異世界に現代のスイーツや道具を持ち込んでみた
窓の外は、まだ薄暗かった。
時計の針は、午前五時を少し過ぎたところだ。異世界で数日を過ごしたはずなのに、こちらでは一晩しか経っていないらしい。出勤まで、時間はある。
「……本当に、戻ってきたんだな」
抱き上げて頬を寄せると、フクは迷惑そうに鼻を鳴らしてから、結局は腕の中で丸くなった。
夢じゃない。あの世界の空気も、婚約者の凛とした声も、まだはっきり耳に残っている。
フクをケージに戻して、部屋の中央に立つ。
その場で跳んでみると、着地の音がほとんどしなかった。腕立て伏せは、十回を過ぎても息が乱れない。以前の俺なら、三回で潰れていた。
レオンハルトが鍛えてきた身体の感覚が、そのまま残っているようだ。ダンジョンの魔物と渡り合えるかどうかは、試してみないとわからない。それでも、昨日までとは明らかに違う。
「……これなら、次の配信は、少しはまともにやれるかもしれない」
それから、もう一つ。ゲームなら、定番の機能がある。
「インベントリ……」
意識を集中させると、ゲームの画面によく似た表示が頭の中に浮かんだ。空き枠がずらりと並んでいる。
机の上のボールペンに収納を念じると、手元からふっと消えて、枠に小さなアイコンが現れた。取り出そうと思えば、すぐに手の中へ戻ってくる。
「……使える。本当に、双方の移動ができるんだ」
これなら、現代のものを向こうへ持ち込める。
ただ、財布の中身は、俺の給料と同じで頼りない。知恵を絞れば、できることはあるはずだ。
鏡の中の顔は、昨夜と変わらず別人のようだった。会社で何と言い訳をするか。今は、考えないことにした。
◇
出社すると、案の定、事務所の入口で呼び止められた。
「すみません、どちら様ですか? 取引先の方?」
受付の事務員が、困った顔で俺を見上げている。
「……三浦です。三浦玲央。同じ部署の」
「えっ、三浦さん!? うそ、全然わからなかった……」
騒ぎを聞きつけて、同僚や上司まで集まってきた。遠巻きに、ひそひそ話が始まる。「整形?」「痩せたとかじゃないだろ」「別人だよな」。
「ちょっと、生活習慣を見直しまして。睡眠と運動を」
我ながら苦しい言い訳だった。誰も納得していない顔をしている。それでも、「まあ、元気そうならいいか」と上司が打ち切ってくれて、どうにか席に着けた。
その日の仕事は、これまでにないほどはかどった。身体が軽いと、頭も回る。
幸い、明日は休みだ。
仕事帰りに、最初に寄ったのは駅前のケーキ屋だった。
いちごのショートケーキとシュークリームを、二つずつ。ショーケースの値札を足し算して、少しだけ財布が痛んだ。それでも、セシリアとエレノアに、どちらも食べてほしかった。
箱を受け取りながら、胸の中で付け足す。王都のクララにも、いつか本物のケーキを食べさせてやろう。インベントリなら、傷まずに運べるはずだ。
次に、同じ駅ビルの100円ショップに立ち寄った。
ルーズリーフ、バインダー、ボールペン、シャープペンシル、修正テープ。それから、税込み110円のシンプルな電卓。
執務室で、セシリアとエレノアが羊皮紙の巻物に苦労していたのを思い出したのだ。税収や食料の備蓄を計算する場面は、これから山ほどある。今の俺にとっては、ここが最高の武器庫だった。
太陽電池式の電卓なら、電池切れの心配もない。
帰宅すると、フクが箱に鼻先をくっつけてきた。
「これは人間用。お前はこっちだ」
小さく切った小松菜を渡すと、フクは満足そうにかじり始めた。
買ってきた箱と文房具を、頭の中のインベントリに収納する。念のため一度取り出してみたが、ケーキは少しも崩れていなかった。インベントリの中は、時間が止まっているか、衝撃が加わらない仕様のようだ。
ただ、買える量には限りがある。それに、出所の知れない品を領内に広めれば、王都に警戒される種になりかねない。
だから、売るつもりはない。身近な人のために使う。それだけだ。
「おやすみ、フク。ちょっと行ってくる」
フクは、小さく鼻を動かした。
◇
目を開けると、窓から朝の光が差し込む領主館の部屋だった。
さっそくインベントリを開く。ケーキの箱も、文房具も、電卓も、すべて収納されたままだった。
「成功、だな」
ひとまず安心して、窓の外に目をやったとき。
庭の片隅の草むらで、小さな影が動いた。
「……ウサギ?」
若葉のような緑色の毛並みに、耳の先には葉っぱのような飾り毛。ゲームで見て知っている、若葉ウサギだ。植物に親和性があって、基本的には大人しい魔物のはずだった。
庭へ降りてしゃがむと、若葉ウサギは耳を立てたまま、じっと俺を見つめた。それから、少しずつ近づいてきて、靴の匂いを嗅ぎ始める。
そっと手を差し出すと、鼻先を指に押しつけてきた。
「殿下! お下がりください!」
駆けつけたセシリアが、剣の柄に手をかけて俺の前に出た。
「魔物です。大人しい種とはいえ、危険がないとは限りません」
「大丈夫。怖がっていないよ。この種は、人に慣れやすいはずだ」
撫でると、若葉ウサギは気持ちよさそうに目を細めた。その仕草も、掌に伝わる体温も、あの部屋で待っているフクとそっくりだった。
会いたい気持ちが、胸の奥からせり上がってくる。
同時に、ふと思いついた。もし、同じ名前をつけたら。眠るたびに行き来する二つの世界に、何かつながりが生まれるかもしれない。確証なんて何もない。それでも。
「……フク」
呼ぶと、若葉ウサギは耳をぴくりと動かした。
「お前も、フクにしようか」
鼻が、返事をするようにひくひくと動く。
「殿下。魔物を館に迎えるのは、賛成しかねます。領民が怯えるかもしれませんし、噂になれば、中央にも伝わります」
「中には入れないよ。庭の一角で、のんびり過ごしてもらうだけだ。最初の数日は、君が見ていてくれればいい」
セシリアは眉を寄せたまま、長く息を吐いた。
「……少しでも危険な兆候があれば、すぐに森へ返していただきます」
「ありがとう。心配してくれて」
「領主をお守りするのが、私の務めですから」
そっぽを向いたセシリアの横で、異世界のフクが小さく鼻を鳴らした。
その後、庭師に聞いて、若葉ウサギが食べられる柔らかい葉を分けてもらった。
現代のフクには、食べさせてはいけないものがある。こちらのフクにも、同じだけの気遣いをしてやりたかった。
◇
午後、応接室のテーブルに、俺はケーキの箱を置いた。
「今日は、珍しいものを用意したんだ。二人に食べてほしくて」
蓋を開けると、セシリアとエレノアが同時に息を呑んだ。
白い生クリームと真っ赤ないちごが、ふわふわのスポンジを飾っている。
「これは……お菓子、ですか?」
「いちごのショートケーキ。こっちは、シュークリームだよ。二人とも、両方食べてみて」
セシリアがフォークを入れる。一口運んで、目が丸くなった。
「……やわらかい。口の中で、溶けてしまいました」
エレノアも、慎重に一口食べた。
「この世界のパイやタルトは、しっかり焼いて日持ちを良くしたものばかりです。こんなふうに軽くて、甘さが重くならないお菓子は、初めてです」
「クリームは、牛乳の脂肪を泡立てたものなんだ」
「泡立てる……。それで、空気を含んでいるのですね」
シュークリームを割ったセシリアは、中のカスタードを見て固まった。
「こんなに滑らかなクリームが、生地の中に?」
二人が夢中で食べる姿を見ていると、自然と頬が緩んだ。
領地の課題は山ほどある。けれど、こういう時間も大事にしたい。
「ところで、もう一つ見てほしいものがあるんだ」
俺はテーブルに、現代の文房具を並べた。
ルーズリーフをバインダーに挟んで見せる。紙を自由に抜き差しして、分野ごとに整理できる。羊皮紙は大切な記録に使い、日々の下書きや計算は、これで十分だ。
「薄いのに、丈夫ですね。羊皮紙の束と比べると、場所も取らない」
エレノアは感心したように頷いた。
「よければ、バインダーを一冊貸すよ。明日からの記録に使ってみて」
「ありがとうございます。大切にお預かりします」
セシリアはシャープペンシルを手に取って、紙に線を引いてみた。
「細い線が、簡単に引ける……。地図に巡回路を書き込むのに、使えそうです」
修正テープを試した彼女は、書いた文字が白く隠れるのを見て、目を輝かせた。
「書き間違えても、やり直せるのですか。これは、素晴らしい発明です!」
「そんなに?」
「報告書の書き損じには、いつも冷や汗をかきますから」
そして、最後に100円ショップの電卓を取り出した。
「これは、計算を助ける道具だよ」
俺は、百二十七と三百六十八を打ち込んでみせた。
「四百九十五です」
「……一瞬で?」
エレノアが電卓をのぞき込む。
「今度は、エレノアさんも問題を出してみて」
「では。四百十八に、七十三を掛けると」
彼女は自分でも暗算を始めたが、俺が数字を打ち込むと、先に電卓の答えが出た。
「三万五百十四……」
しばらくして、エレノアは顔を上げた。
「合っています。私の暗算より、ずっと早い」
電卓を机に置いて、彼女は表情を引き締めた。
「税収や支出の確認が、これで劇的に楽になります。殿下、ありがとうございます」
「役に立つなら、よかった」
「ただ、一つだけ、伺ってもよろしいでしょうか」
エレノアは、電卓から視線を外さなかった。
「数字は私にも読めます。ですが、裏に刻まれた文字は、私の知るどの国のものとも違います。この道具も、ケーキも。殿下は、どこで手に入れられるのですか?」
背筋に、冷たいものが走った。
数字さえ読めれば気づかれないだろうと、油断していた。
「……特別な仕入れ先、としか、今は言えなくて」
「そうですか」
エレノアは、穏やかに微笑んだ。けれど、帳面に何かを書きつける手は、止まらなかった。
隣のセシリアは、まだシュークリームの皮を名残惜しそうに見つめている。
「領都の皆さんにも、食べてもらいたいですね」
「……そうだね。いつか、お茶会でも開こうか」
庭の草むらから、若葉ウサギのフクが、ひょこりと顔を出した。
◇
その夜、寝室へ戻る途中の廊下で、俺は足を止めた。
エレノアの執務室から、灯りが漏れている。扉の隙間から、羊皮紙の上を走るペンの音。やがて彼女は封蝋を溶かして、一通の手紙に印を押した。宛名までは、見えなかった。
中央への報告だろうか。それとも、別の誰かへ。
隠し事の一つや二つ、いずれ見破られる日が来る。そのとき、彼女が味方でいてくれるかどうか。
窓の外では、庭の暗がりで、若葉ウサギの耳の飾り毛だけが、月明かりに白く揺れていた。




