第6話「曾祖母のノート」
水野さんの傷を見てから、数日が経った。
あの日の出来事が、どうしても頭から離れなかった。
研究所では、いつもどおりの仕事が続いていた。
私はパソコンに向かい、実験結果の整理をしていた。
「斉藤さん、どうかしました?」
隣の席の同僚が顔を上げた。
「あ、いえ。ちょっと考え事を」
「疲れてるんじゃないですか? 最近、資料整理も多いですし」
「そうかもしれません」
私は曖昧に笑った。
画面には、培養細胞の観察結果が並んでいる。
私は気持ちを切り替え、作業を再開した。
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その日の夜。
夕食を終えた私は、リビングでお茶を飲んでいる直人に声をかけた。
「ねえ、直人。曾祖母のノート、覚えてる?」
「子供の頃に見つけたやつ?」
「うん。あそこに、細胞とか組織の回復のことが書かれてたよね」
「ああ、そういえば」
「あの傷を見たとき、急に思い出したの」
直人は少し考えてから言った。
「そのノート、もう一回見てみたら?」
「……そうだね」
気づけば、私は立ち上がっていた。
「今から?」
「気になるんだもん」
直人は小さく笑った。
「じゃあ、俺も見るよ」
私は押し入れの奥から古い箱を取り出した。
中には、幼い頃に見つけた曾祖母のノートが入っていた。
テーブルに置くと、直人が隣に座った。
「懐かしいな」
「あの頃は、漢字すら読めなかったのにね」
「今なら少しは分かる?」
「うん。全部じゃないけどね」
私は慎重に表紙を開いた。
古い紙には、細かな文字と図がびっしりと書き込まれていた。
細胞の観察記録。
組織の変化。
損傷した部分の回復経過。
子供の頃には意味の分からなかった言葉が、今では理解できる。
「……これ、細胞の状態を時間ごとに記録してるんだ」
「どれ?」
私は一つのページを指さした。
「ここ。損傷した組織の観察記録。時間ごとの変化が書いてある」
直人が身を乗り出した。
「本当だ。でも、どんな条件で観察したのかは書いてないな」
「うん。少なくとも、このページには載ってないみたい」
私はページをめくった。
動物の細胞を描いた図が、いくつも並んでいた。
「曾祖母は、どうしてこんなに回復のことを調べてたんだろう」
「昔、由紀が言ってたじゃん。動物を助けたかったんじゃないかって」
「……うん」
私はノートに目を落とした。
動物の細胞について、細かく記録された観察結果。
そこには、損傷した組織が時間とともに変化していく様子が書かれていた。
「ねえ、直人。これって、普通の回復を観察しただけなのかな」
「どうだろう。動物の種類も、実験の条件も分からないからな」
「そうだよね」
私は別のページを開いた。
似たような記録が、いくつも続いている。
「これだけ詳しく書いてあるのに、肝心なところが分からないなんて」
直人はノートをのぞき込んだ。
「ほかのページに書いてあるかもしれないよ」
「うん。もう少し読んでみる」
私は何枚かページをめくった。
けれど、研究の目的や詳しい方法については、はっきりと読み取れなかった。
「……ねえ、直人」
「ん?」
「水野さんの傷と、この研究って、何か関係があると思う?」
直人は少し考えてから答えた。
「まだ分からないことが多すぎるからな。水野さんの傷と結びつけるのも、今は根拠がない」
「……そうだよね」
私はノートを閉じた。
直人の言うとおりだった。
傷が消えたことと、曾祖母の研究。
どちらも気になっているけれど、二つを結びつける証拠は何もない。
「でも、せっかく読めるようになったんだし、ちゃんと調べたいな」
「だったら、少しずつ調べてみればいいよ」
直人が私の顔を見て笑った。
「由紀って、昔からそうだよな。気になったら、分かるまで調べる」
「そうだった?」
「そうだよ。あのノートを見つけたときだって、研究者になるって言い出したじゃん」
「ああ、そうだったね」
私も思わず笑った。
あの頃は、研究者になれば何でも分かると思っていた。
けれど、実際には分からないことのほうが多い。
それでも、今ならできることがある。
私はもう一度、ノートの表紙に手を置いた。
百年以上前、曾祖母は何を研究していたのか。
あの傷を見てから、ノートに書かれた記録が、以前とは違う意味を持っているように思えた。
「……もう少し、調べてみよう」
直人が隣で頷いた。
「うん。俺も手伝うよ」




