第7話「残された名前と紙切れ」
曾祖母のノートを読み返すたびに、疑問が増えていく。
病気になった動物の状態や、治療後の経過。
細かな観察結果が、何ページにもわたって書き残されていた。
私はノートを閉じた。
研究の目的や詳しい方法については、まだ読み取れない部分が多い。
もしかしたら、ほかにも記録が残されているのではないだろうか。
「由紀、まだ調べてたの?」
振り返ると、直人が部屋に入ってきた。
「うん。曾祖母のこと、もう一度調べようと思って」
「何か分かった?」
「まだ。でも、ノート以外にも資料がないか探したくて」
直人は私の隣に座り、机の上に置かれたノートを見た。
「昔の資料って、他にも残ってないの?」
「どうだろう。家にあるのは、このノートくらいだと思うけど」
「一度、探してみたら?」
「そうだね」
私は少し考えた。
曾祖母の遺品の大半は、今も実家に保管されている。
子供の頃に見つけたノート以外にも、何か残っているかもしれない。
「今度、実家に行ってみようかな」
「俺も休みだったら一緒に行くよ」
「ありがとう」
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数日後。
私は直人と一緒に実家を訪ねた。
母に事情を話すと、古い書類や写真が入った箱を出してくれた。
「まだこんなに残ってたんだ」
「捨てるのも気が引けてね。何が入ってるか、私も全部は覚えてないのよ」
母は懐かしそうに箱の中をのぞいた。
「それに、植物も動物も大切にする人だったって、祖母から聞いてたのよ」
「そうなんだ」
母は箱の中から、古い植物図鑑を取り出した。
「これも大切にしてたのよ。欲しかったら持っていっていいわよ」
「いいの?」
「ええ。私が持っていても使わないから」
「ありがとう。じゃあ、もらっていくね」
私は植物図鑑を受け取り、脇に置いた。
「食べることも大好きだったらしいわ。特に魚の煮付けや塩焼きが好物だったんですって」
「魚の煮付け……?」
今では、古い料理本の中でしか見かけない料理だった。
「昔は、魚をいろんな方法で料理して食べていたのよ」
「魚って、どんな味だったんだろう」
私は箱の中身を一つずつ取り出して確認した。
古い書類や写真、何に使ったのか分からない小さな紙切れ。
「これ、曾祖母の写真?」
「そうよ。若い頃のものだと思うわ」
写真には、白衣を着た女性が写っていた。
真っ直ぐにカメラを見つめるその顔を、私はしばらく眺めた。
「……どんな人だったんだろう」
「私も直接会ったことはないからね」
母はそう言って、少し寂しそうに笑った。
「由紀、こっちにも写真があるよ」
直人が差し出したのは、古い封筒に入った一枚の写真だった。
そこには、白衣を着た若い男性が写っていた。
「……誰だろう、この人」
「研究所の人じゃない?」
「そうかもしれないね」
私は写真を裏返した。
裏には、かすれた文字で名前が書かれていた。
『相馬圭介』
「……相馬圭介?」
初めて見る名前だった。
「曾祖母と一緒に研究してた人なのかな?」
「どうだろう。写真だけじゃ分からないね」
私は写真をもう一度見た。
男性は真っ直ぐにカメラを見つめている。
年齢は、二十代か三十代くらいだろうか。
「この人の名前、どこかに残ってるかな」
「昔の研究報告書とかに載ってるかもしれないよ」
「そうだね。今度調べてみる」
私は写真を脇に置き、残りの書類を確認した。
すると、古い封筒の下から、小さく折り畳まれた紙切れが出てきた。
「……何だろう、これ」
紙を広げると、短い文章が書かれていた。
『私の研究は誰にも渡さない』
私は思わず、その文字を読み返した。
「……直人、これ見て」
直人は紙切れを受け取り、首を傾げた。
「誰にも渡さないって……研究のこと?」
「たぶん。でも、どうしてこんなことを書いたんだろう」
「誰かに研究を渡すように言われてたとか?」
「分からない」
私は紙切れをもう一度見つめた。
そこには、研究の内容も、誰に向けた言葉なのかも書かれていなかった。
ただ、その一文だけが残されていた。
「これ、曾祖母が書いたのかな?」
「字を比べてみたら?」
「そうだね」
私はスマートフォンに保存していた曾祖母のノートの写真を開いた。
画面の文字と紙切れの文字を見比べる。
細かな癖が、よく似ていた。
「……同じ筆跡みたい」
「じゃあ、曾祖母が書いた可能性が高いね」
私は小さく頷いた。
動物の命を救うために研究を続けていた曾祖母。
その研究を、誰にも渡したくなかった理由とは何だったのだろう。
「ねえ、直人」
「ん?」
「この写真と紙切れって、何か関係があるのかな」
直人は写真に目を向けた。
「同じ箱に入ってたけど、それだけじゃ分からないね」
「……そうだよね」
私は写真と紙切れを並べた。
白衣を着た若い男性。
そして、曾祖母が残した短い言葉。
この二つが何を意味するのか、今はまだ分からなかった。
私はスマートフォンを取り出し、写真と紙切れをそれぞれ撮影した。
そして、最後にもう一度、写真の裏に書かれた名前を確認した。
『相馬圭介』
その名前を、忘れないようにしようと思った。




