪ストーブが静かに佇んでいた。
何より異様だったのは、その空気の清浄さだった。
何十年も締め切られていた家屋特有の湿気やカビの臭気配は微塵もなく、まるで今朝建てられたばかりのように瑞々しい針葉樹の芳香が、部屋いっぱいに満ち満ちている。
栞は、自らの足元を見下ろした。
自分が立っている場所は、確かに山梨の古民家の、冷え切った土間の叩きの上だ。履き古したスニーカーの底には、日本の砂利の感触がある。
けれど、欅の敷居を挟んだわずか五センチ先には、温もりを湛えた飴色の木床が続いている。
境界線は、あまりにも明瞭だった。敷居の外側は薄暗くひんやりとした古民家の空気。敷居の内側は、柔らかな木漏れ日と、甘く爽やかな果実の風が薫る別空間。
心臓が肋骨を激しく叩く。常識や理性が「引き返せ」「おかしい」「こんな現実があるはずがない」と警鐘を鳴らしていた。だが、それ以上に栞の疲弊しきった心は、その扉の向こうに満ちる温かな光に、磁石のように惹きつけられていた。
ごくり、と唾を飲み込む。
栞は右足を前に出し、敷居を跨いだ。
きしり、と無垢材が微かな音を立てて体重を受け止める。
足の裏から伝わってくるのは、驚くほど柔らかく、底冷えのしない自然な木の温かみだった。続いて左足を引き入れ、両足で完全にログハウスの中へと足を踏み入れる。
思わず振り返った。
背後には、自分がくぐり抜けてきた欅の扉枠がそのままぽっかりと口を開けていた。その枠の中には、見慣れた古民家の土間と、壁に立てかけられた祖父の古い農具たちが、まるで額縁に収まった絵画のように薄暗く収まっている。
手を伸ばせば、すぐにでも元の世界へ戻れる。その事実を確認した瞬間、張り詰めていた恐怖心がすうっと和らいでいくのが分かった。
「……夢、じゃないよね」
頬に触れると、確かな皮膚の熱と、外から吹き込んでくる風の冷たさを感じる。
部屋の奥、南側に面した大きな開口部には、ガラスのない木製の格子戸が開け放たれており、その先には広々としたウッドデッキのテラスが張り出していた。
吸い寄せられるように、栞は足音を忍ばせながらテラスへと歩みを進めた。
一歩踏み出すごとに、風が強くなる。
テラスの手すりに両手を添え、視界を開いた瞬間、栞は息を呑んだまま硬直した。
「……嘘でしょ……」
目の前に広がっていたのは、見渡す限りの原生林だった。
山梨の山あいで見られる杉や檜の整然とした人工林ではない。幹の太さがゆうに大人が五人抱え込めるほどもある巨大な巨木が幾重にも重なり合い、枝葉が天を覆い尽くすように青々と繁茂している。見たこともない形状の、シダ植物に似た鮮やかなエメラルドグリーンの葉が風に揺れ、梢のあちこちには、淡いピンクや純白の巨大な野花が、まるで提灯のように房となってぶら下がっていた。
遠くを見渡せば、どこまでも続く深緑の絨毯の向こうに、青白い靄をまとった鋭利な岩峰が連なり、雲を突き抜けて天へと聳え立っている。
見上げる空は、都会の淀んだ排気ガスに霞む空とは比べものにならないほど、深く、底知れないウルトラマリンブルーに染まっていた。太陽の光は柔らかく、日差しが肌を焼くような刺々しさはまったくない。
耳を澄ますと、風が擦れ合うざわめきの合間に、金属の鈴を転がしたような澄んだ鳥の鳴き声が、あちこちから聞こえてくる。
栞はテラスの階段をゆっくりと降り、地面へと足を踏み下ろした。
ザク、と柔らかい腐植土を踏みしめる感触。
その足元に目を落とした瞬間、栞は小さく息を呑んだ。
「……光ってる……?」
足元の青々とした野草の群生の中に、小指の先ほどの小さな星型の花が咲いていた。その花弁が、日陰に入ると蛍のように淡く、青白い光の燐光を放っているのだ。一輪や二輪ではない。山小屋の周囲を取り囲むように、幾千もの青い光の粒が、微風に揺れてさざ波のように明滅していた。
地球上の日本の植物図鑑をどれほどめくっても、こんな花は絶対に載っていない。
ここは、日本ではない。
地球のどこかの山奥ですらない。
完全に、別の世界――異世界なのだ。
その決定的な事実を突きつけられたとき、栞の胸を占めたのは、奇怪なことに恐怖でも狂乱でもなかった。
ふと、ポケットの中のスマートフォンの存在を思い出し、取り出してみる。
電源ボタンを押すと、液晶画面が点灯した。
画面の左上、アンテナピクトの表示欄には、はっきりと『圏外』の文字が浮かび上がっている。
圏外。
電波が、届いていない。
それはつまり、あの忌々しいオフィスのグループウェアも、休日の朝から平気で仕事を振ってくる営業からのチャットも、上司からの説教メールも、何一つとしてここには届かないということを意味していた。
内線電話の耳障りな着信音も、ヒールの金具が削れて鳴る惨めな足音も、満員電車の息苦しさも、この空間には一切存在しない。
「…………ああ」
声が震えた。
手のひらからスマートフォンの重みを感じながら、栞の瞳から、ツゥと一筋の涙が頬を伝い落ちた。
昨晩、駅のホームのベンチで流した涙とは、まったく違う涙だった。
張り詰めて、張り詰めて、いつ千切れてもおかしくなかった心の奥底の糸が、温かなお湯に浸されたかのように、ゆっくりとほどけていく。
ここには、誰もいない。
私を責める人間も、利用しようとする人間も、理不尽を押し付けてくる人間も、誰一人としていない。
ただ、広大な森と、優しい木漏れ日と、清らかな風だけが、自分を包み込んでくれている。
「……私、助かったんだ」
誰に聞かせるでもなく、栞はそう呟いた。
普通なら、未知の異世界に迷い込んだと知ればパニックを起こし、泣き喚いて元の世界へ逃げ戻るのが正常な反応なのかもしれない。けれど、現代のブラック企業という名の檻の中で、人間としての尊厳すら削り落とされかけていた栞にとって、この人知れぬ静謐な森は、何物にも代えがたい「避難所」そのものだった。
深く、肺の底まで森の空気を吸い込む。
冷涼で澄み切った大気が喉を通り、疲弊した内臓の隅々まで染み渡っていく。それだけで、頭の芯にあった鈍痛がすうっと消えていくようだった。
栞はスマートフォンをポケットに仕舞い直すと、濡れた目元を指の背で拭い、小さく笑った。
落ち着いて周囲を観察してみると、この山小屋の立地は非常に恵まれているように見えた。
ログハウスが建っているのは、緩やかな傾斜地を切り拓いた小さな高台の上だった。背後には険しい岩肌と鬱蒼とした原生林が控えているが、小屋の正面は開けており、見晴らしが良い。日当たりも風通しも抜群で、何より建てつけが非常にしっかりしている。外壁の丸太には防腐処理のような丁寧な加工が施されており、屋根の庇も深く取られていて雨風をしのぎやすそうだ。
「お爺ちゃん……本当に、何者だったの?」
あの欅の板戸と真鍮の鍵。祖父が生前「特別な宝箱」と呼んでいたこの場所を、祖父はどうやって見つけ、どうやって維持していたのだろう。
疑問は尽きなかったが、今それを問い詰める術はない。ただ、祖父がこの場所を大切に愛し、そして自分に残してくれたことだけは、肌感覚で痛いほど理解できた。
小屋の周囲をぐるりと一周してみることにした。
地面を踏みしめながら外壁に沿って裏手へと回ると、木々のざわめきの合間から、次第にはっきりと耳に届く音があった。
――サラサラ、トクトク。
涼やかで、どこか音楽のようなリズムを持った水音。
「川……?」
音に導かれるように、巨大なシダの葉をそっと手でかき分ける。
そこには、息を呑むほど美しい光景が広がっていた。
山小屋の裏手、苔むした巨大な岩肌の割れ目から、滾々(こんこん)と湧き水が溢れ出し、白く磨かれた小石が敷き詰められた浅い小川となって、森の奥へと流れていたのだ。
幅は一メートルほど、深さも栞の足首が浸かる程度だろうか。
何よりも驚くべきは、その水の透明度だった。
水が存在していないのではないかと錯覚するほどに澄み切っており、川底の白い丸石や、水底で揺れる深緑の水草の一筋一筋までもが、まるで拡大鏡で覗き込んだかのように克明に見える。水面には木漏れ日の光が反射し、金色の網目模様を描いてきらきらと揺らめいていた。
栞は吸い寄せられるように小川の縁に膝をつき、袖をまくって、そっと右手を水面へと差し入れた。
「……っ、冷たい……!」
思わず声が漏れる。
だが、肌を刺すような嫌な冷たさではない。雪解け水のようなキリリとした引き締まった冷感のあとに、まるで絹の布で撫でられているかのような、不思議なまろやかさが指先を包み込んだ。
すくい上げて、手のひらに溜めてみる。
手の中の水は、無色透明でありながら、どこか微かに青みを帯びているようにも見えた。掌を口元に近づけると、不快なカルキ臭などあるはずもなく、かすかに甘い、大地の香りが鼻腔をくすぐる。
舌先に、ほんの一滴、水滴を含ませてみた。
「あ……」
まろやかだった。
尖ったミネラル分を感じさせない、どこまでも喉越しの柔らかい、極上の超軟水。口に含んだ瞬間、乾ききっていた細胞の一つひとつが歓喜の声を上げて吸い込んでいくような、不思議な生命力に満ちた味がした。
かつて祖父が、名水と呼ばれる湧水で淹れてくれたお茶の味を思い出す。
あのとき祖父は言っていた。『栞、水が美味ければな、それだけで人は生きていけるし、どんな粗末な茶だって極上のご馳走になるんだぞ』と。
その記憶が蘇った瞬間、栞の頭の中に、ひとつの鮮明な光景が浮かび上がった。
――この水で、コーヒーを淹れたら。
胸の奥で、小さな、けれど確かな灯火がポッと音を立てて灯った。
会社の給湯室で、他人の悪口を聞き流しながら紙コップで流し込む、酸化したインスタントコーヒーではない。
丁寧に豆を挽き、お湯を沸かし、ゆっくりと香りを引き出しながらドリップする、あの温かい一杯。
この静かな森のテラスで、あの澄み切った風を感じながら、この極上の湧水で淹れた珈琲を飲むことができたなら――それはどれほど贅沢で、どれほど心を救ってくれるだろうか。
栞は立ち上がり、胸の前でぎゅっと両手を握りしめた。
愛車の中には、以前キャンプに行こうとして揃えたまま、結局休日出勤で一度も使えずにトランクの奥に眠っていた調理器具と珈琲豆があるはずだ。
「よし……持ってこよう」
栞の足取りは、古民家の土間へ向かって、いつの間にか駆け足になっていた。




