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『undying ―食卓から消えたもの』  作者: 季波


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第5話「消えた傷」

ある日の夕方。


私は直人と一緒に、夕食の準備をしていた。


「直人、そっちの野菜切ってくれる?」


「いいよ。どのくらいの大きさ?」


「食べやすいくらいで」


「それが一番難しいんだけど」


直人は笑いながら、まな板の上に野菜を並べた。


私は隣で鍋に水を入れ、火にかける。


「今日、病院は忙しかった?」


「まあまあかな。午前中は犬と猫の診察が続いてた」


「大変だったね」


「でも、みんな元気になって帰っていったからよかったよ」


直人はそう言って、野菜を切り始めた。


私は冷蔵庫から調味料を取り出す。


そのときだった。


「いたっ!」


振り返ると、直人が包丁を置いていた。


「どうしたの?」


「指、切っちゃった」


「えっ!?」


慌てて近づくと、直人の左手の人差し指から血が出ていた。


「結構切れてるじゃない!」


「大丈夫。そんなに深くないよ」


「とにかく手当てしなきゃ」


私は直人を流し台の前に連れていき、傷口を流水で洗わせた。


それから救急箱を持ってくる。


「ほら、手を出して」


「自分でできるよ?」


「いいから」


直人は苦笑しながら、左手を差し出した。


私は傷の状態を確認し、清潔なガーゼで押さえた。


しばらくすると出血が落ち着いたので、絆創膏を貼る。


「はい、終わり」


「ありがとう」


直人は申し訳なさそうに笑った。


「じゃあ、料理の続きやろうか」


「駄目。今日は私が切るから」


「ええ?」


「また切ったらどうするの?」


「そんなに何回も切らないよ」


「信用できません」


「ひどいなあ」


二人で笑いながら、夕食の準備を再開した。


---


三日後。


朝食を食べていると、直人が左手の絆創膏を貼り替えていた。


「あれ? まだ治ってないの?」


「うん。だいぶよくなったけどね」


私は直人の指をのぞき込んだ。


出血は止まり、傷口も塞がり始めていたが、まだ赤い線が残っている。


「三日も経ったのに」


「指先はよく使うからね。傷の深さにもよるけど、完全に治るにはもう少しかかるよ」


「そうなんだ」


「由紀だって、怪我したらすぐには治らないだろ?」


「それはそうだけど」


直人は新しい絆創膏を貼った。


「まだ痛む?」


「触ると少しね」


「じゃあ、気をつけてね」


「はい」


直人は笑った。


私もつられて笑い、朝食の続きを食べた。


---


その日の午前中。


研究所では、前日から準備していた実験の確認を行っていた。


私は培養細胞の状態を記録し、使用した器具を片づけていた。


水野さんは隣の作業台で、次の実験に使う溶液を準備している。


「斉藤さん、そちらは終わりましたか?」


「はい。あとは記録を入力するだけです」


「では、午後から結果を確認しましょう」


「分かりました」


私は使い終わった器具を所定の場所へ戻した。


そのとき、背後で硬いものがぶつかる音がした。


ガタン!


「わっ!」


振り返ると、作業台の端に置かれていたビーカーが傾いていた。


水野さんが慌てて手を伸ばす。


しかし、ビーカーは作業台の角にぶつかって割れ、その破片が水野さんの指に当たった。


ガチャン!


残ったガラスが床に落ち、砕け散った。


「痛っ」


水野さんが右手を引っ込めた。


見ると、人差し指から血が流れていた。


「大丈夫ですか!?」


私は慌てて近づいた。


「ええ。少し切っただけですよ」


指先から流れた血が、手のひらに赤い筋を作っていた。


「救急箱を持ってきます!」


「いえ、大丈夫です」


水野さんはポケットからハンカチを取り出し、指を押さえた。


「これくらいなら、心配いりませんよ」


「でも、ちゃんと手当てしたほうが……」


「お気遣いありがとうございます。あとで確認しておきますから」


そう言って、水野さんはハンカチで包んだ手を体の横に下ろした。


私は少し迷ったが、それ以上は言わなかった。


「じゃあ、私がガラスを片づけますね」


「お願いします。破片には気をつけてください」


私は専用の道具を持ってきて、床に散らばったガラスを集めた。


水野さんは少し離れたところで、その様子を見ていた。


「すみませんね。余計な仕事を増やしてしまって」


「いえ、大丈夫です」


「助かります」


水野さんはいつもと変わらない口調だった。


私は破片をすべて回収し、床を確認した。


「これで大丈夫だと思います」


「ありがとうございます」


「水野さん、指は?」


「もう大丈夫ですよ」


「無理しないでくださいね」


「ええ」


水野さんは微笑んだ。


---


昼休みを挟み、午後の作業が始まった。


私は午前中の実験結果をパソコンに入力していた。


そこへ水野さんがやって来た。


「斉藤さん、午前中の記録を見せてもらえますか?」


「はい」


私は保存したデータを開いた。


水野さんは画面を確認しながら、いくつか質問をした。


「この数値は、前回と同じ条件で測定したものですか?」


「はい。培養時間も温度も同じです」


「なるほど。では、こちらも確認しておきましょう」


水野さんは手に持っていた書類を、私に差し出した。


「この条件で、次の実験をお願いします」


「分かりました」


私が書類を受け取ろうとしたときだった。


水野さんの右手が、ふと目に入った。


……あれ?


人差し指。


午前中、ガラスで切った指だ。


絆創膏も、包帯もしていない。


それどころか、傷口が見当たらなかった。


私は思わず、その手を見つめた。


水野さんは私の視線に気づいたのか、書類を渡すとすぐに右手を引っ込めた。


「……斉藤さん?」


「あっ、すみません」


「どうしました?」


「あの……指、大丈夫ですか?」


「指?」


「午前中、ガラスで切ったところです」


「ああ」


水野さんは右手を白衣のポケットに入れた。


「大丈夫ですよ。大した傷ではありませんでしたから」


「……そうですか」


「ええ。ご心配をおかけしました」


水野さんは穏やかに笑った。


「では、午後の実験もよろしくお願いします」


「……はい」


水野さんはそのまま、別の作業台へ向かっていった。


私は手元の書類に目を落とした。


でも、書かれている内容が頭に入ってこなかった。


午前中、確かに血が流れていた。


それなのに、今は何もなかった。


私は時計を確認した。


ビーカーを割ってから、まだ数時間しか経っていない。


直人の指は、三日経っても傷が残っていた。


「……どういうこと?」


私は小さくつぶやいた。


もしかして、違う指だったのだろうか。


いや、右手の人差し指だったはずだ。


それとも、私の見間違い?


私はもう一度、水野さんの方を見た。


水野さんは何事もなかったように、同僚と実験の話をしている。


『重畳、重畳』


先日聞いた、あの言葉がふと頭をよぎる。


けれど、今日のことが曾祖母の事件と関係しているのかは分からない。


私は机の引き出しから、小さなメモ帳を取り出した。


今日の日付を書き、その下に短く記す。


『水野さん。右手人差し指をガラスで切る。出血あり。数時間後、傷が見当たらない』


書き終えると、私はメモ帳を閉じた。


---


その日の夜。


私は直人と夕食を食べながら、昼間の出来事を話していた。


「ねえ、直人」


「ん?」


「傷の治りが、ものすごく早い人っているの?」


直人は箸を止めた。


「早い人?」


「うん。例えば、指を切っても、数時間で完全に治っちゃうとか」


「数時間?」


「そう」


「いや、それはないと思うよ」


「そうなの?」


「多少、回復の早さに個人差はあるけど、切れた皮膚が数時間で完全に元どおりになるなんて、普通はないよ」


「……だよね」


私は自分の指先を見つめた。


「どうしたの?」


「今日、研究所で指を切った人がいたんだけど、午後には傷がなくなってたの」


「傷が?」


「うん。血も出てたんだよ?」


「浅い傷だったんじゃない?」


「そうなのかな……」


「見えにくくなっただけかもしれないし」


「……そうだよね。見間違いだったのかな」


私は味噌汁を一口飲んだ。


そのときだった。


つけっぱなしにしていたテレビから、賑やかな声が聞こえてきた。


画面には、海外のギャグアニメが映っていた。


毎回違う騒動が起きる一話完結のアニメで、登場人物がどんな目に遭っても、すぐに元どおりになる。


今日の話は、どうやら魚を料理しようとしているらしい。


『今日こそ魚を食ってやるぜ!』


大きな魚をまな板に載せたキャラクターが、包丁を振り上げる。


『いただきまーす!』


ザクッ!


魚の体が切れた。


ところが次の瞬間。


シュンッ!


切り離された部分が、何事もなかったように元へ戻った。


『……は?』


キャラクターはもう一度、包丁を振り下ろした。


ザクッ!


シュンッ!


『なんだそれ!? 食えねぇじゃん!!』


画面の向こうで笑い声が響いた。


「ははっ、何だこれ」


直人が笑った。


「ぶっ飛んだ話だな」


「……うん」


私はテレビを見つめた。


切っても、元に戻る魚。


ずいぶん変わったギャグだ。


「こんな魚がいたら、料理できないね」


「そりゃそうだろ。切っても戻っちゃうんだから」


直人はご飯を口に運んだ。


私もつられて笑った。


けれど、ふと昼間の出来事が頭をよぎる。


水野さんの指。


……まさかね。


笑い声の残るリビングで、私は一人、箸を止めた。


そんなこと、あるわけがない。


……あるわけ、ないよね?

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