第1話:終電と擦り切れたヒール
オフィスビルの二十三階、フロアの明かりはとっくに半分以上が間引きされ、薄暗い空間にオフィスの蛍光灯特有の「ジー……」という微かな唸り声だけが低く響いていた。
昼間は人の熱気とパソコンの排熱、ひっきりなしに鳴り響く内線電話のベルで満たされていた空間は、夜の帳が下りるにつれて急速に体温を失い、今はただ埃っぽい空調の冷風だけが、栞の冷え切った足首を撫でている。
「……よし。これで、最後」
相沢栞は、乾ききってショボつく両目をしばたたきながら、画面上の『送信完了』のダイアログを見届けた。時刻は二十三時三十八分。カチリ、と静まり返ったフロアにマウスのクリック音が乾いて響く。
今日この時間まで自分が残業する羽目になった理由は、極めて理不尽なものだった。他部署の営業担当が、納品期日をまる一日勘違いして取引先に送ってしまった契約書と発注データ。その不備が夕方十七時を過ぎてから発覚し、当の本人は「どうしても外せない先約があるんで! 相沢さん、悪いけど修正と再送だけお願いしていい!? データは机に置いといたから!」と、言い訳すらそこそこに荷物をまとめて飛び出していったのだ。
残されたのは、殴り書きの付箋が貼られた不完全な書類の山と、カンカンに怒り狂った取引先からの催促メール。営業事務である栞の本来の業務範囲を完全に超えていたが、放り出せば週明けの月曜日に会社全体が泥をかぶることになる。結局、ため息を押し殺して引き受け、電話口で何度も頭を下げ、取引先の担当者の機嫌を取りながら数字の整合性を一つひとつ手作業で洗い直す羽目になった。
「……なんで、私が謝ってるんだろうな」
独り言が、誰もいない闇に吸い込まれて消える。
デスクの片隅には、先ほど給湯室の電子レンジで申し訳程度に温めたコンビニのツナマヨおにぎりの残骸が転がっていた。急いで胃に流し込んだせいで、温まりきっていなかった芯の冷たい米粒が、今も胃の腑のあたりで鉛のように重たく居座っている。喉の奥に張り付いた油分を、すっかり冷え切って苦味だけが際立ったペットボトルの緑茶で強引に流し込む。喉がひりつき、胸の奥がきゅっと収縮した。
三十歳。短大を卒業してから中堅の専門商社に入社して、気づけば八年以上の歳月が流れていた。
新人の頃は、仕事を覚えることにも、誰かの役に立つことにもそれなりのやりがいを感じていたはずだった。けれど、年次を重ねるにつれて増えていくのは、責任と他人の尻拭いばかり。後輩からは「相沢さんなら何とかしてくれますよね」と頼りにされるという体で面倒な雑務を押し付けられ、上司からは「事務なんだから営業を立ててやってくれ」と理不尽を飲み込むことばかりを求められる。
怒る気力すら擦り減らし、ただ角を立てないように愛想笑いを浮かべ続けた結果が、この金曜日の深夜の姿だった。
「……急がないと」
パソコンをシャットダウンし、薄手のトレンチコートを羽織る。バッグに財布とスマートフォンを乱雑に放り込み、誰もいない通用口のセキュリティカードリーダーに社員証をタッチした。ピッ、という冷淡な電子音を背中に聞きながら、足早にエレベーターへと乗り込む。
一階のエントランスを抜けると、外は容赦のない冷たい雨が降っていた。
昼間の天気予報では「夜遅くには止む」と言っていたはずなのに、夜空は重苦しい鉛色に濁り、濡れたアスファルトが街灯の光をぬらぬらと反射している。栞は折りたたみ傘を広げたが、ビル風を孕んだ細かな雨粒は横から容赦なく吹き付け、トレンチコートの肩口と毛先をあっという間に湿らせていった。
濡れた歩道を、パンプスの踵を響かせて走る。
足の裏から、コツコツと嫌な振動が膝へ、そして腰へと突き抜けていく。ここ数ヶ月、まともにメンテナンスに出せていないパンプスは、踵のゴムが限界まで削れて中の金属ピンが覗きかけていた。走るたびに金属が硬い舗装に直撃し、滑りそうになる足を必死で踏ん張る。
駅の入り口が見えた。階段を一段飛ばしで駆け下りる。改札機に定期券を叩きつけるようにタッチし、地下のホームへと続く連絡通路を息を切らして疾走した。
肺が痛い。冷たい空気を急激に吸い込んだせいで、気管がゼイゼイと音を立てる。
ホームへと降りる階段の途中で、無情にも『発車予告ベル』の甲高いメロディが構内に鳴り響いた。
「嘘……待って……!」
声にならない悲鳴を上げながら、栞は最後の階段を駆け下りた。
だが、その瞬間。
――プシューッ。
重々しい空気の抜ける音とともに、無機質なステンレスの扉が、栞の目の前わずか数メートルのところでぴたりと閉ざされた。
窓越しに、疲れ切った顔で吊り革に掴まるサラリーマンたちの背中が見える。車掌がホームの安全を確認し、黄色い線を踏み越えそうになって立ち尽くす栞を一瞥したあと、笛を吹いた。
ガタゴト、と車輪がレールを軋ませ、黄色い帯を巻いた最終の快速電車が、濡れた風をホームに残して滑らかに加速していく。赤く光る二つのテールランプが、闇の奥へと吸い込まれるように小さくなっていった。
「…………あ」
ぽつりと、掠れた声が口から零れた。
階段を駆け下りた勢いのまま、栞はホームの真ん中で立ち尽くしていた。肩で息をしながら、遠ざかる電車の残像を見つめる。
間に合わなかった。
あと三十秒、いや、あと十五秒早くオフィスを出ていれば乗れていたはずの電車だった。あの営業の書類に最後の誤字を見つけず、そのまま送っていれば。あるいは、コンビニのおにぎりを温める数十秒を惜しんでいれば。
「……次の各駅停車まで、あと二十分……」
電光掲示板に表示された次の列車の文字を見上げ、栞は力なく視線を落とした。
湿った冷気が、雨に濡れたストッキングを伝って皮膚に張り付く。凍えるような寒さに耐えかねて、ホームの端にある古ぼけた木製のベンチへふらふらと歩き、腰を下ろした。
座った瞬間、足の裏にじんじんと焼けるような痛みが走る。
痛む足を庇うようにして屈み込み、ふと自分の足元に目を落とした栞は、息を呑んだ。
濡れたベージュのストッキングの、右足の太ももから膝にかけて、黒々とした一直線の伝線が走っていたのだ。階段を駆け下りる際に、バッグの角か何かに引っ掛けたのだろう。伝線はそこからさらに枝分かれし、無様な裂け目となって肌を露出させていた。
さらに視線を下に向けると、黒い革のパンプスは爪先が濡れて泥はねで汚れ、右のヒールは完全に削れ落ちて、金属の芯が剥き出しになっていた。
「…………っ」
喉の奥が、熱くなった。
伝線したストッキング。削れ落ちたヒール。泥で汚れた靴。
それがまるで、今の自分そのもののように見えた。
他人の顔色ばかりを伺い、誰にも嫌われないように、波風を立てないようにと愛想笑いを貼り付け、身を削って、すり減らして。
そうやって必死に走ってきた結果が、金曜日の深夜、誰もいないホームで、冷たい雨に打たれながら一人で座り込んでいるこの惨めな姿なのだろうか。
――私、何のために生きてるんだろう。
一度そう思ってしまったら、もう駄目だった。
目頭から熱いものが溢れ出し、視界が滲む。止めようとしても、ボロボロと大粒の涙が頬を滑り落ち、膝の上に置いたバッグの革を黒く濡らしていった。
誰かに怒られたから泣いているのではない。仕事が大変だから泣いているのでもない。ただ、自分の人生が、自分の手から完全に滑り落ちてしまっているという絶望感。明日も、来週も、来年も、こうやってすり減り続けながら、誰の記憶にも残らずに老いていくのではないかという底知れない恐怖。
鼻をすすり、震える指先で涙を拭ったが、冷え切った指先では涙を広げるばかりで、温もりなどどこにもなかった。
二十分後、滑り込んできた各駅停車の暖房は、濡れた身体には生ぬるく、ただ気持ち悪かった。
吊り革に掴まる気力もなく、座席の端に縮こまり、揺られること四十分。日付はとっくに変わり、午前一時を大きく回った頃、栞はようやく最寄り駅の改札を出た。
雨は小降りになっていたが、湿ったアスファルトを歩くたびに、壊れかけた右のヒールが「カチッ、カチッ」と耳障りな金属音を夜道に響かせる。駅から徒歩十五分、築十五年の木造アパート。オートロックもない薄暗い共用廊下を抜け、冷たい鍵を鍵穴に差し込んで回した。
「……ただいま」
迎えてくれる者など誰もいない部屋に向かって、習慣だけで呟く。
玄関の三和土に上がり、濡れたパンプスを脱ぎ捨てた瞬間、足の裏の激痛と解放感が同時に押し寄せてきて、栞はその場に崩れ落ちるように座り込んでしまった。
立ち上がる気力すら湧かない。湿ったトレンチコートも脱がず、冷たい壁に背中をもたれかけさせ、天井の豆電球の薄暗い灯りを見つめる。
狭い玄関の上がり框のすぐ横には、プラスチックの衣装ケースと、未開封の段ボール箱が積み上がっていた。
「……あ」
段ボールの隙間から、一通の角二サイズの茶封筒が覗いているのが目に入った。
表面には、几帳面な万年筆の文字で『遺品目録・不動産権利証書類』と書かれている。
先月、八十八歳で静かに息を引き取った、母方の祖父の遺品だった。
祖父は山梨の深い山あいに古い日本家屋を構え、若い頃から山の手入れや木工、骨董品の収集などを趣味にして、仙人のように気ままに暮らしていた人だった。栞が幼い頃、夏休みになるたびに泊まりに行くと、縁側でよく冷えた麦茶を淹れてくれ、手作りの木のおもちゃや、山で採れた木の実を手のひらに載せて笑いかけてくれたものだ。
その祖父が亡くなり、唯一の身寄りだった母も数年前に他界していたため、山奥の古民家と土地は、一人っ子である栞がすべて相続することになった。
だが、日々の激務に追われていた栞には、遺品整理に向かう時間も心の余裕もなく、司法書士から送られてきた書類一式を、アパートの玄関に放置したままにしていたのだ。
栞は吸い寄せられるように手を伸ばし、茶封筒を引き抜いた。
封筒の口を開けると、分厚い権利証や固定資産税の通知書とともに、ずしりと重みのある布袋が滑り落ちてきた。
色褪せた藍染めの巾着袋。紐を解いて中身を手のひらに振り出すと、金属同士が擦れ合う涼やかな音がした。
「……鍵?」
手のひらに転がり出たのは、現代のシリンダー錠とはまったく異なる、古めかしい鍵の束だった。
五、六本の黒ずんだ鉄の鍵に混ざって、中央にひとつだけ、異質な輝きを放つ鍵があった。
大人の人差し指ほどの長さがある、重厚な真鍮の鍵。
持ち手の部分には、植物の蔦か、あるいは何かの紋様のような、極めて緻密で美しい透かし彫りが施されている。表面は長い年月を経て滑らかに磨き上げられ、冷たいはずの金属なのに、掌の中でじんわりと不思議な温もりを放っているように感じられた。
祖父の顔が、ふと脳裏をよぎる。
『栞、土間の奥の欅の戸はな、絶対に開けちゃいかんぞ。あそこはな、爺さんの特別な宝箱なんだからな』
そう言って、悪戯が見つかった子供のように笑っていた祖父の皺だらけの顔。
古民家の土間の奥。重い欅の一枚板で作られた、奇妙な納戸の引き戸。子供心に気になって仕方なかったが、祖父に言いつけられた通り、一度も触れたことはなかった。
手の中の真鍮の鍵を見つめる。
明日は土曜日だ。会社に行かなくてもいい。誰の顔も見たくない。あの湿ったオフィスの埃っぽい匂いも、蛍光灯のノイズも、擦り切れたヒールも、全部投げ捨ててしまいたかった。
「……逃げたいな」
ぽろり、と本音が零れた。
どこでもいい。誰も私を知らない場所へ。携帯電話の電波も届かない、静かな場所へ行きたい。
栞はぐっと唇を噛み締めると、破れたストッキングを脱ぎ捨てることも忘れ、真鍮の鍵をしっかりと握りしめて立ち上がった。




