領都の現状確認
翌朝、庭へ出ると、草むらから緑色の小さな影が飛び出してきた。
「おはよう、フク」
若葉ウサギのフクは、耳をぴくぴくさせながら足元まで来ると、俺の靴に鼻先を押しつけた。しゃがんで頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める。
「昨夜は、特に問題ありませんでした」
少し離れた木陰から、セシリアが報告してくれた。腕を組んだ姿勢は、昨日と変わらない。
「薬草園にも近づいていません。……ずいぶん、大人しい子です」
ほんの少し、声が柔らかくなっていた。
「ありがとう、助かるよ」
玄関では、エレノアが昨日渡したバインダーを抱えて待っていた。いつもどおり穏やかな表情だ。
「殿下。お伝えしておくべきことが一つございます」
「何でしょう」
「昨夜のうちに、王都の商会へ照会状を出しました。あの電卓と、ケーキと同じものを扱う店がないか、確かめるためです」
淡々とした声だった。責める調子はない。ただ、逃げ場もなかった。
「返事が届くまで、数日かかります。……それまでに、仕入れ先のお話をいただければ、手間が省けるのですが」
「……考えておきます」
笑顔を保ったまま、背中に汗が伝った。
あの夜の手紙は、これだったのか。
◇
今日は、街の東側の工房地区から見て回ることになっていた。
通りには鍛冶屋や木工職人の店が並び、金属を叩く音が響いている。その一軒で、大柄な親方が、赤く焼けた鉄を打っていた。俺たちに気づくと、帽子を取ってぎこちなく頭を下げる。
「お仕事中に失礼します。今、いちばん困っていることはありますか?」
「へ、へえ……」
親方は目を丸くして、帽子を握りしめた。
「強いて言えば、良い炭が手に入りにくいことで。南の森で焼いてもらってるんですが、炭焼きの年寄りが減っちまって。運ぶ道も悪くて、思うように届かねえんでさ」
「炭を焼く人と、運ぶ道、両方が足りないんですね」
「そうです。それと、若い弟子がなかなか居つかなくて」
そのとき、ゲームの地図が頭に浮かんだ。南の森の中を、細い線が貫いていた。使われなくなった古い街道だ。補修すれば、運搬の距離がほぼ半分になる。
「南の森に、昔の荷車道が残っていませんか。今は藪に埋もれているような」
「へえ、ありますが……半分は木の根に潰れてるはずで」
親方は驚いた顔をした。
「なんでご存じで」
「古い地図で見た覚えがあるんです。その道を直せば、炭が今より早く、安く届くかもしれません。弟子のことは、もう少し考えさせてください」
「と、とんでもねえ。殿下にそこまで考えていただけるなんて」
俺が頭を下げると、親方は慌てて手を振った。
隣で、セシリアが驚いたように目を見張っていた。
偉そうに振る舞うつもりはない。ここで暮らす人たちが積み重ねてきたものを、まず知ることから始めたかった。
◇
街の外れにある薬草畑には、年配の女性が一人で立っていた。
「薬師のヘルガと申します。殿下に、畑をご覧いただけるとは光栄です」
ヘルガは、日に焼けた顔で深く一礼した。畑には、緑の葉が整然と並んでいる。
「ヒールリーフと、こちらがマナベリーです。どちらも、この土地の特産品になるはずなのですが」
俺はしゃがんで、ヒールリーフの葉をそっと観察した。ゲームで、何度も育てた植物だ。
「根まで抜かずに、葉だけを摘んだほうが、長く採れますよね」
「まあ。よくご存じで」
ヘルガが目を丸くする。
「殿下は、薬草にもお詳しいのですか?」
「本で読んだことがあるだけですよ」
さらりと答えたとき、隣でペンを走らせていたエレノアの手が、止まった。
「どの本でしょう」
穏やかな声だった。
「薬師の参考にもなりますので、題名を伺ってもよろしいですか? 王都の書庫に、写本があるかもしれません」
「……ええと、王城の書庫にあった古い本です。題名までは、思い出せなくて」
まずい。写本どころか、そんな本は存在しない。
返事に詰まった俺を見て、セシリアが一歩前に出た。
「殿下は、幼い頃から書庫に籠もっていらっしゃいましたから。王城の本なら、私も何冊か、題名も覚えないままお借りしたことがあります」
「……セシリア様が、そうおっしゃるなら」
エレノアは、それ以上何も言わなかった。帳面に何かを書きつけてから、ちらりと俺を見た。
隠し事を重ねるのは、気が重い。いつかは、話さなければならない日が来るのだろう。ただ、二つの世界を行き来しているなどと、今はとても言えなかった。
薬草畑を出る前に、俺は小声でセシリアに言った。
「さっきは、助かった」
「何のことでしょう。本の題名を忘れるのは、よくあることです」
セシリアは前を向いたまま、素っ気なく答えた。けれど、耳の先がほんのり赤くなっているのが見えた。
◇
そのとき、足元で小さな音がした。
「フク?」
庭から、いつの間にかついてきていたらしい。若葉ウサギのフクは、マナベリーの茂みの中へ、迷いなく潜り込んでいった。
「待って、その奥は棘が――」
ヘルガが声を上げたが、フクは平気な顔で、茂みの一番奥から顔を出した。
くわえていたのは、艶のある深い赤色に熟した実だった。ほかの実は、まだ青みが残っている。
「熟したものほど、魔力を多く含みます。ですが、その見分けは、薬師でも難しいのですよ」
ヘルガは、信じられないという顔で、フクと実を交互に見た。
「若葉ウサギは、植物の状態がわかるのでしょうか」
「植物に親和性のある魔物だとは、聞いていましたが……ここまでとは」
セシリアが、驚いたように言った。
フクは、赤い実を前に、自慢げに耳を立てている。
「すごいな、フク」
撫でてやると、フクは嬉しそうに目を細めた。
ヘルガに頼んで、熟したマナベリーの実と、ヒールリーフの葉を、少しだけ分けてもらった。
「調べたいことがあるので、少しだけ」
「どうぞ、殿下。お役に立てるなら」
受け取った薬草を、俺はこっそり、頭の中のインベントリへ収納した。
◇
その夜、執務室でルーズリーフに今日の課題を書き出した。
炭焼き人の高齢化。南の森の古道の補修。工房の弟子の定着。
三つの項目を並べて、明日、エレノアに調査を頼もうと決める。彼女の疑いが深まる前に、成果で信頼を積んでおきたい。薬草のことは、もう少し調べてから、ヘルガと相談しよう。
書き終えて、部屋の灯りを落とした。
現代のフクに会える。そして、薬草を持ち帰ったら何が起きるのか。
期待と不安を半分ずつ抱えながら、俺はベッドで目を閉じた。
◇
目を開けると、見慣れた天井があった。
窓の外は、休日の朝らしい静けさだ。足元では、白いウサギが丸くなっている。
「おはよう、フク」
耳を動かして、ゆっくりと伸びをする姿に、胸の奥がほっとした。
頭の中でインベントリを確認する。ヒールリーフも、マナベリーも、きちんと入っていた。
取り出す前に、まず朝食の支度だ。フクにも、野菜をあげなければならない。
台所で小松菜を洗い、まな板に置いた。
包丁を握ったとき、足元のフクが前足を俺の脚にかけてきた。早くしろ、と言わんばかりだ。
「わかった、わかった。今――」
見下ろした拍子に、手元が狂った。
「いっ……!」
左手の人差し指から、赤い線がにじみ出る。深くはないが、血がぽたぽたと流しに落ちた。
「やってしまった……」
絆創膏を探そうとして、ふと手を止めた。
インベントリに、ヒールリーフが入っている。
異世界の草を、自分の傷に当てる。冷静に考えれば、怖い。毒だったら。かぶれたら。
けれど、ヘルガは、ヒールリーフを傷薬として日常的に使っていた。ゲームでも、何度も使った素材だ。
それに、異世界での経験が自分の肉体に同期したのなら、この素材も、何かしら働くかもしれない。
「……一枚だけ、試してみるか」
意識を向けると、手のひらに、淡い光とともに緑の葉が落ちてきた。
摘んでから半日以上経っているはずなのに、朝露をまとったように瑞々しい。
同時に、足元で現代のフクが、鼻をひくひくさせた。マナベリーのほうに。
「だめだ、お前には食べさせられない」
念のため、魔力を含む実はすぐにインベントリへ戻した。現代のフクに与えていいかどうか、わからないものを、口に入れさせるわけにはいかない。
フクは不満そうに鼻を鳴らして、足元で丸くなった。
俺はヒールリーフの葉を、指の傷に、そっと当てた。
じわり、と温かい。
数十秒、じっとしていると、血が止まった。
葉を外す。
傷口は薄い線になり、それも見ているうちに薄れていった。
やがて、指先には何も残らなかった。
「……本当に、治った」
指先を、裏返したり、光にかざしたりして、何度も確かめた。痕すらない。
ゲームの中でしか知らなかった効果が、現代の台所で、現実に起きた。
役目を終えた葉は、いつの間にか、手の中で乾いて崩れかけていた。
しばらく、立ち尽くしていた。
これは、現代にはないものだ。扱いを間違えてはいけない。ヘルガたちにきちんと返せる形で使うこと。そして、誰かに知られたときのことも、考えておくこと。
エレノアの穏やかな微笑みが、頭をよぎった。
それでも。
数日前の配信で、ゴブリンの爪に怯えて逃げ回った俺が、今は、傷を癒やす手段を持っている。
今日は休日だ。
「……行ってみるか。ダンジョンに」
小松菜を差し出すと、フクは満足そうにかじり始めた。耳が、こちらを向いたまま、小さく動いていた。




